All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

だが、そんなことを気にしている暇もなかった。景凪はそのまま回転ドアを押し、中へと姿を消した。「いやぁ、大したもんだ」暮翔がその場で拍手でもしそうな勢いで感嘆の声を漏らす。「景凪さんも、十年一日の如く、深雲さんの言葉を聖なるお告げと心得てるわけだ」研時もまた、鼻で笑いながら、グラスに残っていた酒を一気に呷った。「犬だって、ここまで忠実じゃねえだろ」三十分も経たないうちに雲天グループからここまで駆けつけるとは。深雲からのメッセージを目にした瞬間、タクシーに飛び乗ったに違いない。深雲はソファにゆったりと背を預け、悠然とその光景を眺めていた。ロビーに入ってくるなり、必死の形相であたりを見回す景凪の姿……それを見たとたん、胸の内に燻っていた鬱憤が、綺麗さっぱり霧散していくのを感じた。三十分前、景凪に送った二件のメッセージに、彼女からの返信はなかった。もしかしたら、来ないのではないか。そんな一抹の不安も、今となっては全くの杞憂だったようだ。結局のところ、彼女は自分が本気で怒ることを恐れているのだ。初めて訪れるその場所は、一階のロビーだけでも馬鹿げているほどに広大だった。景凪はきょろきょろとあたりを見回し、上の階へ続く通路を探す。壮一郎から送られてきた個室の場所は、三階のはずだ。だが、そんな彼女の姿も、深雲たちの目には、ただただ狼狽し、頭のない蝿のようにホールをうろつき回っているようにしか映らない。ここはただのシティホテルではない。外のホール席ですら予約は困難を極める。個室となれば、利用者の身元確認まで行われるため、そこらの金持ちが予約できるような場所ではなかった。だからこそ、ここを訪れる客は誰もが相応の身なりをしている。質素な服装の景凪は、その中でひどく場違いに浮いて見えた。レストランの支配人が景凪の方へ歩み寄っていくのが見えた。おそらく、彼女を追い払うつもりなのだろう。さすがに少し不憫に思った暮翔が声をかけようと腕を上げた――が、その腕は研時にぐいと押さえつけられた。「放っとけよ」研時は冷たい視線を景凪に向けたまま、彼女が醜態を晒すのを楽しんでいた。「別に俺たちの出る幕じゃねぇだろ」確かに、彼が口を出すのは筋違いだ。何しろ、彼女は自分の妻ではないのだから……暮翔は深雲に視線を移す。しかし当の深雲は、半分ほ
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第162話

その頃、景凪はすでに支配人の案内で三階に到着し、壮一郎がいるという個室の前に立っていた。一目見て、部屋の外に二組のボディガードが立っていることに気づく。一方は、私服姿ではあるものの、その引き締まった体躯や隙のない立ち姿から、長年訓練を積んできたSP(セキュリティポリス)のような、堅い雰囲気を纏っていた。そしてもう一方は、黒服に身を包んだ屈強な男たち。長袖長ズボンでも隠しきれない、盛り上がった筋肉。その殺伐とした表情や気配は、およそ堅気の人間のものではなかった。壮一郎は、二人の大物と会っている。しかも、それぞれ全く違う世界の人間と。景凪は瞬時にそう判断した。「では、私はこれで」景凪を送り届けると、支配人は一刻も長居はしたくないといった様子で、そそくさとその場を立ち去っていった。エレベーターの中で、景凪は壮一郎にメッセージを送っていた。個室の前で二分ほど待っていると、重厚なドアが内側から開き、壮一郎が姿を現す。彼の背後で、ドアは完全には閉じられておらず、人が一人通れるほどの隙間ができていた。景凪は思わず、その隙間から中を覗き見る。そこにあったのは、息をのむほど美しい、男の横顔だった。男の座り方は、決して堅苦しいものではない。背もたれに凭れるでもなく、凭れないでもない曖昧な姿勢で、気だるげに半身を傾けている。にもかかわらず、その立ち居振る舞いは洗練の極みにあり、天性のものだろう、しなやかに伸びた骨格が、抜きん出た気品を醸し出していた。ただそこにいるだけで、目に心地よい。