All Chapters of 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

窓の外で雷が突然鳴り響いた。悠真は結衣のことを思い浮かべ、少し考えたものの、無理に要求することはせず、体を向けて早足で立ち去った。やはり登世の孫だからか、星乃はつい口を挟んだ。「悠真、よく考えて。今戻るのは危険よ」だが悠真は、まるで彼女の言葉を聞いていないかのように、頭ひとつ振り向くこともなく、すぐに雨のとばりの中に姿を消した。星乃は以前のように慌てて追いかけることはしなかった。追っても無駄だ。彼女には分かっていた。以前と同じように、悠真を説得することはできないと。だが予想外だったのは、結衣のためなら、彼は死すら顧みないことだった。「星乃様、お部屋の準備が整いました」そのとき、使用人が外からリビングに入ってきた。リビングには彼女ひとりしかおらず、少し驚いた顔で尋ねる。「悠真様は?」星乃は落ち着いて答えた。「戻りました」使用人は驚いた表情で言う。「こんな大雨の中に戻って、もしものことがあったらどうするんですか?」彼女は登世の世話を長年しており、悠真のことや家の事情に詳しい。もちろん、星乃と悠真の関係も知っていた。それを言い終えると、星乃の仕方なさそうな顔を見て、きっと説得はしてみたが無駄だったと察したのだろう。しかし、この大雨は明らかに危険だった。使用人は礼儀正しく星乃に言った。「星乃様、ご心配なさらず、まずはお部屋でお休みください。私が登世様にお伝えします」そう言うと、使用人は急いで登世の部屋へ向かった。星乃もそれ以上何も言わなかった。言うべきこと、やるべきことは、すべてやり尽くした。言ってはいけないこと、やってはいけないことも、すでに経験してきた。止められないのなら、もう止めるつもりもない。それに、もうすぐ離婚も成立するので、もう彼のことに首を突っ込む立場でもなかった。そう思うと、星乃は自分の部屋へ戻った。一方、悠真は大雨の中、別荘に戻ると、別荘の明かりはすでにすべて灯っていた。誠司は電力会社の作業員と一緒に工具箱を片付けていた。悠真は誠司の姿を見て、ほっと息をついた。その時、誠司は悠真を見つけて正直に言った。「ただブレーカーが落ちただけで、大したことはありません」悠真はうなずく。「結衣は?」「結衣さんは足をケガして、上の部屋で休んでいます」その言葉を聞くと
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第112話

倒れたのは、彼女がわざとやったのだった。悠真が戻ってくるだろうと予想して、このシルクのパジャマも用意していたのだ。悠真が恋愛に鈍感だとしても、結局は血気盛んな男であることに変わりはない。結衣は、本来こんな下品な手は使いたくなかった。だが佳代に言われた――悠真の子を身ごもれば、冬川家に嫁ぐ手助けをしてやると。もちろん結衣も気づいていた。佳代が本気で孫を欲しているわけではないことを。もし本当に待ちきれないほどに望んでいたのなら、彼女の性格からして、星乃と悠真が嫌がろうと、五年という歳月の中でとっくに子どもを産ませていただろう。佳代が欲しているのは、孫ではなく、結衣を思いのままに操れるかどうかを確かめることだった。昔の結衣なら、絶対に応じなかった。けれど今は……悠真が結婚したと知ったあの日から、夜ごとに押し寄せる後悔と痛みを思い出すたび、権力も地位もなく、ただ冷たい目と軽蔑にさらされてきた日々を思うたび、彼女は結局、折れた。悠真の妻の座は、どうしても自分でなければならない。悠真は薬箱を取り出し、打撲用の軟膏を探し出して彼女に差し出した。だが結衣は受け取らず、潤んだ瞳で彼を見つめて訴えた。「さっき、手も打ってしまって……悠真、塗ってくれる?」彼は何も言わず、彼女のそばに腰を下ろすと、軟膏を手に出して両手で温め、それから彼女の患部にそっと押し当てた。掌の熱が足首に伝わり、傷の痛みがふっと和らぐ。だがその瞬間、結衣の心はずしんと沈んだ。