火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける のすべてのチャプター: チャプター 961 - チャプター 970

1206 チャプター

第961話

夕日が空をオレンジ色に染める頃、黒いセダンがホテルの入り口に停まった。真衣はシートベルトを外すと、馴染みのある人影がホテルの回転ドアの外に見えた。鮮やかな赤いドレスを身に纏った桃代がニヤニヤしながら彼らの車を見つめていた。明らかにここで待ち伏せていたのだろう。礼央は先に車を降り、ドアを押さえて真衣を降ろすと、冷たい視線を桃代に向けた。桃代は全く気に留めない様子で近づき、挑発的な口調で言った。「どうしたの?西条裁判官と知り合いだからって勝ったつもりでいるの?なら教えてあげるわ。この世は白か黒かで決まるわけじゃないの。この裁判、あなたたちは勝てないわ!」桃代は通行人の視線を集めるため、故意に声を張り上げた。カフェで失った面目を挽回しようと威圧的な態度をとっていたのだ。真衣が眉をひそめ反論しようとした瞬間、桃代は得意げに唇を歪ませ、くるりと背を向けて去って行った。赤いドレスの裾が空を舞い、強い香水の香りを残していった。「相手にするな」礼央は真衣の肩に手を置いて、落ち着いた声で言った。「あれはただの虚勢だ」そう言うと、礼央は携帯を取り出し湊に電話をかけた。「桃代がまだ裁判所に提出していない証拠資料、特に法廷で提出する可能性のある資料についてすぐに調べろ」礼央は電話を切り、二人は並んでホテルのロビーへ入った。真衣は礼央のこわばった横顔を見つめ、そっと呟いた。「彼女の威嚇的な態度は、かえって弱点を露呈していたわ」真衣は少し間を置き、目に憂いを浮かべ続けた。「でも、あんな風に私達を挑発するのは、彼女たちに『決定的証拠』といえるものがあるからだと思う」礼央は歩みを止め、彼女に向き直ると、ひそんだ眉を指先でなぞった。「お前がしてないことを、奴らがどんなにでっち上げたって、真実にはならない。ただ、彼女らに付け入られる隙がなかったかどうか、もう一度思い返してみてくれ」礼央は優しい口調でそう言った。「例えば過去に漏洩した文書や、個人的に接触した人物など。どんなささいなことも見逃さないで」真衣は頷き、礼央についてエレベーターに入った。エレベーター内の明るい照明が、真衣の思索にふける横顔を浮かび上がらせた。真衣は目を閉じ、プロジェクトに関わった細かな出来事をひとつずつ思い返した――技術文書には全て厳格な貸出記録があ
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第962話

礼央は真衣のそばに座り、テーブルの上の白湯を手渡して言った。「焦らなくていい、お前の問題じゃないかもしれないし。山口社長が桃代を陰で支援しているのなら、彼らが証拠を偽造した可能性が高い。例えばお前の署名を真似たり、ファイルのタイムスタンプを改ざんしたり。そういったことは全てあり得る」「だけど、彼らはどうやってファイルに接触する機会を得たのかしら?」真衣は訝しげに尋ねた。「KJC宇宙航空研究開発機構のセキュリティは厳重で、重要なファイルにアクセスできるのは私と小野寺さんだけよ」礼央は暗い表情で、指先でテーブルを軽く叩いた。「山口社長は人脈が広い。別のルートでファイルのコピーを入手し、改ざんしたのかもしれないな。酒井さんにKJC宇宙航空研究開発機構の最近のファイルへのアクセス記録を調べてもらい、不審な痕跡がないか確認中だ」真衣は礼央を見つめて言った。「わかった」礼央は物事をスムーズに処理できる。何より重要なのは、彼には広い人脈があることだ。そして細かい点については、礼央の方が真衣よりも深く理解している部分があった。自分で処理できる問題もあるが、礼央がいると、どんな深刻な事態も不思議と気軽に構えていられた。礼央は言った。「自分を追い詰めないで。証拠資料のことは俺に任せろ。今お前がすべきことは、しっかり休んで千咲の世話をすること。それ以外は気にしなくていい」真衣はうなずいた。礼央が傍にいるだけで、どんなに大きな困難も乗り越えられるような気がした。ちょうどその時、礼央の携帯が鳴った。電話は湊からだった。礼央は電話に出ると、次第に表情が険しくなった。向こうの調査で、桃代が最近頻繁に印刷業者と接触していることが判明した。しかもその印刷業者の店主は、以前宗一郎の会社の従業員だったらしい。真衣の心臓は一瞬で喉元まで飛び上がり、緊張した表情で礼央を見つめた。礼央は電話を切ると、真衣を見て言った。「湊の調査によると、桃代は最近よく印刷店に通っているらしい。おそらくそこで書類を偽造しているんだ。今から店に行って来る。お前は家で待ってろ。何かわかったらすぐ連絡する」「私も一緒に行くわ!」真衣はすぐに立ち上がった。もうホテルで待っているのは嫌だ。桃代が一体何を企んでいるのか、彼女は自分の目で確かめたかった。
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第963話

