Mag-log in通話はスピーカーにしていた。星乃の声が響いたとき、律人はただ口元をほんの少しだけゆるめた。仲介業者の男は驚いて、律人の方を思わず見上げた。――どうして星乃が、律人がここにいるって知ってるんだ?さっき電話をかける前、律人からはっきり言われていたのだ。「僕がここに来てることは、星乃には絶対言うなよ」そのとき、仲介業者の男は正直、大げさだと思っていた。まさか、二人がここまで正確にお互いを読んでいたなんて。仲介業者は律人が怖くて、言われたとおりに黙っていた。しらを切るように言う。「はて?どちら様でしょうか?お客さん、何の話をしてるのかよく分かりません」その言葉を聞いて、星乃は一瞬だけ沈黙した。そして、自分が考えすぎていたことに気づく。仲介業者はもう一度、部屋の紹介を始めたが、星乃は最後まで聞かずに落ち着いた声で遮った。「もういいです。どうせ、あなたが見つけてくれる部屋なんて、もう怖くて住めませんから。ご自分で住んでください」仲介業者は、先ほど自分がふざけたせいで怒っているのだと悟った。泣きたい気分で、律人の方をちらりと見やる。――あのとき、余計なことを言うんじゃなかった。律人は、もしちゃんと任務を果たさなければ、そのうち誰かを送り込んで嫌がらせしてやると脅してきた。さらには、自分の「黒歴史」を全部暴露するとも。どうやって調べたのか分からないが、確かに彼ならやりかねない。犯罪ではないが、ちょっとした不正があったのは事実で、それを顧客に知られたら、業界ではもうやっていけない。彼には見抜けた。律人は、言葉だけの人間じゃない、実行する男だ。仲介業者は慌てて言った。「す、すみません星乃さん!さっきは道を間違えただけで、決してからかうつもりじゃなかったんです。店にはしばらく、ご希望に合う物件がなくて、焦ってしまって……でも、今ちょうどぴったりな部屋を見つけたんです。条件もかなりいいんです。お詫びとして、仲介業者手数料は半額にします!」星乃はもう話を続けるつもりはなかったが、「半額」という言葉に少しだけ心が動いた。「どこの物件ですか?」仲介業者は律人から渡されていた住所をそのまま送った。星乃は画面を見て、しばし考え込む。その住宅街の名前には聞き覚えがあった。中堅クラスの住宅街で、富裕層のエ
不動産仲介店の外。星乃が車で去ってまもなく、一台の高級車が静かに滑り込んできて、店の前にぴたりと停まった。窓が下がり、律人の整った横顔が現れる。彼は片肘をドアにかけ、頬杖をつきながら、簡素な看板をじっと見上げた。少し考えたあと、車のドアを開けて中へ入っていった。平日の昼間で客は少ない。さっき星乃を送り出した仲介業者の男は、すぐに社内チャットで愚痴を垂れ流していた。「女の扱いが分かってない」と笑われ、彼は「吐き気がする」のスタンプを送った。「女の扱い?冗談だろ。あんな場所に平気で住んでる女が、まともなわけないじゃないか」そのとき、外から人の気配を感じて、彼は気だるげに目を上げた。視線が素早く律人の全身をなぞる。高級ブランドのスーツに、磨き上げられた革靴。ただ者じゃないと気づくと同時に、慌てて立ち上がり駆け寄った。「い、いらっしゃいませ!ご購入ですか?それとも賃貸でしょうか?」律人はまっすぐに問う。「さっきの綺麗な女性、何を聞きに来てた?」星乃のことだと悟った瞬間、仲介業者のテンションが一気に下がった。頭の中に浮かぶのは、以前、遥生が来たときのこと。あの時も高そうな服を着ていたくせに、結局はボロ部屋を借りていった。――まさか今回も、あの星乃の近くにある安アパートを借りるつもりじゃないだろうな?どういう趣味だよ。最近はそういう遊びでも流行ってるのか?安アパートを借りたところで、紹介料にもならねぇってのに。内心で悪態をつきながら、仲介業者は椅子に座り直し、鼻で笑った。「こんなとこ来て何すんです?まさか俺とデートでも?もしかして、お客さんもあの女を追っかけてる感じですか?やめといたほうがいいですよ。見た目はキラキラしてますけど、裏じゃ何人の男と遊んでるか……隣の部屋にも男が住んでてさ、よく二人で……」その瞬間、律人の足が容赦なく椅子を蹴り上げた。あまりに突然で、仲介業者は声も出せず床に転がり、派手にひっくり返った。怒鳴る暇もなく、律人の靴が胸元を押さえつける。もう片手で襟をつかみ、まるで小動物を掴むように軽々と持ち上げた。シャツの襟に喉を締め上げられ、仲介業者の顔はみるみる赤くなる。騒ぎに気づいた店内の人たちが、次々とこちらに視線を向けた。誰かが助けようと一歩踏み出
