All Chapters of 雪を踏みても、月を裏切らず: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

悠真は、かつて紗季が口にした言葉を思い出した。その瞬間、慌てて立ち上がり、テーブルの上の箱を開けに行った。――これは紗季が、自分のために用意してくれたプレゼント。自分を愛している証。どれほど自分に失望していたとしても、彼女がまだ愛しているなら、離れていくはずがない――そんな風に、自分に必死で言い聞かせながら、箱の中を覗いた瞬間。悠真の全身から血の気が引いた。その場に立ち尽くし、指先は微かに震えていた。胸を大きな掌で握り潰されるような圧迫感に襲われ、呼吸すらできなかった。頭は真っ白になり、耳の奥には、ぶぅん、ぶぅんと鈍い耳鳴りが響いていた。巨体を支えきれず、膝から崩れ落ちると、拳を握り締め、何度も床を叩いた。「……っ、あああっ……!」まるで絶望に咆哮する、檻に閉じ込められた獣のように。その動きで、箱の中身が床に散らばった。――紗季の「流産診断書」。――自分がすでに署名済みの「離婚届」。――そして、自分と美玲が共に写る、数えきれないほどの不貞の証拠写真。診断書には、妊娠週数や流産の原因が、事細かに記されていた。そして――悠真はその時、ようやく悟った。紗季と何年も願い続けてきた子供を――自分の手で、壊してしまったのだと。その一方で、自分は何をしていた?浮気の事実を完璧に隠し通したと、滑稽にも思い込んでいたのだ。だが――紗季はすべてを知っていた。怒りも悲しみも、そのすべてを胸に閉じ込め、何事もなかったかのように日々を過ごしていた。そして、計画的に、すべての準備を整えて、静かに消えたのだ。もしかして――彼女は、あの日々の痛みを、そっくりそのまま、自分に味あわせるつもりだったのか?頭の中に、あの夜の光景が蘇った。薬の入った酒を飲まされ、笑顔のまま離婚届にサインしたあの時――記憶の中の紗季の瞳には、怒りも悲しみもなく、ただ、解放された人間の静かな光が宿っていた。そう――彼女はもう、彼のことを恨むことすらしていなかった。その夜、悠真は一睡もできなかった。紗季の知人、関係者、生徒……あらゆる手段を使って連絡を取ろうとしたが、誰も彼女の行方を知らなかった。むしろ、生徒たちの方が先に気づいた。――SNSから、完全にブロックされていることに。悠真だけは、かろうじて連絡手段を残されてい
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第12話

――コン、コン。突然、玄関から扉を叩く音が聞こえた。静まり返った深夜に、その音だけがやけに鋭く響いた。悠真は即座に立ち上がり、期待に胸を躍らせながら玄関へと駆け寄った。まさか――そう思いながら扉を開けると、そこには……夢にまで見た、あの姿が立っていた。「……紗季……」まるで幻のように、紗季がそこにいた。柔らかな表情でこちらを見上げ、微笑んだ。「……紗季……!」悠真の目が一気に潤んだ。堪えきれず、彼女を力強く抱きしめた。心にぽっかり空いていた穴が、ようやく埋まった――そう思えた瞬間。だが、そのぬくもりの中から、女の声がふわりと響いた。「ねぇ、悠真……まずは中に入れてよ〜」その瞬間、悠真の笑顔は凍りついた。慌てて彼女を離し、まじまじとその顔を見た。目の前にいたのは――紗季ではなかった。間違いない、彼女は美玲だった。あまりにも疲れ切っていたせいで、幻覚を見たのだ。だが美玲は、そんな彼の表情の変化にも気づかず、ただ彼が抱きしめてきたことを得意げに思っていた。扉を閉めて明かりを点けながら嬉しげに振り返った。「ねえ、聞いたわよ、紗季先生が突然いなくなったって。悠真、ひとりじゃ寂しいでしょ?今日はね、あなたの好きな服、ちゃんと着てきたの」そう言って、恥ずかしそうにコートを脱ぎ捨てると、下から現れたのは――派手なランジェリーだった。美玲は知っていた。悠真がこういう場面に慣れている男だということを。悠真を喜ばせようと、何でも付き合っていた。