黒瀬は、深夜の静まり返った自宅マンションに帰り着いた。ネクタイを緩める手が、少しだけ震えている。そのことに自分で気づきながらも、どうすることもできなかった。靴を脱ぎ、玄関に置かれた鏡に目をやる。映るのは、疲れ切った男の顔。額には薄く汗が滲み、目の奥には赤い疲労の滲みがあった。ジャケットをソファに投げ、洗面所へ向かう。蛇口を捻ると、水が静かに流れた。掌ですくい、顔を洗う。冷たい水が皮膚を伝い、首筋に落ちる。だが、その冷たさすら、今は感覚が鈍い。顔を上げると、鏡の中に自分がいた。その目が、他人のように見えた。長い間、何も感じないふりをしてきた。経理の数字だけを見て、会社の金の流れだけを操って、心を閉じていた。だが、今日は違う。鏡の向こうから、美沙子の声が蘇る。「黒瀬、欲しいものは全部手に入れなさい。自分で動けば、手に入るから」耳の奥で、あの声が響いた。美沙子の声は甘かった。けれど、同時に冷たかった。「……その結果がこれか」黒瀬は低く呟いた。誰もいない部屋に、その声だけが落ちる。手が震えている。分かっているのに止められない。洗面台の横に置いたグラスを持ち上げようとしたが、指先が震えて掴めなかった。グラスがカタリと音を立てた。「何やってんだ、俺は」黒瀬は自分にそう言い聞かせるように呟いた。だが、答えは出なかった。美沙子と組んで、ここまで来た。会社の経営を裏で操り、数字をいじり、資金を動かした。料亭藤並の名義も、裏帳簿の管理も、自分が手を下してきた。そのたびに、美沙子は言った。「大丈夫よ、黒瀬。私が全部守るから」その言葉を信じた。いや、信じたふりをして、自分にも言い訳してきた。美沙子についていけば、自分は沈まない。そう思い込もうとしてき
Terakhir Diperbarui : 2025-09-06 Baca selengkapnya