印刷店の入り口にて。店構えは大きくはない。ショーウィンドウには淡い黄色の灯りがともり、店主がカウンターに突っ伏して携帯をいじっている姿がかすかに見える。真衣は礼央について車から降り、二人はわざと歩調を緩めた。真衣は周囲を見渡した。通りには古びた店舗が多く、人通りもまばらで、印刷店の隣は閉店した雑貨屋だった。壁際には廃棄された段ボールが積まれ、どこか寂れた雰囲気が漂っている。こういう場所は、確かに表立ってできないことをするにはぴったりだ。ドアを開けた。店主はちらりと二人を見上げ、派手な服装に目を走らせると、すぐにまた携帯に視線を戻し、冷淡な口調で言った。「印刷ですか、それともコピーですか?」「聞きたいことがあるんだ」礼央がカウンターに近づき、指先に挟んだ数枚の一万円札を静かに置いた。「最近、赤いドレスにサングラスをした女が、ここに書類を印刷しに来なかったか?」店主はお金に視線を止め、眉をひそめて言った。「うちは商売しかしていませんので、お客さんの事を詮索したりはしません。何か印刷するなら原本を出してください。しないなら出ていってください」彼の口調には明らかな警戒心があり、赤いドレスを着た女の話題を意図的に避けているようだった。礼央はさらに札束を追加し、落ち着いた声で続けた。「ただ状況を知りたいだけだ。迷惑はかけない。本当のことを言ってくれれば、このお金は全部あんたにやる」店主は目を上げ、一瞬ためらいの色を浮かべたが、数秒悩んだ末、お金を押し返した。「知らないものは知りません。これ以上出ていかないなら警察を呼びますよ」そう言うと、店主はカウンター上の電話に手を伸ばし、不自然なほど強硬な態度を見せた。真衣は礼央の袖を軽く引っ張り、静かに首を横に振った。店主が口を固く閉ざせば閉ざすほど、何か問題がある証拠になる。普通の客にならここまで拒絶する必要もないし、目の前のお金を拒むこともない。礼央は意を悟り、お金をしまってそれ以上詰め寄らず、真衣と共に印刷店を後にした。ドアを閉めると、真衣は声を潜めて言った。「あの人、絶対何か知ってるわ。ただ言えないだけだわ。きっと山口社長から、口止めされているのね」「ああ」礼央は頷くと、視線を通りを挟んだ向こう側にあるコンビニの看板に移した。「あれを見
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第964話

