All Chapters of 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの: Chapter 71 - Chapter 80

112 Chapters

夜明け前

佐山は薄闇の部屋に独り、ベッドの上で背中を壁に預けて座っていた。夜明け前の都市はすでに雨を上がらせていて、窓の外には高層ビルの影がぼんやりと浮かぶ。部屋の明かりは消したまま、スマートフォンの淡い光だけが佐山の指先と横顔を浮かび上がらせていた。手のひらに収まるスマホの画面には、佐伯からのメッセージが通知されている。「また会いたい」たったそれだけの短い文面。時間は深夜零時を過ぎている。佐山は指で画面をなぞり、既読にしないままそのまましばらく眺めていた。新しい通知が届く気配はない。未送信の履歴が下書きのまま何度も保存されていることも知っていた。佐伯の不器用な執着が、画面の端々から滲み出ている。微かに口元が緩んだ。けれど、それは愛情からくるものではない。佐伯がこちらに心を奪われていくのを感じるたび、計画の歯車が音もなく噛み合っていく確かな手応えに、満足の陰が浮かぶだけだった。画面をスクロールし、過去のやりとりを繰り返し読み返す。「今日は楽しかった」「次はもっと、二人きりで」淡白に装いながら、時折見せる佐伯の焦燥や欲望の色。それを引き出すことは、想像以上に容易だった。佐山はスマホをベッドサイドに置き、壁に頭を預ける。部屋の隅で冷えた空気が足元を撫でる。時計の針がゆっくり進んでいく音が、遠くに感じられた。佐伯の依存は、計画の推進力そのものだ。だが、そこには微かな危うさも潜んでいる。手のひらに残る佐伯の熱。行為の最中、身体を貫かれる痛みと快楽の入り混じる感触。自分が誰かに渇望されることに、嫌悪も、快楽も、どちらも混ざり合っているのをはっきりと自覚する。もし本当に自分がただの道具でしかないなら、これほど相手の反応に心が揺れたりはしないはずだ。佐伯からの通知を何度も読み返し、言葉にこめられた執着を味わい尽くそうとする。それでも、姉を奪われた夜から自分の内側は空洞のままだ。誰に抱かれても、どんな快楽を味わっても、その空虚さは少しも埋まらない。佐山は立ち上がると、カーテンの隙間から街を見下ろした。ビルの谷間を縫うように、夜明け前の微かな光が路面に滲む。まだ眠りにつくことのない都市の静けさ。歩道の上には、誰もいない。雨上がりの舗道にだ
last updateLast Updated : 2025-10-06
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止まらない欲望

朝の光が差し込むキッチンで、佐伯はコーヒーを淹れながら、何度もスマートフォンを見やった。目覚めて最初にしたのは、佐山からの連絡を確認することだった。だが通知欄は静まり返り、未読のままのチャット画面だけが彼の渇きを煽る。背後では美咲が食器棚を開ける音がした。その気配に反応しないふりをしながら、佐伯は自分の心がどこを向いているかを痛感した。通勤電車のなかでも、会議の合間にも、頭の片隅には佐山がいる。昨夜の手触り。ベッドで熱く絡み合い、何もかも奪い合うように抱き合った感触。それらが皮膚の奥に焼き付いて離れない。朝の光が白々と会社のフロアに差し込むころ、佐伯は自席に座りながらスマホを膝の上で握りしめていた。仕事の話もどこか上の空だった。部下からの相談も、社内の雑談も耳に入ってはこない。パソコンの画面を開いたまま、ふとチャットアプリを起動し、佐山との履歴を何度もスクロールする。「また会いたい」その五文字が頭のなかをぐるぐると回り続けている。いつから自分はここまで追う側になってしまったのか。わかっていながら、後戻りはできない。昼休み、給湯室の隅でスマートフォンを取り出す。画面を開いた瞬間、鼓動がひときわ速くなった。打ちかけては消していたメッセージ。「また会いたい」それをとうとう、送信ボタンを押してしまった。すぐ既読になることも、しばらく反応がないことも両方怖い。送った後の数分がやけに長く感じられた。「いいですよ」佐山からの返事は短い。だが、その一言だけで全身の力が抜けたような気がした。ほっとすると同時に、どうしようもなく欲深くなっていく自分がいた。「また」会いたい、「もっと」触れたい。その欲望は日ごとに膨れ上がり、もう抑えることができなかった。仕事が終わるころには、何度も時計を見ていた。美咲との会話は空疎に響き、必要最低限のやりとりで切り抜ける。家庭という檻のなかで、息が詰まるような焦燥感だけが募った。だが、その先に佐山がいると思えば、息苦しささえ期待に変わった。約束の時間が近づくと、佐伯は駅ビルのトイレで身なりを確認した。髪を整え、ネクタイを緩め、スーツのしわを手でなぞる。誰かに会う前の緊張など、久しく味わっていなかった。スマホを何度も確認し、既読のまま更新が
last updateLast Updated : 2025-10-07
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快楽の檻、深まる依存