紗季が出て行った今、悠真がきっと面白くないだろう。だが、面白くないとて、どうということもない。自分が従順にすれば、きっと気分を紛らわせてくれる。今こそ、自分のチャンスだと、美玲はそう思っていた。――だけど。振り返った美玲が見たのは、まったく別人のような悠真の姿だった。目は落ちくぼみ、無精髭が伸び放題。高級なはずのスーツも皺だらけで、部屋には濃いアルコールの匂いが漂っている。そして何より、彼女を見るその目は――まるで、感情の死んだ獣のように冷たかった。その冷たさの奥に、かすかな憎悪が潜んでいるようにも見えた。美玲は一瞬ひるみながらも、媚びた笑みを浮かべて近づき、いつものように腰をくねらせて身体を寄せた。「ゆ、悠真……この下着、気に入
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第13話

悠真は言い終えると、容赦なくバタンと扉を閉めた。外に取り残された美玲に、一瞥の情けも与えなかった。美玲は一瞬呆然とした後、慌てて立ち上がり、玄関のドアを叩き始めた。泣き叫ぶほど声を張り上げても、部屋の中の悠真から返事はない。夜更けにこんな格好で訪ねてきたのは、彼と熱い一夜を過ごしたかったから。それなのに、まさかこんな惨めな姿で追い出されるとは――しかも、コートは部屋の中。今の彼女の格好は、ほぼ下着姿と変わらない。締め出されたときの音があまりに大きかったせいで、両隣の住人たちが好奇の視線でドアから顔を出した。誰かがヒソヒソと囁いた。「この部屋の奥さん、あの子じゃないわよね?」「違う違う、奥さんはあの落ち着いた美人の方でしょ。よく挨拶してくれるし」「じゃあさ、この格好で夜中にここでドア叩いてるってことは……」「見たでしょ?あの男に突き飛ばされてた。浮気がバレて追い出されたんだわ」「若いのに不倫?最悪、みっともない女ね……」中にはスマホを向けて撮影し始める人までいた。美玲は慌てて胸元を隠しながら逃げ出すしかなかった。その目には、消えぬ憎しみが燃えていた――研究センターに入ってから、紗季は、きっとここでの生活は味気ないものになると思っていた。だが、それは完全に誤算だった。プロジェクトの機密性が高いため、関わるスタッフはごくわずか――紗季を含めてたったの四人。チームのリーダーは葛原教授という年配の男性で、この分野では日本国内だけでなく海外でも高い評価を受けている人物。あとの二人は、江口兄妹。兄の江口航一(えぐち・こういち)は知的で無口、妹の江口年(えぐち・みのり)は明るく元気なムードメーカー的存在。紗季が研究センターに来たときは、足を引きずりながらの状態で、それを見た三人は驚いたものの、誰一人として詮索はしなかった。「まずは寮でしっかり足を治してから参加してください」と優しく言ってくれた。それでも江口年は毎日のように紗季の部屋を訪れ、段々親しくなってきた。そんなある日、彼女は笑顔で弁当を差し出してきた。「紗季お姉ちゃん、見て見て~!今日は私が作った手作りのお弁当だよ~」「それに、骨付き肉のスープもあるんだ。身体にいいからいっぱい食べてね!」あまりに無邪気な善意に、紗季は
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第14話

江口年が帰った後、紗季は薬を飲み、本を少し読んだら、なぜか急に眠気が襲ってきた。そのまま横になってひと眠りし、気がつけばもう夜の九時を回っていた。外は真っ暗で、部屋の電気も点いていない。ぼんやりとした意識で起き上がり、手探りでスイッチを押した。天井の明かりに包まれて、ベッドに腰かけた紗季は、窓の外に浮かぶ孤独な月を見つめ、胸にじんわりとしたものを感じた。――やっぱり、人って、孤独を感じるんだ。この瞬間、悠真のことすら思い浮かばず、遠くにいる実家の両親や友人たちの顔が頭に浮かんでいた。自分が研究センターに来たことは、ほんの軽くしか伝えていない。きっと彼らは、まさか五年後まで会えないなんて思ってもいないだろう。この決断は、衝動ではなかった。