佐伯は、雨脚が強くなった街角で立ち止まった。アスファルトに跳ねる水が、ズボンの裾まで冷たく濡らしている。このまま歩き続けても仕方がないと、自嘲混じりに思いながら、視線を上げた。目の前には古びた喫茶店があった。「珈琲室 かさね」と書かれた木の看板は、雨に滲んで輪郭がぼやけている。ガラス戸越しに見える店内は、薄暗い照明と、しんとした空気に包まれていた。店主がいるのかも分からない。けれど、もうどうでもよかった。佐伯は、ドアを押した。鈴の音が、小さく耳に残った。中に入ると、湿った木の匂いが鼻腔に広がる。古い椅子とテーブルが並び、薄いレースのカーテンが窓際に揺れていた。他に客はいなかった。店主らしき中年の女性が、カウンターの奥で黙って一礼した。その目は、まるで無表情だった。「……珈琲、ください」佐伯はかすれた声でそう言い、窓際の席に座った。椅子は少しきしみ、座面のクッションは薄くなっていた。けれど、その沈み込みが逆に心地よかった。窓の外は、相変わらず雨が降っている。街灯の光がガラス越しに滲み、ぼやけた影を作っていた。人の姿はほとんどなく、傘を差した誰かが時折横切るだけだ。カップに珈琲が運ばれてきた。店主は何も言わず、音も立てずに去っていく。佐伯は、カップを手に取った。熱いはずの液体が、唇に触れても何も感じなかった。味も分からない。苦味も、香りも、ただの「黒い液体」として喉を通る。「生きてるんだろうな、俺」呟きそうになって、唇を噛んだ。こんなことを考えるのは、何度目だろう。毎日が、同じように過ぎていく。同じように朝が来て、同じように夜が来る。何かが変わることもなく、ただ「時間を潰しているだけ」の日々。「罰だよな」心の中で、もう一度そう言った。あの夜から、すべてが変わった。いや、変わった
Last Updated : 2025-11-05 Read more