あの頃、悠真はこんなふうに優しく世話してくれる人ではなかった。それを今さら誰から覚えたのか――言うまでもない。彼を奪える自信はある。それでも、この細やかな仕草の一つ一つが、不安を突きつける。悠真はそんな彼女の心を知らぬまま、黙々と手当を続けていた。二度目に薬を塗ったとき、結衣の口から思わず甘い声が漏れた。その艶やかな響きに、悠真の手が一瞬止まる。顔を上げると、結衣がまっすぐに彼を見ていた。視線が交わった瞬間、その瞳の奥の熱に気づく。近くで見ると、彼女のシルクのドレスはほのかに透けて、いつの間にか外れていた毛布の下から、すらりとした脚があらわになっていた。結衣は彼の視線に気づいたように、さらに身を寄せる。彼女の顔を間近に見た途端、悠真の呼吸が
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第113話

二人が恋に落ちたのはずっと昔のこと。まだ幼さを残した年頃に、結衣は悠真と出会い、彼の敏感な部分をよく知っていた。悠真の黒い瞳は赤く滲み、結衣に攻め立てられるうちに、口の中は渇ききり、呼吸も荒くなっていった。乱れた息が彼の仮面を容赦なく剥ぎ取っていく。それでも彼は、無理やり自分を制して立ち止まった。――違う。この長い年月、星乃と肌を重ねるたびに、彼はわざと嘲笑してきた。――この顔が結衣なら良かったのに、と。だが今、結衣本人が目の前にいる。ただ欲望に身を任せれば、五年間飢え続けた自分を満たすことができる。それなのに、感じるものは想像とはまるで違っていた。もし本当に結衣を抱いてしまったら――その先に待つのは、得体の知れない恐怖。胸の奥にびっしりと張りつく不安が、彼の動きを縛りつけた。そして、理性が壊れかけたその瞬間。悠真は最後の力で自分を取り戻し、結衣を突き放した。結衣は涙に濡れた目を赤くして、信じられないというように彼を見つめた。悠真はその視線に耐えきれず、目を逸らした。「俺たちのことは、もう過去だ。前を向け。お前ならもっといい相手に出会える。俺は結婚してる。お前の人生を俺が汚すわけにはいかない」結衣は唇を強く噛み、羞恥と怒りに震えながら絞り出した。「それは……星乃の原因?」悠真は答えなかった。脳裏に浮かんだのは、涙で濡れ、蒼ざめた星乃の顔。言葉にできない混乱が彼の頭を支配した。彼の沈黙を、結衣は肯定だと受け取った。拒まれただけでも屈辱なのに、さらに相手が星乃だと気づいた瞬間、その屈辱は一層膨れあがった。「悠真……忘れたの?本来、冬川家の妻の座は、私のものだった」涙をこらえながら結衣は訴える。「もし星乃が現れなければ、今ごろ私たちは一緒にいたはずなのに」悠真は彼女を見つめた。たしかに最初はそうだった。星乃が妻の座を奪ったせいで結衣を裏切ったと考え、その罪悪感から星乃を痛めつけてきた。けれど今、彼の胸に蘇ったのは、あの本宅で星乃に告げられた言葉だった。――もしかしたら、結衣への想い自体が、すべてを投げ出してでもつなぎとめられるほど深いものではなかったのかもしれない。悠真は、もはや自分を誤魔化すことができなかった。立ち上がり、静かに言った。「俺たちが別れたのは
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第114話

本来の目的は、星乃と悠真の子どもを始末するだけだった。ただ予想外だったのは、悠真が彼女から連絡を受けたとき、星乃のことを一目も見ず、慌ただしく自分を病院へ連れて行ったことだ。悠真が星乃を愛していないことは知っていた。けれど、その出来事を経て初めて、その「愛していない」が、存在を無視するほどのものだと悟った。そう思うと、結衣の気持ちも少し落ち着いた。もしかすると、自分が急ぎすぎていただけなのかもしれない。なにしろ悠真と星乃は五年も夫婦であったのだ。そんな悠真に、はっきりと裏切りの行動を取らせるのは、さすがに無理がある。そう思い至ったものの、結衣は決して油断しなかった。悠真はもう変わり始めている。