鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました のすべてのチャプター: チャプター 391 - チャプター 400

457 チャプター

第391話

受話器の向こうで雪華が鼻を鳴らす。「焦るんじゃないの。深雲とあの女の離婚はもう決定事項なんだから。鷹野家の嫁の座は、半分手に入れたも同然でしょ」さらに雪華はたたみかける。「今の深雲は、あなたに借りがあると思ってるし、仕事でもあなたなしじゃ回らない状態だわ。『グリーンウォール計画』だって、あなたは核心のA班に招待されてるのよ。何を心配することがあるの?鷹野深雲と結婚するのは時間の問題よ」「グリーンウォール計画」のコアメンバーに抜擢されたことを思い出し、姿月は勝ち誇った笑みを深めた。穂坂景凪……ふん、何が天才よ。事前に瀬尾守を通じて探りを入れたが、A班のメンバーリストに景凪の名前は影も形もなかった。あの女、車田教授に媚びを売って擦り寄ったくせに、結局は核心メンバーにすら選ばれなかったのだ。そう思うと、愉快でたまらない。雪華の声が弾む。「明日の株主総会で、深雲はこの『グリーンウォール計画』を足がかりに、さらに上へと登り詰めるはずよ。執行取締役になれば、後ろ盾の明岳さんと合わせて、雲天グループは実質あの親子のものになるわ。その絶好のタイミングで嫁げば、あなたはグループの女帝として君臨できるのよ」雪華の計画には一点の曇りもない。「機は熟したわ。穂坂家の資産は、お父さんがきれいに洗浄し終わったからね。数兆円もの富が、今やすべて小林家のものよ!あなたがお嫁に行くときは、この北城中の女たちが嫉妬で狂うほどの持参金を用意してあげるから」そうなれば、小林家と鷹野家の結合は最強となる。姿月の笑みは、甘く愛らしい少女のそれでありながら、瞳の奥には底知れぬ悪意が宿っていた。「お母さん、もう一つ、欲しい嫁入り道具があるの」彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。「結婚のお祝いに、穂坂景凪の命が欲しいわ」……翌日。桐谷然は車を景凪のマンションの下に着け、彼女を待っていた。「桐谷先生」呼びかけられ、顔を上げる。その瞬間、数多の修羅場をくぐり抜けてきた弁護士の冷静な瞳が、驚きと感嘆に見開かれた。今日の景凪は、目の覚めるような深紅のドレスを纏っていた。体に美しくフィットしたその装いは、華やかでありながらも品がある。本来、赤という色は着る者を選ぶ。下手をすれば下品になりがちだが、彼女には驚くほど似合っていた。彼女の顔立ちが持つ清廉な透明感
続きを読む

第392話

海舟は思わず目をこする。それほどまでに、彼女の姿は衝撃的に美しかった。奥様……あんなに綺麗な方だったっけ?それにあのスタイル……反則だろ。あんなに華奢なのに、出るとこはしっかり出てるなんて。ふとバックミラーで後部座席を見る。そこには、ここ数日の寝不足がたたって目の下に隈を作り、顔色の冴えない深雲が座っていた。海舟は初めて思った。こと外見に関しては、今の社長は奥様に釣り合っていないのではないか、と。「社長、到着しました。奥様がお待ちです」深雲の視線もまた、景凪を捉えていた。その瞳の奥に、鮮烈で蠱惑的な赤色が焼き付く。彼は鼻で笑うように、短く息を吐いた。わざわざあんな派手な格好をしてくるとは。本気で離婚する気があるのか?それとも、土壇場で怖気づいて俺の気を引こうとしているのか?襟元を正し、ドアを開けて外に出る。景凪の元へと歩を進める間にも、周囲の通行人の視線が彼女に注がれているのが分かった。すれ違いざまに見惚れて、男二人が危うく正面衝突しそうになっている。近くで見ると、彼女のドレスはマーメイドラインを描くような胸元のデザインで、両肩から中央へ向かって滑らかにカットされていた。露出そのものは多くない。だが、その肌は絹ごし豆腐のように白く滑らかで、ドレスの赤との対比が艶かしさを際立たせている。隠されているからこそ、余計に想像を掻き立てるのだ。深雲は眉をひそめた。「なんだその格好は」言いかけた時、ペットボトルを二本持って歩いてくる桐谷の姿が目に入った。桐谷はわざわざ片方の蓋を開けてから、それを景凪に手渡している。景凪は何の気なしに受け取り、礼を言った。「ありがとう」「……」その光景を冷ややかな目で見つめながら、深雲の胸の内に得体の知れない苛立ちが渦巻く。彼は皮肉たっぷりに言い放った。「景凪……お前の男遍歴には感心するよ。どこへ行っても男に不自由しないようだな」影山悠斗、小池郁夫、黒瀬渡……そして今度は、桐谷然が影のように付き従っている。億単位の金を稼ぐ超一流弁護士を、ただの運転手代わりに使うとは。景凪は相手にする気も起きなかった。今日は記念すべき門出の日だ。深雲の心ない戯言で気分を害されるのなんてもってのほかだ。だが、然は黙っていなかった。「鷹野社長、朝は洗顔の前に歯磨きをお忘れなく」彼は
続きを読む