薄暗いホテルの部屋に、静かに扉が閉じる音が響いた。柔らかな間接照明が壁際で光り、ベッドの上に二人の影を落とす。佐伯は、無言のまま佐山の肩に手をかけた。シャツの生地ごしに伝わる体温。指先が喉元のボタンを外すと、佐山は自分から襟を抜き、首筋を晒した。白い肌にうっすらと汗がにじんでいる。襟元から覗く鎖骨のくぼみ、喉の動き。佐伯はもう、そこから目を逸らすことができなかった。「こっちを見て」そう囁くと、佐山はゆっくりと顔を上げる。睫毛が長く影を落とし、瞳はどこか遠い熱をたたえていた。そのまま佐伯の手首を取り、自分の頬にそっと添える。頬の柔らかさと微かな湿り気が、指の腹に残る。佐山の唇がわずかに動き、囁くように言った。「もっと、触れて」声の響きに、佐伯の心臓が一際強く跳ねる。もう理性など、どこにも残っていなかった。佐山の体は、前回よりもさらになじんでいる気がした。背中から腰へと手を這わせると、細い身体がわずかに弓なりに反り返る。その柔らかさと熱が、佐伯の手の中に収まり切らない。ベッドに倒れ込むと、シーツの冷たさが一瞬だけ現実に引き戻すが、佐山の体温にすぐ溶かされてしまう。唇を重ね、舌を絡める。佐山は最初から積極的だった。唇を割り、舌先を絡ませ、佐伯の首筋に歯を立てる。抑えられない熱が、身体中を突き抜けていく。佐山が吐き出す息が、耳元で微かに震える。「気持ちいいですか」囁く声に、佐伯は息を荒くしながら頷いた。佐山の指が自分の髪を梳き、背中を撫でる。触れ合う皮膚と皮膚。佐伯は、佐山の身体の奥に、自分がすべて溶けていくような錯覚に陥った。何度繰り返しても、満たされることはなかった。佐山の内側の熱を、もっと奥まで感じていたい。もっと、もっと欲しい。そんな欲望が、全身を突き動かしていた。佐山はシーツを握り、細い腰を自分から動かす。佐伯の動きに合わせて、何度も浅く深く体を揺らす。そのたびに、佐山の眉がかすかに歪み、唇から甘い吐息が漏れる。佐伯はその顔を見つめた。顔を背けず、まっすぐに自分を見つめ返してくる。白い頬に紅が差し、潤んだ瞳が光る。そのすべてが、佐伯を堕落へと導く。「もっと……奥まで…&hel
last updateLast Updated : 2025-10-08
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孤独と復讐のはざま

