All Chapters of 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの: Chapter 81 - Chapter 90

112 Chapters

仮面の家庭、孤独な食卓

テーブルの上には、仕事帰りに買った総菜がいくつか並んでいた。美咲はいつものように、料理を並べながら「ごめんね、今日は手抜き」と微笑んだ。けれど、その言葉に込めた軽さは、今夜はうまく機能しなかった。佐伯は「いいよ」とだけ答えて、箸を取った。声は低く、どこか固い。部屋にはテレビの音も音楽もなかった。二人の間を満たしているのは、食器の当たる小さな音と、空調の微かな風だけだった。「今日、寒かったね」美咲は味噌汁を口に運びながら、何気なく話しかける。普段ならもっと柔らかい言葉が続くはずだった。けれど、今日はなぜかそれ以上が続かない。「ああ」佐伯は短く答えたきり、また箸を動かした。表情は読み取れない。美咲はその横顔を見ながら、心の奥がざわついた。何か隠している。そんな予感が、最近ずっと消えない。佐伯の背広には、見覚えのない匂いがした。柔軟剤か、それとも誰かの香水か。わざと考えないようにしていたはずなのに、ふとした拍子に鼻腔に蘇る。「……会社、忙しいの」美咲は問いかけた。問いの意味は「どこに行っていたのか」だったが、それをそのまま口にすることはできなかった。「まあね」佐伯はご飯を口に入れたまま答えた。目は伏せられている。「……最近、疲れてるみたいだね」「うん」その一言で会話は終わった。食卓に広がる沈黙が、ゆっくりと二人の間の距離を広げていく。美咲は箸を置き、冷えた味噌汁の椀を見つめた。心のどこかで「問い詰めたい」と思っている。でも、それをしてしまったら、きっと何かが崩れてしまう。だから、何も言えなかった。口を開けば、佐山の名前を言いそうになる。佐伯が誰かとどこかで何をしていようと、自分はそれを責められない。そのことが、余計に胸を締めつけた。美咲は、佐伯の目が自分に向けられていないことに気づいていた。目の奥にあるのは苛立ちか、それと
last updateLast Updated : 2025-10-16
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濡れた窓辺、交わらない想い

夜の部屋に、静かなコーヒーの香りが漂っていた。佐山はソファに深く沈み込み、片手に持ったカップをゆるやかに回していた。カップの中で、熱い液体がわずかに揺れる。天井のライトは落としてある。ガラス張りの窓の向こうには、雨が降り続いていた。細い雨脚が街のネオンを歪め、黒いアスファルトに光の線を引いている。手元のスマートフォンが、低い振動を立てた。画面を軽く覗くと、美咲からだった。「会えませんか」たったそれだけの短いメッセージ。時間は深夜一時を回っている。既読をつけることもせず、佐山はそのまま画面を閉じた。すぐにもう一通、別の通知が重なる。佐伯からだった。「また、会いたい」佐山は薄く笑った。文字の羅列が、相手の心理を鮮明に映すのは、こういうときだ。どちらも自分から離れられない。それを、もう自分自身が一番よく分かっている。ソファの肘掛けに肘を置き、カップを口元に運ぶ。苦味と熱さが、舌の奥を鈍く刺す。外はまだ、雨がやまない。窓ガラスの向こうで、ビルの明かりがぼんやりと滲んでいる。佐山はゆっくりと目を細めた。この雨は、きっと二人の心にも降り続いている。美咲も佐伯も、今頃同じようにベッドで眠れない夜を過ごしているはずだった。自分に触れられた身体の余韻を残したまま、誰にも言えない渇きを抱えて。「もう戻れないですよね」小さな独り言が、部屋のなかに消える。美咲は、支配欲と愛情の境界を見失いはじめている。佐伯は、罪悪感と快楽を天秤にかけながら、とうに崩れている。二人とも、すでに自分なしでは立っていられない場所まで来ている。佐山はスマホの画面を指で滑らせ、二人からの履歴を見返した。そこに並ぶ言葉のひとつひとつが、焦燥と依存に満ちている。けれど、そのどれにも真正面からは返事をしていない。曖昧な言葉で期待を煽り、手のひらで転がすようにしてきた。「もっと欲しがらせてから、壊
last updateLast Updated : 2025-10-17
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渇きの底、満たされない夜

