All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

だから皆、姿月に対しては非常に丁寧で、ほとんど社長夫人に対するように接するのだった。「いえ、この冷蔵庫に入ってるデザート、誰のものかなって話してたんです。もうすぐ終業時間なのに、誰も食べないし、持って帰る様子もないし。明日になったら、悪くなっちゃいますよね」姿月は、デザートが入っている容器を一目見ただけで、それが鷹野家のキッチンで使われているものだとわかった。あの屋敷には何度も足を運んでいる。食器のひとつひとつまで、彼女は熟知していた。マンゴースイーツとフルーツポンチは、まさしく清音と辰希の好物だ。おそらく、家の家政婦が作って子供たちのために届けさせたものを、一時的に冷蔵庫へ入れたのだろう。「それ、私のよ」姿月はそう言うと、何のてらいもなく、二つのデザートを冷蔵庫から取り出した。「姿月ママ!」その時、鈴を転がすような、跳ねるように明るい声が響いた。オフィスの中でじっとしているのが退屈になった清音は、パパに「姿月ママはまだ来ないの?」と何度もせがんでいた。パパは「たぶん、忙しいんだろう」と言うばかりだったので、痺れを切らして迎えに出てきたのだ。まさか、出てきてすぐに、大好きな姿月ママに会えるだなんて!清音は満面の笑みで姿月に駆け寄り、その足にぎゅっと抱きついた。その光景を目の当たりにした社員二人は、そっと視線を交わし、全てを察したような曖昧な笑みを浮かべた。社長のお嬢さんが、小林秘書を公然と『ママ』って呼んでる……「姿月ママ、これ、私とお兄ちゃんのために用意してくれたの?」食いしん坊の清音は、大好物のマンゴースイーツを前に、きらきらと目を輝かせている。姿月は、清音の鼻の頭を親しげにつついた。肯定も、否定もしない。「ふふ、お腹が空いてると思ったのよ、この食いしん坊さん」その言葉に、清音は三日月のように目を細め、ありったけの賛辞を並べ立てた。「私とお兄ちゃん、これだーいすきなの!姿月ママって、本当にすごい!世界でいっちばん素敵なママだよ!」このやり取りを目の前で見せつけられた社員たちは、引きつった、だが当たり障りのない笑顔を浮かべた。「あの、小林秘書、お嬢様、我々はこれでお先に失礼します」姿月は片手で清音を抱き寄せながら、軽く頷いて見せる。「ええ、お疲れ様。また明日」エレベーターホールへと向かいな
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第172話

景凪は、平坦な表情のまま、まっすぐに二人の方へ歩みを進めてくる。さっきまであれほど饒舌だった社員は、罪悪感から顔を伏せ、彼女の顔をまともに見ることができない。声は潜めていたつもりだが、静かな廊下では思った以上に響いていたはずだ。今の会話は、きっと全て聞かれてしまったに違いない。「奥様、わ、私……!さっきのは、全部でたらめですから!」景凪が目の前まで来た時、彼女は真っ青な顔で、しどろもどろに弁解を始めた。穂坂景凪は、今もまだ戸籍上、鷹野家の正式な妻なのだ。もし彼女の機嫌を損ねれば、鷹野深雲に一言告げ口するだけで、自分のような末端の社員など、明日にもクビにできるかもしれない。そう考えただけで、心臓が凍りつくようだった。「会社では、根も葉もない噂話は慎むことね。口は災いのもとよ」景凪は彼女の横をすり抜けながら、何の感情もこもっていない、平坦な声で言った。社員は慌てて頭を下げる。「はい、申し訳ありません、奥様!今後は決して!」『奥様』という呼び名に、景凪は気づかれぬほど、かすかに眉を顰めた。「今後は社内で、私のことは穂坂部長と呼んで」「は、はい!穂坂部長!」景凪が自分たちを追及することなく、社長室の方へ向かっていくのを見て、二人はようやく安堵の息をつき、逃げるようにその場を去った。景凪は、深雲のオフィスへは向かわなかった。踵を返し、給湯室へと足を向ける。清音と辰希のために、冷蔵庫へ預けておいたデザートを取り出すためだった。