湯浅は、エレベーターの閉まる音を背中で聞きながら、ゆっくりと歩き出した。廊下の床は、いつもと同じ色だった。壁も、天井も、何一つ変わらない。けれど、空気だけは確かに違っていた。美沙子のいない朝。その事実が、こんなにも肌に触れる感覚を変えるとは思わなかった。今までは、社長室の扉が閉まる音一つで、全員の背筋がこわばっていた。会議室で目を逸らすときも、廊下ですれ違うときも、誰もが呼吸を浅くしていた。それが、今日はなかった。美沙子が消えたからと言って、すべてが解決するわけじゃない。会社の構造は、まだ歪んだままだ。新しい社長は、数字と再建にしか興味がない。スポンサー企業の言いなりになるだけだろう。現場の人間が本当に守られるかどうかなんて、誰も考えていない。湯浅は、胸の奥でゆっくりと呼吸をした。それでも、空気は確かに変わった。檻が一つ、確かに開いた。けれど、それは「終わり」ではなかった。「会社は変わる」心の中で呟いた。けれど、俺たちの問題はこれからだ。藤並は、隣を歩いている。目を伏せたまま、肩を少し落としている。それでも、歩幅は湯浅に合わせていた。自分から手を伸ばすことはしない。けれど、隣にいるというだけで、それは十分だった。藤並は、まだ完全には自由になっていない。身体も、心も。けれど、それは時間の問題だ。美沙子がいなくなったことが、すべての答えじゃない。問題は、あの女がいたからじゃなく、自分たちの中にあった。これから、それと向き合わなければならない。「守るだけの関係じゃない」さっき藤並に言った言葉が、頭の中で反芻される。守るのは簡単だ。けれど、それでは檻を変えただけになる。支配する側を変えただけで、何も終わらない。湯浅は、藤並の横顔を見た。下を向いている瞳。けれど、ほんの少
Last Updated : 2025-09-16 Read more