長い時間をかけて自分自身に問い、考えた結果だった――もちろん、悠真の裏切りが背中を押したことは否定できない。そんな思いにふけっていたとき――玄関のドアを叩く音が、夜の静寂に響いた。続いて聞こえてきたのは、すがすがしい男性の声だった。「紗季さん、いますか?」紗季は慌てて起き上がり、足を引きずりながらドアを開けた。そこにいたのは、江口兄妹の兄である航一だった。実は、彼と出身大学が同じで、紗季は彼を「航一先輩」と呼ぶのが礼儀だと思っている。「航一先輩……?」そう呟いて、すぐに正気に戻った。「その……お弁当、ありがとうございます」と言いながら、テーブルまで歩き、弁当箱を手渡した。手に感じるずっしりとした重みに、航一は薄く唇を結んだ。しばし沈黙が流れた後、紗季は紅潮した頬で慌てて言い訳した。「すみません、寝てしまって……午後からすごく睡魔が来て、そのまま寝ちゃって──」そのとき、目の前の涼しげで知的な雰囲気をまとった航一は、メガネをクイッと押し上げながら、どこか意味深な表情を浮かべた。「食べなくて正解だったかもな。妹の料理、正直あまり褒められたもんじゃないから」と言ってのけた。思わず目を丸くし、「え?」と口を開けたまま固まった紗季。その反応を見て航一の口角がにやりと上がり、少し頬にえくぼが浮かんだ。すると、背後から甲高く響く江口年の声が、「航一!なんでそんなことばっか言うのよ!?もうあなたのこと信じるんじゃなかった!」と言いながら、ドタドタと
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第15話

もう半月もぼんやりと過ごしていた。会社の古株たちが何度も何度も催促に来なければ、悠真はこのまま一生外に出たくないと思っていたに違いない。彼はすでに重度の不眠症に陥っていた。毎晩、昔の紗季との思い出を頼りに、なんとか眠りにつこうとしていた。家の中にある紗季に関係するものをすべて探し出そうとしたが、結局見つかったのはほんのわずかだった。彼女はそもそも潔癖でシンプルな人間で、アクセサリーや派手な服にはまったく興味がなかったのだ。悠真は玄関前の監視カメラの映像を見返した。紗季が去る前夜、つまり自分が意識を失っていたあの晩に、宅配業者が何箱かの大きな段ボールを取りに来ていた。中には彼女の所有物が入っていた。紗季は、彼が夜な夜な別の女のもとへ駆けつける様子を冷めた目で見つめながら、離脱の準備を着々と進めていたのだ。今振り返れば、かつて美玲との刺激的で楽しかった時間は、まるでブーメランのように彼に跳ね返ってきていた。苦しみと後悔が四六時中彼の心を蝕んでいる。空気の中に残る紗季の香りも、次第に薄れていった。彼は思いつく限りの手段と人脈を駆使したが、紗季の消息はまったく掴めなかった。まるで彼女は突然、この世界から蒸発してしまったかのようだった。悠真は、自分の人生で二度と彼女に会えないのではないかという錯覚に苛まれた。その想像をするたびに、胸が裂けるような痛みに襲われた。あまりに冷酷だった。彼に言い訳をする機会すら与えなかったのだ。畑川家の年次総会で、悠真は心ここにあらずだった。突然、携帯が震え、画面に表示された発信者名を見て彼の目が輝いた。報告中の副社長の声も無視し、すぐに会場を飛び出した。電話の相手は紗季の両親だった。紗季が失踪して以来、彼は何度も両親に連絡を取っていた。彼らは初日から、悠真の浮気を知っており、紗季が去ることも予想していたが、真実は彼に隠していた。彼らは娘が自分で問題を解決できると信じて、沈黙を貫いていたのだ。悠真は両親に何らかの情報があると信じていたため、電話を取る手が震えるほど緊張していた。「お義父さん、お義母さん……」彼は慎重に声をかけた。「紗季は僕に会いたいと思っていますか?」だが、電話の向こうから聞こえたのは怒りに満ちた義父の声だった。「お義父さ
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第16話