そして彼女には、これ以上先延ばしにする余裕はなかった。佳代の要求もあるし、何より時間が経てば経つほど予想外のことが起き、事態が手に負えなくなる恐れがある。結衣は冷静になり、しばらく考えた。やがて、心の中に一つの決意が固まった。悠真は寝室を出てもなお、気持ちがどこか落ち着かなかった。さらに意外だったのは、先ほど結衣に煽られた熱が、なぜか星乃のことを思い出させてしまったことだ。結婚してからの星乃に対しては、無理やり欲望を抑えることなど、ほとんどなかった。だが今、星乃はいない。悠真は書斎に戻り、冷たい水を一杯飲んで熱を鎮めた。風呂に入ろうとしたそのとき、祖母からの電話が鳴った。登世は、使用人から悠真が大雨の中を帰っていったと聞き、ひどく腹を立てた。けれどすぐには電話をかけなかった。運転中に気を散らせては危ないと考え、時間を見計らい、無事に帰宅した頃だと確信してから番号を押したのだ。画面に祖母の名を見て、悠真は迷わず通話ボタンを押した。「おばあちゃん、どうしたの?」「ふん、生きてたのね?」言い出すなり、登世の皮肉な笑い声が響いた。「用はない。ただね、まだ孫が生きてるか確認しただけ。葬式の準備をしなきゃいけないのかと思って」悠真は言葉を失った。「……」「……おばあちゃん、その言い方はひどいよ。それに葬式だなんて、不吉すぎない?」と苦笑混じりに言った。登世は鼻で笑った。「私の言葉が不吉?命がけで雨の中を戻るあんたの方がよっぽど不吉でしょ。ほんとに何かあったら、その時は吉兆の言葉でも並べれば生
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第115話

悠真は一瞬きょとんとした。すぐに小さく鼻で笑った。「これ、星乃に頼まれて聞いてるんだ?」問いかけではあったが、その声音には揺るぎない確信があった。登世がそんなくだらない質問をするはずがない。どうせ星乃が彼女の前で告げ口をして、わざわざ訊かせたに違いない。昔から彼は、星乃がことあるごとに年長者を盾にして自分を追い詰めるやり方をひどく嫌っていた。登世が答えるより早く、彼はわざとらしく続けた。「ええ、結衣のことはとても好きだ。もし星乃がそばにいたら、伝えて。こういう質問は、次からはぜひ本人が俺に直接聞けばいいって……」その言葉を最後まで言い切る前に、登世は「わかったわ、そのとおりにする」と言って電話を切った。……どういう意味だ?悠真はわけがわからず首をかしげた。もっとも、登世が星乃を甘やかして一緒に振り回されるのは、これが初めてでもない。深く考えるのをやめてスマホをしまうと、昨夜星乃が口にした「子ども」のことを思い出し、誠司に電話をかけた。「明日の朝、墓地へ行こう」その頃、冬川家の本宅では、登世がスマホを脇に置き、大きなため息をついていた。いつも穏やかな顔は心配で曇っている。そばで控えていた使用人が薬と水を差し出し、丁寧に飲ませてから、彼女の沈んだ表情を見て思わず口を開いた。「登世様、なぜ今日、若奥様と若旦那様それぞれに部屋を二つご用意なさったんですか。若旦那様が若奥様にお気持ちをお持ちでないのは、結局、深い絆がないことが原因だと思います。でも、もしお子さんができれば、少しは変わるかもしれませんよ」使用人は自分の考えを素直に口にした。実を言えば彼女は以前から何度も、登世に星乃と悠真に子どもを持たせるよう勧めていた。子どもが生まれれば、気持ちというものは自然と変わっていくものだから。だが、登世はいつも微笑むだけで一度も背中を押そうとはしなかった。今回また話を持ち出すと、登世はしばらく黙り込み、それからうなずいた。「あなたの言うことも一理あるわ。でも、子どもができたとして、そのあとどうなるのかしら」使用人は考え込みながら答えた。「そのあとは……子どものために、若奥様は離婚を思いとどまるかもしれません。別れなければ、少しずつでも絆を育む可能性は残ります」登世は苦笑した。「もう五年よ。それ
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第116話