第393話

深雲がこうまで頑なに姿月の潔白を信じ込んでいるのなら、これ以上何を言っても無駄だ。景凪はそれ以上の議論を放棄し、スタスタと奥へ進んでいく。二人は離婚届の受付カウンターに並んで腰を下ろした。対応にあたった係員は、一瞬きょとんと目を丸くした。目の前には美男美女のカップル。特に女性の方は華やかに着飾り、その表情は晴れやかで、心の底から嬉しそうに微笑んでいる。どう見ても、これから離婚しようという夫婦の雰囲気ではない。係員は、二人が窓口を間違えているのだと思った。「あの、婚姻届の提出でしたら隣の窓口になりますが」景凪はにこりと笑ってパスポートを提示する。「いいえ、離婚届を出しに来たんです」深雲は彼女を睨みつけ、さらに不機嫌さを増した顔で自分の免許証を取り出し、カウンターに乱暴に叩きつけた。「景凪、後悔するなよ」景凪は彼を無視し、係員に向けてさらに眩しい笑顔を見せる。「すみません、手続きを急いでいただけますか」「……あ、はい」室内は、今にも氷点下になりそうな冷気を放つ男と、大輪の華が咲いたように晴れやかな女という、異様な対照をなしていた。係員は困惑し、二人を交互に見比べながらも、事務的に書類の確認を進めていく。不備なく記載された離婚届に、確認印が重く押された。最後に係員が控えの書類をまとめ、説明を始める。「ご存知かとは思いますが、念のため。離婚届は本日付で受理されますが、戸籍への反映には少し時間がかかります。もしもお気持ちが変わられた場合は……あっ」係員が言い終わるよりも早く、景凪は手渡された書類の控えを奪うように手に取った。そして、今後の手続きが記された説明書きを一切の迷いなく破り捨てる。「気が変わることなんて、絶対にありませんから」彼女はこれ以上ないほど晴れ晴れとした顔でそう告げると、自分の分の書類だけを手に取り、颯爽と席を立った。「……」係員は呆気にとられた。ここまで意志の固い離婚も珍しい。まあいい、自分の仕事は終わった。係員が、深雲の前に残された手続きの控えを回収しようと手を伸ばした、その時だ。骨ばった男の手が、それよりも早く、力任せに机の上の書類を押さえつけた。「?」係員は驚いて顔を上げる。「あの……鷹野様?」深雲は返事もせず、隣の「婚姻届」の窓口まで数歩で詰
続きを読む