荒れたリビングのソファに、憤怒を押し殺したまま紗季の父親が座っていた。胸が大きく波打ち、怒りの限界をとうに超えているのが一目で分かった。その傍らには、乱れた服装の美玲が立っていた。透き通るような白い肌には、いくつかの赤い痕が残っている。床には写真が散乱しており、そこには悠真と美玲が親しげに写っていた。悠真が部屋に入ってくると、美玲はまるで救世主を見つけたように、すがるように彼の服を掴み、涙ながらに訴えた。「今日はおじさまとおばさまにご挨拶に伺っただけなのに……なのに、いきなり髪を掴まれて、死ねって罵られて……っほんとに……殺されるかと思ったの!」「そうだ、殺してやりたい!」紗季の父親が机を叩きつけるように拳を落とし、悲しみと怒りが入り混じった視線で悠真を睨みつけた。「だが、お前だけじゃなく、畑川悠真の奴もな!私の娘はな、物心ついたときから一度も他人に頭を下げさせたことがない。お前は、そんな彼女に一体何をした!?浮気?バカな真似をして……それだけじゃない。今日、この女を家に連れてこさせるとは、どこまで人をバカにしてるんだ!妻はショックで心臓を悪くして倒れた……それでも足りないのか?この女が望んでるのは離婚だろう?いいだろう、離婚してやれ。その代わり、今すぐこの家から出ていけ!!」美玲の顔に、一瞬だが確かに勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。だが、彼女の横にいた悠真の瞳は冷え切っており、暗闇よりも深く沈んでいた。次の瞬間、悠真は美玲の手首を強く掴むと、深く頭を下げて言った。「お義父さん、この件は僕がしっかり解決します。離婚は、しません」その言葉に、美玲は目を丸くして呆然とした。次の瞬間、彼女は悠真に乱暴に引っ張られて、家の外へと連れ出された。泣き喚きながら必死にしがみつくも、悠真は一切動じなかった。そのまま彼女をマンションの屋上まで引きずっていき、手すりのない縁に押し倒した。冷たい風が彼女の肌を刺すように吹きつけ、足元が空に吸い込まれるような錯覚に、美玲は意識を失いかけた。目の前には、獣のような殺気を放つ悠真の顔があった。「死にたいのか、桑原美玲……?」喉を詰めるように声を絞り出し、悠真は低く唸るように言った。美玲は泣き止むこともできず、ただただ怯えて涙を流した。なんとか声を絞り出し、懇
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第17話

悠真は再び朝倉家の前に立ち、背中を丸めた紗季の父親の姿を見て、胸が張り裂けそうなほどの後悔に襲われた。大柄な体がわずかに揺れる中、彼は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに玄関前で跪いた。社交の場では決して頭を下げない男――悠真が、すべてのプライドを捨てて、今はただの一人の男として地に伏していた。何度も何度も頭を下げ、まるで地面に溶け込むように、低く、深く。「お願いです……お義父さん、どうか、紗季がどこにいるか教えてください……」悠真の目は真っ赤に染まり、唇は震え、悲しみに満ちた瞳から涙がこぼれそうになっていた。「……全部、僕が間違っていました。この先の人生を懺悔と償いに捧げます。どうか、せめて……彼女が無事かだけでも……」紗季の父親は冷たい表情のまま、無言で彼を見下ろした。そして一言、吐き捨てるように告げた。「私の娘に関することを、お前に語る義理など一切ない」玄関の扉が音を立てて閉まると、悠真はその場で崩れ落ちたように腰を折った。まるでその瞬間、一気に十歳も老け込んだかのように。それでも彼は起き上がらなかった。意地のように何度も何度も頭を下げ続けた。傍らのボディガードが思わず止めようとするも、悠真は鋭く怒鳴った。「どけ!……ここで許しを請う、それしかないんだ……」この騒動はすぐに近隣の住民の目に留まり、窓から見下ろす者、写真を撮る者、好奇の視線が集まってきた。だが悠真はそれを全く気にせず、呟きながら、ただひたすら頭を下げ続けた。そしてそのまま三日三晩、彼は地に膝をついたままだった。