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雪を踏みても、月を裏切らず

雪を踏みても、月を裏切らず

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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「朝倉紗季(あさくら・さき)さん、要項をよくご確認ください。一度個人ファイルを提出して登録が完了すると、すべての情報は機密として封鎖され、本人は15営業日以内に研究機関へ入所しなければなりません。研究成果が正式に公表されるまでの間、外部との接触および退所は一切許可されません」 ――国立先端科学研究センターからの返信は驚くほど早かった。 添付されていたのは、個人データ記入用のフォーマット。 紗季は無機質な画面をじっと見つめながらも、マウスを持つ手にはまるで鉛でも詰まっているかのような重さがあった。 その時、不意にドアが開いた。彼女はわずかにまつげを揺らし、何事もなかったかのようにそっとパソコンを閉じた。

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Chapter 1

第1話

「朝倉紗季(あさくら・さき)さん、要項をよくご確認ください。一度個人ファイルを提出して登録が完了すると、すべての情報は機密として封鎖され、本人は15営業日以内に研究機関へ入所しなければなりません。研究成果が正式に公表されるまでの間、外部との接触および退所は一切許可されません」

――国立先端科学研究センターからの返信は驚くほど早かった。

添付されていたのは、個人データ記入用のフォーマット。

紗季は無機質な画面をじっと見つめながらも、マウスを持つ手にはまるで鉛でも詰まっているかのような重さがあった。

その時、不意にドアが開いた。彼女はわずかにまつげを揺らし、何事もなかったかのようにそっとパソコンを閉じた。

「紗季、もうそのへんでやめにしない?今日は僕と一緒にいてほしい。最近、ちゃんとふたりで過ごす時間なんて全然なかっただろ?」

畑川悠真(はたかわ・ゆうま)は、手に持っていたホットミルクをベッドサイドに置いた。

彼はそのままベッドの縁に腰を下ろすと、いつもは冷静で気品のある態度とは裏腹に、まるでしっぽを振るゴールデンレトリバーのように彼女にしがみついてきた。

整った顔立ちには、どこまでも優しく甘やかな眼差し。

だが、紗季はもう、以前のように彼の腕の中で無防備に身を委ねることはできなかった。

身体がこわばり、背筋は無意識に張りつめている紗季は、彼の整った顔立ちを見つめながら、瞳の奥に映る自分の姿を見つけた。

――まるで、深い愛情を込めたように。

つい昨日まで、紗季が自分たちの関係を言い表すなら「深く、揺るぎない愛情」だった。

昨日、悠真が心療内科に付き添ってくれた。薬を受け取りに行く途中、ふと薬の副作用が気になって診察室に引き返した。

――そのたった一度の偶然が、悠真の優しさの裏に隠された、ある「秘密」を暴いたのだった。

診察室の前で、甘やかしてくれていた彼のこんな声を耳にしたのだ。

「先生、前に出してもらった薬、あれでもダメでした。紗季が夜中に目を覚まして、僕がいないのに気づきそうになって……

もっと強めにしてください。副作用なんて気にしなくていいですから」

まるで頭上に雷が落ちたかのようだった。自分は幸福な結婚生活を送っていると信じて疑わなかった。心を通わせ合っていると――それは幻想だった。

たったひとつの綻びが、完璧に見えていたすべてを嘲笑うかのように崩壊させた。

彼女は帝都大学の教授であり、博士課程の指導教員でもある。

人の言葉や仕草から微細な違和感を掬い取るのは、彼女の得意分野だった。そして、紗季は調べ始めた。

真実は、思った以上にすぐそこにあった。

彼が浮気していた相手は、なんと自分の指導学生。家庭環境が苦しく、紗季が彼とともに経済的支援を決めた、あの学生だった。

ふたりがいつから関係を持っていたのかは分からない。

ただ、毎晩密会するために、悠真は彼女に睡眠薬を盛っていた。まったく気づかないほど深く眠らせるために。