残念ながら景凪のいる角度からは、男の横顔の下半分しか見えなかったが、それでも、その輪郭は最高の職人が丹念に彫り上げたかのように鋭く、そして美しかった。やや薄い唇は、完璧としか言いようのない弧を描いている。キス、したら……気持ち、よさそう……ふと、そんな場違いな考えが頭をよぎり、景凪ははっと我に返って視線を逸らした。あの男の纏う雰囲気はあまりに野性的で、そして若すぎる。となれば、SPらしき護衛が守る要人ではないはず。つまり……景凪は傍らに立つ黒服のボディガードが持つ、岩のような拳にちらりと目をやった。途端に、彼女は体の前で恭しく両手を重ね、目の前に立つ壮一郎だけをまっすぐに見つめた。もはや、心に雑念はひとかけらもなかった。「藤咲おじさま」「久しぶ
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第163話

エレベーターホールまで来た、その時だった。一人の女性スタッフが小走りにこちらへやってくる。「失礼いたします。穂坂様でいらっしゃいますか?」「はい、穂坂景凪ですが……何か?」景凪は訝しげに答えた。人違いではないと分かると、スタッフはほっとしたように続けた。「穂坂様、当ホテルでお怪我をされたと伺いました。すぐそちらに休憩室がございますので、よろしければご案内いたします。救急箱をご用意しておりますので、手当をさせていただけますでしょうか」一瞬きょとんとして、景凪は自分の手のひらに目を落とした。「支配人からの指示ですか?」「いいえ」と、スタッフは言いかけて、はっと口をつぐんだ。個室の客から言い含められた言葉を思い出し、咄嗟に言葉を飲み込む。「……はい、さようでございます。お客様のお怪我をそのままにはできかねます。もしこのままお帰ししてしまっては、私がお給料から引かれてしまいますので」元来、人に迷惑をかけるのを嫌う性格の景凪は、断ろうと思っていた。たしかに少しは痛むが、大した傷ではない。それに、自分で転んだのだから、家に帰ってから処置すればいい。だが、何の罪もないスタッフの給料が引かれると聞いては、無下にもできなかった。「分かりました。でも、少し急いでいるので、手早くお願いできますか」「はい、かしこまりました!」スタッフは、心底安堵したような表情を浮かべた。彼女は景凪を隣の休憩室へ案内すると、手際よく救急箱を取り出し、傷の手当てを始めた。「はい、終わりました、穂坂様」「…………」薬が塗られ、丁寧にガーゼで覆われた傷口を見つめながら、景凪はそっと手を動かしてみる。先ほどまでの、肉が引き裂かれるような鋭い痛みは、ずいぶんと和らいでいた。「……ありがとうございます」家庭の事情で、彼女は幼い頃から学校でいじめられていた。守ってくれる父も母もおらず、かといって祖父に心配もかけたくなくて、どんな怪我をしても決して口には出さなかった。大丈夫、痛くない。そう自分に黙って言い聞かせ続けた。自分自身にそう言い聞かせることが癖になったせいだろうか。いつしか彼女は、本当に痛みを恐れなくなった。いや、違う。「耐える」ことが、無意識の「本能」になってしまったのだ。そして、彼女が耐えれば耐えるほど、周りの人間もまた、彼女は痛み
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第164話

景凪は元来た道を戻り、エレベーターで一階に降りるつもりだった。だが、運悪く、エレベーターホールに着いた途端、扉は閉まり、箱は階下へと去っていってしまう。すぐ隣には、金箔が施された豪奢な螺旋階段があった。美しい木で組まれたその階段は、ただそこにあるだけで、美術品のような価値を放っている。どうせ三階から降りるだけだ。景凪は迷わず階段を選んだ。しかし、二階の踊り場に差し掛かったところで、通路の反対側から出てきた研時と鉢合わせになった。もちろん、研時も景凪の姿を認めている。彼が二階へ上がってきたのは、化粧室を利用するためだった。だが、本当はそれだけではない。わざとラウンジを通り抜け、深雲を見つけられずにうろたえる景凪の無様な姿を拝んでやろうという、意地の悪い魂胆があったのだ。