「あれは畑川グループの社長では?」と気づいた者もいた。SNSでは彼の土下座に関する様々な憶測が飛び交い、ニュースサイトや動画配信でも話題に取り上げられていた。しかし――畑川悠真本人は、そういった世間の目をまるで気にしていなかった。むしろ今、自ら苦しみを受けることが、少しでも心のなだめになるのではないかと、そう思っていた。四日目、彼がようやく立ち上がった。それは心を入れ替えたからではなく、アシスタントが一つの報告を持ってきたからだ。――彼の「土下座事件」がSNSでトレンド入りした。同時に、「帝都大学掲示板」で、とある匿名投稿が炎上していた。「朝倉紗季は、自分の教え子と不倫して離婚を迫ってきた。それで畑川
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第18話

それだけでは終わらなかった。悠真は記者会見で、美玲がどのようにして自分を誘惑し、いかに紗季を裏切ったか、そして自分が彼女との関係を終わらせようとした後、いかに彼女が紗季を陥れようと虚偽の情報を流したか――そのすべてを、一から十まで語り尽くした。会見中、美玲の手足はスタッフにより押さえつけられ、彼女の前のマイクはすでにオフになっていた。美玲は声を枯らして必死に否定し、説明しようとしたが、誰ひとりとして、その声を聞くことはなかった。ただただ、彼女の目の前で、最愛の男が、自分のすべてを破壊していくのを見届けるしかなかった。しかもそれは――すべて、紗季のためだった。すべてを語り終えた悠真は、まるで重荷を下ろしたかのように深く息をついた。そしてもう一度顔を上げたとき、その顔は青白く、目の奥には血のような赤みが宿り、哀愁に満ちているようだった。「紗季……もし今日の記者会見を君が見ているのなら、伝えたいことがある。僕が間違っていた、君を傷つけて本当にごめん。でも、僕の心の中で一番愛しているのは、君だ。もし、僕の名誉が地に落ちることで、君が一度だけでも振り返ってくれるのなら――僕は、喜んで差し出す。お願いだ」そう呟きながら、悠真は静かに立ち上がり、涙を堪えながら、その場でメディアの前に膝をついた。次の瞬間、会場はシャッター音の嵐に包まれた。全ての記者がこの劇的な場面を収めようと前へ押し寄せてきた。そんな中で、美玲は、もう暴れようとはしなかった。彼女はただ呆然とし、後悔と苦痛に満ちた悠真の姿を見つめ、やがて、虚ろな笑みを浮かべた。でもその笑顔はあまりにも哀しく、頬にはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。確かに、彼女が最初に手を伸ばした。だが、もし悠真が本当に誘惑に打ち勝てる男だったなら、彼女はたった一週間で、彼を落とせただろうか?毎晩、求めてきたのは彼だった。「君といると飽きない、ずっとそばにいたい」と囁いたのも彼だった。彼こそが、彼女に夢と自信を与えた張本人だったのだ。「最も愛を語る男ほど、最も無情」研究センターの中では、今日が数ヶ月に一度の外部との通信可能な日だった。五年間、隔絶された環境にいる者の精神衛生を考慮し、四半期ごとに一度だけ、家族や友人に連絡を取ることが許されていた。その代わり、通話もテレ
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第19話

これは、紗季が初めて見た、あれほどまでに惨めな悠真の姿だった。彼は自らの尊厳を地に捨て、体面など一切気にせず、ただ必死だった。もし以前の彼女であれば、その姿を見て、少しは心が痛んだかもしれない。けれど今となっては――心には何の波風も立たなかった。悠真のその行動により、ニュースの注目度は非常に高まり、見出しには「改心した誠実な男」というような、美辞麗句のラベルさえ貼られていた。江口家の兄妹は、テレビの前で夢中になってそれを見ていた。「今さら後悔しても遅いっつーの。気持ちよくなってた時に考えとけっての」年は舌打ちしながらそう言った。航一は眉をひそめ、彼女の額を軽く叩いた。「下品なこと言っちゃダメでしょ」「いった〜!