All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

まだ幼いとはいえ、辰希の纏う空気は大人さえ圧倒するほどの威厳を放っている。辰希は冷たい視線で目の前の男の子を睨みつけたまま、何も言わない。ただ一歩、また一歩と距離を詰め、じりじりと部屋の中へと押し戻していく。「お兄ちゃん!」辰希の姿を見て、清音は俄然、強気になった。「お兄ちゃん、早く耀くんのランドセル取って!その中に、弥生ちゃんのぬいぐるみが入ってるの!」辰希は、清音の背後に隠れる弥生に一瞥をくれると、再び目の前の男の子に向き直った。「ランドセル」すっと手を差し出す。幼いながらも、その声には有無を言わせぬ凄みがあった。耀は完全に気圧され、震える手でランドセルを差し出そうとする。その瞬間、亜紀が矢のような速さで駆け寄り、息子ごとランドセルを懐に抱き込んで庇った。「なによ!寄ってたかって、うちの子をいじめる気!?」口ではそう威勢よく叫ぶものの、息子の性格を一番よく知る彼女の瞳は、どこか泳いでいた。「亜紀さん」森屋先生が前に進み出た。「でしたら、耀くんのランドセルの中を調べさせていただけますか。本当に弥生ちゃんのぬいぐるみが入っているかどうか、確認しましょう」「な、なんでうちの子のランドセルをあんたたちに見せなきゃいけないのよ!これは私物よ!あんたたちこそ、うちの子を脅かすのはやめなさい!もしこのことで耀の繊細な心に傷でもついたら、承知しないわよ!」亜紀が、虚勢を張って叫ぶ。一方、傍らにいた莉奈は、ことの次第を察していた。防犯カメラには清音が手を上げる場面が映っていたが、自分たちの息子も、負けじと殴り返していたのだ。ただ、勝てなかっただけで。しかし、二人で共謀して他の子をいじめ、金品を脅し取っていたとなれば、話は全く別だ。問題はより深刻になる。園が本格的に調査に乗り出せば、本当に退園させられかねない。莉奈は息子の手を引くと、こっそりとその場を立ち去ろうとした。だが、二歩も進まないうちに、その行く手を景凪に阻まれた。「亜紀さん、莉奈さん。保護者同士、少しよろしいでしょうか」景凪は微笑みを浮かべていた。彼女は元々、人を寄せ付けないような険しさがなく、整った顔立ちをしている。その上、痩身なせいもあってか、笑うとどこか儚げで、か弱い印象さえ与えた。亜紀と莉奈は顔を見合わせる。彼女が何を言い出すのか、その魂胆を探るよう
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第302話

亜紀と莉奈は、どちらもばつが悪そうな顔で息子の腕を掴むと、弥生の前に立たせて無理やり頭を下げさせた。そして、これからは仲良くするようにと約束させた。弥生は戸惑ったように、無意識に清音のほうを見た。清音はぐいっと袖をまくり、ぷにぷにとした腕と小さな拳を見せつける。彼女の警告は、至極シンプルかつ乱暴だった。「もういっぺん誰かをいじめたら、またぶん殴ってやるから!」亜紀と莉奈はそれ以上何も言えず、そそくさと息子たちを連れて部屋を出て行った。その時、いかにも真面目そうで気の弱そうな、一人の女性が慌てて部屋に駆け込んできた。ようやく一件落着し、森屋先生も心から安堵の息をついた。「景凪さん、今回は本当に助かりました……あの方たちに、一体どんなお話をされたんですか」 好奇心を隠しきれない様子で、森屋先生が尋ねる。景凪は穏やかに微笑んで答えた。「道理を説いただけですわ」その言葉を先生は素直に受け取ったようだが、隣に立つ郁夫が信じるはずもなかった。職員室を出てから、郁夫が声を潜めて問いかける。「なあ、一体何を言ったんだ?あのお母さんたちが素直に謝るなんて。清音ちゃんのこともお咎めなしにするなんてさ」景凪は口元に人差し指を当て、悪戯っぽく目を細めた。「ご主人たちのことを少し調べさせてもらった、って伝えただけよ。ひとりの旦那様は局長選の真っ最中、もうひとりは政府関係者。そして私、都合のいいことに記者に知り合いが多いの」そして、こう囁きかける。