「ご安心ください。規定は厳守します。事件に関連する映像のみを使用し、他の情報は漏らしませんので」店長は電話を聞きながら、表情が次第に和らいでいった。彼は訴訟に巻き込まれるのは避けたかったが、弁護士からの通知書や調査協力要請書の重要性を熟知していたため、数秒躊躇した後、うなずいて同意した。「わかりました。では監視カメラの映像をお見せしましょう」コンビニのモニター室は二階にあり、狭い部屋にいくつかのモニターが設置され、店内と店外の様子がリアルタイムで映し出されていた。店長は過去一週間の監視記録を呼び出し、礼央の要求に従って、印刷店の入り口の映像を一時停止した。真衣はモニターに顔を近づけ、目を凝らして画面を見つめた。時間が経つにつれ、三日前の午後の映像が流れると、彼女は突然画面を指さした。「止めて。彼女よ」画面には、赤いドレスを着てサングラスをかけた桃代が、印刷店から出てくる様子が映っていた。彼女は分厚い封筒を手に持ち、路肩に停まった黒い車へ急いで向かっていた。さらに決定的だったのは、運転手の横顔が一瞬映り込んだことだ。真衣は一目でその人物を見抜いた――その人は、宗一郎の運転手だった。「もう少し巻き戻して。彼女が印刷店に入る時に何を持っていたか確認したい」礼央が言った。店長が巻き戻すと、桃代は入店時には何も持っていなかったが、出る時には封筒を持っているのが確認できた。明らかに、封筒の中身は印刷店で作成されたものであり、それがおそらく彼女の言う「新しい証拠」に違いなかった。礼央が店長に告げた。「この部分の映像をコピーしなさい」店長はうなずき、USBメモリを取り出して関連する監視映像をコピーし、礼央に手渡した。「すべてここにあります。彼女が初めて来た時から、今日の午後最後に去るまで、全ての映像が記録されています」礼央はUSBメモリを受け取り、礼を言うと、真衣とともにコンビニを後にした。路肩に立ち、夕風に吹かれながら、真衣の胸のつかえはようやく半分ほど消えた。「この監視映像があれば、彼女の証拠が後から偽造されたもので、最初から準備されていたものではないことを証明できるわね」「それだけじゃない」礼央はUSBメモリを握りしめ、冷たい表情で言った。「山口社長の運転手が桃代を車で迎えに来たということは、彼がこの
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第965話

礼央の声は穏やかだったが、その言葉はまるで見えない壁のように、近づこうとする真衣を完全に阻んでいだ――それは明らかな拒絶だった。真衣は深く息を吸い込むと、胸に酸っぱい痛みが広がった。彼女は知っていた。どれだけ親しい仲でも、礼央のプライドが、彼が彼女の前で弱さを見せることを許さないのだと。真衣はそれ以上何も言わず、ただ軽く「うん」と頷き、残りの言葉を飲み込んだ。車内の沈黙が数分続いた後、礼央は再びエンジンをかけ、普段通りの平静な声で話し始めた。「桃代が証拠を偽造した件については、湊に調査を続行させ、山口社長の関与の痕跡や印刷店での文書偽造の手順をすべて洗い出す。その後、完全な証拠の書類を作成して裁判所に提出し、出廷しよう」「私も手伝うわ」真衣は顔を上げて言った。「プロジェクトの原本資料を整理すれば、私が機密を漏らしていないことを証明する証拠をもっと見つけられる。KJC宇宙航空研究開発機構の同僚に証言を頼むこともできるわ」礼央は首を振り、横目で彼女を見ると、優しい声で言った。「その必要はない。お前と千咲が元気でいてくれれば、それが何よりの助けになる。こういうことは俺に任せておけばいい。お前は気にするな」真衣の胸に複雑な思いが渦巻いた。礼央はいつもこうだ。真衣を巻き込まないために冷たい態度で彼女を遠ざける。そのくせ、こんな風に優しくして、真衣に微かな期待を抱かせる。真衣にはわからなかった。礼央が故意にそうしているのか、それとも本能的なものなのか。ただ胸の奥に何かが詰まったような、息苦しさを感じた。車はすぐにホテルの入り口に到着し、礼央は車を停めたが、降りる様子はなかった。礼央は真衣を見つめ、柔らかな声で言った。「先に行ってて。千咲はまだ起きてお前を待ってるだろうから」「あなたは来ないの?」真衣が尋ねた。「ああ、まだ処理しなければならない事があるから、会社に行ってくる。何かあればすぐに知らせる」と礼央は言った。真衣は頷き、車のドアを開けて降りた。黒いセダンが夜の闇に消えていくのを見送ると、ようやくホテルに戻った。部屋に戻ると、千咲は小さな顔に甘い笑みを浮かべながら眠りについていた。真衣はベッドの端に座り、そっと千咲の頭を撫でると、心の中の不安が少しずつ薄らいでいくのを感じた。
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第966話