最近、悪夢に悩まされ、神経が過敏になっていた理由――それが、これだった。

過去の出来事が次々と脳裏をよぎるうち、胸が締めつけられ、呼吸すらままならなくなった。まるで、冷静な仮面が今にも剥がれ落ちそうになる。

それでも紗季は、必死に笑みを浮かべた。「そうね。じゃあ今日は、久しぶりに外に出てみる?」

一瞬、悠真の目に動揺が走った。だがそれもほんの一瞬。

彼はすぐに柔らかな笑顔に戻った。「うん、いいよ。君の好きなように。まずはこれを飲んで。ちゃんと温めておいたから、君の好みの温度だよ」

彼が差し出したミルクを見つめながら、紗季の目に涙が滲んできた。

「悠真……やっぱり、今日はいいわ。胃がちょっと……重くて」

彼はもう、出かける準備で頭がいっぱいだった。紗季の異変にも気づかず、やさしく彼女の頭を撫でた。

「もう、大人なんだから……牛乳ぐらいで拗ねないの。

ね、ほら。紗季が言ってたじゃない。これは最高のたんぱく源なんでしょ?」

紗季は静かに深呼吸し、牛乳を受け取って、一気に口に含んだ。

悠真の顔に、目に見えて安堵の色が浮かんだ。「じゃ、ちょっと会社の用事を片づけてくる。すぐ戻るから」

――薬が効くまでの時間を稼いでいるのだと、紗季には分かっていた。

彼が寝室を後にしたのを確認したその瞬間。

紗季は迷うことなく、机に戻り、資料の記入を再開した。そして――今回は、キッパリと「送信」ボタンを押した。

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第1話
「朝倉紗季(あさくら・さき)さん、要項をよくご確認ください。一度個人ファイルを提出して登録が完了すると、すべての情報は機密として封鎖され、本人は15営業日以内に研究機関へ入所しなければなりません。研究成果が正式に公表されるまでの間、外部との接触および退所は一切許可されません」――国立先端科学研究センターからの返信は驚くほど早かった。添付されていたのは、個人データ記入用のフォーマット。紗季は無機質な画面をじっと見つめながらも、マウスを持つ手にはまるで鉛でも詰まっているかのような重さがあった。その時、不意にドアが開いた。彼女はわずかにまつげを揺らし、何事もなかったかのようにそっとパソコンを閉じた。「紗季、もうそのへんでやめにしない?今日は僕と一緒にいてほしい。最近、ちゃんとふたりで過ごす時間なんて全然なかっただろ?」畑川悠真(はたかわ・ゆうま)は、手に持っていたホットミルクをベッドサイドに置いた。彼はそのままベッドの縁に腰を下ろすと、いつもは冷静で気品のある態度とは裏腹に、まるでしっぽを振るゴールデンレトリバーのように彼女にしがみついてきた。整った顔立ちには、どこまでも優しく甘やかな眼差し。だが、紗季はもう、以前のように彼の腕の中で無防備に身を委ねることはできなかった。身体がこわばり、背筋は無意識に張りつめている紗季は、彼の整った顔立ちを見つめながら、瞳の奥に映る自分の姿を見つけた。――まるで、深い愛情を込めたように。つい昨日まで、紗季が自分たちの関係を言い表すなら「深く、揺るぎない愛情」だった。昨日、悠真が心療内科に付き添ってくれた。薬を受け取りに行く途中、ふと薬の副作用が気になって診察室に引き返した。――そのたった一度の偶然が、悠真の優しさの裏に隠された、ある「秘密」を暴いたのだった。診察室の前で、甘やかしてくれていた彼のこんな声を耳にしたのだ。「先生、前に出してもらった薬、あれでもダメでした。紗季が夜中に目を覚まして、僕がいないのに気づきそうになって……もっと強めにしてください。副作用なんて気にしなくていいですから」まるで頭上に雷が落ちたかのようだった。自分は幸福な結婚生活を送っていると信じて疑わなかった。心を通わせ合っていると――それは幻想だった。たったひとつの綻びが、完璧に見えていたす
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第2話