「……こんな肝心な時期に、『自分の息子が長期間いじめをしていた』なんてスキャンダルが表沙汰になったら?旦那様のライバルたちが、この美味しいネタを見逃すと思う?」夫の稼ぎに頼って生活する彼女たちにとって、子供の教育は最優先事項。その監督不行き届きを夫に責められることこそが、何よりの恐怖なのだ。景凪は、その弱点を的確に突いたのである。その鮮やかな手際に、郁夫は思わず感嘆の笑みを漏らした。校門を出る頃には、空はすっかり暮れなずんでいた。弥生が清音の手を引いて歩き、辰希は少し離れた場所をひとりで歩きながら、時折、郁夫に鋭い視線を送っている。一台の黒いワゴン車が路肩に停まっていた。片目を潰した男が煙草を咥え、いらだたしげに待っていたが、弥生の姿を認めると、それを地面に投げ捨て、靴の裏でぐり
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第303話

パパはいつもは優しいけど、一度怒り出すと、本当に怖い。清音はびくっと首をすくめ、怖くなってお兄ちゃんの腕にしがみついた。「辰希、清音を連れて先に車に乗ってなさい」 その時、景凪はあくまでも優しい声で言った。どんなに醜く憎み合おうとも、子供たちの前でだけは、あさましい姿を晒したくはなかった。辰希が清音を連れて車に乗り込み、走り去っていくと、景凪の瞳からすうっと温度が消え失せる。憎悪に満ちた顔で近づいてくる深雲を見て、郁夫は眉をひそめ、景凪をかばうようにその前に立った。深雲は、郁夫に殺気立った視線を向ける。「なんだ、この前殴られただけじゃ足りなかったか?まだ俺の妻に付きまとっているとはな!」郁夫は冷たく言い返した。「まず、景凪はあんたに離婚を突きつけてる。次に、暴力でしか物事を解決できない男なんて、未開のゴリラとどこが違う?」「俺が同意しない限り、離婚など成立するものか!」深雲は一歩前に出ると、怒りに燃える郁夫の顔を冷ややかに見据え、それから景凪にちらりと目をやり、不意に、底意地の悪い笑みを浮かべた。「景凪が惨めに俺に媚びへつらい、愛してくれと乞い、キスをしてベッドに入った時、あんたがどこにいたっていうんだ……?」そのあまりに軽薄で、過去を冒涜するような物言いに、郁夫はもう耐えられなかった。よくも……!「黙れっ!」郁夫の拳が深雲の顔めがけて飛んだ。だが深雲は素早くそれをかわし、逆に郁夫は勢い余って体勢を崩し、危うく転びそうになる。深雲は鼻で笑う。「景凪、お前も男の趣味が落ちたものだな。この俺と付き合ったあとで、よくもまあこんな男に目が向く。忘れたのか?お前が俺の腕の中で乱れながら、一生愛してるって誓ったのを」かつて彼女が捧げた愛のすべてが、今や深雲によって、彼女自身を辱めるための刃と化していた。彼の心の奥底では、景凪が以前のように怒り、屈辱に身を震わせることを、暗く期待していた。彼によって感情をかき乱される姿を、たとえそれが苦痛に歪む顔であっても、見たくてたまらなかったのだ。だが今回、景凪はただ、冷え切った嫌悪の眼差しを彼に向けるだけだった。「鷹野深雲。ベッドの上でのこと以外に、何か新しい手札はないのかしら?あの二年間は、そうね……犬にでも噛まれたと思っておくわ」彼女は追い打ちをかけるように、嘲るよ
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第304話

深雲は眉根を寄せた。その瞳の奥には、深く濃い、どうしようもなさのような色が浮かんでいる。「お前が目覚めてから妙だったのは、やはり姿月のせいだったんだな」彼は冷え冷えとした眼差しで景凪を見据え、失望を隠しもせずに言った。「だったら、斯礼が俺を脅すのに使っている写真やデータも、お前が渡したのか?」今夜、斯礼からコピーが送られてきたのだ。彼と姿月の親密な写真、メッセージのやり取り……斯礼はそれを盾に、取締役会から手を引けと脅してきた。深雲が森屋先生からの電話に出られなかったのも、この件の対応に追われていたからだ。