シャワーの音が静かな部屋のなかに柔らかく響いていた。熱い湯が背中を伝い、首筋を流れ落ちていく。佐山はゆっくりと目を閉じ、指先で濡れた髪をかきあげる。肌の奥に残る佐伯の熱を、湯の温度で溶かしきれるはずもなかった。耳の奥には、ついさっきまで部屋の中で響いていた喘ぎ声と、打ち寄せてくる激しい息遣いがかすかに残っている。湯気に満ちたバスルームの鏡は曇り、その表面に自分の姿がゆっくりと浮かび上がる。佐山は静かに鏡のなかの自分を見つめた。頬にはまだ朱が残り、唇はわずかに腫れている。濡れた髪が額に張り付き、首筋には噛み跡の赤い痕が点々と残っていた。微かに口元が緩む。計画は順調だ。佐伯はもう、自分なしではいられない。抱かれるたび、あの男の目に映るものはすべて自分になっていく。その執着を受け止めるたび、冷たい満足が心に染み渡った。復讐とはこういうものだと、どこかで自分に言い聞かせてきた。「愛されて、壊れるのはお前だよ」鏡の前で小さく呟く。唇の端に微かな笑みを浮かべるが、そのまま鏡の奥に目を落とすと、淡い影が見え隠れする。どれだけ肌を重ねても、どれだけ相手の欲望に応えても、心の奥に残る空洞だけは満たされない。バスタオルで髪を拭きながら、佐山はゆっくりとシャワー室を出る。カーペットに足を踏み出すと、ホテルの空調がわずかにひやりと肌を撫でた。ベッドの上には、佐伯が深く眠っている。仰向けになったまま、かすかな寝息を立てていた。濡れた髪が額に張り付き、シーツを握る指先が何かを求めているようだった。佐山は静かにその隣に腰を下ろし、佐伯の寝顔をじっと見つめる。あれほど強い男が、今は自分の腕を探して眠っている。その事実が、なぜか可笑しく、同時に空しい。ふと、佐伯の頬に手を伸ばしてみる。ほんのわずかに触れただけで、佐伯は無意識に身を寄せる。寝言のように、名前を呼ぶ。「……佐伯さん」その声音に微かな熱がこもっていて、佐山の胸に不意の痛みが走った。「まだ……壊しきらないよ」心の中で呟く。佐伯の欲望が高まるほど、計画は確実に前へ進んでいく。復讐を遂げるには、もっと、もっと深くまで堕としてい
last updateLast Updated : 2025-10-09
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静寂の夜に浮かぶ影

窓の外に残る水滴が、街灯の光を受けて鈍く光っていた。冬の雨が上がったばかりの夜。リビングには、どこか湿った静けさが満ちている。美咲はカップを両手で包み、ダイニングテーブルに座っていた。テーブルの上には、まだ飲みかけの紅茶と開きかけて止まった家計簿アプリの画面。ソファの向こう、佐伯は仕事用のノートパソコンを開き、黙々と書類を睨みつけている。テレビは消えたまま、天井灯の下で二人の影だけが伸びていた。「明日の会議、早いんだろ」佐伯がふいにそう声をかける。返事を求めているのか、それともただ音が欲しかっただけなのか、美咲には判別できなかった。「うん、ちょっとね」美咲は小さく答え、すぐまたカップに視線を落とす。夫婦の間に言葉はあるのに、意味が伴わない。最近の会話は、仕事や用事の連絡に過ぎなくなった。言わなくてもいいことだけが、互いの間に積み重なっていく。スマートフォンがテーブルの端で静かに震える。佐山の名前ではなかった。美咲は心のどこかで落胆し、すぐそれを自分でなじった。こんな夜に誰かの連絡を待っている自分を、ほんの少しだけ軽蔑する。けれど、どうしてもその“誰か”が佐山であってほしいと思ってしまう。ちらりとソファの佐伯を見る。彼は相変わらず画面を睨んだまま、手元のスマホを時折握りしめている。何を考えているのか、表情からは分からない。だが、眉間に刻まれたしわの深さ、タッチパッドをなぞる指先の速さ、ピリピリとした空気。昔はその手を見ているだけで安心できたのに、今はその手がどこに触れているのか、何を打ち込んでいるのか、妙に気になる。「……今日の夕飯、どうだった」「普通だったよ」佐伯の答えは短く、少し硬い。美咲は何気なく聞いたつもりだったが、返事に込められた僅かな棘に、胸の奥がざらりとした。自分の気分がすぐに顔に出たことも、佐伯は気づいているだろうか。そっと佐伯の横顔をうかがう。目元に疲労と、何かを押し殺すような険しさが見える。美咲は無意識のうちに、夫のスマホがちらりと光るたびに注意を向けている。新着通知のアイコン、指先が無防備にスワイプする仕草、着信音の余韻。最近、佐伯
last updateLast Updated : 2025-10-10
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濡れた窓ガラス、滲む思い