だが、ラウンジをぐるりと一周しても景凪の姿はなく、先ほどまで自分たちが座っていた席には、すでに新しい客が案内されていた。一体どこへ消えたのかと訝しんでいた矢先に、まさか彼女が三階から降りてくるとは。三階フロアにあるのは、いくつかのプライベートな個室のみだ。予約すら困難なその空間は、たとえスタッフがいなくとも、監視カメラが常に目を光らせている。もしフロアにそぐわない客が紛れ込めば、すぐさま係員が駆けつけて対処するはずだ。それなのに、景凪は階段で降りてきた……研時は目を細め、瞬時に合点がいった。なるほど。二階で深雲を見つけられなかった景凪は、彼が三階にいると勘違いしたのだろう。そして、支配人の目を盗んでどうにか潜り込んだものの、結局は追い返されたに違いない!そこまで考えると、研時は思わず笑いが込み上げてきた。この女は、本当にどこまで行っても恥を晒し続けないと気が済まないらしい。真正面から出くわしたのだ。景凪の目が節穴でもない限り、自分に気づかないはずはない。研時はわざと歩みを緩め、彼女が近づいてきて、自分に泣きつくように深雲の居場所を尋ねるのを、余裕綽々で待ち構えていた。だが、研時の予想に反し、景凪はまるで彼がそこに存在しないかのように、脇目もふらず通り過ぎ、そのまま階下へと向かおうとした。その瞬間、研時の表情から余裕が消え失せた。彼は大股で景凪の前に回り込み、その行く手を塞ぐ。「おい、穂坂。わざと見えねえフリか?そんな態度取ってりゃ、自分が特
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第165話

「おい、待てと言っている!」正面の黒大理石の壁に、自分に向かって伸びてくる研時の手が映るのが見えた。その瞬間、景凪の我慢は限界に達した。彼女は振り返りざま、渾身の力でその腕を振り払う。容赦ない一撃に、研時の手首には赤い筋がくっきりと浮かび上がった。研時が怒声を上げようとする、その前。景凪の、氷のような声が先に響いた。「陸野さん、あなたって時々、本当に哀れに見えるわ」その瞳は、まるで本物のピエロでも見るかのように、冷たい憐憫に満ちていた。一瞬、研時は虚を突かれたように固まる。だが、すぐにその表情は怒りに歪んだ。「お前みたいな女が……どの口で他人を哀れむんだ!」「あなたは、小林姿月さんのことが好きなんでしょう」景凪は、彼の心の奥底を、容赦なく抉り出す。「ずっと彼女に弄ばれて、焦らされて……告白する勇気もないから、惨めな負け犬みたいに、陰で私をいじめることしかできなかった。そうやって鬱憤を晴らしていたんでしょう?まさかとは思うけど、自分のこと、すごく一途で、小林さんを守る正義のナイト気取りだったりするんじゃない?」そこまで言うと、景凪はふっ、と鼻で笑った。長年、研時が自分を見下していた理由。それは、自分に何か非があったからではない。最初から、ただ姿月の代わりに、自分をいじめて憂さを晴らしたかっただけなのだ。「…………」研時は、体の脇に垂らした拳を、ぎりぎりと握りしめた。その顔色は見る間にどす黒く変貌し、一歩、また一歩と景凪に詰め寄る。「ほ、さ、か……てめえ、その口を閉じろ!」歯を食いしばり、絞り出すような声だった。だが、景凪は少しも怯まない。青ざめていく研時の顔を眺めながら、ただおかしくて仕方がなかった。「何よ、陸野の御曹司ともあろう方が、まさか女に手を上げる気?」頭上には、監視カメラが光っている。もし彼が手を出してきたら、その場ですぐに警察を呼ぶだけだ。今の景凪は、もう何も怖いものはない。失うものなどない人間を、誰も脅すことはできないのだ。自分にある肩書きといえば、「鷹野家の嫁」というものだけ。だが、その家に恥をかかせることなど、むしろ気分がいいくらいだった。しかし、研時は違う。彼には守るべき社会的地位があり、陸野家唯一の跡取りという立場もある。裏社会にさえ顔が利く彼が、女を殴ったなどという理由で警察沙
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第166話