星乃は、まさか花音から電話がかかってくるとは思っていなかった。結衣はすでに悠真を病院へ送っていた。花音はずっと結衣が兄の妻になってほしいと思っていた。だから、結衣が悠真のそばで世話をし、二人の距離を縮めることは、花音にとっても望むところだったのだろう。だから、星乃には何の用だろうと首を傾げた。星乃は淡々と言った。「花音、私と悠真はもう離婚したの。彼が元気でも病気でも、私にはもう関係ないわ」あまりにもあっさりした口調に、花音は息を呑んだ。これまで悠真が体調を崩したとき、星乃はいつも真っ先に病院へ駆けつけて看病していたのだ。さっき病室では結衣しか見かけなかったので、星乃はまだ知らないのだと思っていた。正直、花音は少し安心していた。結衣と兄が二人きりで過ごせるなら、それが一番いいと思っていたからだ。けれど、さっき意識がもうろうとした悠真が、何度も星乃の名前を呼んだ。しかも医者が「今夜は付き添いが必要」と言ったのだ。結衣は体が弱く、一晩中看病するのは無理だろう。だから花音は星乃にチャンスを与えるつもりで電話をかけた。だが、星乃の言葉から察するに、彼女は全部知った上で無視している?花音は少し怒りを込めて言った。「離婚したとはいえ、兄は五年間もあなたの夫だったのよ。どうしてそんなに冷たいの?早く病院に来て。兄には看病が必要なの」星乃は静かに答えた。「結衣が今のあなたの義姉なんでしょ?彼女にお願いすればいいじゃない」花音は眉をひそめた。「結衣さんは夜は休まなきゃダメなの。後半は看病できないの」その当然のような言い方に、星乃はようやく電話の意図を理解した。思わず自嘲の笑みを浮かべる。「私に付き添いのバイトをしてほしいってこと?それで、いくら払ってくれるの?」「いくらって……?」花音は一瞬固まり、それから星乃の意図に気づくと、声を荒げた。「星乃、あなたそれでも人間なの?お金のことしか頭にないの?兄の看病をしたいって女の人なんて、世の中にいくらでもいるのよ。私はあなたが元妻だからって気を遣って電話してあげたのに、口を開けばお金、お金って……そんなにお金に困ってるわけ?本当にいやらしい。あなたみたいな俗っぽい人なんて、見てるだけで吐き気がする!」そう言い放つと、花音は星乃の返事も待たずに電話を切っ
悠真の手のひらは、焼けつくように熱かった。星乃は目を見開いた。彼の全身の肌がゆでた海老のように真っ赤に染まり、唇だけが血の気を失って白くなっている。汗が次々と滴り落ちていくのが見えた。その身体が、かすかに震えているのがわかる。何が起きているのか考える間もなく、星乃の鼻先を、結衣がつけている香水の匂いがかすめた。さっき目にした光景が頭によぎる。星乃の胸にこみ上げたのは、怒りと屈辱だった。反射的に、彼を思いきり蹴り飛ばした。避けると思っていたのに、蹴りはしっかりと悠真の体に当たった。「っ……」と彼が低く唸り、顔がみるみる青ざめる。痛みのせいか、体を折り曲げて片膝をついた。そんな彼を見るのは初めてだった。星乃は一瞬、何も考えられなくなり、その場から逃げることさえ忘れてしまった。悠真は、汗を滴らせながら彼女の腕をつかむ。大粒の汗が床に落ちて、ぱちんと音を立ててはじけた。「星乃……」掠れた声で彼が言う。「違うんだ、さっきのは、俺……お前だと思って……」言葉が途切れ途切れで、どこか取り乱したような、哀願の声だった。星乃は思わず笑ってしまう。「悠真、私たち結婚して五年になるのに、ベッドの中の相手も見分けられないの?」「今までの女も、みんな私だと思ってたわけ?」――彼にとって、私はその程度の存在?「違う……そんなことはない」悠真の息が荒くなる。「星乃、俺は今まで一度だってお前を裏切ったことはない。今日ここに来たのも、お前に伝えたいことがあって……」「もういい」星乃は冷ややかに遮った。「もう何も言わないで。私たちはもう離婚したの。あなたが誰と一緒にいようと自由よ。私には関係ないし、説明なんていらない。ただ、もう二度と、私の生活に踏み込まないで。私には新しい生活があるの。恋人もいる。自分の愛する人も」淡々とした口調で言うたびに、悠真の指が彼女の腕を強く締めつけた。けれど病気のせいで力が入らないのか、星乃が軽く腕を振ると、簡単に振りほどけた。だが、すぐに彼はもう片方の手で彼女を掴み直した。悠真の意識が一瞬、宙に浮く。目の前の星乃が、まるで知らない人のように見えた。――あれほど自分を愛してくれた彼女が。今は、何の感情も宿していない。その瞳には、愛も未練もなく、あるのは嫌悪と冷