それから三十分後、悠真が部屋に戻ってきた。ベッドに横たわる紗季が静かな寝息を立てているのを見て、彼は安心したように息を吐いた。出かける前、彼はそっと彼女に布団をかけ直し、額に優しく口づけを残した。それから、一片の迷いもなく背を向けた。静まり返った夜に、彼がドアを開け閉めする音だけが妙に響いた。そして彼が立ち去った直後――紗季は静かに目を開けた。かつては理知的で冷静だった瞳に、今は深い哀しみが沈んでいた。そっと身を起こしながらドアの方を見やった。その目は虚ろで、表情はどこか色を失ったように暗かった。薬を飲んだあと、紗季はなんとかトイレに行き、指を喉に入れて無理やり吐き出した。それでもなお、起き上がろうとするとき、身体はふらつき、手足の感覚は鈍かった。薬の強さを物語っていた。紗季の唇に苦笑が浮かんだ。どこかで、まだ悠真に望みを託していた自分が、ひどく愚かしく思えた。――まさか、そんなことをする人じゃない。――あんなに私を愛してくれた人が、そんな……その一縷の希望は、現実という名の平手打ちによって叩き潰された。しばらくじっと耐えたあと、紗季は服を着替えて部屋を出た。そして、遠ざかっていく悠真のあとをつけた。尾行の技術など持ち合わせていなかったが、彼女の足取りを阻む者はなく、悠真の目的地――あるバーへとたどり着いた。記憶の中の彼は、彼女がアルコールや煙草の匂いを嫌うことを気遣い、自らも断っていた。けれど今、紗季に初めてわかった。――それはすべて「演技」にすぎなかったのだ。紗季の知らない場所で、彼は本性を解き放ち、欲望のままに生きていた。悠真が個室に入っていくのを見届けたあと、紗季は十分ほど間を置き、静かに扉へと近づいた。ドアの小窓から中を覗くと、そこに広がっていたのは――想定をはるかに超える光景だった。黒い革張りのソファの上で、男と女が激しく絡み合っている。まるで世界にふたりしかいないかのように、時間も空間も忘れてむさぼり合う姿。その男こそが、紛れもなく――畑川悠真だった。そして彼の腕の中にいたのは、紗季の教え子でもある――桑原美玲(くわばら・みれい)。息を切らし、紅潮した顔で、媚びるように目を細めながら美玲は悠真を押しのけ、甘えた声で言った。「悠真さん、またこんなに……私とじ
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第3話
目が覚めた紗季は、一晩中ただ窓の外を見つめていた。涙というものがすべて枯れてしまったかのように――何も感じなくなっていた。この心情をどう言葉にすればいいのだろう。良い知らせといえば、妊娠していたこと。悪い知らせといえば、もうお腹の子はこの世にいないこと。結婚して五年。紗季と悠真は、子どもを授かることを心から願ってきた。毎年毎年、期待しては裏切られ、希望は泡のように消えていった。そのたびに、悠真は「きっと僕たちは、そういう運命なんだよ」と笑いながら、優しく慰めてくれた。「そんなに気にしなくていいさ」と。けれど、紗季にはわかっていた。彼がどれだけ子どもを欲しがっていたか。漢方もサプリも、あらゆる妊活法を試してきた。あれほど現実主義だった自分が、神社仏閣にすがるようになったほどだ。まさか、こんな形で妊娠がわかるなんて。紗季は自分の平らな下腹部に手を当て、静かに目を伏せた。――これでよかったのかもしれない。壊れかけた家庭に、子どもが来るべきではなかったのだ。ちょうどそのとき、看護師が薬を持って病室に入ってきた。紗季のやつれた様子を見て、思わずため息をついた。「……今さら後悔しても遅いよ。次からは気をつけてね」看護師は淡々と続けた。「妊娠を望んでるなら、精神安定剤や強い睡眠薬はダメ。あんな薬、赤ちゃんにどれだけ危険か……もし生きていても、健康には生まれなかったかもしれないよ」その言葉を聞いた瞬間、紗季の頭の中に鈍い音が響いた。「……あの薬のせい、なんですか?」問いかけに、看護師は一瞬だけ驚いたような目をして、まるで当然のことのように答えた。「そうに決まってるでしょ。大人でも副作用出る薬なんだから」紗季は、ふっと笑い声を漏らした。それは徐々に大きくなり、やがて狂ったような嗤いとなって部屋に響いた。しかし、その顔には涙が止めどなく流れていた。彼女はシーツを強く掴み、指先が白くなるほど握りしめた。叫びたくても、身体に力は入らず、声は上ずり、嗚咽だけがこみ上げた。その様子に気圧された看護師は、慌てて薬を置き、部屋を出て行った。紗季はそのままベッドに崩れ落ちた。まるで岸に打ち上げられた魚のように、目には一片の生気も残っていなかった。残っていた愛情は、跡形もなく消えた。悠真が病院に駆けつけ