翌朝目を覚ますと、顔いっぱいに乾いた涙の跡が残っていた。星乃は気持ちを整えて部屋を出ると、リビングへと向かう。この家は市街から少し離れている。祖母に挨拶だけしてから出ようと思っていた。ところが、ちょうど玄関に差しかかったところで、外から入ってきた花音と鉢合わせした。「おはよう」星乃は反射的に挨拶した。花音は昔から両親と共にこの家で朝食をとっており、星乃が昨夜ここに泊まったことも知っていたので、驚く様子はなかった。ただ、淡々とした視線を星乃に向け――その目が彼女の胸元に留まった瞬間、ふっと表情が固まった。「そのネックレス、どこで手に入れたの?」花音が星乃の首を指さした。見下ろしてみると、それは昨日、遥生に借りて身につけていたものだった。「友だちから」星乃は静かに答えた。花音は即座に首を振る。「ありえない!」星乃には友人などいない。たとえいたとしても、どうしてこんな高価なネックレスを贈るはずがある?このネックレスは白石家のチャリティーパーティーで出された目玉の品。最終的に遥生が四億円で落札したものだ。花音は彼女が嘘をついていると思い込んでいた。だが理由を明かすわけにはいかない。冬川家は白石家主催のパーティーには出ないことになっている。あの日、花音がこっそり会場に現れたのは遥生のためだった。それを家族には内緒にしているし、星乃に知られるわけにもいかない。「外して、私に見せなさい」花音は命令口調で言った。「いやよ」「……なんですって?」花音の声が荒くなる。星乃は落ち着いた声で返した。「人に何かを頼むときは、せめて『お願い』くらい言うものよ」花音の顔がみるみる赤くなる。「お願い」のひと言が喉につかえて、どうしても口に出せない。冗談じゃない。星乃に「お願い」なんて?腹立たしい。考えるだけで腹立たしい。花音が立ち尽くして言葉を飲み込んでいるのを見て、星乃はもう彼女の考えが読めていた。だから、以前のように譲歩することもせず、そのまま彼女を横切ってリビングへ。祖母に挨拶をしてから離れた。ようやく我に返った花音は、星乃の背中を睨みつけながら、悔しさのあまり空中に拳を振り回した。――頭がおかしいの?私の言うことを聞かないなんて。兄に言いつけてもいいの?そう思ってはみるが
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第117話

「彼女、五年間も専業主婦だったのに、UMEに入った途端、遥生社長がいきなり主任にしたのよ。私たちが何年もここで働いてきても、そんな待遇受けたことないのに」星乃が近づくと、話していたのは千佳だった。千佳は入口に背を向けていたので、星乃の姿に気づかないまま続ける。「まあ、それは置いといても、今回の投資を取れたのだって、ただ運がよかっただけでしょ。遥生社長がわざわざ盛大に祝勝会を開くなんて……でも忘れちゃだめよ。この投資はもともと冬川家が出すと決めてたもの。彼女がやったことなんて、せいぜい罪滅ぼしよ」千佳の隣には、さらに二人の女性が座っていた。その言葉を聞き終えた一人が、強くうなずいて賛同する。そしてため息をつき、少し皮肉っぽく言った。「仕方ないわよ。あんなに綺麗なんだから、うちの遥生社長だって惑わされちゃうわ。特別扱いも当然でしょ」「綺麗?私は大したことないと思うけど」千佳は口元を押さえて笑う。隣の女性はすぐに気を回して、調子を合わせた。「確かに。むしろ千佳さんの方がずっと綺麗だよ」「本当に?」千佳は照れながら頬に手を当てる。だが、相手の女性がくすくす笑っているのに気づき、顔を赤くして小突いた。「ちょっと、からかってるでしょ!」「……」二人は笑いながらじゃれ合った。その様子を黙って見ていたもう一人が口を開く。「でも不思議よね。聞いた話だと、冬川グループはUMEに投資を断られたことに腹を立てて、率先して敵対し始めたらしいじゃない。そんな状況で、彼女はどうやって投資を引き出したのかしら」千佳は肩をすくめる。