真衣は窓の外の夜景を見つめていた。ちょうどその時だった。携帯に礼央からのLINEが届いた。【湊がすでに山口社長の運転手と印刷屋の店主の関係を突き止め、証拠の資料を準備しているから、もう心配しないでゆっくり休んで】真衣はLINEを見て、眉をひそめた。彼女は【あなたも早く休んでね、体に気をつけて】と返信した。そして携帯を置き、目を閉じた。礼央が自身の弱さを見せず、どれだけ壁を作っていても、真衣はしっかりと彼の優しさや気配りを感じ取っていた。おそらく、二人の間にはまだ時間が必要なのだろう。-翌朝、真衣はクライアントと会うため、約束通り都心のレストランに向かった。ガラスのドアを開け、ホールを見渡し、予約しておいた窓際の席へ向かおうとした時、突然視線を奪われた――少し離れたテーブルに、礼央がベージュのワンピースを着た女性と向かい合って座っていた。女性は真衣の視線に気づいたようで、振り返ると目を輝かせ、すぐに立ち上がって手を振った。「寺原さん、ずっとお会いしたかったんです!」真衣は足を止め、見覚えのある顔を見ると、脳裏にぼんやりと記憶が浮かび上がった。彼女は女性に近づき、礼儀正しく会釈した。「こんにちは、あの……」「覚えていらっしゃらないですか?」女性は笑いながら親しげに言った。「私は以前九空テクノロジーの技術部門にいた林留美(はやし るみ)です。以前寺原さんにドローンセンサーのデバッグプロジェクトでご指導頂いた際に、データ記録が丁寧だと褒めていただいたことがあります!」それを聞いて、真衣はようやく彼女が、以前九空テクノロジーの技術部門で働いていたことを思い出した。真衣は表情を和らげて言った。「すぐに思い出せなくて、ごめんなさいね。あなたは今……」「今はAI関連の起業プロジェクトに携わっています。今日は礼央と協業のお話でお会いしていたんです」留美はそう言いながら、突然礼央の腕を掴み、甘い笑みを浮かべて誇らしげに言った。「そうだ、寺原さんにご紹介します。こちらは私の婚約者、礼央です」真衣は唖然として、その場に凍りついた。胸が締め付けられるような痛みを感じた。真衣は無意識に礼央を見た。彼は俯き、落ち着いた表情で留美を見つめていた。真衣は留美が礼央と腕を組む様子を見て、胸がざわついた。
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第967話

真衣は頭を切り換え、クライアントとの話に意識を集中させた。クライアントが席を立つと、真衣は笑顔で別れを告げて見送った。その後すぐ、真衣の顔から笑みが消えた。真衣は再び席に座り直したが、目の前のコーヒーはとっくに冷めてしまっていた。少し離れた席には、礼央と留美がまだ座っており、二人は何かを話し合っているようだった。真衣は、留美が時折手を振りながら熱心に話しいたり、礼央が落ち着いた態度で机を軽く叩き、時折頷いて返事をする様子を見つめていた。留美が礼央の腕を組んで、親密に寄り添う様子は、事情を知らない人が見れば、実際に結婚間近のカップルだと思うだろう。真衣は携帯を取り出し、ロックを解除したり再びロックをかけたりを繰り返したが、結局礼央に電話をかけることはなかった。真衣は何を聞けばいいのかわからなかった。留美との関係を尋ねるべきか、それとも婚約者というのは単なる協力関係のための口実なのかしら?ただ、それを尋ねたところで何になる?礼央に説明する気があるのなら、さっきその場で話していたはずだ。礼央に話す気がないのなら、追及しても互いに気まずくなるだけだ。時間が過ぎるにつれ、レストランの客は次第に増え、騒がしい声が優雅なバイオリンの音をかき消していった。真衣は礼央と結衣が立ち上がり、留美が彼の腕を組みながら、二人並んでレストランの出口に向かうのを見た。真衣のテーブルの前を通り過ぎる時、留美は笑顔で軽く頷きながら挨拶したが、礼央は無表情でただ一瞥しただけで、すぐに視線を外した。二人の姿が完全にレストランの入口から消えるまで、真衣は深く息を吸い込み、椅子の背にもたれていた。胸の奥に何かが詰まったように、息苦しくてたまらなかった。真衣はスマホを取り出して、アドレス帳を開き、礼央の名前の上で指を長く止めたが、結局湊の番号をタップし、発信ボタンを押した。呼び出し音が数回鳴った後、湊の慌てたような声が響いた。「寺原さん、何かご用ですか?」「湊、聞きたいことがあるんだけど、礼央は最近林留美っていう女性と協業関係を結んでいるの?」真衣の声は少し嗄れていたが、できるだけ平静な口調を保とうとしていた。湊は一瞬戸惑った様子で、真衣がこの件について尋ねてくるとは思っていなかったようだった。彼は少し間を置いてから答えた。「ええ、林
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第968話