リビングの窓には、まだ雨の名残がくっきりと残っていた。佐伯はソファに沈み込みながら、その向こうに映る妻の背中をぼんやりと眺めていた。静けさがやけに重たく、部屋の空気は冷たい湿気を帯びている。数時間前に降り続いていた冬の雨はやみ、窓ガラスには水滴が斑点のように張り付いている。部屋の奥、キッチンの淡い灯りの下で美咲が紅茶のカップを両手で抱えている。肩から腕にかけて、無駄のない緊張が伝わってくる。昔はこんな風に静かな夜も、気まずさなど感じず過ごせていたはずだった。だが今は、わずかな沈黙が二人のあいだに深い溝を刻む。その溝の正体を、佐伯ははっきりと見極められずにいる。「何かが変わった」と思いながら、それを認めることが怖かった。美咲の背中には見えない壁ができていて、こちらの言葉や想いが跳ね返されるような気がする。パソコンの画面を見つめるふりをしながら、佐伯は手元のスマホを握り直す。業務連絡の通知がいくつか並んでいるが、目当ての名前はそこにない。佐山のチャット画面を無意味に何度も開いては閉じる。佐山の肌の感触、囁き声、熱っぽい眼差し。昨夜のベッドのなかで感じたあの支配欲と安堵が、頭の隅にこびりついて離れない。「……なんだよ」小さくため息を吐き、視線を美咲の背中に戻す。彼女はスマホの画面をそっと覗き込み、ふいに微笑んだ。その一瞬の柔らかい表情に、佐伯の心臓が小さく跳ねる。だが、すぐに自分には向けられない微笑みだと悟り、胸の奥がじくじくと痛んだ。あの表情はいつから自分の前で消えてしまったのだろう。何かが、確かに壊れ始めている。最近の美咲は、会話のトーンが変わった。表面上は淡々と優しく、しかしどこか距離がある。今日の夕食を褒めてみても、返ってくる言葉は当たり障りのないものばかり。言葉の端々に、優しさを演じるための余分な力がにじんでいる気がする。あの自然な笑顔、あどけなさ、甘えるような声色。それらがすっかり失われてしまった。「明日、何か予定あるの」不意に問いかけてみる。美咲は、少しだけ間を置いて振り返る。「特には……仕事がちょっと忙しいだけ」その声の奥にある曖昧さが、余計
last updateLast Updated : 2025-10-11
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交差する視線、言えない言葉