「投資したのは白石家の御曹司、律人でしょ。あのプレイボーイ相手に、星乃が使える手なんて一つしかないじゃない。身体で……」言いかけたところで、両隣の女性がハッとしたように顔色を変え、千佳に目配せする。けれど千佳は気づかず、さらに声をひそめて続けた。「本当の話よ。あの日、彼女が男と一緒にホテルに入っていくのを見たんだから。保証してもいいわ、あの人、見た目ほど純粋じゃないって。絶対……」そこまで言ったとき、ようやく千佳も気づいた。コーヒーを入れていた星乃が、すぐそばに立っていることに。悪口を言われていた本人が、目の前にいる。千佳は一瞬で言葉を失った。「絶対、何なんですか?」星乃は淡々と問いかける。二人の
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第118話

「ここで何してるの?」星乃が首をかしげる。花音は、遥生がこのあたりに住んでいると聞いて、ピアノのレッスンが終わるとすぐにやって来た。けれど、いくら待っても遥生は現れなかった。まさか星乃が突然現れるなんて思ってもいなかったから、思わずびくりと身をすくめる。どうしてここにいるのかと問いただそうとしたが、すぐに察した。――星乃はきっと、自分を追いかけてきたんだ。謝りたくて。そう思った途端、花音はまたいつもの強がった顔に戻り、むっとして言った。「余計なお世話」星乃も、別に口を出したいわけじゃなかった。けれど、このあたりはいろんな人が出入りしているし、冬川家からも遠い。女の子がひとりでうろついて、もし何かあったら……それに登世の孫娘だ。登世が自分にどれだけ良くしてくれたかを思えば、見て見ぬふりなんてできない。花音が痛そうに足首を動かすのに気づいた星乃は、彼女がまだヒールを履いているのを見て声をかけた。「車に乗って。送ってく」花音もさすがに疲れていたが、車に乗る代わりに言った。「じゃあ、私にぺたんこの靴買ってきて」命令口調の花音を見ても、星乃はもう以前のように従わなかった。「帰るなら今すぐ乗って。嫌ならあなたのお母さんに電話して迎えに来てもらう。どっちか選んで」淡々とした声なのに、反論を許さない強さがあった。思わず、花音は目を瞬かせる。――なんだか星乃、変わった?でも、どこがどう変わったのかは、はっきり分からない。それに、今まで星乃は佳代のことを「お母さん」って呼んでいたのに、今日は「あなたのお母さん」って言った。いつもはその呼び方があまりに媚びたように聞こえて嫌だったのに、距離のある言い方をされると、かえって落ち着かない。花音が動かないままでいると、星乃はスマホを取り出した。「じゃあ今、あなたのお母さんに連絡するわ」その言葉に、花音は慌ててスマホをひったくった。なぜだか分からないけれど、星乃が言ったら本当に連絡しそうな気がしたのだ。こんな場所に来ていたことを佳代に知られたら、きっと小言を浴びせられるに決まっている。それに、今日はもう遥生に会えそうにない。花音は観念して車のドアを開けた。「じゃあ、お兄ちゃんの家まで送って。今日はお兄ちゃんの家に泊まるって、お父さんとお母さんには言ってある
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第119話

結衣は不安そうに彼女の手を握りしめ、じっと見つめた。「花音、こんな時間にどうしたの?何かあったの?」花音の頭の中には、さっき結衣が自分を見たときのあの失望しそうな目が残っていて、胸が少し痛んだ。彼女は何も言わなかった。星乃が代わりに淡々と口を開く。「別に何もないわ。今日はここで一晩泊まるだけだから」「そうだったのね」結衣はほっと息をつき、笑いながら花音の肩を抱いた。若い子の気持ちはすぐ顔に出るものだ。結衣も花音の沈んだ様子に気づいて、慌てて言い添える。「悠真から今日は一度も連絡がなくて、それであなたが急に来たから、てっきり何かあったのかと思っちゃって……焦ったのよ」その言葉に、花音の胸に詰まっていたもやが少し和らいだ。