会社から戻った星乃は、いつも通り借りているアパートへ帰った。手には、近郊の企業の連絡先をまとめた資料。明日は一軒一軒まわってみようと思っていた。考えごとをしていたせいで、部屋の鍵がすでに開けられていたことには気づかなかった。リビングに入り、水を飲もうとしたそのとき、寝室のほうから、かすかな物音が聞こえた。空気の中には、妙な匂いが漂っている。星乃は一瞬立ち止まり、警戒しながら寝室のドアへ近づいた。半開きの扉を押すと、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。床には、脱ぎ散らかされた服が散乱していた。狭いベッドの上では、男女が絡み合っている。女の長い髪が肩にかかり、背中は白く滑らかだった。その腰を、男の手がしっかりと抱えている。音に気づいたのか、女が顔を振り返る。星乃の目の前にあったのは、結衣の顔だった。唇を噛みしめ、頬を赤く染め、汗が光っている。けれど星乃を見ても、結衣は怯えるどころか、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。彼女の下にいる男が誰なのか、言うまでもない。星乃はその場に立ち尽くし、頭が真っ白になった。ようやく自分が何を見たのか理解したとき、男の低い呻き声が聞こえた。その瞬間、胃の奥がひっくり返るような吐き気がこみ上げてきた。もう限界だった。星乃はその場を背を向け、足早に出ていった。だが、部屋を出かけてふと気づく。――違う。ここは自分の部屋だ。その思いが頭をよぎると、怒りが一気に込み上げてきた。再び寝室へ戻り、勢いよくドアを蹴り開けた。「出ていって!」声が震えるほど怒りでいっぱいだった。「二人とも、出て行け」寝ぼけたように悠真が顔を上げ、星乃の声に一瞬思考が止まった。慌てて目を開け、目の前の結衣を見た途端、冷や汗が噴き出す。「どうして?星乃……」彼は体を起こそうとしたが、結衣が慌てたふりで彼を押さえつけ、布団を引き上げて二人の体を隠した。肌の熱が触れあい、悠真の背筋がぞっとした。一瞬、呼吸が止まった「星乃、ごめんなさい。ちゃんと説明するから」結衣が小声で言った。沈繁星にはその言葉の裏が透けて見えた。――何の説明?今この状況こそ、彼女が見せたかったものじゃないの。星乃は怒りを押し殺しながら、淡々とした声で言った。「説明なんていらない。すぐ服を
そう思った瞬間、智央はようやく冷静さを取り戻した。だが、それでも思わずため息をつき、ぼそりと漏らした。「……あの時、帰国なんてしなきゃよかった。そうすれば、あんな『賭け』もしなくて済んだのに」――賭け?星乃は一瞬きょとんとした。意味を尋ねようとしたところで、遥生が先に智央の言葉を遮った。「今日の話はこれで終わりにしよう。ひとまず星乃の提案どおり進める。低コスト版ならリスクも少ないし、価格の見直しをして再投入だ。具体的な金額は、今夜の会議で詰めよう」方針が決まると、通話は切れた。星乃は先ほどの智央の「賭け」という言葉が気になり、思わず尋ねた。「智央さん、さっき言ってた『賭け』って、どういう意味ですか?」「え、知らないの?」智央が少し驚いたように目を瞬かせる。だが、彼女が本気で分かっていない様子を見て、すぐに察した――なるほど、遥生は本当に彼女に話していなかったんだ。そう考えると、さっきあのタイミングで遮った理由にも納得がいく。きっと星乃に余計なプレッシャーを与えたくなかったのだろう。智央の胸の内は複雑だった。ここまで見ていれば、遥生が星乃に抱いている想いくらい、分からないはずがない。けれど、本人が話す気がないなら、自分が代わりに話す気もなかった。彼は星乃の肩を軽く叩き、冗談めかして言った。「賭けってのはさ、いつになったらお前と遥生の結婚式で祝杯をあげられるかって話だよ」「……え?」星乃は目を瞬かせる。「冗談だよ、冗談。ほら、仕事戻ろう」智央は笑って話を流した。星乃は、その軽い笑いの裏に何かを隠しているのを感じた。だが、彼が言う気がないのなら、これ以上は聞かない方がいいと思った。……その頃、結衣は「幸の里」のアパートの前に立っていた。古びた外観を見上げ、わずかに眉をひそめる。――ここが、星乃の借りている部屋ね。予想どおり、悠真は病院には行かず、星乃のもとを訪ねていた。さっき彼が自分を突き放したときの、あの冷たくも決然とした目を思い出し、結衣の胸の奥に悔しさが込み上げる。彼女は小さく息を吐き、まっすぐ階段を上がっていった。以前、星乃の住所を調べておいたうえに、大家にも「友人」を装って連絡してあった。少しばかりの金を渡しただけで、簡単に合鍵を手に入れることができた。鍵を差