先ほど耳にした下劣な噂話……そのどれもが、今の景凪の心を揺さぶるには至らない。ただ一点、子供たちのことだけは、鋭い棘のように胸に突き刺さっていた。小林姿月と、鷹野深雲……景凪の瞳がすっと冷たさを帯びる。その奥に宿るのは、底冷えのするような嘲りだけだ。植物状態となってベッドに横たわっていたあの頃から、あの二人の醜い本性は、とうに嫌というほど見せつけられてきたのだから。景凪は無心で冷蔵庫の扉に手をかけ、開いた。しかし、その動きがぴたりと止まる。そこにあるはずのデザートが、影も形もなくなっていた。「…………」さっきの社員たちの言葉が脳裏をよぎり、嫌な予感が確信に変わる。景凪は冷蔵庫の扉を静かに閉めると、向き直って深雲のオフィスへと歩き出した。扉は完全には閉められておらず、手のひら半分
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第173話

姿月は微笑んで応える。「清音ちゃんたら、お口に蜜でも塗ってあるみたい。いつもそうやって私を喜ばせてくれるんだから」「ちがうもん!本当のことだもん」清音はぷっくりと頬を膨らませると、同意を求めて辰希の方を振り返った。「お兄ちゃんだってそう思うでしょ?ねぇ、お兄ちゃん、言ってよ!」景凪のいる位置からは辰希の姿は見えない。数秒の間を置いて、彼の声が聞こえてきた。「はいはい、清音の言う通りだよ」辰希は呆れたような声色でそう言った。だが、よく聞けば、その響きはどこか軽やかで、笑いの色を含んでいる。「…………」扉を押そうと伸ばしかけた景凪の手が、宙で止まり、そして、力なく下ろされた。今、中へ入ってどうなるというの?あのデザートは自分が持ってきたのだと訴えたところで、誰も気にも留めないだろう。もし、最初から研究開発部へ寄らず、まっすぐこの部屋へデザートを届けに来ていたとしても、結果はきっと同じだった、と景凪は思う。清音には邪険にされ、深雲はきっと何も言わない。そして姿月が現れれば、清音はぱっと目を輝かせて、歓声を上げながら彼女の胸に飛び込んでいく……景凪は一度強く目を閉じ、喉の奥に込み上げてくる苦い塊を無理やり飲み下すと、音を立てずにその場を離れた。オフィスの中では――辰希は、深雲がどこか上の空で、何度も携帯に目を落としていることに気づいていた。「パパ、誰かからの電話、待ってるの?」清音を抱いてアニメを観ていた姿月が、その言葉に、表情を動かさぬまま、すっとこちらへ視線を向けた。「……いや、何でもない」深雲は完成させたルービックキューブを置くと、携帯を手に立ち上がった。「ちょっと外す。姿月おばさんと一緒に、ここでパパを待ってるんだ。勝手にうろつくんじゃないぞ」そう言い置くと、彼はもうオフィスを出ていた。姿月の視線が、再び表情を殺したまま深雲の後ろ姿を追う。すらりとした長身が、視界から消えていくのを見送った。彼が向かったのは――研究開発部の、方角……研究開発部へと続くエレベーターに乗り込んだ深雲は、階数ボタンを押し、目の前で重々しく閉じていく扉を見つめた。鏡面仕上げの扉には、不機嫌さを映し出す端正な顔が映っていた。昼に出したあの通達さえあれば、と深雲は確信していた。分析機器が使えなくなったと知った景凪は、
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第174話

深雲が視線を向けると、ちょうど退社しようと開発二部から出てきた真菜の姿があった。彼は不機嫌さを隠そうともせず、ただ小さく頷くだけに留めた。「社長、姿月をお探しですか?でも、彼女なら上の階に上がったと……社長?」真菜が言い終わらないうちに、深雲はもう背を向けて歩き出していた。真菜は、彼のその態度を不思議に思い、一人首を捻る。「社長、どうしてここに?」思わず向かいの開発一部へ目をやり、ふと、自分でも驚くような考えが頭をよぎった。――まさか社長、穂坂景凪に会いに来たとか?だが次の瞬間、真菜はくすっと噴き出した。まさか。そんなはずがない。姿月という完璧な存在がいるのに、あの意地っ張りで退屈な田舎娘を、社長がかまうわけがない。