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第4話
不意に手を振り払われ、悠真は思わずよろけそうになった。それでも怒ることなく、むしろどこか悲しげな目で紗季を見つめた。「……紗季、本当に僕に怒ってるのか?」紗季は、こみ上げる吐き気を必死に抑えた。喉の奥まで込み上げてくるものを飲み込みながら、頭に手を当てて言った。「ううん、大丈夫。ただ、お医者さんがね……インフルエンザだって。しばらく入院しとくわ。悠真に感染したらよくないじゃん」悠真の眉が即座にひそめられた。「誰がそんなこと言ったの?ダメだ、紗季、家に帰ろう」彼はそっと膝をつき、まるで宝物を扱うように、彼女の指先を握りしめた。「君が僕の目の届かないところにいるなんて……不安でたまらないんだよ」まるで映画のような愛の言葉。やさしさ、心配、献身――そのどれもが、もはや紗季には空々しく響いていた。またしても彼は、愛という名の網で彼女を包み込み、すべてを誤魔化そうとしている。紗季は力なく微笑みながら、手をそっと引いた。「……悠真、お願い。治ったら、ちゃんと帰るから」彼は彼女の決意に気づいたのか、少しの沈黙のあと、ようやく折れた。「……わかった」その顔には、隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。――これで、夜は自由に彼女の元へ通える。そう思っているのだろう。紗季の心は、氷のように冷えきっていた。こんなにも見え透いた芝居を、自分は今まで信じていたのか――背後に隠した手には、まだ「流産診断書」が握られていた。紙はぐしゃぐしゃになるほど、強く握りしめられて。その後も数日間、悠真はまるで献身的な夫のように振る舞った。風の日も、雨の日も、毎日病室に顔を出し、優しく世話を焼いた。看護師たちは、そんな姿に感嘆の声を漏らしていた。「かっこいい上に、あんなに奥さん思いなんて……まるで映画のヒーローだよね」「わかる~!この前私が話しかけたときも、めっちゃそっけなかった。奥さん一筋って感じ」「はぁ……私もあんな旦那さんがほしい……泣」朝の散歩がてら廊下に出た紗季は、そんな会話をふと耳にし、皮肉げに笑みを浮かべた。――本当に、そんなに優しい人なら。どうして、一度も医者に私の病状を確認しないの?どうして、ただの風邪で、私が毎日腹を抱えて苦しんでいるって信じられるの?彼が毎日見せるやさしさは、ただ
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第5話
その一言は、まるで雷鳴のように悠真の耳を打った。彼の顔色が見る間に変わり、慌てて通話を切ると、ゆっくりと振り返った。――そこには、冷たい光を宿した紗季の瞳があった。この数日の体調不良のせいか、彼女の頬はさらに痩け、蒼白な顔に感情の影すらなかった。冬の陽射しのように、どこか冷たく、温度を持たないその表情。「……紗季」悠真の心臓が激しく脈打った。動揺が表に出てしまい、言葉も見つからぬまま一歩踏み出した。何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。すると紗季は、まるで何事もなかったように笑って言った。「どうしたの、悠真?声が聞こえたから見に来たの。顔色、悪いよ。誰かと喧嘩でもしたの?」その言葉に、悠真の緊張がすっと和らいだのが見て取れた。すぐに表情を作り直し、眉間にしわを寄せて不機嫌なふりをした。「取引先の一部が問題を起こしててね。ついカッとなって少し口論したんだ。こんなところに立ってないで、病室に戻ろう。手がこんなに冷たくなってるじゃないか」そう言って、彼は手慣れた仕草で紗季の手を自分のコートの中へと滑り込ませた。薄いシャツ越しに、自分の体温で彼女の手を温めようとした。紗季はその横顔をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。「……悠真、家に帰りたい」その瞬間、悠真の笑顔がほんの一瞬だけ凍りついた。そしてすぐに取り繕うように、口を開いた。「今日はやめておこう。今から退院するって、やっぱり早すぎじゃない。先生もまだ体調が完全じゃないって言ってたし……それに、もうすぐ結婚記念日だろ?