第394話

数秒待っても海舟から返事がない。深雲が不審に思って顔を上げると、バックミラー越しに海舟と視線がかち合った。海舟は慌てて目を逸らし、前方の交差点を凝視しながら、取ってつけたような真顔で答える。「あ、はい。社長のこともお話しされていました」深雲は握っていたスマホを無意識に強く握りしめ、身を乗り出すようにして尋ねる。「なんて言っていた」海舟の強張った様子を見て取り、彼は平静を装って付け加えた。「正直に言え。怒ったりしない」「……」冗談じゃない。正直に言えるわけがないだろう。僕はまだ転職先も決まっていないんだ。あんな暴言をそのまま伝えて、自らクビを差し出すような真似ができるか。海舟は表情一つ変えず、すらすらと嘘を並べ立てた。「穂坂さんは、社長のことを『非常に優れたリーダーだから、しっかりついていきなさい』とおっしゃっていました。それから、『彼は胃が弱いから、食事の面など気遣ってあげてね』とも」「……」深雲は何も言わなかったが、その表情はあからさまに和らいでいた。やはり思った通りだ。たとえ離婚したとしても、彼女にとって俺は骨の髄まで愛した男なのだ。十五年という歳月は伊達じゃない。どんなに強がって未練がないふりをしたところで、そう簡単に断ち切れるものではないのだ。彼はふと、合点がいった。なぜ彼女が離婚協議書で財産のことばかり主張し、二人の子供の親権については一言も触れなかったのか。あんなに子供たちを愛していた彼女が……今なら分かる。彼女はあえて繋がりを残そうとしているのだ。俺たちが「子供たちの両親」であるという事実は、どう足掻いても変えられない。その絆さえあれば、一生関わり合い続けることができるからだ。俺に腹を立て、憎んでいても、結局は俺を愛してやまないのだ。深雲は窓を開け、流れ込む朝の冷たい風を浴びながら、ポケットからくしゃくしゃになった白紙の「婚姻届」を取り出した。穂坂景凪……今回は、そう簡単に逃してやるつもりはないからな。一方、その頃。然の運転する車内には、軽快なジャズの音色が流れていた。景凪の気分は最高だった。彼女は手元の離婚証明書をスマホで撮影すると、即座に親友の千代へと送信する。続いて証明書と一緒に自撮りを一枚。それをそのままSNSのタイムラインに投稿した。添えた言葉は、たったの二文字。
続きを読む

第395話

もっとも、辰希がわざわざ電話をしてきたのは、ただそのことを伝えるためだけではないと察していた。「辰希、ほかにママに聞きたいことがあるんじゃない」辰希は数秒ためらってから、ついに本題を切り出した。「ママとパパ、もう離婚したの?」「そうよ」景凪は一瞬の迷いもなく、事実を認めた。一方その頃。辰希の横には、清音が座っていた。彼女は兄の手をぎゅっと握りしめ、自分にも片方のイヤホンを差し込んで会話に聞き耳を立てていたのだ。『パパとママは離縁した』……その言葉は、彼女の耳にはっきりと届いていた。清音はむちっとした腕で、抱きかかえたぬいぐるみをさらに強く締め上げる。黒葡萄のような大きな瞳は、不安と恐怖で揺らいでいた。姿月ママの言った通りだわ。パパとママ、やっぱり別れちゃった。だから……景凪っていう本当のママは、私を捨てるんだ。これから新しい子供を作って、私のことなんかいらなくなるんだ……突然、清音は乱暴にイヤホンを引き抜くと、怒ったように兄へ押し付けた。そしてぬいぐるみを抱えたまま、むすっとしてそっぽを向いてしまう。辰希は妹の突然の態度の変化に戸惑いながらも、なだめるようにその頭を優しく撫でた。片方のイヤホンからは、景凪の声が続いている。「辰希、パパとはまだ話し合わなきゃいけないことがあるの。ちゃんと話がついたら、あなたと清音に結果を伝えるから。ね、いいでしょう」離婚はあくまで彼女と深雲の問題だ。たとえ彼とどれだけ泥沼の争いになろうとも、子供たちを巻き込みたくはないし、二人の心に暗い影を落とすことだけは避けたかった。「うん」辰希は静かに頷いた。伏し目がちに唇を引き結んでいたが、ふと口を開く。「ママ……」「なあに」彼は声を潜めて言った。「僕はママの味方だから。知ってるんだ……パパも、家のほかの人たちも、ママに冷たくしてたこと」清音は何も知らないし、知ったとしても理解できないだろう。けれど、辰希は違う。周囲の大人たちは最近の鷹野家の事情を隠そうとしていたが、彼のようなコンピュータの天才が本気で調べようと思えば、誰にも止められないのだから……息子からの思いがけない言葉に、景凪は鼻の奥がつんと熱くなり、あやうく涙がこぼれそうになった。彼女は必死に涙を堪え、平静を装って答える。「ありがとう、辰
続きを読む