むしろ、目障りで仕方ないはずだ。……深雲のオフィスを後にした景凪は、まっすぐ自宅の屋敷へと帰った。桃子がテラスで花に水をやっている最中で、景凪が一人で帰ってきたことに少し驚いたようだった。「奥様」彼女はテラスから顔を上げて、不思議そうに景凪を見た。「どうして奥様お一人で?深雲様と、お坊ちゃま、お嬢ちゃまは?」午後に心を込めてデザートを準備したのは、奥様にそれを届けてもらって、母子三人の距離がすぐには縮まらなくとも、せめて一緒に過ごす時間を少しでも作ってほしかったからだ。どう考えても、家族四人で一緒に帰ってくるのが筋ではないか。景凪は、表情を変えることなく答える。「会社にまだ少しやることがあるそうで、子供たちは深雲と一緒に残業だそうです。私は今日、少し疲れてしまったので、先に帰ってきました。桃子さんが用意してくださったデザート、辰希も清音もとても喜んでいましたよ」そう言うと、景凪は無理に笑顔を作って見せ、そのまま階段を上がっていった。その華奢で薄い後ろ姿を見送りながら、桃子さんは心配そうに眉をひそめる。直感が告げていた。奥様の言うほど、事は簡単ではないはずだと。彼女はいてもたってもいられず、ポケットから旧式の携帯電話を取り出すと、そっと典子に電話を掛けた。「典子様、どうも、よろしくないようです……」景凪は二階へ上がると、書斎へは向かわず、まず物置部屋へ入った。その奥から、かつて愛用していたスーツケースを引っ張り出す。七年前、空港へ向かう時に引いていたのも、このスーツケー
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第175話

全体をもう一度見直し、あとは明日、より簡潔なプレゼン資料を作成すれば完成だ。明後日の午前中には、西都製薬へ赴き、あの噂の黒瀬家次男に会うことができる。その謎めいた次男坊のことを思うと、景凪は少なからず好奇心をそそられた。長年、海外で育てられたという私生児が、突如帰国し、あの手強い西都製薬をいとも簡単に手中に収めたという。どうやら、その黒瀬家の次男とやらは、ただの凡人ではなさそうだ……その時だった。階下から、車が停まる音が響いてきた。景凪が窓辺に寄って外を見ると、深雲が辰希と清音を連れて帰ってきたところだった。子供たちの顔を見に階下へ行こうかとも思ったが、深雲のオフィスで見た、彼らと姿月との温かな光景が脳裏をよぎり、湧き上がった熱意のほとんどは掻き消えてしまった。深雲には会いたくない。彼とは、一言だって言葉を交わしたくなかった。景凪は再びパソコンの前に座り、作業に没頭した。子供たちが眠りにつく前に、おやすみの挨拶をしに行けばいい。そう考えた。一方、階下では――深雲は玄関の靴箱に、景凪が履き替えた靴が揃えられているのを見つけた。彼の目の動きが、わずかに止まる。子供たちの鞄を受け取りに出てきた桃子に、視線だけで問いかけた。「景凪はいつ帰った?」「一時間ほど前になります」深雲はそれ以上何も言わなかったが、その身から放たれる気圧が、明らかに一段低くなった。彼は煩わしそうにネクタイを緩める。その時、ポケットの携帯が震えた。画面には「小林姿月」の文字が浮かんでいる。深雲は携帯を手に、テラスへ出て通話を始めた。桃子は辰希と清音をキッチンへ連れて行き、手を洗わせる。清音は手を洗い終わるやいなや、ぴょんとソファに飛び乗り、タブレットで遊び始めた。辰希は丁寧に手を拭くと、何かを思い出したように、くるりと踵を返して桃子の前に立った。そして、とても礼儀正しく口を開く。「桃子さん、今日のデザート、すごくおいしかったよ」桃子は目を細めてにこやかに応えた。「坊ちゃまが喜んでくださって何よりですわ。わざわざ多めに作って、会社にいらっしゃる奥様に届けてもらったんですの。みなさんで召し上がっていただこうと思って」辰希は、その言葉にぴくりと動きを止めた。まるで意味が理解できないといった顔で、桃子に聞き返す。「桃子さん、いま
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第176話