もう、大人なんだからこれくらい言ってもいいじゃん」年は頭を抱えながら、ぷいっと紗季の方へ身を寄せて不満げに言った。だが、ふと何かを思い出したように目を見開き、紗季をじっと見つめた。「そういえばさ、お姉ちゃんの名前、『紗季』だよね?あの男の元妻の名前も『紗季』だったって言ってたよね。めっちゃ偶然じゃない?まさか……お姉ちゃんって……」「その人、知らないよ」年が言い終える前に、紗季は穏やかに微笑みながら首を振った。「それに、その男って確か、帝都でも有数のお金持ちでしょ?私が彼の妻だったら、なんでこんな場所にいるの?ただの偶然だよ」彼女は淡々とそう言った。その瞬間、彼女は航一と目が合った。彼の眉がわずかに寄り、視線に含みのある光が宿ったのを紗季は見逃さなかった。胸がひやりとした彼女は、すぐに視線をそらした。けれど航一は何も言わず、それ以上追及しなかった。そのとき、にこにことした葛原教授が姿を現した。「食堂と話をつけたよ。今日だけ、調理場を借りられることになった。みんなで餃子を作って、年越しを楽しもう。思えば、私もこうやって外で年を越すのは初めてでね。手料理はあまり自信がないが、文句は言わないでくれよ?」「文句なんて絶対にないよ!」年は楽しそうに葛原教授の腕に抱きついた。「葛原じいちゃんの料理が食べられるなんて、私たち光栄だよ!お手伝いするからね!」そう言って、紗季と航一にもついてくるよう、促した。だが紗季は反対方向に歩き出した。彼女は研究室へ戻った。まだ何度か
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第20話

四年余りの時間が一瞬のように過ぎ去った。あの日、航一の助言が少なからず効果をもたらしたのかもしれない。その後の交流の中で、紗季は少しずつ彼らに心を開いていった。今回は失望しなかった。出会ったのは皆、素晴らしい人たちだった。葛原教授は穏やかで優しい老人で、誰に対しても親切で話しやすい人だった。年に至っては言うまでもない。最初からずっと親切にしてくれて、紗季をすぐに実家に連れて帰り、両親に「義理の娘」として認めてもらいたいとまで願っていた。そうすれば、いいお姉さんもできると思う年。航一は普段はクールに見えるが、実は暗くなく、繊細な心遣いで、皆の気持ちに配慮している。特に、紗季への気遣いはひときわ目立っていた。しかし、紗季はそれを深く受け止めてはいなかった。彼女は、航一が年という妹を目の中に入れて大切にしているのを見抜いていた。ただの「屋烏の愛」に過ぎなかったのだ。研究成果は予定よりも半年早く出たため、彼らは研究センターを予定より早く離れることができた。外に出てからは、もう研究成果について外部に話すことはできない。国のために貢献したが、身の安全のため、功績は大々的に宣伝されることはなかった。しかし、今後は国家に重点的に保護される教授クラスの人物となり、強力な通行証を得たようなものだった。研究センターを出たその日、紗季は外の新鮮な空気を吸い込み、周囲の少し見慣れぬ、だがどこか懐かしい景色を眺めながら、まるで世間と隔絶したような感覚を覚えた。年は強引に紗季を江口家に連れ帰り、どうしても彼女に江口家の両親に会わせたがった。だが、紗季が予想していなかったのは、江口家が実に裕福なことだった。目の前の邸宅を見て、紗季は思わず戸惑った。「年、あなたって実はお金持ちの令嬢だったの?そんな風に見えなかったね」年は鼻を鳴らして、甘えたように答えた。「それはね、私が派手に見せびらかすのが嫌いなのと、私には自分の人生の理想があるからよ。私も兄も家業を継ぐつもりはなくて、この道を選んだの。私たち二人とも、家の仕事を引き継ぐのは面倒なんだよ」紗季は思わず苦笑した。江口家の両親に会うと、彼らは紗季を見てまるで自分の娘のように親しみを込めて呼び、夜に開かれる宴会に一緒に参加するよう勧めた。五年間年の世話をして
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