だが、そんなことを気にしている暇もなかった。景凪はそのまま回転ドアを押し、中へと姿を消した。「いやぁ、大したもんだ」暮翔がその場で拍手でもしそうな勢いで感嘆の声を漏らす。「景凪さんも、十年一日の如く、深雲さんの言葉を聖なるお告げと心得てるわけだ」研時もまた、鼻で笑いながら、グラスに残っていた酒を一気に呷った。「犬だって、ここまで忠実じゃねえだろ」三十分も経たないうちに雲天グループからここまで駆けつけるとは。深雲からのメッセージを目にした瞬間、タクシーに飛び乗ったに違いない。深雲はソファにゆったりと背を預け、悠然とその光景を眺めていた。ロビーに入ってくるなり、必死の形相であたりを見回す景凪の姿……それを見たとたん、胸の内に燻っていた鬱憤が、綺麗さっぱり霧散していくのを感じた。三十分前、景凪に送った二件のメッセージに、彼女からの返信はなかった。もしかしたら、来ないのではないか。そんな一抹の不安も、今となっては全くの杞憂だったようだ。結局のところ、彼女は自分が本気で怒ることを恐れているのだ。初めて訪れるその場所は、一階のロビーだけでも馬鹿げているほどに広大だった。景凪はきょろきょろとあたりを見回し、上の階へ続く通路を探す。壮一郎から送られてきた個室の場所は、三階のはずだ。だが、そんな彼女の姿も、深雲たちの目には、ただただ狼狽し、頭のない蝿のようにホールをうろつき回っているようにしか映らない。ここはただのシティホテルではない。外のホール席ですら予約は困難を極める。個室となれば、利用者の身元確認まで行われるため、そこらの金持ちが予約できるような場所ではなかった。だからこそ、ここを訪れる客は誰もが相応の身なりをしている。質素な服装の景凪は、その中でひどく場違いに浮いて見えた。レストランの支配人が景凪の方へ歩み寄っていくのが見えた。おそらく、彼女を追い払うつもりなのだろう。さすがに少し不憫に思った暮翔が声をかけようと腕を上げた――が、その腕は研時にぐいと押さえつけられた。「放っとけよ」研時は冷たい視線を景凪に向けたまま、彼女が醜態を晒すのを楽しんでいた。「別に俺たちの出る幕じゃねぇだろ」確かに、彼が口を出すのは筋違いだ。何しろ、彼女は自分の妻ではないのだから……暮翔は深雲に視線を移す。しかし当の深雲は、半分ほ
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