第396話

然は車を西都製薬ビルのエントランス前に横付けした。離婚したとはいえ、仕事は仕事だ。今日も出勤しなければならない。「穂坂さん」車を降り、ビルの入り口へ向かおうとする彼女を、窓枠に肘をついた然が呼び止める。「明日の午後に行われる第一回口頭弁論ですが、即決することはありません。わざわざ時間を割いてお越しいただく必要はないかと。私のほうで代理人として処理しておきますよ」何度か深雲とやり取りをして感じたことだが、あの男の精神状態は少々不安定だ。見てくれは立派だが、どうも情緒にムラがありすぎる。今日の離婚手続きの際も、あれはとても、後腐れなく綺麗に別れようという人間の態度ではなかった。あるいは、そもそも彼自身がこの離婚を現実のものとして受け止めていないのかもしれない。景凪の身の安全を考えると、明日の法廷で深雲と顔を合わせるのは避けたほうが無難だろう。彼女も然の意図を汲み取ったのか、素直に頷いた。「わかったわ、連絡待ってる」餅は餅屋だ。法的な争い事は、プロである彼に任せるのが一番である。「それじゃあ」と然に別れを告げ、彼女が社屋へ足を踏み入れようとした、その時だった。「景凪さん」声をかけられ振り返ると、外回りを終えたばかりなのか、両手にコーヒーカップを持った凛が立っていた。凛は持っていた片方のラテを景凪に差し出す。「これ、ちょうどあんたに買ったやつ」彼女もすでに景凪のSNSを見ていたらしい。心からの祝福を口にする。「おめでとう。離婚成立、よかったじゃない」「ありがとうございます、凛さん」景凪はにっこりと笑ってカップを受け取った。元来の整った目鼻立ちが、笑顔でさらに華やぎ、生き生きとした輝きを放つ。その美しさには、同性の凛でさえ思わず見惚れてしまうほどだ。「つくづく思うけど、鷹野深雲にはもったいない女だよ、あんたは」凛はしみじみと言ってから、ふといたずらっぽい笑みを浮かべた。先ほど景凪がベンツから降りてくる姿を、十メートルほど手前から目撃していたのだ。「で?送ってくれたあの車の人、新しい彼氏?」景凪は苦笑する。「やめてくださいよ。あれは私の離婚担当弁護士、桐谷然さんです」その名を聞いた瞬間、凛の表情が険しくなった。「えっ、桐谷然ってあの?……景凪さん、あの男には気をつけなさいよ」凛は声を潜める。「確かに
続きを読む

第397話

彼は単に彼女が離婚するのを待っていたわけではない。彼女の心の中から、夫という存在が消え、その席が空くのをひたすら待ち続けていたのだ……事実に気づいた瞬間、然はヒュッと息を飲んだ。恐ろしい男だ。あそこまでの偏執的な独占欲を持ちながら、ここまでの忍耐力を併せ持っているなんて……「景凪が雲天グループに私物を残している。回収してこい」電話口の渡は、淡々と、しかし絶対的な命令を下した。然は困り果てた声を出す。「いや、黒瀬社長。そうはおっしゃいますが、私一人で乗り込むのはさすがに……」「窓の外を見ろ」言われるがままに視線を外へ向けると、然の車の左右を固めるように、十数台の黒塗りのセダンが隊列を組んで並走していた。「……」然は生唾を飲み下し、即座に腹をくくった。「了解です。今日中に運び出してまいります!」……一方、深雲は離婚手続きを終えた後、すぐには会社へ戻らなかった。彼は運転席の海舟に、病院へ向かうよう指示を出した。「承知しました」海舟は澄ました顔で答えたが、内心では盛大に毒づいていた。社長は本当に人を見る目がない。小林姿月ごときが奥様と比べ物になるはずがないだろう。……いや待てよ。そもそも社長ごときが奥様に釣り合うわけがないんだ。そう考えると、社長と小林姿月はお似合いのカップルと言えるんじゃないか?後部座席の深雲は、そんな秘書の失礼極まりない心中など露知らず、手元の離婚証明書を睨みつけながら考え込んでいた。脳裏には景凪の忠告が蘇っている。「彼女があなたを庇って硫酸を浴びたのは、それがただの希釈液で、大した怪我にならないと知っていたからよ」もしそれが事実なら、姿月はどうやってその情報を知ったのか。犯人とグルだったとしか考えられない……深雲は眉をひそめ、しばらく思案した末に、事件を担当している弁護士の斎藤啓明へ電話を入れた。「近いうちに矢崎拓海と面会できるよう手配しろ。もう一度俺が話を聞く」「承知しました。すぐに調整します」通話を終えた頃、車は病院に到着した。深雲が車を降りてエントランスへ向かうと、ちょうど姿月の主治医である佐伯医師と出くわした。「佐伯先生」「これは鷹野社長。小林さんの見舞いですか?彼女なら……」医師の言葉を遮り、深雲は単刀直入に問いかける。「先生、一つお聞きしたい
続きを読む