キッチンに淡い明かりが灯る。食卓には二人分の夕食が並び、メインの肉料理とサラダ、それに味噌汁の湯気が細く立ちのぼっている。静かな夜。雨の匂いが窓の隙間から微かに流れ込む。美咲はエプロンを外しながら、佐伯のほうをちらりと見た。背広姿のまま椅子に座った夫は、黙って箸を動かしている。かつては仕事の愚痴も家庭の話も何もかも食卓で語り合ったのに、今はお互いの沈黙だけが妙に際立っている。美咲は自分の膝の上で指を組み、意識的に口をつぐんだ。「……今日は寒かったね」無理に会話を探すように、美咲が口を開く。佐伯は一瞬だけ顔を上げる。目の奥に疲れと警戒の色が浮かぶ。「うん。現場まわってたら手がかじかんだ」その返事に温度は感じられず、また沈黙が落ちる。美咲は、どこか遠くを見るような視線を受け止める。夫がコートを脱いだとき、わずかに漂った異質な香りが、今も鼻先に残っている。柔軟剤や香水、そしてほのかなアルコールの気配。問いただす勇気はなく、ただ記憶のなかで繰り返し、心の奥に沈めていく。佐伯は美咲がスマートフォンをテーブルに置く仕草に目を止める。画面がふと明るくなり、メッセージアプリの通知がかすかに光った。そのわずかな瞬間にも、心臓が妙にざわつく。誰とやり取りをしているのか。どんな言葉を送っているのか。問いかければ、きっと「仕事よ」と返されるだけだろう。それが分かっているからこそ、余計に胸の奥がざらつく。「明日、何時に帰るの」美咲はあえて自然な声色を作って訊ねた。佐伯は食事の手を止めて美咲を見る。「取引先の接待があるから、たぶん遅くなる。連絡は入れるよ」「……そう。無理しないでね」一言一言、どちらも用心深く間を詰める。美咲は佐伯の背広の袖に残るほつれを見つけ、指先でそっと撫でるふりをした。佐伯は、美咲のスマホの画面が何度も開かれるのを横目で見て、心のどこかで歯噛みする。食卓には、皿のぶつかる小さな音と、カトラリーの触れ合う音だけが響いた。
last updateLast Updated : 2025-10-12
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胸に残る痛み

ベッドルームの静けさは、まるで密閉された箱の中のようだった。淡い間接照明だけが壁をぼんやりと照らし、窓の外からは夜の冷たい空気がじわりと伝わってくる。美咲は寝巻き姿のまま、ベッドの上で天井を見つめていた。隣には誰もいない。佐伯はもう一つ向こうの部屋で眠っているはずだった。家のなかに自分しかいないような、奇妙な孤独が胸の奥を締め付けている。スマートフォンが枕元にある。画面には、最後にやりとりしたままの佐山とのトークが開かれていた。「また会いたい」と送ってから、返信はない。そのまま未読が続いている。美咲は何度も画面をスリープ解除し、通知の影が現れるたび、落ち着かない気持ちで目を細めた。こんな夜更けに、佐山から何か返事が来るわけがないと分かっている。それでも、期待してしまう自分がいる。背徳感も、罪悪感も、そのすべてを押しのけるような熱が心のどこかに渦巻いていた。ベッドの上で身体を小さく丸めながら、指先でシーツを掴む。夫の寝息が壁越しにかすかに聞こえる。規則正しいその音が、むしろ自分の孤独を強く意識させた。このままではいけない。心のなかで何度も自分に言い聞かせる。佐山と関わるたびに、今まで築いてきた家庭が壊れていく気がしてならない。それなのに、佐山から離れられない自分がいる。夫への愛情がすっかり冷めたわけではなかった。むしろ、こうして夫が隣の部屋で眠っていることに安堵する一方で、ほんの少しの苛立ちと、満たされない何かが渦巻いている。スマホを握ったまま、美咲はじっと天井を見つめていた。時計の秒針が静かに時を刻んでいる。今までなら、寝る前に夫と会話を交わし、明日の予定を確認し合い、当たり前のように隣で寝息を聞いていた。それが今では、枕元に置いたスマホの通知音にすべてを支配されている。「どうして、こんなふうになってしまったんだろう」誰にも届かない問いが、夜のなかで空回りする。佐山との時間が、現実のすべてを色褪せさせていく。あの柔らかな声、優しい指先、唇に触れられた熱。すべてが遠い夢のようでありながら、どうしようもなく現実だった。家庭を守ろうと必死でいたはずなのに、佐山の影に呑み込まれていく自分が、ますます分からなくなる。
last updateLast Updated : 2025-10-13
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夜のホテル街