時計の針は、すでに深夜二時を回っていた。美咲はベッドの上で、天井を見つめたまま動けずにいた。身体はシーツに沈み、毛布をかけているはずなのに、寒気が抜けなかった。眠れない夜は何度もあったが、今夜は特別だった。窓の外から、しとしとと雨の音が聞こえる。カーテンの隙間からは、濡れた街灯の明かりがぼんやりと差し込んでいる。その光が、部屋の片隅をぼんやりと照らしているだけで、ベッドの中は暗いままだった。スマートフォンは枕元に伏せてある。画面を開けば、佐山とのやりとりが並んでいる。「また、会えますか」「今度は、もっと一緒にいたいです」そんな言葉が、自分の手から送られていた。送信ボタンを押したときの指先の震えを、美咲はまだ覚えている。けれど、返事はなかった。その既読表示のない画面を何度も何度も開いては閉じ、また開く。それを繰り返すたびに、自分が情けなくなった。「……どうして、私はこんなことをしているんだろう」心の中で、何度目かの問いを繰り返す。夫が隣の部屋で寝息を立てていることは、わかっていた。壁一枚隔てた場所で眠る佐伯の存在を感じるたび、胸の奥がざわめく。彼に対して、罪悪感がまったくないわけではなかった。でも、それ以上に、もう戻れないことを知っていた。美咲は、自分がどこで間違えたのかを考えた。最初はほんの遊びのつもりだった。年下の部下との軽い逢瀬。一線を越えた時点で、何かを取り返せなくなることは分かっていた。それでも、止まらなかった。佐山の肌に触れるたび、体温が自分の中に染み込んできた。彼の手のひらの温度、耳元で囁かれる声、唇に触れたときの柔らかさ。全部が、もう離れがたかった。それなのに、満たされなかった。抱き合っても、何度重ねても、どこか心が空っぽのままだった。美咲は枕元のスマホに手を伸ばし、また画面を開いた。返信は来ていな
last updateLast Updated : 2025-10-18
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無音の朝、ひび割れた日常

キッチンにはパンの焼ける匂いだけが漂っていた。時計の針は午前七時三十五分を指している。リビングにはテレビの音もなく、窓の外からは鈍い曇り空が見えた。朝から湿った空気が部屋の中に染み込んでいる。美咲は黙ったまま、トースターからパンを取り出し、いつものようにマーガリンを塗った。何かを話しかけようとした唇はすぐに閉じられる。最近、朝の会話はなくなった。おはようも、いただきますも、もう何日も言葉にしていない。佐伯はソファに座ったまま、スマートフォンを見ている。目の下に影があり、眉間にはかすかな皺が刻まれていた。美咲は、自分の手がいつもより少しだけ速く動いていることに気づいた。包丁でリンゴを剥く手つきが、妙にぎこちない。そんな自分を、どこか他人事のように眺めていた。「……行ってきます」小さな声でそう言うと、佐伯は顔も上げずに「うん」とだけ返した。パンを口に運ぶこともなく、スマホの画面をじっと見ている。誰かとやりとりしているのだろうか。それとも、何も見ていないのかもしれない。美咲はそれ以上何も言わず、コートを羽織って玄関に向かった。ハイヒールの音が静かな家に響く。ドアノブを握る指先が少しだけ震えていた。靴を履き終えても、佐伯は一度もこちらを見なかった。それが習慣になっていることに、美咲は心のどこかで気づいていた。二人の間には、見えない壁ができている。会話を交わさない日々は、もはや日常の一部だった。ただ、心の奥に薄く澱のように不安が沈んでいる。玄関のドアを開けた瞬間、冷たい湿気が頬に触れた。空は鉛色で、遠くから車の走る音が聞こえていた。美咲は小さく息をつき、肩をすくめて歩き出した。地下鉄のホームは、いつものように人で溢れていた。けれど、美咲の目には、周囲の人影がすべて灰色に見えた。スーツを着たサラリーマン、学生、主婦らしき女性たち。誰もが同じ顔をして、同じ場所に向かっていく。電車が来ると、無言のまま乗り込
last updateLast Updated : 2025-10-19
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職場の孤島