第398話

言いたいことは分かっていた。深雲は簡潔に告げる。「離婚は成立したよ。先ほど証明書も受け取ってきた」その言葉を聞いた瞬間、姿月は心の底から安堵のため息をついた。彼女の目元が優しく緩む。「そう……残念だったわね。景凪さん、見る目がないわ。あなたみたいな素敵な男性を手放すなんて、本当にもったいないことをしたわね」深雲は無言のまま手を伸ばし、彼女の髪を優しく整えた。「行こうか。車まで送るよ」彼は自ら姿月をエスコートして小林家の車に乗せ、雪華と共に送り出した。車が遠ざかるのを見届けると、深雲は踵を返し、再び病院内へと戻っていく。向かった先は佐伯医師の診察室だ。ちょうど電話を終え、部屋を出ようとしていた佐伯医師の前に立ちはだかった。「先生。さっきの質問にまだ答えてもらっていません。姿月が浴びた硫酸、その濃度は結局どれくらいだったのですか」佐伯は観念したように答える。「濃硫酸ですよ。当然、濃度は極めて高いものです。お召し物の生地が特殊だったおかげで助かりましたが、もし肌に直接かかっていたら……想像するだけで恐ろしいことになっていたでしょうな」果たしてそうだろうか……深雲は鵜呑みにせず、カマをかけてみることにした。「ですが、警察が現場に残された瓶を鑑定したところ、残留液の濃度はそれほど高くなかったという報告が上がっています。この矛盾はどう説明されますか」佐伯は平然と言い放つ。「それは警察側のミスでしょう。鑑定中に検体に何か混入したか、あるいは保管状況が悪かったか。とにかく、私が実際に拝見した衣服の焦げ方や、彼女の傷の状態から判断する限り、あれは間違いなく濃硫酸でしたよ!」医師としての自信に満ちた口調だ。ここまで断言されては、それ以上疑う余地はない。深雲の中にくすぶっていた疑惑は、ひとまず霧散した。「……わかりました。お忙しいところ失礼しました」深雲が背を向けて立ち去る。その足音が遠ざかると、佐伯は大きく息を吐き出し、すぐさま扉をロックした。窓辺へ歩み寄り、先ほど通話していた相手にリダイヤルする。「ええ、雪華さん。大丈夫です、うまく丸め込みましたから。ご安心を」通話を切り、佐伯はデスクの一番下の引き出しを開けた。そこには、分厚い封筒が三つ、鎮座していた……病院を出て車に乗り込んだ矢先、深雲のスマホが鳴った。弁護士の啓
続きを読む