まさか、彼らまでこのホテルにいるとは。「何かご用ですか」追いついた深雲に、景凪はあくまで事務的な口調で問いかけた。他人行儀なその声音に、深雲はやれやれといった顔で息をつく。――俺をさんざん探し回って見つけられず、拗ねているんだな。「まあ、そう怒るなよ、景凪」自分の言うことを聞いて、こうして慌てて駆けつけてきたのだ。その殊勝な態度に免じて、こちらから折れてやるか。深雲は恩着せがましく切り出した。「最新の機器を開発二部に回したのは、確かに俺の配慮が足りなかった。だが、もう小林部長が実験に取り掛かっていてな……」「待って」深雲の言葉を、景凪は眉を顰めて遮った。「小林さんが、もう実験を始めたって……?」あの分析機器は、国内で導入されている数が極端に少ない。高価なのはもちろんだが、それ以上に、オペレーターに要求されるコンピュータ技術のレベルが非常に高いのだ。たとえ一流のプログラマーであっても、完全に使いこなすには最低でも二日はかかる。姿月が手に入れてすぐに使えるはずなどない。ふと、景凪の脳裏にある光景が蘇る。先日、姿月と共に開発二部へ入っていった男の背中。ちらりと見えただけだったが、ただ者ではない雰囲気を確かに漂わせていた。きっと、あの男だ。スパコンの三重セキュリティロックを破っただけでなく、あの機器の操作まで手伝っているに違いない……「ああ」深雲は景凪の態度の変化に全く気づいていない。彼はあくまで『思いやり』深く続けた。「小林部長には話を通してある。実験データはお前に随時共有させるから、今後のプロジェクト統合もスムーズに進むはずだ」まるで、彼女が姿月とのプロジェクト統合に同意したことが、当然の前提であるかのような口ぶり。景凪は眉を顰めた。「誰が、彼女と統合するなんて言ったの」「……」ここまで折れてやっているのに、まだ意地を張るのか。深雲の表情からすっと温度が消え、眉間にわずかな皺が寄る。その声には、呆れと警告の色が混じっていた。「景凪、いい加減にしろ。その芝居も、もう見飽きたぞ」この男には、人の言葉が届かない。景凪は、これ以上会話を続ける意味がないと判断した。彼女は深雲をただの上司として扱い、最後の通告をするように、きっぱりと言い放った。「鷹野社長。もう一度だけ言います。私のプロジェクトに、小林さんの名
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第167話

先ほど、深雲に腕を掴まれた時に、再び傷口が開いたのだ。彼女は寂しげに、自分を嘲るように口の端を歪めた。だが、再び顔を上げた時には、もう全ての感情を押し殺していた。景凪は目の前の男をまっすぐに見据える。「鷹野社長、お忘れなく。あの機器は私のものです。契約書も、正式に交わしています」言葉の続きは、喉の奥に飲み込んだ。――もし今週中にあの機器が私の手元に届かなければ、弁護士を立てて即刻、あなたを訴えます。だが、今はその時ではない。土曜日までに片付けなければならないことが山積みで、こんなことで時間を浪費している余裕はなかった。ここで手の内を明かせば、深雲が姿月のために先回りして対策を講じるだけだ。無駄な泥仕合になるのは目に見えている。景凪は毅然としてホテルに背を向け、エントランスでタクシーを拾った。「運転手さん、青北大学までお願いします」バックミラー越しに、深雲が追いかけてくるのが見えた。だが、彼は入り口でぴたりと足を止め、それ以上動こうとはしない。——追ってくるはずがない。景凪には、それが痛いほどわかっていた。鷹野深雲の世界では、常に自分が彼を追いかける側であり、彼がその尊厳を曲げてまで自分に歩み寄ることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。昔から、ずっとそうだった。彼女は自嘲気味に、力なく笑った。そっと目を閉じると、長年蓄積された疲労が、どっと潮のように押し寄せてくる。この恋に、自分はもう心も体もすり減らし、傷だらけになってしまったのだと、今更ながらに思う。景凪を乗せたタクシーが走り去るのを、深雲と共に見送りながら、暮翔はたまらず口を開いた。