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第166話

Auteur: 花辞樹(かじじゅ)
まさか、彼らまでこのホテルにいるとは。

「何かご用ですか」

追いついた深雲に、景凪はあくまで事務的な口調で問いかけた。他人行儀なその声音に、深雲はやれやれといった顔で息をつく。

――俺をさんざん探し回って見つけられず、拗ねているんだな。

「まあ、そう怒るなよ、景凪」自分の言うことを聞いて、こうして慌てて駆けつけてきたのだ。その殊勝な態度に免じて、こちらから折れてやるか。深雲は恩着せがましく切り出した。「最新の機器を開発二部に回したのは、確かに俺の配慮が足りなかった。だが、もう小林部長が実験に取り掛かっていてな……」

「待って」深雲の言葉を、景凪は眉を顰めて遮った。「小林さんが、もう実験を始めたって……?」

あの分析機器は、国内で導入されている数が極端に少ない。高価なのはもちろんだが、それ以上に、オペレーターに要求されるコンピュータ技術のレベルが非常に高いのだ。たとえ一流のプログラマーであっても、完全に使いこなすには最低でも二日はかかる。

姿月が手に入れてすぐに使えるはずなどない。

ふと、景凪の脳裏にある光景が蘇る。先日、姿月と共に開発二部へ入っていった男の背中。ちらりと
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    渡と共にS国の療養地へ向かう専用機に乗り込む前、景凪は深雲に電話をかけ、二人の子供の世話を頼んだ。「しばらく海外へ行くことになったの。戻るのは、少し先になると思うわ」「海外?」電話の向こうの深雲は、意外そうに声を上げた。「急にどうしたんだ。いったい何をしに……」そこで踏み込みすぎたことに気づいたのか、深雲はわずかに口を閉ざし、すぐに言葉を継いだ。「いや、言いたくないことなら無理にとは言わないが……」「渡の治療に付き添うの」景凪は静かな声で、あまりにも大きすぎる事実を告げた。「…………っ」受話器の向こうで、深雲が息を呑む音がした。驚愕のあまり、すぐには言葉が出てこないらしい。「わ……渡、だと……?」あの男は、死んだはずではなかったのか。「ええ。説明すると長くなるけれど、彼は生きているわ。ただ、決して楽観できる状態じゃないから、私がそばにいてあげたいの。しばらくの間、辰希と清音のことをお願いできる?」「……ああ、分かった」深雲はそれ以上、何も詮索しなかった。「俺に手伝えることがあれば、遠慮なくいつでも言ってくれ」それは、偽りのない彼の本心だった。「二人のことは心配するな。寂しがらないよう、定期的にテレビ電話をさせるようにする」「ええ、ありがとう」短く礼を言って通話を切ると、景凪は振り返り、少し離れた場所で待っていた渡のもとへと歩み寄った。その痩せた手をそっと引き、二人でタラップを上って機内へと足を踏み入れる。ふと、渡が音もなく唇の端を緩め、親指で景凪の手の甲を優しく撫でた。「何を笑っているの?」景凪が不思議そうに尋ねると、渡は静かに答えた。「ここへ来た時は一人きりだったのに、去る時は『俺たち』二人だな、と思って」景凪はそっと彼の肩に頭を預けた。「これからはもう、あなたを一人にはしないわ。絶対に」ウィル医師が提携する先端医療研究所は、鏡のように澄み切った美しい湖のほとりにあった。市街地の喧騒から遠く離れた閑静なその場所は、長期の療養にはうってつけの環境だった。景凪は十分に覚悟をしてきたつもりだったが、実際に始まった治療の過酷さは、彼女の想像を遥かに絶するものだった。渡の身体は、過去に幾度も繰り返された細胞の再構築と劇薬の侵食によって、免疫システムが限