オフィスの蛍光灯はいつもと同じ白い光を放っていた。美咲は自分のデスクに座り、パソコンの画面を睨んでいたが、そこに映る文字はほとんど頭に入ってこなかった。朝から続く頭痛と、肩の奥に溜まる重い塊。それでもキーボードを打つ手だけは、いつもの速度を崩さなかった。「部長、お疲れさまです」すれ違いざまに部下の一人が小さな声で挨拶した。その声には、どこかよそよそしさが混じっている。目も合わせようとせず、素早く離れていった。それだけで、胸の奥がざらりとした。最近、この会社での居場所が変わり始めている。何も言われていないのに、空気だけが明らかに変わっている。自分を避けるような視線。ふとした時に背後から聞こえる、くぐもった笑い声や、ひそひそとした囁き。美咲は、知っていた。自分の噂が流れていることを。誰が言い出したのかは知らないが、佐山との関係はもう社内でも何人かに知られているはずだった。表向きには何も起きていないふりをしているが、視線の重さがそれを物語っている。「……」美咲は、画面を見つめたまま小さく息を吐いた。何も感じていないふりをしなければいけない。「いつもの部長」として、冷静に、完璧に。そうしなければ、自分が崩れてしまう。部下たちはランチの時間になると、自然と集まって外へ出ていった。だれも「部長も一緒に」とは声をかけなかった。いつからだろう、こんなふうになったのは。美咲は席に残ったまま、パソコンの前で身体を固くしていた。デスクの上には未開封のサンドイッチが置かれている。食べる気にはなれなかった。喉が渇いているのに、コーヒーを口にすると胃が痛む。スマートフォンを手に取り、何気なくロックを外すと、そこに通知が届いていた。佐山からのLINEだった。「今夜、会えますか」その文字を見た瞬間、身体の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
last updateLast Updated : 2025-10-20
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壊れた自我の午後

パソコンのモニターには、エクセルの表が広がっていた。だが、数字の羅列はただの模様にしか見えなかった。佐伯は右手に持ったマウスを動かすこともなく、ぼんやりと画面を眺めていた。会議資料の締切は今日中だった。けれど、その事実もどこか遠い。指先がピクリとも動かないまま、椅子の背に体を預けた。「佐伯さん、午後の打ち合わせですが……」部下の声が聞こえた。けれど、その声は透明な膜を通したように、ぼんやりと耳に届くだけだった。佐伯は視線をそらさず、ただ頷いた。「……ああ、分かった」その一言で会話を終わらせる。部下は少し戸惑ったような顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。最近の自分は、周囲からどう見えているのか。考えたくもなかった。背広の内ポケットで、スマートフォンが小さく震えた。佐伯はスーツの前をかき合わせ、スマホを取り出した。画面には、佐山からのLINEが表示されている。「今夜、会えますか」たったそれだけの文字列だった。だが、それは脳の奥に直接突き刺さってきた。心臓の鼓動が、一瞬だけ速くなる。「……またかよ」そう呟きながらも、指先はメッセージを消すことも、拒否することもできなかった。家庭にも、職場にも、自分の居場所がないことは分かっている。家に帰れば、美咲は冷えた顔で迎えるだろう。職場にいれば、誰も自分に目を合わせない。上司としての威厳も、夫としての誇りも、すでに形だけだった。「俺には、もうこれしかないんだよな」自嘲するように呟いた。誰にも聞かれない程度の声で。佐山に会えば、すべてを忘れられる。身体の奥が満たされる感覚。女と抱き合うのとは違う、異質な快楽。それを知ってしまった以上、もう逃げられない。自分は抱いているつもりだ
last updateLast Updated : 2025-10-21
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すれ違う帰宅、交わらない視線