「なあ、深雲。今からでも車で追いかけて、景凪さんともう一度ちゃんと話した方がいいんじゃないか?」深雲が苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいると、背後から研時が姿を現した。彼は暮翔の言葉を耳にするなり、冷ややかに、そして侮蔑的に言い放った。「追いかける?馬鹿言え。穂坂のやつ、最近やけに偉そうな態度を取るようになったじゃねえか。深雲がここで下手に出てみろ。ますます調子に乗るだけだぞ」「……」深雲は何も答えなかった。薄い唇を固く引き結び、その昏い瞳で、景凪の乗ったタクシーが交差点の車の流れに溶け込み、見えなくなるまでをじっと見つめていた。彼女は、間違い
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第168話

四十分後、タクシーが青北大学の正門前で停車した。七年ぶりに、景凪は再びこの場所へ戻ってきた。金色の文字が輝く大学の看板を見上げると、万感の思いが胸に迫る。門をくぐり、溌剌とした学生たちとすれ違う。国内最高峰の学び舎に集う若者たちの顔は、誰もが希望に満ちて輝いていた。彼らの姿に、かつての自分の面影が重なる。景凪はひとつ息を吸い込み、気持ちを切り替えると、警備室で来訪者名簿に名を記した。それを見た警備員が、ほう、と声を上げる。「へえ、お嬢ちゃんも穂坂景凪って言うのかい。昔ここにいた、そりゃあ有名な天才と同じ名前だねえ」景凪はただ微笑み、何も答えずにペンを置いた。そして、藤咲壮一郎の研究所へと足を向ける。壮一郎の研究所には、常に世界最先端の設備が揃えられていた。景凪が必要としていた分析機器も、半年前にすでに導入されている。ロッカーに備え付けられていた新しい白衣に着替え、景凪は一心不乱に実験に没頭した。気づけば、四時間が経過していた。凝り固まった首筋を揉みほぐしながら窓の外に目をやると、空はすでに夕焼けに染まり、美しいグラデーションを描いている。一瞬、本当に大学時代に戻ったかのような錯覚に陥った。あの頃も、いつもこうして、実験室か図書館で、一人きりで最後まで残っていたっけ……景凪は白衣を脱いで私服に着替えると、マナーモードにしていたスマートフォンを手に取った。詩由からの不在着信が二件。急用かもしれない。景凪は心配になり、研究所を出ながら急いで電話をかけ直した。「先輩!やっと電話に出てくれた!」詩由はワンコールで応答した。「どうしたの?」景凪は尋ねながら、屈んで実験室のドアに鍵をかける。三重ロックの分厚い扉だ。怪我をした手では、片手で捻るのに少し力が必要だった。「先輩、良いニュースと悪いニュースがあるの!まず良いニュースなんだけど、なぜか経理が、一年も放置されてた私の経費精算を急に承認してくれて!40万円以上だよ!これで先輩にご飯おごれる!」景凪は静かに微笑み、問い返した。「それで、悪いニュースは?」その言葉に、詩由の声は一気にトーンダウンする。彼女は声を潜め、怒りを滲ませながら言った。「鷹野社長って、どうかしてない?今日の午後、いきなり通知を出したの。『プロジェクトの緊急性を鑑み、本日納入した機
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第169話

その淡々とした声に、詩由は何かを感じ取ったようだった。「わかった。じゃあ先輩、何かあったらいつでも連絡してね」「うん」通話を終え、スマートフォンをポケットにしまう。ようやく三重ロックをかけ終えた鍵が、まだ鍵穴に差し込まれたままだった。怪我をしている手ではびくともせず、両手を使って渾身の力で引き抜く。その勢いでぐらりと体が後ろへ傾いだ、その時。背中のすぐ後ろに、大きな手が現れ、彼女の肩をぐっと支えた。振り返ろうとした景凪の耳に、先に届いたのは、驚きと戸惑いの入り混じった声だった。かつて、何度も聞いたことのある、懐かしい声。「……景凪ちゃんか?」その呼び名と、優しい声色。景凪にとって、あまりにも久しぶりの響きだった。