外の日差しがまぶしく、真衣は思わず目を細めた。真衣は通りをゆっくり歩きながら、レストランでの光景を細部まで思い返した。留美が九空テクノロジーについて話した時の口調、彼女の話を聞いている時の礼央の落ち着いた様子、そして二人の自然なやり取り――それらの一つひとつが真衣の疑念を膨らませていった。その時、突然携帯が鳴った。着信はKJC宇宙航空研究開発機構の同僚からで、午後の技術検討会に出席するようにとのことだった。真衣は気持ちを落ち着かせ、心の中の雑念を押し殺した。「分かった。時間通りに向かうわ」電話を切ると、真衣は深く息を吸い込み、歩調を速めた。礼央と留美の関係がどうあれ、今真衣とって最も重要なのは、自分の仕事をきちんとこなし、萌寧の事件を解決することだ。他のことは、湊が調査をすれば、すべて明らかになるだろう。ただ、ツタのように絡みついた漠然とした苦い感情がいつまでも心の中に残っていた。この突然の変化が、元々脆かった真衣と礼央の関係に、どんな影響を与えるのか、彼女にはわからなかった。-午後の技術検討会が終わると、遠くの空はすっかり暗くなっていた。真衣が会議室を出ると、冷たい雨粒が顔に当たった。見上げると、激しい雨が降っている。真衣は傘を持っておらず、覚悟を決めたようにバッグ抱え、雨の中へ駆け出した。雨は髪やシャツを濡らし、冷たさが襟から背中へと伝わったが、気にする余裕もなかった――真衣は、礼央が故意に隠しているのではなく、むしろ高瀬家の争いや自身の置かれた状況に巻き込まないために、意図的に彼女を遠ざけているのだと感じていた。しかし、そうした庇護は、拒絶されるよりも心が痛むものだった。ホテルに戻ると、真衣は全身ずぶ濡れで、髪の先から滴る雨水がカーペットに小さな染みを作っていた。書類を置くと、真衣は浴室へ向かった。熱いシャワーは冷えた体を温めたが、心の重苦しさは消えなかった。シャワーを浴びた後、バスタオルに包まってベッドの端に座ると、こめかみが脈打ち、体がだるく力が入らなかった。連日の激務で疲れ切っていたところに、雨に濡れ、夜中になると熱が出始めた。額は火のように熱いのに手足は冷たかった。真衣は必死に解熱剤を探したが、スーツケースの中をくまなく探しても薬は見つからなかった。夜が明ける頃、真
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第969話