リビングの時計が、夜の七時を過ぎていた。蛍光灯の白い光が、妙に冷たく感じられる。美咲はダイニングテーブルの上に、適当に並べた惣菜パックを置いた。弁当屋のロゴが印刷されたビニール袋が、椅子の背にぶら下がっている。「今日は、出かけるから」言葉を発したのは、自分だったのに、喉の奥が乾いていた。佐伯はソファに座り、スマートフォンを見たまま顔を上げなかった。その横顔の無表情さに、美咲の胸がかすかに痛んだ。「俺もだよ」佐伯が短く返した。テレビはついていない。部屋に流れるのは、エアコンの風の音と、どこかで鳴る車のクラクションだけだった。美咲はハンドバッグに手をかけながら、コートの袖を通した。化粧は直していない。口紅も、昼に塗ったものがそのままだった。それでも、鏡を見る気にはなれなかった。「行ってくるね」その言葉に、佐伯はやっと顔を上げた。けれど、その目はまるで曇りガラスの向こうから覗くような冷たさだった。「ああ、気をつけて」ぎこちない笑みが浮かんだ。お互いの背後にある事情を、言葉には出さないまま、形だけの会話が交わされた。美咲は玄関へ向かう。ヒールの音が、フローリングに硬く響く。靴を履きながら、後ろを振り返ると、佐伯も上着を手にしていた。ほとんど同じタイミングで、二人は玄関の前に立った。「そっち、先どうぞ」美咲が言うと、佐伯は微かに笑った。その笑みは、優しさとも諦めともつかない表情だった。お互い、どこに行くのかを聞きもしない。言わなくても分かっているのだ。「じゃあ、行ってくる」「うん」玄関のドアが開き、冷たい外気が流れ込む。美咲は一歩外に出た。佐伯は、その背中を見送る。それから自分も靴を履き、鍵を手に取る。互いの後ろ姿を見ながら、言葉にできない想いが喉の奥に残る。
last updateLast Updated : 2025-10-22
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同じ場所へ

佐山の部屋には、時計の針の音だけが響いていた。壁際に置かれたテーブルには、冷えたコーヒーがそのまま置かれている。湯気はとうに消え、液面にはうっすらとした油膜が浮いていた。佐山はソファに腰を沈め、スマートフォンを手にしていた。画面には二つの通知が並んでいる。美咲からと、佐伯から。どちらも「行きます」の返事だった。「……これで、決まりですね」自分の声が、部屋の静寂に落ちた。笑うでもなく、淡々と呟く。佐山は視線を落とし、受信履歴を眺めた。二人には、それぞれ同じ場所と時間を指定している。今日の二十一時、ホテル・レヴェランスの803号室。その指示に、二人は迷わず「はい」と返した。冷たい指先で、スマートフォンの画面を撫でる。液晶に映る自分の顔が、僅かに歪んで見えた。目の奥にあるのは、感情のない黒い色。だが、心の中には確かに高揚があった。「最も美しい壊れ方」佐山は、椅子の背にもたれながら、もう一度その言葉を口にした。これまで、慎重に時間をかけて二人を追い詰めてきた。美咲には、肉体と心の支配を。佐伯には、快楽と背徳の依存を。どちらも「自分だけが特別だ」と思わせながら、実際は同じ場所へ誘導してきた。姉が死んだあの日のことを思い出す。ガラス越しの雨、母の止まらない嗚咽。電話口の沈黙。その全てを、心の奥で反芻し続けてきた。だからこそ、今日の夜を迎える意味は重い。復讐の終盤。二人を同じ場所に呼び出し、すべてを暴くその瞬間。きっと、彼らは壊れる。互いに裏切られたことを知り、それでも自分をやめられない自分を直視することになる。「美咲さんも、佐伯さんも」佐山は、冷えたコーヒーを口に含んだ。舌先に広がる苦味は、思ったよりも鈍かった。ガラス越しに夜景が広がる。窓の外には、ネオンの光が滲んでいる。
last updateLast Updated : 2025-10-23
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雨上がりのロビー