家をちゃんと飾って、君を迎えたいんだ」彼の声は低く、どこか艶を帯びた響きすらあった。「紗季、サプライズを用意してるんだ」その甘い囁きに、紗季の心は氷のように冷たかった。彼女は黙って手を引き、微笑みながらうなずいた。「……そう、楽しみにしてる」悠真はさらに話を続けた。「記念日には、重華山に行かない?君、前にずっと行きたいって、そこで夕日見たいって言ってたよね。この時期、僕も時間に余裕があるし」しかし、紗季の表情はますます冷たくなっていった。「……やめておこう。研究チームのプロジェクトがまだ終わってなくて」その言葉に、悠真は戸惑いを隠せず、目にかすかな痛みを浮かべた。「紗季、忘れたの?もうほとんど終わってるはずだろ
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第6話
話を終えると、紗季は「少し休みたい」と言い訳し、その場を足早に去った。彼女の背中を見送りながら、先ほどのどこか不自然な表情が頭をよぎった。悠真の胸に、わずかな不安がよぎった。だがその感情も、すぐにかき消された。――だって、紗季は、自分のことを深く愛しているはずだから。あんなに冷静で孤高な女性が、彼の言動に嫉妬し、拗ねる姿を、彼は幾度も見てきた。以前、ただ秘書と話しただけでも、彼女は数日間口をきいてくれなかった。もし本当に美玲との関係がバレたなら、今のように冷淡な態度では済まされないはずだ――そう、彼は思い込んでいた。そのとき、スマートフォンが震えた。美玲からのメッセージだった。【おうち、連れてってよ……】画面にはそう書かれていた。悠真の顔に不機嫌の色が浮かんだ。今にも怒鳴り返そうとしたその瞬間――次のメッセージが届いた。白いシーツの上、セクシーなランジェリーと黒いストッキングを身にまとい、カメラに向かって挑発的なポーズを取る美玲の姿。清楚な顔立ちと、曲線的な身体。まるでケシの花のように、毒を持つ美しさ――それが美玲だった。結局、怒りの言葉は送れなかった。悠真は喉を鳴らし、低くかすれた声でボイスメッセージを吹き込んだ。「美玲……今回だけだ。でも、いい加減自分の立場をわきまえろ。紗季との生活に、君の居場所はない」退院の日、紗季はふとカレンダーを見て、研究所への赴任まであと数日しか残されていないことに気づいた。帰宅すると、悠真は言葉通り、家の中をきれいに飾りつけていた。彼女の好きなグリーンの観葉植物、ピンクのバルーン、可愛いキャラクターたち。完璧な演出だった。外ではクールな彼が、今ではまるで子どものように目を輝かせて言った。「紗季、気に入った?何か足りないところがあったら、何でも言って。全部やり直すから」紗季は珍しく柔らかく微笑み、悠真は嬉しさのあまり彼女を抱き寄せ、唇を重ねようとした。だがその直前、紗季はそっと手で彼を押し返した。「……ちょっと、洗顔してくるね」バスルームに入ると、その笑みはたちまち消え、瞳には疲れと冷静な光が戻った。ふと鏡を見て、そして気づいた。洗面台の隅に、見慣れない小さな化粧品のサンプルボトルが置かれていた。明らかに、自分のものではない。
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第7話
翌朝、悠真は目を覚ました瞬間、自分の体に異変を感じた。全身がだるく、力が入らなかった。だが、ベッドの上にはちゃんと寝ていたし、紗季は「昨日、ちょっと飲みすぎただけよ」と優しく言った。テーブルの上には、綺麗に包装された小さな箱が置かれていた。「それ、記念日のプレゼントなの」と、紗季は少し照れくさそうに言った。「急いで開けないで。夜に帰ってきたら一緒に見よう」悠真の胸に、ほのかな温もりが広がった。彼は紗季を抱き寄せ、珍しく瞳に申し訳なさの色を浮かべながら言った。「紗季……この数日が終わったら、ふたりで一ヶ月、海外旅行に行こう。気分転換にさ」「うん」と頷いた彼女は、するりと悠真の腕から抜け出した。「そろそろ出発しないと、遅れちゃう」山のふもとに着いたそのとき、軽やかな女性の声が飛んできた。「朝倉先生、畑川社長。わぁ、偶然ですね~!」二人が声の方を向くと、そこには美玲がプロジェクトチームの学生たちと一緒に休憩している姿があった。美玲と一緒にいるのは、紗季が研究プロジェクトで指導している大学院生たち。その瞬間、紗季の目つきが鋭くなった。