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    その返事を聞いた瞬間、極限まで張り詰めていた糸がぷつりと切れ、景凪は彼の腕の中へと崩れ落ちるように意識を手放した。その様子を見ていた景舟は、なんとも言えない表情で口元を歪めた。「あそこまで彼女を追い詰めておいて……本当に苦しんでいるのは彼女なのかお前なのか、分かったものじゃないな」「黙れ」渡の顔から、先ほどまでの温度が嘘のように消え失せた。「医者と看護師を呼べ」景凪に向けていたあの甘いほどの優しさは、一瞬にして影も形もなくなっている。景舟は慣れた様子で肩をすくめ、すぐにスマートフォンを取り出して手配を済ませた。彼が移動する際は、常に最寄りの病院に専属の医療チームが待機している。二十分も経たないうちに、最新設備を携えた専門の医療スタッフたちが空き家へと駆けつけた。処置の邪魔にならないよう、渡は部屋を空けて雨上がりの庭へと出た。その後ろから、景舟が静かに歩み寄る。「何の用だ」渡は単刀直入に切り出した。一日を四十八時間にしてでも働きたいような多忙を極めるこの男が、何の理由もなくこんな辺鄙な町まで足を運ぶはずがない。「古い友人が恋しくてね。まだ息があるか、ちょっと顔を拝みに来ただけさ」渡の目はもう何も映していなかったが、その顔にはっきりと呆れの色が浮かんだ。景舟はそんな友人の痛々しいほど痩せこけた横顔を見つめ、わずかに喉仏を上下させると、声を潜めて本題を切り出した。「ウィル医師が、S国の特別研究チームと共同で新しい治療法を見つけた。まだ治験段階ではあるが……賭けてみる価値はある」「…………」押し黙る渡の肩を、景舟はぽんと軽く叩いた。「お前が首を縦に振らないなら、景凪さんに直接相談するまでだ」渡は、苦虫を噛み潰したように黙り込むしかなかった。……景凪が意識を取り戻した時、最初に鼻腔をくすぐったのは薬の匂いだった。解熱剤と消毒用アルコールが混ざり合った、独特な匂い。重い瞼をゆっくりと持ち上げると、ぼやけていた視界が次第に鮮明になり、頭上に古びた灰色の梁が見えた。「渡……っ!」ハッと意識が覚醒し、飛び起きようとしたその瞬間――胸の奥に焦燥が広がるよりも早く、自分の手が誰かに包まれていることに気づいた。そっと首を巡らせると、ベッドのすぐ脇に座り込む渡の姿があった。壁に

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    ――パサッ。景凪の手から、薬の袋が抜け落ちて床に転がった。ガラス窓に映り込んだ自分の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていく。景凪はよろめきながら薬局を飛び出した。背後から老薬剤師が驚いて叫ぶ声も、今の彼女には届かない。「お嬢さん!薬が!おーい、危ないから足元に気をつけて……!」転ぶように駆け出していった背中を見送り、老薬剤師は狐につままれたような顔で頭を掻いた。さっきまでの凛として穏やかだった姿とは、まるで別人のようだったからだ。「いったい何があったってんだ、あんなに血相を変えて……」老薬剤師の呟きは、春の風に消えた。景凪はただ夢中で、裏通りのあの古い空き家へと走り続けた。道すがら顔見知りの町民が声をかけてきても、視界にすら入らない。額には玉のような汗が浮き出し、冷たい風が気管に流れ込んで、喉の奥が焼けるようにひりついた。視界が熱い涙で歪む。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。頭の中には、ただ一つの考えしかない。いや――ただ一人の名前だけが、狂おしいほどに反響していた。渡。彼は、生きている。あの痩せこけた黒い人影も、焼け爛れたように掠れた声も。自分が必死に面影を重ねながら、それでも彼だと認めることを恐れたあの男は――本当に、渡だったのだ。その手には、さっきの女の子から無理を言って譲り受けた一粒のミントキャンディが握りしめられていた。あまりに強く握りしめるせいで、硬い包み紙の角が手のひらに食い込み、鋭い痛みを放っている。古い空き家が視界に飛び込んできた途端、胸が締めつけられるように軋んだ。門の前で立ち止まり、荒い息を二度吐き出す。そして小刻みに震える手で、わずかに開いたままの木戸を乱暴に押し開け、中へと駆け込んだ。庭は昨日自分がここを去った時のまま、がらんとして寒々しい静寂に包まれていた。母屋の扉は固く閉ざされ、窓の向こうは真っ暗に沈んでいる。一歩、また一歩と扉へ近づく。唇を開いたが、喉がひりついて引き攣り、最初の一声は音にすらならなかった。もう一度、息を吸い込む。「……渡」返事はない。景凪はさらに前へと踏み出した。声は次第に大きく、激しく震え、魂そのものが泣き叫んでいるかのようだった。「渡っ、あなたなんでしょう!?

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