まるで、忘れていたはずの温かい記憶が、心の奥底から呼び覚まされたかのように。彼女がゆっくりと振り返ると——そこには、二番目の兄弟子である中村鶴真の姿があった。その顔を見た瞬間、景凪の目の縁が、じわりと熱くなる。「……鶴真先輩」そして、彼と並んで立つ女性もまた、景凪がよく知る人物だった。姉弟子の、南野希音(みなみの きおん)。「……希音先輩」景凪がか細い声で呼びかける。希音は昔とほとんど変わっていなかった。白衣を纏い、髪を後頭部でひとつに束ねた姿は、凛として、どこか人を寄せ付けない学究的な雰囲気を漂わせている。彼女は、景凪の顔を認めた瞬間、わずかに瞳を見開いた。だが、次の瞬間にはもう、氷のように冷たい表情に戻っていた。景凪の呼びかけに応えようともしない。景凪は、その反応を甘んじて受け入れた。希音は昔から、感情を隠さない、裏表のない人だ。彼女が自分に示す冷淡さと嫌悪は、七年前に自分がしでかしたことへの、当然の報いだった。あの時、自分は誰にも何も告げずに、姿を消した。恩師である蘇我教授を失意のどん底に突き落とし、病に倒れさせかけただけでなく、研究室の仲間たちにも、数えきれないほどの迷惑をかけたのだ。希音に恨まれて、当然だった。「景凪ちゃん、本当に目を覚ましたんだな!よかった、本当によかった!」鶴真はもとより情に厚い男だ。目の前の人物が間違いなく景凪本人だと確信すると、驚きと喜びを爆発させた。「この前、大学の門の前で景凪ちゃんを見かけたって言ったら、錦野先輩に『幻覚でも見てるんじゃないか』なんて
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第170話

景凪は、まっすぐ家に帰るつもりだった。時間からして、もう二人の子供たちは学校から戻っている頃だろう。だが、その道中で、桃子から電話がかかってきた。「桃子さん、どうしたの?」「奥様、たった今、深雲様からお電話がありまして、夕食の準備は必要ないとのことです。辰希さまと清音さまは、運転手さんが直接会社の方へお送りしたそうでして。後ほど、深雲様がご自身でお二人を連れてお帰りになると」桃子さんは、景凪がなんとか時間を作って子供たちとの絆を深めようとしていることを知っていた。彼女は親切心から、ある提案をする。「奥様。辰希さまと清音さまの大好物のマンゴースイーツとフルーツポンチを作りましたの。たった今、業者に頼んで会社の方へ届けさせましたので、奥様が直接受け取って、お子様たちに差し上げてはいかがでしょう」その細やかな心遣いが、景凪にはとても有難かった。「わかったわ、桃子さん。ありがとう」電話を切ると、彼女は運転手に会社のビルへ行き先を変更するよう告げた。ビルのエントランスに着くと、ちょうど桃子さんが手配した配達員と鉢合わせになった。デザートの入った保冷バッグを受け取って礼を言うと、景凪はそれを手に、まっすぐ深雲のオフィスへと向かう。夫としては最低の男だが、父親としては、二人の子供たちによく尽くしている。彼のオフィスには、子供たちのための小さなプレイルームが併設されていた。温かみのある内装で、様々なおもちゃが用意された、辰希と清音のためだけの特別な空間だ。エレベーターの中で、景凪は鏡に映る自分の姿を見た。一日中駆けずり回って、くたびれて薄汚れた顔は、「洗練」という言葉とは程遠い。ふと、まだ幼い娘の清音の顔が浮かぶ。あの子は妙におませで、自分の周りの人間がいつも綺麗でいることを望むのだ。こんな姿で会いに行ったら、また嫌われてしまうかもしれない。数秒考えた末、景凪はデザートの入ったバッグを、ひとまず深雲のオフィス近くにある給湯室の冷蔵庫にしまうことにした。給湯室を出ると、深雲のオフィスから、清音の楽しそうな笑い声がかすかに聞こえてくる。娘の態度はいつも自分に対して冷たいけれど、それでも血を分けた我が子だ。その屈託のない笑い声を聞いていると、景凪の心は自然と和らいだ。彼女は踵を返し、一度、研究開発部へ戻ることにした。
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