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第2話

Author: 吉祥天
希和は、自分がどんな気持ちで電話を切ったのか、もうよく思い出せなかった。

物音を聞きつけて、両親の秀子(ひでこ)と文陽(ふみお)が寝室から出てくる。ずぶ濡れの希和を見て、秀子は目を見開いた。

「ちょっと、どうしたのよ!何かあったの?」

希和は母の胸元に顔を埋めると、ぽつりと呟いた。

「父さん、母さん……私、海外に行きたい。新しい会社で経験を積みたいの」

涙混じりの声の中に、確かな決意がにじんでいた。

そうだ。できるだけ遠くへ行こう。一臣と離れて、もう二度と顔を合わせない場所へ。

希和の願いに、両親も最終的にはうなずいた。出発は、二週間後に決まった。

その夜、希和は温かい生姜湯を飲み、熱めの湯船にゆっくりと浸かってからベッドに入った。

翌日の昼過ぎまで寝ていた希和は、母のノックで目を覚ます。

「希和、一臣くんから何度も電話が来てたよ。あんたが出ないからって、うちにかけてきて……何か急ぎの用があるみたい」

スマホを確認すると、マナーモードのまま、十数件もの不在着信が並んでいた。

「会う予定があるなら行ってきなさい。海外に行くこともちゃんと伝えるのよ。もう、しばらく会えなくなるんだから」

そう言い残して、秀子はそっとドアを閉めた。

その直後、また一臣からの着信が鳴る。切るとすぐに、次のコールが鳴った。

仕方なく通話をつなぐと、すぐさま苛立った声が飛び込んできた。

「希和、まだ来ないなら、今すぐ家まで引きずりに行くぞ」

体調はまだ優れなかったが、希和はゆっくりとベッドから体を起こした。

――今日で、全部終わらせよう。そしたら、もう彼と関わらなくて済む。

一臣から送られてきた住所は、会員制のプライベートサロンだった。

希和が着いた時、個室の扉は少し開いていて、中からにぎやかな声が漏れてくる。

「ってか一臣さん、そんなにひよりさんが好きなんっすか?まだ付き合って二日とかじゃなかったっけ?それでもう紹介って、さすがに早いっすね」

足が止まる。でも、そのまま耳を澄ませた。彼女も、その答えを知りたいと思ったから。

「そりゃ必死で口説いたんだよ。やっとオーケーもらえたんだし、ちゃんとケジメつけなきゃって思ってさ」

「……でも希和さんは?お二人、随分前から関係を持ったし、子どもの頃から婚約してたんじゃ?」

「あんなの親同士の冗談だろ?真に受けるほうがどうかしてるって。

ていうか、体の関係なんてお互い様だろ?あいつだって楽しんでたし、別に俺だけが悪いわけじゃない」

その言葉のひとつひとつが刃となって、希和の胸をえぐる。心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなっていく。

一臣は、なおも続けた。

「正直、ひよりに出会う前なら、希和と結婚してもまあまあいいかなって思ったよ。でもさ、ひよりを見た瞬間に分かったんだ。俺には、この子しかいないって」

「おお、一臣さん、今回は本気なんだな」

軽口と笑い声が飛び交うなか、希和はそっと扉を押し開けた。

視線が一斉に彼女へと向けられ、周りが静まり返る。

「お待ちかねのヒロイン登場ですね!ほら、座って座って!一臣さん、めっちゃ待ってましたよ!」

誰かが茶化すように笑う。

「ふざけんなって」

軽く笑いながら、一臣はその友人の肩を軽く叩いた。

「ひよりが聞いたら誤解するだろ?もう二度と言うなよ」

周囲は、希和が怒り出すかと思って様子をうかがっていたが、彼女は無言のままやり取りを見つめていた。

一臣の隣に座るよう促されても、彼女はただ一瞥をくれ、冷たく言った。

「……私はここでいい」

少し離れた席を指さすと、一臣は苛立ったように命令した。

「……隣。来いって言ってんだ」

その低い声に、場の空気が張りつめる。誰も席を譲ろうとはしなかった。仕方なく、希和は一臣の隣に腰を下ろす。

ちょうどその時、個室のドアが再び開いた。

「ごめんなさい、遅くなっちゃって」

風が吹いただけでも倒れてしまいそうな、華奢な女の子が現れた。その目が一臣を見ると、一気に輝きを増す。

あの写真の子、綾瀬ひより(あやせ ひより)だ。希和はすぐにそう確信した。

「全然大丈夫。むしろいいところに来たよ」

一臣は彼女の手を取り、隣に座らせて温かい飲み物を渡す。

「一臣、この部屋ちょっと暑いから、冷たい飲み物が飲みたいな」

その声は可愛らしく、どこか甘えるような響きがあった。

「ダメ。生理中だろ?冷たいの飲んだらまたお腹痛くなるぞ」

「痛くなったら、またお腹さすってくれる?昨日みたいに」

ひよりは頬を染めながら、甘えるように言う。

希和は、手が震えないように膝の上でぎゅっと握りしめた。

かつて一臣は、自分にも同じように気を遣ってくれていた。夜通しお腹をさすってくれたり、会えない日でも生理予定日を覚えていて、カイロや温かい飲み物を用意してくれていた。

そうしてもらえる資格は、もう自分にはない。そう考えていると、希和の目に涙が浮かんできた。

ふと、ひよりが話しかけてくる。

「あなたが桐谷希和さんだよね?一臣から話は聞いてる。昨日、大雨の中迎えに来てくれたって……私、出ちゃダメって一臣に言われたから行けなかったけど、本当にありがとう。

今日からは友達ってことで、希和って呼んでもいい?」

希和は顔をこわばらせながら、頷いた。

「ありがとう!それより希和、なんか顔色悪いよ?大丈夫?温かい飲み物でもどう?」

そう言って湯飲みを差し出したあと、彼女はふと思い出したように首をかしげる。

「そういえばさ、希和ってほんとに一臣の友達なの?なんか子どもの頃、婚約してたって聞いたけど」

その無邪気な嫉妬が、一臣の気持ちをくすぐったのか、彼はすぐに答えた。

「そんなの、ただの冗談だよ。俺の心にはひよりしかいないって」

その目が、「余計なこと言うな」と希和に釘を刺す。

希和はぎこちなく答えた。

「……うん。ただの友達だよ」

次の瞬間、湯飲みが倒れ、熱い液体が希和の胸元に広がった。

しかし先に声を上げたのは、ひよりの方だった。

「手が痛い……ねぇ一臣、痕が残っちゃうかな」

一臣が立ち上がり、希和を押しのける。

「おい、なにやってんだよ!ひよりが気遣ってくれたのに!」

希和が言い訳する間もなく、彼はひよりを抱えるようにして個室を出ていった。

「大丈夫、すぐ病院行こう。絶対、痕なんて残させないから」

一臣が去った後、部屋は静まり返った。しかし他の人たちの視線が、針のように希和に突き刺さる。

火傷の痛みより、心のほうが何倍も痛かった。

一臣たちの姿が消えてから、ようやく誰かが気づいた。

――希和の真っ赤になった鎖骨のあたりに、水ぶくれが浮かんでいる。

火傷がひどいのは、ひよりではなく希和の方だった。

不憫に思ったのか、一人が声をかけてくれた。

「希和さん、一臣さんもああ見えて、ただ焦ってただけだからさ……」

それでも、ひとり、またひとりと部屋を出ていく。彼らが向ける視線に、哀れみがにじんでいた。

そして、気づけば部屋には希和ひとり。静まり返った空間の中で、ようやく、こらえていた涙がぽろりと音を立ててこぼれ落ちた。
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