「落ち着いてゆっくり話しなさい」深雲は、辰希がこれほど取り乱すのを滅多に見たことがなかった。彼も真剣な顔になり、辰希と目線を合わせるように屈んだ。だが、もう片方の手は携帯を握ったままだ。辰希自身、なぜこれほど焦っているのか分からなかった。だが、何かがおかしい、という感覚だけははっきりとしていた。おかしいことがあったら、大人に言うこと。先生がそう教えてくれた。辰希は、真剣な眼差しで言った。「パパ、今日姿月おばさんが持ってきたデザート、本当は桃子さんが会社に届けて、ママに、僕たちと一緒に食べるようにって渡してくれたものなんだ……」彼自身、何のてらいもなく「ママ」という言葉を口にしたことに、気づいてすらいなかった。しかし、それを聞いた深雲の反応は、意外なほど平坦なものだった。彼は片眉を上げただけ。口には出さないものの、その表情は「たったそれだけのことか?」と雄弁に物語っていた。「分かった。お前、そんなに慌てて、ただそのことを伝えるためだけに来たのか?」辰希は一瞬、言葉に詰まった。「パパ……」深雲は淡々と告げる。「姿月が、さっき電話で俺に全部話してくれた」「……!」辰希はそこでようやく、深雲が手にしている携帯が、まだ通話状態であることに気づいた。姿月との、通話に。「辰希くん、ごめんなさいね」携帯から、姿月の声が聞こえてきた。辰希の言葉が聞こえていたのだろう、その声はいつものように優しく、そして少しだけ困ったような響きを帯びている。「あの時、おばさんがちゃんと説明しなかったのがいけなかったの。デザートは冷蔵庫から取ったのよ。家の箱だったから、てっきり深雲さんが誰かに届けさせてくれたんだと思って、そのまま持ってきちゃったの……」辰希は小さな拳を握りしめ、突如として彼女の言葉を遮った。「『家』じゃない、『僕の』家だ!」姿月おばさんは、いつもそうだ。人が誤解するようなことばかり言う……「辰希!なんだその態度は!」深雲の、低く咎める声が飛ぶ。電話の向こうで、姿月が慌てて彼をなだめた。「いいのよ、深雲さん。辰希くんはいつも真面目で、きっちりしているだけだもの。私の言い方が曖昧だったのよ」「……」辰希はきつく唇を結んだ。自分でも、なぜ急に腹が立ったのか、分からなかった。「辰希、姿月おばさんに謝りなさい」深雲は
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第177話

深雲は、半分ほど吸った煙草を、植木鉢の下に敷かれた石に強く押し付けて揉み消した。「あの女に何ができる。これはお前の努力の結晶だ。お前が、お前の得るべき利益を手にするんだ」深雲は果てしない夜の闇を見つめ、静かに続けた。「景凪のことは、お前が心配する必要はない……」……景凪が一心不乱に作業に打ち込んでいると、不意にドアをノックする音が響いた。強すぎず、弱すぎない音が三度。二秒ほどの間を置き、扉が開く気配がないのを見て、また三度。そのどこか可愛らしいノックの仕方に、景凪は思わず笑みを漏らした。彼女は立ち上がって、ドアを開けに向かう。案の定、そこに立っていたのは辰希だった。その手には分厚いプログラミングの本が抱えられている。景凪がちらりと表紙に目をやると、それは少なくとも修士課程レベルの専門書らしかった。辰希は少し気まずそうに、ぽりぽりと頭を掻いた。「ちょっと分からないところがあるんだけど、教えてくれる?」景凪は微笑んだ。「もちろんよ、辰希くん。ママはあなたのためなら、いつでも時間を作ってあげる」不思議なことに、彼女からそう呼ばれると、辰希は心地よく感じていた。景凪は辰希を部屋に招き入れた。辰希が小さなソファに腰掛けると、景凪はその隣に座り、彼が分からない箇所を辛抱強く説明していく。時には紙に、明快な思考の道筋を書き出しながら。彼女は知っている。辰希は十分に賢く、多くのことは独学だけで本質を掴めることを。だから彼女は、最終的な答えを教えるのではない。その根底にあるロジックを教えるのだ。