やはりこいつは、愛が憎しみに、嫉妬に変わり、俺に復讐しているのか――そう思い至った瞬間、深雲の胸には怒りではなく、得体の知れない優越感のようなものが、わずかに芽生えていた。彼はシガレットケースを取り出すと、慣れた手つきで一本を弾き出し、口の端に咥える。そして、顔を伏せて火を点した。深雲は深く煙を吸い込むと、白い煙をゆるやかに吐き出した。煙の向こうから、その甘い眼差しで景凪を見据える。「姿月とは、一度も寝ていない」彼は事実を告げるように、淡々と言った。「たしかに、あいつは俺にとって特別な存在だ。お前が思う以上に気もかけている。だがそれは、あいつが俺の命の恩人だからだ。それに、清音と辰希にもよくしてくれている……お前という母親の不在を、あいつが埋めてくれたんだ!その点では、お前はあいつに感謝すべきだろう」人は、呆れが極まると、笑いがこみ上げてくるものらしい。景凪は、いかにも自分が正しいとでも言いたげな深雲の愚かな様を見て、もはや失望すらしなかった。こんな愚か者……小林姿月にいいように手玉に取られていればいいわ。「私の子供たちに、あの女の世話など必要かしら?鷹野家の方々は皆様お亡くなりにでもなって、たかが秘書ひとりに、大事な血筋の面倒を見させるしかないとでも言うの?!」耳に突き刺さるような言葉に、深雲の目元が冷たく険しくなる。「景凪、言葉に気をつけろ。鷹野の人間は、お前の家族でもあるんだぞ!」景凪は堪えきれずに、体を震わせて笑った。「家族?あなたのご家族は、泥棒でも見るような目で私を警戒し、私を召使いのようにこき使ったわ。執事ごときにまで顎で使われて……それが家族ですって?ねえ、もし伊雲さんが嫁ぎ先で同じ目に遭
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第305話

それにもうひとつ、ふたりの子供たちの存在があった。子供たちの前では、深雲はいつも良き父親を演じている。だからこそ、あまりに醜い争いはしたくなかった。自らが経験した辛い子供時代は、今も悪夢のように付きまとってくる。自分の子供たちにだけは、決して同じ思いをさせたくなかったのだ景凪はひとつ軽く息を吸って感情を整えると、去り際に最後の言葉を投げつけた。「1億2千円、明日までに私の口座に振り込んでおいて」景凪の目には、あからさまな侮蔑の色が浮かんでいた。「私のカードを凍結させておいて、業界から私を干そうだなんて……鷹野深雲、その幼稚さには吐き気がするわ!」そう言い残すと、景凪はもう振り返ることなく歩き去った。深雲は景凪の言葉を恐れて、それ以上追うことができなかった。車に戻ったものの、すぐにエンジンをかける気にはなれない。頭の中では、景凪の怒りに満ちた非難の声が何度も繰り返される。「私のカードを凍結させておいて、業界から私を干そうだなんて……鷹野深雲、その幼稚さには吐き気がするわ!」深雲は眉を寄せ、不快に顔をしかめた。たしかに景凪のカードは凍結させた。だが、業界から干す?そんな濡れ衣は着せられてたまるか!どこのどいつだ、俺に罪をなすりつけやがったのは……!ヴーッ、ヴーッ――その時、一本の電話が滑り込んできた。周藤暮翔からだった。深雲は通話ボタンを押し、声には苛立ちを滲ませる。「……何だ」その声色だけで、暮翔はすぐに深雲の機嫌が悪いことを察した。「深雲さん、飲みに行こうぜ。皆でパーッとやって、気晴らししなよ!」「今は無理だ」深雲はそう言って通話を切ろうとしたが、ふと何かに気づき、焦ったように問い詰めた。「研時は、そこにいるか?」「いるぜ、研時さんなら今飲んでっけど!」深雲は深く息を吸い込む。「住所を送れ。すぐに行く」景凪を業界から干せるだけの力を持ち、鷹野家にも一切忖度しない人物……陸野研時か!暮翔から送られてきた住所を受け取ると、深雲はほとんどアクセルを踏みっぱなしでその場所へと駆けつけた。彼らのような御曹司たちが集う、豪華な会員制ラウンジの個室。深雲がたどり着いた時、ちょうどボーイが酒を運び終え、部屋から出てくるところだった。「鷹野様」 ボーイは深雲の顔を知っており、恭