「なーんだ、私はてっきり、私に会ったからイヤな顔したのかと思った」花音はちょっと拗ねたように言った。「まさか」結衣は彼女を抱き寄せ、微笑む。「会えて嬉しいに決まってるじゃない。ただ悠真のことが心配だっただけ」その一言で、花音の心のしこりも溶けて、また元のように明るく笑顔を見せる。「大丈夫よ。うちのお兄ちゃんって、朝帰りなんてしょっちゅうだもの。結衣さんのせいじゃないわ。お兄ちゃんが会いたくない相手なんて他にいるから」そう言って、花音は意味ありげに星乃の方をちらりと見やった。星乃は気づかないふりをした。花音を送り届けたあと、星乃はそれ以上長居せず、さっさと帰ろうとした。「え、ちょっと、どこ行くの?」花音が不思議そうに声をかける。星乃は答えず、代わりに結衣が説明した。「星乃はもうここを出て、一人暮らししてるの」その事実を初めて知った花音は目を丸くした。「えっ、いつの間に?それに、どこに住んでるの?篠宮家に戻ったの?」けれど花音は思い出した。篠宮家の人たちは星乃をあまり好んでいなかったし、あのまま絶縁になりかけていたはずだ。花音が焦ったように問い詰めると、結衣は茶化すように笑った。「星乃と仲いいのね。そんなに心配して」その言葉の裏の棘に気づき、花音は慌てて首を横に振った。「ち、違うってば。ただの好奇心よ。別に心配なんかしてない」そう言いながら、彼女は甘えるように結衣に抱きつき、顔を上げてにっこりする。「私が気になるのは結衣さんだけだから……結衣さんってほんといい匂いする。ねえ、今夜一緒に
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第120話

悠真は愕然として、理解できなかった。どうして彼女はこんなに冷静でいられるんだ?胸の奥に広がる不安が、さらに大きく膨らんでいく。誰かが取り乱す姿を見るのは好きじゃない。けれど、今の星乃にはむしろ泣き叫んでほしかった。たとえ彼を一方的に責め立て、大声でぶつかってきたとしても、その方がまだ気が楽だった。なのに彼女の表情は驚くほど静かで、その瞳の奥の痛みさえ薄れて見えた。悠真は胸のあたりに詰まった息が、飲み込むことも吐き出すこともできずに苦しかった。しばらくして、かすれた声で問いかけた。「……子どもは、どうして死んだんだ?」「交通事故で……流産したの」星乃は簡潔に答えた。「どうして俺に言わなかった?」悠真は彼女を見つめ、充血した目を揺らした。その姿を見て、星乃はわずかに戸惑う。――悲しんでいるの?けれど、すぐに思い直す。その子は彼の子でもあった。悲しくなるのは当然だ。でも、それで何が変わるというのだろう。「理由なんて関係ある?」星乃は静かに言った。「もう死んでしまったのに、追及したところで何になるの?」彼女のあまりにも淡々とした口ぶりに、悠真の苛立ちは募るばかりだった。彼に隠して妊娠していたこと。そして流産したことさえ、彼は何も知らされなかった。星乃は自分を一体どう思っているんだ?悠真はついに堪えきれず、彼女の前に詰め寄ると、肩を乱暴に掴んだ。「星乃、忘れるな。俺はお前の夫であり、子どもの父親だ。知る権利がある!」その瞬間、酒の匂いが鼻をかすめ、彼が酔っていることに気づく。肩を握る手は骨が砕けそうなほど強く、星乃は思わず押し返したが、力はさらに増していく。五年も一緒に過ごしてきて、彼の頑固さは嫌というほど知っていた。引けば突き放し、押せば逆に後ずさる。酒が入ればなおさらだ。星乃は抵抗をやめ、まっすぐに彼の目を見据えた。「じゃあ訊くけど、あなたが結衣のことばかり気にかけてたとき、自分が私の夫で、子どもの父親だって思ったことあるの?」彼は結衣のために、怜司に命じて星乃を病院から追い出した。あの徹底した気遣いを見れば、もし流産のことを伝えたところで――何が変わったというのだろう。星乃の言葉に、悠真は言葉を失った。――彼女は、自分がないがしろにされたことを責めている。
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