辰希もそれをすぐに理解し、そのロジックを元に、次々と応用さえしてみせる。「すごいわ、辰希くん」景凪は思わず彼の額に口づけをした。「ママはあなたを誇りに思うわ」辰希は一瞬、固まった。彼は清音とは正反対で、体に触れられるのがあまり好きではない。普段、父たちにどれだけ褒められても、頭を撫でられるくらいが関の山だ。景凪が不意にキスをしたことで、辰希は耳を熱くさせ、居心地悪そうに身じろぎして少しだけ隣にずれた。だが、それ以上は離れなかった。「……いきなりキスしないでよ」言い終えてから、自分の態度が少し冷たすぎたように感じたのだろう。「パパたちはこんなことしないのに」と、彼は付け加えた。その仕草が愛おしくて、景凪の心は蕩けてしまいそう
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第178話

「……」景凪は一瞬、言葉に詰まった。息子の眼差しに、胸が張り裂けてしまいそうだった。景凪はゆっくりと歩み寄り、辰希の肩に手を置くと、彼の目の前で屈み込んだ。「辰希、これはね、パパとママの問題なの。私たち大人に任せてくれる?」景凪は彼に約束するように言った。「でも、一つだけ、ママはあなたに約束するわ。ママは、あなたと清音を愛してる。その気持ちは、絶対に変わらない。パパだって、同じようにあなたたちを愛しているのよ」深雲との間の愛憎劇は、二人の子供には関係ない。景凪は手を伸ばし、辰希の愛らしい頬をそっと撫でた。目頭が、じんと熱くなる。「もし五年前の、あなたたちを産んだあの日に戻れたとしても……ママは、迷わずあなたたちを守ることを選ぶわ」どんなことがあっても、彼らを産んだことを後悔していない。たとえそのために五年という月日を失い、植物人間として過ごすことになったとしても、後悔したことなんて、一秒だってないのだ。「……」辰希は、そっと小さな手を伸ばすと、景凪の頬を伝う涙を拭った。景凪は優しく彼に微笑みかける。「ほら、もう遅いから。お部屋に戻ってお休みの準備をしなくちゃ。明日も学校でしょう?」辰希はドアまで歩いて行くと、不意に何かを思い出したように、景凪を振り返った。「来週、学校で親子参加のイベントがあるんだ……もし、すっごく暇だったら、来てもいい」彼は早口にそれだけ言うと、景凪の返事も待たずに、駆け出してしまった。息子の後ろ姿を見送り、景凪は思わず笑みをこぼす。胸の奥が、どうしようもなく甘く、温かいもので満たされていった。愛しい我が子が誘ってくれたのだ。行かないわけがない。辰希が部屋を出て行った後、景凪はやりかけの仕事を片付け、出勤時間になれば自動で詩由の業務用メールに届くよう、送信予約を設定した。それを終えるとパソコンを閉じ、シャワーを浴びる。パジャマ姿でバスルームから出たところで、ドアをノックする音が聞こえた。てっきりまた辰希が来たのだと思い、景凪は笑みを浮かべてドアを開ける。しかし、そこに立ちはだかっていたのは……鷹野深雲。まるで目の前にそびえる山のように、その高大な身体が重い威圧感を放っていた。彼は伏し目がちに、じっと景凪を見下ろしている。その目尻は、微かに充血していた。景凪の顔からすっと
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第179話

呆れて笑いがこみ上げてくる。一体いつ、この十数年の間で、あなたが私を甘やかしたことがあったというの?景凪がそう問い質すよりも早く、男の大きな手が、細くか弱い彼女のうなじを鷲掴みにした。不意を突かれ、抵抗する間もなく、景凪は深雲の目の前へとぐいっと引き寄せられる。「……っ!」思わず息を呑むほどの痛みに、景凪は背後で手探りする。指先が、金属製の小さなオブジェに触れた。「深雲、痛いって言ってるでしょ!」声を押し殺して警告する。その瞳の奥に、じりじりと怒りの炎が燃え上がっていた。騒ぎは大きくしたくない。子供たちはまだ眠っていないかもしれない。どんな男でも、深雲は二人の父親なのだ。両親の醜い争う姿など、絶対に見せたくはなかった。それに、階下には桃子さんもいる。