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第306話

部屋は水を打ったように静まり返り、誰もが顔を見合わせる。気まずく、そしてどこか剣呑な空気に変わった。深雲は人前で感情を露わにすることなど滅多にない。少なくともこの仲間たちの前では、いつも一番落ち着いていて、付き合いやすい男だった。そして、十年来の付き合いになる研時とは、一度だって本気で揉めたことなどなかった。だが、今のこの光景は……誰の目にも、深雲が怒りの沸点に達しているのが明らかだった。その全身から放たれる威圧感は、肌がひりつくほどだ。襟首を掴む手には青筋が浮かび上がり、次の瞬間には拳が飛んでもおかしくなかった。研時も、親友であるはずの深雲がここまであからさまに敵意を向けてくるのは初めてのことで、一瞬、反応ができなかった。手から滑り落ちたグラスがソファに落ち、深紅の液体が本革にじわりと染み込んでいく様は、まるで血の染みのようだった。彼は目の前で怒りに燃える深雲の顔を睨みつけ、逆上した。その腕を荒々しく振りほどき、顔を怒りに染める。「深雲、てめえ、頭を冷やせ!俺はお前のためを思ってやったんだろうが!それが何だ、あんな女のために、この俺とやり合うってのか?」そう問いかけながら、研時自身、その状況がおかしくてたまらなかった。穂坂景凪がどんな女で、深雲の中でどれほどの価値しかない存在か。この部屋にいる誰もが知っている。ここにいる誰ひとり、彼女に劣る者などいやしないというのに!深雲の昏い眼差しが、研時の顔に突き刺さる。その呼吸は、一息ごとに重くなっていく。「言ったはずだ。やりすぎるなと。あいつは、俺の妻だ!」研時は、それを聞いて笑い出した。「深雲、お前、今日は飲む前から酔ってんのか?『鷹野深雲の妻』なんて肩書きが、あの女の頭に乗っかったところで、鷹野家の犬一匹ほどの値打ちもありゃしね……」「黙れっ!」深雲のこめかみの血管が、ぶちりと音を立てて切れ飛んだ。怒りの炎が理性を焼き尽くし、彼の重い拳が、研時の顔面に叩き込まれた。不意の一撃によろめいた研時も、元より気の短い男だ。カッと目が血走り、深雲めがけて拳を振り上げる。「俺を殴ったな!?あのクソ女のために、長年のダチであるこの俺を、てめえは殴ったのかよ、鷹野深雲!」ふたりはもみ合い、殴り合いの乱闘になった。あたりは一瞬にして修羅場と化す。暮翔と残りの数人は完
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第307話

そうだ。あの数年間、景凪を一番深く傷つけてきたのは……いつだって、この俺自身だった。あいつの愛に胡座をかいて、その献身を、当然のように享受してきた。何より滑稽なのは、その事実を誰よりも分かっていながら、ただ目を背けてきただけだということ。深雲は固く目を閉じた。まるで全身の血を抜き取られたかのように力が抜け、怒りを感じることさえできなくなっていく。彼はもう何も言わなかった。ただ、ドアを叩きつけるようにして出て行った。「深雲さん!」暮翔は心配になって、後を追おうとする。だが、研時に呼び止められた。「どこへ行く気だ?お前も殴られたいのか?」研時は切れた口の端に触れて小さく顔をしかめると、テーブルに残っていた酒瓶を掴み、直接口をつけて煽った。喉までせり上がってきた怒りを、無理やりそれで流し込む。「部屋を変えるぞ。お前ら、飲み直すぞ!」研時はそう言い放った。「今夜はとことん付き合ってもらうぜ、潰れるまでだ!」いつか、深雲と仲違いする日が来るかもしれないとは思っていた。だが、それがまさか、あの芋くさい女のためだなんて、想像もしていなかった。研時の脳裏に、姿月の優しい笑顔が浮かぶ。彼は、苦々しい思いで酒を呷った。姿月みたいないい子がそばで待っててくれてるっていうのに、なぜ深雲は、景凪みたいな女にどんどん興味を持つようになっていくのか。研時は眉をひそめた。深雲の奴は、どうかしちまったに違いない。……深雲はヴィラへと車を飛ばしていた。道中、研時の言葉が呪いのように頭の中をぐるぐると回り続けている。