真衣は無意識に手の甲から点滴の針を引き抜いた。それを見て看護師が慌てて声を上げた。「あっ!まだ終わっていませんよ!」真衣は構わず、足早に礼央たちを追いかけた。真衣は手の甲から滴る血を気にも留めず、エレベーターの数字をただじっと見つめていた。5、4、3……エレベーターのドアが再び開くと、真衣は飛び込み、5階のボタンを押した。エレベーターの鏡に映った彼女の顔は青白く、髪は乱れ、微熱で充血した目がみすぼらしさを際立たせていた。真衣は深く息を吸い、これは誤解であり、留美はただ健康診断に来ただけなのだと自分に言い聞かせた。しかし、産婦人科という文字が棘のように、彼女の胸を締め付けた。5階に着くと、廊下は静まり返り、灯がともっているのはナースステーションだけだった。真衣が廊下を進むと、奥の診察室に礼央と留美の姿が消えていくのが見えた。追いかけようとしたその時、背後から看護師の声がした。「あの、お待ちください!」真衣が足を止めて振り向くと、看護師が点滴瓶を持って走り寄り、責めるような口調で言った。「どうして自分で針を抜いたりしたんです?点滴はまだ終わってないんですよ、危ないじゃないですか!熱だってまだ下がっていないし、点滴を続けなければいけませんよ」「私はただ……」真衣は閉ざされた診察室のドアを見つめ、向かおうとしたが看護師に阻まれてしまった。「後で戻ります、今は急用があって……」看護師は頑なに拒み、真衣を引き止めた。「ダメです!こんな状態で動いて、何かあったらどうするんですか?先生にも連絡しました。すぐに来て下さいますよ」看護師の譲らない表情と、閉ざされた診察室のドアを見ると、真衣の胸は何かで塞がれたように苦しくなった。確かに、今飛び込んでも意味はない。ただ自分が惨めになるだけだとわかっていた。だが、礼央と留美が産婦人科を訪れる姿が脳裏に焼き付いていた。彼女のお腹を守るような仕草や礼央の優しくなだめるような言葉が蘇り、真衣の身体は冷たくなった。留美が……妊娠している?二人は本当に恋人同士なの?それなら、今まで礼央が自分に示してくれた優しさや気遣いは、いったい何だったの?看護師はまだ真衣に戻って点滴を受けるよう説得を続けていたが、彼女はうわの空だった。真衣は壁にもたれた。額がさらに熱く
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第970話

留美を優しく気遣う礼央と、彼女の嬉しそうな顔、そして産婦人科の診察室……真衣は礼央が以前言った「必要ない。お前と千咲が元気でいてくれれば、それが何よりの助けになる」という言葉や、彼の通院に付き添うことを拒んだ時のことを思い出した。元々、真衣に迷惑をかけたくないからではなく、別の人がいただけだったのだ。目頭が次第に熱くなり、真衣は強くまばたきをして、涙をこらえた。真衣は自分に言い聞かせた。「泣いてはいけない。今重要なのは体をゆっくりと休めて、萌寧の事件を解決することなの」と。礼央とは……きっと最初からすれ違う運命だったのかもしれない。点滴瓶の薬液は次第に底をつき、夜が明けた。真衣は針を抜き、点滴室を出て、茫然と行き交う人を見ながら病院の出入り口へ向かった。真衣は携帯を取り出し、礼央の番号を探した。いずれにせよ、真相を明らかにしなければ。礼央の口から答えを聞き出さなければならない。真衣は携帯を取り出して電話をかけたが、携帯からは単調な呼び出し音が繰り返し聞こえ、やがて自動的に切れてしまった。真衣は暗くなった画面を見つめた。まるで心にぽっかり穴が開いたように感じた――礼央は電話にすら出てくれない。明日、彼女は北城を離れる予定だった。真衣がホテルに戻って荷物をまとめている時、千咲はまだ眠っており、夢を見ているらしく、小さな眉をわずかにひそめていた。真衣はそっと千咲の眉を撫でると、胸が苦しくなった。午後、彼女はKJC宇宙航空研究開発機構で仕事の引き継ぎをした。オフィスでは同僚たちが集まって話しており、声は大きくないが、話の内容が真衣の耳にはっきりと届いた。「聞いた?高瀬家で近々お祝い事があるんだって。高瀬礼央が林家の娘と婚約するらしいよ!」「林家?林家ってあのお金持ちの?まさに名家同士の結婚ね!」「そうよ!噂によれば、林家の娘はもう妊娠しているらしいわ。誰かの助けが必要な高瀬家にとって、これほどありがたい縁談はないよね」「名家ってみんなそうでしょ。感情より利益を優先するからね。それに、林家の娘は若くて綺麗だし、家柄も良いし、はっきり言って元嫁よりもずっと……」真衣には後の会話は聞こえなかったが、全身の血の気が引いていくのを感じた。名家、政略結婚、妊娠……これらの言葉は氷の槍のように、真
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