午後八時を過ぎた都心の路地には、小雨が細く降り続いていた。美咲は濡れたアスファルトの上を、ヒールの音を忍ばせるように歩いていた。黒い傘の下、肩をすぼめて歩く姿は、誰からも目を逸らしたがっているように見えた。会社を出たのは一時間前だった。残業の体裁を取りながらも、彼女の心はすでにこの場所に向かっていた。右手には小ぶりのハンドバッグ、左手にはスマートフォン。その画面には「部屋、取ってあります」とだけ打たれた佐山のメッセージが、既読のまま浮かんでいる。赤く濡れたネオンが、ガラス窓に滲んでいた。ホテルのエントランスはどこも似たように飾られ、そこだけ異様に静かで、温かい。美咲は無言でその一つに入ると、ロビーを抜けてエレベーターへと足を進めた。鏡張りの内装に映る自分の姿が、ほんの少し息を飲ませた。「……顔、違うじゃない」呟いた声は誰にも届かない。いつものスーツに、淡いベージュのコート。だが表情には、会社で見せる緊張も、家庭で見せる虚勢もなかった。リップが薄く滲んだ唇。雨に湿った髪。目の奥に宿るものは、疲れでも憂いでもない。期待と、熱。ドアが開くと、佐山がいた。ジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖をまくったままソファに座っていた。くつろいだ様子で、美咲を見るなり微笑む。「……来てくれて、嬉しいです」その声に、胸の奥がきゅうと痛んだ。部屋に一歩足を踏み入れるたび、戻れなくなると分かっている。けれど、美咲はそのまま、何も言わずにコートを脱いだ。佐山は立ち上がり、美咲の手から傘とバッグを取る。その動きが自然すぎて、まるで夫婦のようだった。否、むしろ本物の夫婦よりも、ずっと呼吸が合っていた。「今日は、少し疲れてますか」「……そう見える?」「見えます」美咲は笑ってみせた。だがその笑みは、佐山の目を曇らせるほどには鈍っていた。ソファの上で、軽く肩を抱かれた瞬間、美咲は抵抗をやめた。キスは、最初から
last updateLast Updated : 2025-10-14
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にじむ後ろめたさ

シーツの上に重なる熱と熱のうねりが、呼吸の隙間から零れ落ちていた。佐伯は、佐山の腰を両手で押さえつけながら、ゆるやかに、しかし確実に深く沈み込んでいった。佐山の脚がわずかに震え、細く喉を鳴らす。艶のあるその声が、佐伯の腹の底にじんと響くたび、理性の境界が音もなく崩れていった。視線を落とせば、佐山の睫毛が濡れ、熱に浮かされた頬がうっすら紅く染まっている。けれど、そこにある瞳だけはどこか醒めていた。「佐伯さん、もっと…」掠れた声が、潤んだ唇の奥から漏れる。その一言で、佐伯の腰は自然と動きを増した。締めつけてくる中の熱に、足元から崩れ落ちそうな快感が襲いかかる。美咲との夜にはなかった深さと応えが、身体を離そうとする理性を縛りつける。「奥まで来て…ください…」佐山がかすかに笑いながらそう呟いたとき、佐伯はとうに、自分が“抱いている”のではなく“抱かされている”のだという感覚に気づいていた。それでも、やめられなかった。絶頂の直前、佐山の身体が一度ぎゅっと締まり、佐伯は声にならない声を喉に押し込んだ。目を閉じたまま、彼の中にすべてを吐き出す。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、汗のにじんだ額を佐山の首筋に預けたまま、しばらく動けなかった。「……気持ちよかったですか」佐山の囁きに答えられず、佐伯はただ黙って頷いた。しばらくして身を起こすと、時計の針は深夜二時を回っていた。ホテルの外はまだ雨が降っている。小さなフロントのベルの音と、遠くの車のエンジン音だけが静けさのなかに響いていた。佐伯はシャワーも浴びずに服を整え、タクシーにも乗らず、徒歩で帰ることを選んだ。コートの襟を立て、傘も差さずに歩く帰路は、どこか罰のようでもあった。湿ったアスファルトが足元に反射し、コンビニの明かりさえ、責めるように目に沁みた。心にはまだ、佐山の熱が残っている
last updateLast Updated : 2025-10-15
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