考えれば考えるほど腹が立ち、深雲はハンドルに拳を叩きつけた。けたたましいクラクションの音が鳴り響く。前の車の運転手が窓から顔を出して何かをわめき立てた。「んだよ、このクソが!急かすんじゃねえよ、くそベントレーが偉いのか!赤信号だろうが、見えねえのか!」運転手はひとしきり罵ったが、後ろの車から何の反応もないのを見て、ようやく車内に頭を引っ込めた。だが、そんな罵声は深雲の耳には届いていなかった。彼は自分の思考の渦に沈み込んでいた。閉ざされた車内には、彼の抑えつけられた、重い息遣いだけが満ちている。俺は、景凪を愛しているのか――?実のところ、そんな問いを真剣に考えたことなどなかった。研時たちに聞かれた時
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第308話

夜更けに、深雲が帰宅した。玄関のドアが乱暴に閉まる音に気づき、奥の部屋から桃子が出てくる。昨日一日、休みをもらっていた彼女は、今日からまたこの屋敷に戻っていたのだ。二人の子供たちが気掛かりだったこと、そして何より、自分以外の人間ではあの女狐――小林姿月の本性を見抜けないだろうという懸念。それに加え、典子様から三ヶ月分の給与に相当する破格の迷惑料を提示されたこともあり、桃子はこうして仕事に復帰したのである。内心はどうあれ、彼女はあくまで仕事人としての態度を崩さなかった。「深雲様、お帰りなさいませ。お子様方はもうお部屋におりますが……夕食はまだでいらっしゃいますか?何かお作りいたしましょうか……」「いらん」深雲は桃子に一瞥もくれず、冷たく言い放つと、そのまままっすぐ階段を上がっていった。その背中に向かって、桃子はこっそりと白目を剥く。結構ですこと。こっちだってお好きで給仕してるわけじゃないんだから、まったく。深雲はいつものように、帰宅してすぐに子供たちの部屋へ向かうことはなかった。彼が足を踏み入れたのは、景凪の書斎だった。部屋に残されていたのは、かつて彼女が使っていた数冊のノートだけ。景凪は、それ以外ほとんど何も持っていかずに、この家を出ていったのだ。深雲は、景凪のデスクトップパソコンの電源を入れた。 パスワードの入力画面が現れる。彼は、昔と同じように、景凪と初めて会った日付を打ち込んだ。だが、弾かれた。かすかに眉をひそめ、次は自分の誕生日を入れてみる。……違う。三度目。深雲は、二人の結婚記念日を試した。やはり、開かない。三回連続で間違えたことで、パソコンは完全にロックされてしまった。次に試せるのは二十四時間後だ。「……」苛立ちが募る。深雲が乱暴に椅子の背にもたれかかると、キャスターが滑り、すぐそばにあった小さな本棚にゴツンとぶつかった。その拍子に、彼の視線がそちらへ吸い寄せられる。本棚には、手作りのアルバムのようなものが何冊も、すき間なく詰め込まれている。深雲は立ち上がって近づき、その中から無造作に一冊を抜き取った。ページをめくると、そこには彼の記事の切り抜きが、一面に貼られていた。学生時代の小さなインタビュー記事から、雲天グループのトップに就任した時の華々しい特集記事まで……一冊、ま
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第309話

今こそ溜まりに溜まった奥様への同情と、この主人への不満をぶちまけてやろうと桃子が息を吸い込んだ、その矢先。深雲は彼女に反論の機会すら与えず、苦虫を噛み潰したような顔で踵を返してしまった。「聞くだけ聞いといて、本当のことを言われるのは嫌だなんて……」ドアを閉めながら、桃子は呆れて小さくぼやく。行き場のない怒りを抱えたまま、深雲は主寝室へ戻った。壁に掛けられたままのウェディングフォトが、やけに目に刺さる。写真の中の景凪は、花が咲いたように笑っている。だが、彼女が目覚めてから、こんな笑顔は一度だって見たことがない。深雲は衝動的にその写真を取り外すと、部屋の隅に投げ捨てた。視界から消してしまえば、心もかき乱されずに済む。