だがすぐには動かず、隣の悠真の反応を冷静に観察した。案の定――普段は余裕たっぷりの悠真の顔から、微妙な緊張が読み取れた。わずかに引き結ばれた唇。彼の心中は明らかだった。悠真はすぐに紗季の手をぎゅっと握りしめた。「紗季……さ、行こう。先に登り始めよう」だが、それよりも先に美玲が駆け寄ってきて、二人の前に立ちはだかった。にこにこと無邪気な笑顔を浮かべながらも、その視線は一瞬たりとも悠真から離れない。「せっかく会ったんですし、みんなで一緒に登りませんか?団体行動って楽しいじゃないですか~」言葉は和やかでも、彼女の身体は露骨だった。他の学生たちが防寒用の登山ウェアに身を包んでいる中、彼女だけはタイトなヨガパンツに、胸のラインを強調するスポーツブラ。上着のファスナーはわざと開け、谷間をのぞかせるという挑発的な服装。その細く長い脚と、くびれたウエスト――男の目を釘付けにするスタイル。案の定、悠真の視線が一瞬揺れた。その様子を見ながら、紗季の脳裏には、三年前に初めて美玲を見た時の情景がよみがえった。当時、美玲は貧しい家庭の出で、大学院進学をあきらめかけていた。そこ
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第8話
美玲は唇を尖らせて、わざとらしく「ふんふん」と鼻を鳴らした。「今日の空気読めない三人目、私たちがやるしかないみたいね~」冗談めかして言ったその言葉には、彼女の本音がにじんでいた。紗季の目には、ほんの一瞬だけよぎった美玲の嫉妬と苛立ちが確かに映っていた。「朝倉先生、ただの登山ですよ?そんなに気にしなくてもいいじゃないですか~」そう言いながら、美玲はパチパチと無邪気そうにウィンクしてきた。「今日はみんな来てるんですし!」その視線の合図を受けて、他の学生たちも一斉に声を上げた。「そうですよ、先生~、一緒に行きましょうよ!」「邪魔しませんって!先生は本当に懐が深いなあ~」――ここまで言われて、断れる人間がどれほどいるだろうか?わざとらしい「おだて」に、紗季は思わず口元がひきつった。彼女には分かっていた。美玲がここに現れたのは、偶然ではない。そして、隣の悠真までもが、やさしげな口調で加勢した。「ここまで来たのも縁だろう?みんな君の教え子なんだし、ないがしろにはできないよ。僕が全部出すから、迷惑はかけない」――その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられたが、紗季は笑顔を浮かべた。まるで何も感じていないかのように、穏やかで静かな微笑み。「……そうね、いいわ」その笑みの奥にある思いを、誰も気づかない。長袖の下、彼女の手は白くなるほど強く握られていた。登山道では、笑い声が絶えず続いた。だが、紗季は終始無言のまま――ただひたすらに、美玲と悠真の様子を観察していた。美玲は隙あらば悠真に近づき、声をかけ、腕が触れるような距離で笑いかけていた。悠真はそのたびに、顔をしかめ、苛立ったように避けていた。まるで「迷惑だ」と言わんばかりの態度。だが、紗季にとってその姿は、滑稽でしかなかった。演技だということが、彼女には分かっていたから。ひと息ついたタイミングで、美玲が紗季の隣に座ってきた。途端に、ふわりと甘ったるい香水の匂いが鼻を突いた。その香り――自宅の洗面所で嗅いだ、あの見慣れない香水の匂いと、全く同じだった。「先生~」美玲は甘ったるい声で言った。「最近、すっごく良いスキンケア見つけたんですよ。先生も使ってみません?もうすぐ三十路だし、今から老化防止しないと間に合いませんよ~」――それは明らかに、悪意のこも
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第9話