第399話

深雲はオフィスに戻って椅子に腰を下ろしたばかりだったが、まともに息つく暇もなく、再び席を立って研究開発部へと急いだ。現場に到着すると、そこでは然の指揮のもと、黒服の屈強な男たちがせっせと機材を運び出している真っ最中だった。開発二部のフロアは、すでにもぬけの空に近い!「おい、そこ慎重にな。あの分析機は60億円するんだぞ」然が大声で指示を飛ばしている。深雲は顔色を変え、激昂した。「貴様ら、何をしている!やめろ!桐谷、どういうつもりだ!」怒声と共に詰め寄る深雲に対し、然は振り返りざま、慇懃無礼な笑みを浮かべてみせた。「やあ、鷹野社長。見ての通りですよ。あの機器は穂坂さんの私財ですからね。それに……」然は余裕しゃくしゃくで深雲の目の前まで歩み寄ると、あくまで笑顔を崩さず、しかし有無を言わせぬ口調で告げる。「私の調査によれば、ここの機材の多く……それこそデスクや椅子、事務用品に至るまで、帳簿上は穂坂さんの給与から天引きして購入したことになっていますよね?ですから、本日それらをすべて回収させていただきます」「……ッ」深雲は奥歯を噛み締めた。確かにその通りだ。当時、景凪はすでに彼の妻であり、衣食住は鷹野家が負担していた。給料を支払ったところで、家計の中で金が右から左へ移動するに過ぎない。それに、社長に就任したばかりの深雲は、会社の財務諸表やキャッシュフローを少しでも良く見せる必要があった。だから彼は景凪に『年俸20万円』を提示し、彼女もそれに同意したのだ。「基盤が安定したら、将来倍にして返すから」という約束で。だが、さすがに「嫁を年俸20万円でこき使っている」と世間に知られては、鷹野家の体面に関わる。そこで、帳簿上は正規の給与を支払ったことにし、同額を「景凪個人が研究開発に必要な備品や機材を購入し、会社に寄付(あるいは貸与)した」という形で処理していたのだ。これなら会社の経費も浮き、鷹野家の面目も保てる。一石二鳥の名案のはずだった。「思い出していただけましたか」深雲の顔色が土気色に変わっていくのを見て、然は楽しげに目を細めた。そして、深雲の耳元に顔を寄せ、低い声で囁く。「ちなみに社長、御社の警備員たちには手出し無用だと伝えておいたほうが身のためですよ。私が連れてきたのは黒瀬家の精鋭部隊です。中には、銃の携帯許可を持っている者
続きを読む

第400話

そして今、時効も過ぎ、全てが風化した頃を見計らって、彼は「神秘の富豪」「慈善家」「蒐集家」として華々しく表舞台に返り咲いたのだ。「景凪、恨みに生きてはいけないわ。復讐なんて考えちゃだめ。お母さんはただ、あなたが安全に、幸せに暮らしてくれればそれでいいの……」亡き母の言葉が蘇る。そして、祖父の言葉も。「目立ってはいけない。輝いてはいけない。「奴ら」に見つからないようにするんだ」祖父の言う「奴ら」とは、間違いなく克書と雪華、この人でなしの夫婦のことだ。景凪は掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。復讐もせず、奪われた一族のすべてを取り戻すこともせず、どうして自分だけがのうのうと幸せになどなれるだろうか。母は優しすぎた。そして弱すぎた。そのせいで心労を重ね、体を壊し、最後まであの裏切り者が戻ってくると信じたまま、若くしてこの世を去った。だが、私は違う。もう我慢なんてしない。怯えて隠れ住むなら、それは私ではない。私の復讐に怯えるべきなのは、あの人でなしの夫婦のほうだ!克書は今、身の潔白を装い、徐々に社会的露出を増やしている。次の公式スケジュールは……主催する慈善オークションパーティーか。景凪はその日付を脳裏に刻んだ。コンコン、とドアがノックされる。「景凪さん、いる?」凛の声だ。景凪は瞬時にブラウザを閉じ、深呼吸で表情を整えてからドアを開けた。「どうしました、凛さん」「あのね、グループチャットで返事がないから、見落としてるんじゃないかと思って。今日は三十分早く切り上げて、開発チームと上層部全員で食事に行くことになったわよ。『名月亭』でディナーだって。黒瀬社長の奢りで慰労会ですって!」「……は?」黒瀬渡が、奢り?プロジェクトはまだ終わってもいないのに、一体何の名目で?「何かお祝い事でもあったんですか」景凪が不思議そうに尋ねる。「さあね、私も詳しくは知らないわ。でも黒瀬社長のことだから、個人的に何かいいことでもあったんじゃない?ま、お一人様数十万円のコースがタダで食べられるんだから、行かなきゃ損でしょ。じゃあ、仕事が終わったら迎えに来るから。私の車で行きましょ」「はい、わかりました」凛が去り、景凪がオフィスへ戻ろうとした矢先、今度は然から着信が入った。「もしもし、桐谷先生」「穂坂さん、今少
続きを読む
前へ
1
...
3839404142
...
46
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status