彼女は間違いなく、典子の目なのだから。「痛い?」深雲は、不意に笑った。酩酊するほどのアルコール量ではない。だが、それは彼の抑制と忍耐を溶かすには十分すぎた。「景凪」深雲はゆっくりと顔を近づけ、熱い吐息を彼女の顔に吹きかける。その声は、獣のように嗄れていた。「駆け引きごっこはもううんざりだ。いい子だから、これで終わりにしようぜ」あまりの言い草に、景凪は乾いた笑いを漏らした。この期に及んで、まだ私が彼と痴話喧嘩の真似事をしているとでも思っているなんて……!景凪はぐっと息を堪えた。片手で深雲の胸を押し返し、もう片方の手はだらりと下げたまま、なおも固く金属のオブジェを握りしめている。「深雲、あなた酔ってるわ」できるだけ平静を装った声で言う。「桃子さんに頼んで、酔い覚ましのお茶を……」「桃子さんを呼ぶ?」酔いの滲む深い瞳で、深雲は彼女を射抜くように見つめる。口元は笑っているのに、その目には一片の笑みもない。「じゃあ、お前は?」シャワーを浴びたばかりの彼女からは、湯上がりの清潔な香りが立ち上り、それが体温で温められて、たまらなく官能的だった。深雲の喉仏が、小さく上下する。「景凪……今度は、どうやって俺を『介抱』してくれるんだ?」うなじに置かれた手が、華奢な背骨に沿ってゆっくりと下っていく。まるで骨の一本一本を数えるように、なぞり、探っていく感触。景凪の腕に、ぶわりと鳥肌が立った。深雲の瞳の奥に宿る、どろりとした濃い欲の色。それが、生理的な吐き気を催さ
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第180話

「景凪、そんなことして、楽しいのか?」深雲の瞳に宿っていた熱がすっと引き、彼は眉を顰めて彼女を見つめた。景凪は、深雲の瞳に、紛れもない嫌悪の色が浮かぶのを見た。まるで自分が、人殺しでもしろとでも言ったかのような、彼のその眼差し。彼女はふっと目を伏せ、乾いた笑みを漏らした。「どうせできないくせに、どうして聞いたの?」その声は、羽のように軽く、氷のように冷たかった。「……」深雲の顔から完全に血の気が引いた。彼は、まるで知らない女でも見るかのように、信じられないといった眼差しを彼女に向ける。「お前……どうしてそんな女になった?」その言葉に、景凪は喉元までこみ上げてきた怒鳴り声を、必死に飲み込んだ。一体誰が、私をこんな女にしたというの?誰が、私の心をすり減らし、こんな姿にまで追い詰めたの!?どの面下げて、そんな失望した顔を私に向けられるっていうの?……だが、そんな言葉を、一度も自分を愛したことのない男にぶつけたところで、何の意味があるというのか。ただ、ヒステリックに喚き散らす狂人のように見えるだけだ。彼女は分かっていた。深雲が子供たちを連れて帰ってきた後、桃子さんがデザートの件を尋ねないはずがない。あれは自分が子供たちのために用意したものだと、伝えていないはずがない。深雲は、きっと全てを知っている。知っていて、気にも留めなかっただけだ。「くっ……」その時、深雲の整った顔が、さっと青ざめた。彼は片手で胃のあたりを押さえ、くの字に体を折り曲げる。景凪には、すぐに分かった。彼の持病の胃痛がまた始まったのだ。彼の胃痛は先天性で、根治は難しい。かつて、景凪はその胃痛を治すために心血を注いだ。彼の体を気遣い、自ら薬を試しては吐き気と下痢に苦しみ、そうしてようやく彼の胃の調子を安定させることができたのだ。出産を数日後に控えた時も、万が一、自分に何かあった時のためにと、馴染みの薬局に数種類の処方箋を預け、十年分のお金を前払いし、毎月決まった日に五服分の薬を調合して屋敷に届けるよう、手配までしていた……「景凪」深雲は無意識に彼女の腕を掴み、痛みに呻く。「……胃が、痛い」彼にとって、それが当たり前だったのだ。どんな時でも、景凪がいれば、口を開きさえすれば、彼女がすべてを完璧に解決してくれる。景凪が植物状態となり、彼
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