ホテルのロビーは、雨上がりの湿気を含んだ空気で満たされていた。天井から吊り下がるシャンデリアの光が、濡れた床にぼんやりと反射している。美咲は傘をたたみ、エントランス脇のスタンドにそれを立てかけた。指先に残る水滴をハンカチで拭き取りながら、自分の呼吸がやけに速くなっていることに気づいた。「……落ち着け」唇を動かさずに、小さく自分に言い聞かせた。けれど、心臓の鼓動は鎮まらない。胸元に忍ばせたスマートフォンを、バッグの内側からそっと取り出す。画面には、たった一行のメッセージが浮かんでいた。「803号室で待ってます」それだけ。絵文字も飾り気もない、簡潔な文字列だった。それなのに、喉の奥がじりじりと焼けるような感覚に襲われる。ロビーのソファには、カップルやビジネスマンがちらほらと座っている。誰も自分を見ていないはずなのに、視線が背中に突き刺さる気がした。この場所に来ること自体が、もう戻れない道だと分かっている。けれど、佐山からの誘いを断ることなど、とうにできなくなっていた。美咲は、雨で湿った髪をそっと指先で梳いた。化粧は崩れていないだろうかと気にしながら、スマホのカメラを鏡代わりに確認する。少しだけ睫毛が濡れて光っていた。唇を引き結び、もう一度深く息を吸う。「……行かなきゃ」低く、かすれた声が喉から漏れた。けれど、それは誰にも聞こえない。自分の中だけで鳴った音だった。エレベーターの前に立つと、指先がわずかに震えた。ボタンを押すと、淡い光が灯る。その小さなランプを見つめる時間が、やけに長く感じた。「どうして、こんなことになってるんだろう」心のどこかで、そう思った。けれど、その問いにはもう答えが出ていた。佐山と会うたびに、身体が、心が、少しずつ蝕まれているのを知っている。それでも止められない。
last updateLast Updated : 2025-10-24
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同じ部屋番号

エレベーターの扉が静かに開いた。美咲は、湿った息を吐きながら、一歩踏み出した。廊下はしんと静まり返り、絨毯の上を歩くヒールの音がやけに大きく響く。803と書かれたプレートが、すぐそこに見えた。心臓が、早鐘のように脈打つ。自分の鼓動が、耳の奥でざわざわと響いていた。けれど、そこにもう一つの足音が近づいてくるのに気づいた。美咲は、無意識に立ち止まる。目の前に現れたのは、佐伯だった。夫が、こちらに向かって歩いてくる。「……あ」声にならない声が、喉の奥で引っかかった。佐伯も、同じように美咲を見て立ち止まった。一瞬、互いの目が交わる。その瞳の奥に、困惑と戸惑いが混じっているのを、美咲は見逃さなかった。「……お前、こんなところで何してるんだ」佐伯が先に口を開いた。けれど、その声には明らかに焦りが滲んでいる。いつもの低い声が、わずかに上擦っていた。美咲は唇を引き結び、瞬きを一つした。喉の奥が乾いているのに、どうしても言葉が出てこない。「ちょっと……知り合いと待ち合わせしてただけ」ようやく絞り出した言葉は、嘘だと自分でも分かっていた。佐山の名前を出すわけにはいかない。けれど、どう誤魔化せばいいのか分からなかった。「……そうか」佐伯は眉間に皺を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。彼の手にはスマートフォンが握られている。その画面をちらりと見た美咲は、そこに表示された「803」の文字を見逃さなかった。「まさか」心の奥が、冷たい何かに掴まれたような感覚が走る。だが、それを言葉にすることはできなかった。「俺……部屋、間違えたかもな」佐伯が、苦笑いのような表情で呟いた。指先が少し震えている。
last updateLast Updated : 2025-10-25
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