美玲の瞳には、嫉妬と執念が滲んでいた。その顔は一見すると清楚で可愛らしく、声も甘く柔らかい。――だが、口から紡がれる言葉は、鋭利な刃のように紗季の心を刺し貫いてきた。彼女の顔色がどんどん蒼白になっていくのを見て、美玲は明らかに優越感を覚えていた。当然、怒鳴り返してくると思っていた。だが、紗季はただ一度深く息を吸い込み――次の瞬間、手を伸ばして、美玲の手にあったサンプル瓶を奪い取った。その口調は驚くほど冷静で、そして皮肉めいていた。「……それ、高級ブランドだと思ってるの?残念だけど、私が使ってる物の足元にも及ばないわね。知らないでしょうけど、私が使うものは全部、悠真が選び抜いた特注品よ。わざわざ専門家に依頼して、私だけのために作らせたの。それに比べて、あなたの扱いは随分と雑ね」美玲の顔が引きつり、怒りと屈辱に歪んだ。紗季は冷たい視線のまま、さらに畳みかけた。「あなたの存在なんて、とっくに知ってたわ。でも、なぜ私が今まで黙っていたか、分かる?あなたなんて――私の相手にすらならないと思ってたからよ。男に評価されることしか誇れないような生き方して、衣食住すべてを男に依存して……そんな人間、眼中にすらなかったわ。でも何度も私の前でちょろちょろするから、仕方なく口を開いただけ。あの男がそんなにいい?だったら、あげるわよ」そう言い捨てて、紗季は立ち上がり、その場を離れようとした――が、その瞬間、美玲が突然腕をつかんできた。その顔には、ねじれた笑みが浮かんでいた。「朝倉紗季、何もかも分かった顔しないで。あなた、本当は誰よりも悔しいんでしょう?悠真は私に冷たい。でもね、それでも私を気にしてるの。だから、比べてみましょうよ――彼が本当に大切にしてるのは、どっちか」そう言い終わるや否や、美玲は悲鳴を上げながら崖下へ飛び降りた。彼女たちがいたのは、ちょうど斜面の上。美玲は掴んだままの紗季の腕を引きずりながら飛び降りた。「っ……!」危うく巻き込まれそうになった紗季だったが、なんとか体勢を持ち直した。――しかし、その拍子に足首をひねり、地面に尻もちをついた。鈍い痛みが腰から脳天にまで突き抜けた。「いた……っ」その音に気づいた学生たちが駆け寄ってきた。一番に駆けつけたのは悠真だった。「紗季、大丈夫か!?」
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第10話
斜面の下から美玲を抱き上げ、人々の視線を浴びながら戻ってきた時になって、悠真はようやく――遅すぎるほどに――違和感に気づいた。紗季の姿が、どこにもなかったのだ。「……紗季は?どこに行った?」慌てて声を上げた悠真に、誰かが答えた。「朝倉先生なら、先に戻られました」その言葉に、悠真は小さく安堵の息を吐いた。だが、内心では焦りが渦を巻いていた。――きっと怒っているはずだ。けれど、帰ったら機嫌を取ればいい。彼女はそう簡単には離れていかない。周囲に冷ややかな視線を向けながら、悠真は低い声で命じた。「……紗季への説明、わかってるよな?」すぐに誰かが応じた。「ご安心ください、畑川社長。美玲さんが重傷だったから皆で病院に付き添った――畑川さんもその責任を取って動いただけ、と説明します」悠真はそれを聞いて満足げに頷いた。彼の腕の中、美玲は恍惚とした表情を浮かべ、細い腕を彼の首に絡ませながら甘えた。「悠真……痛いの、見てくれない?ねぇ、私、どこか怪我してない?」わざとらしく色を含んだ声に、悠真の顔が険しくなった。「やめろ、いい加減にしろ。降りろ」しかし美玲はむくれたように口を尖らせ、そのまま彼の胸元に身をすり寄せた。腰をくねらせ、まるで誘惑するような仕草を隠しもしない。悠真の黒い瞳に、一瞬、欲望の色が灯った。彼はかすれた声で呟いた。「……本当に、それでいいんだな?」周囲の視線も顧みず、さらに腰をくねらせた美玲。もはや恥もメンツも捨てて、悠真にとって自分がどれぐらい大切なのかを見せびらかしたいことだけ、考えているようだった。結局、悠真は我慢できず、美玲を車に連れ込んだ――あの午後、ふたりは長く絡み合った。しかし快楽が冷めた後、悠真はさっさと服を着て、美玲を一瞥することさえしなかった。斜面を転げ落ちた彼女の身体には、小さな擦り傷や打撲があちこちにあった。なのに、悠真はひと言も労わらない。傷が開き、血がにじみ始めても、彼の無関心は変わらなかった。胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚に、美玲は怯えた声で言った。「ねえ……今日の夜、またあなたの家に行かない?薬もちゃんと入れて……ゲストルームでなら、朝倉紗季にもバレないし……」その瞬間、悠真の手が、美玲の喉元を掴んだ。その目には怒気と冷酷さが宿っていた。「…
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