シャワーを浴びて荒ぶる気持ちを無理やり鎮めると、彼はいつものように、子供たちの部屋へおやすみを言いに向かった。ドアを開けて中に入る。辰希はベッドにいなかった。部屋の奥にあるパソコンルームのドアが少しだけ開いており、そこからカチャカチャとメカニカルキーボードを叩く音がかすかに漏れてくる。一方、清音はベッドにうつ伏せになり、小さなスマートフォンを両手で持って、真剣な顔で文字を打ち込んでいた。傍らには電子辞書まで置いてある。知らない漢字を、いちいち調べているのだろう。その健気な様子から、深雲はすぐに察しがついた。また姿月とメッセージをやり取りしているのだ。清音は、昔から本当に姿月によく懐いていた。「清音」「パパ」深雲が入ってきたのに気づくと、清音は少し緊張したように、ぱっとスマートフォンを背中に隠した。深雲は、スマホの使いすぎを咎められるとでも思ったのだろうと、軽く考える。「姿月おばさんとメッセージかい?」「……うん」長いまつ毛を伏せ、清音は曖昧に答える。深雲は娘のそばへ歩み寄り、その小さな頭を撫でた。何を思ったのか、穏やかな声で言い聞かせる。「いいかい、これからはどこにいても、姿月おばさんのことをママって呼んじゃだめだ。お前には、ちゃんとお前のママがいるんだからな」「……うん、わかった」意外にも、清音は素直に頷いた。深雲は娘の額に唇を寄せた。「もう少し遊んだら、もう寝るんだぞ。姿月おばさんは明日、パパと大事な仕事の話があるんだ。あまり邪魔しちゃだめだよ」「うんうん」清音はこくりと頷く。
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第310話

「お前の口出しすることじゃない」深雲は低い声で息子を制した。「いいか、辰希。お前は鷹野家の跡継ぎだ。それだけは、決して変わらない」「でも……」「でもも何もない!」深雲は厳しく遮った。が、すぐに少しだけ表情を和らげる。「……もう寝なさい。明日の朝、パパは姿月おばさんを迎えに行く。仕事の話があるんだ。妹の面倒をちゃんと見て、学校に遅刻するなよ」そう言うと、深雲は一方的に背を向けた。その背中を見つめ、辰希は小さくため息をつく。固く握りしめていた拳の力を、そっと抜いた。彼は再び椅子によじ登ると、キーボードを数回叩く。すると、隠されていたチャット画面がポップアップした。相手は、K。辰希は顔を引き締め、いかにも不本意といった体で一行を打ち込んだ。辰希:【しょうがないから、君の叔父さんがママにアプローチするのを認めてあげる。先に彼の経歴書を送って。僕が審査しないと】夜の帳が下りた、街のもう片隅。洗面所から戻った景凪は、真っ先にスマートフォンを手に取った。そこには、清音からのメッセージが届いている。それを見て、彼女は思わず眉をひそめた。両親が亡くなった月を名前に……?信じられないわ、そんな縁起でもない名前をつけるなんて。【清音、弥生ちゃんのフルネームはなんて言うの?】今度は、ボイスメッセージが返ってきた。景凪は再生ボタンをタップし、スマホを耳に当てる。【もぉ、しつこいなぁ。そんなに知りたいなら、弥生ちゃんに直接聞けばいいじゃん!清音、もう寝るんだからねっ!】舌足らずな娘の不満げな声に、景凪の心はとろけるように甘くなる。くすっと笑って、彼女もボイスメッセージを返した。【おやすみ、清音ちゃん】続けて、辰希にもおやすみのメッセージを送る。時刻を確認する。事前に弁護士の桐谷然には連絡を入れてあった。この時間なら会議が終わり、電話に出られるはずだ。まずは礼儀として、電話をかけても大丈夫かショートメッセージを送ろうとした、その時。先に、然のほうから着信があった。「穂坂さん」深夜まで多忙を極めるエリート特有の、少しも疲れを感じさせない活気に満ちた声だ。彼は単刀直入に切り出した。「離婚訴訟の準備は進んでいます。以前お伺いした通り、来週の株主総会後、鷹野深雲は取締役会から追い出される手はずです。こちら
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