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第113話

Author: 藤崎 美咲
二人が恋に落ちたのはずっと昔のこと。

まだ幼さを残した年頃に、結衣は悠真と出会い、彼の敏感な部分をよく知っていた。

悠真の黒い瞳は赤く滲み、結衣に攻め立てられるうちに、口の中は渇ききり、呼吸も荒くなっていった。

乱れた息が彼の仮面を容赦なく剥ぎ取っていく。

それでも彼は、無理やり自分を制して立ち止まった。

――違う。

この長い年月、星乃と肌を重ねるたびに、彼はわざと嘲笑してきた。

――この顔が結衣なら良かったのに、と。

だが今、結衣本人が目の前にいる。

ただ欲望に身を任せれば、五年間飢え続けた自分を満たすことができる。

それなのに、感じるものは想像とはまるで違っていた。

もし本当に結衣を抱いてしまったら――その先に待つのは、得体の知れない恐怖。

胸の奥にびっしりと張りつく不安が、彼の動きを縛りつけた。

そして、理性が壊れかけたその瞬間。悠真は最後の力で自分を取り戻し、結衣を突き放した。

結衣は涙に濡れた目を赤くして、信じられないというように彼を見つめた。

悠真はその視線に耐えきれず、目を逸らした。「俺たちのことは、もう過去だ。前を向け。お前ならもっといい相手に出会える。俺は結婚してる。お前の人生を俺が汚すわけにはいかない」

結衣は唇を強く噛み、羞恥と怒りに震えながら絞り出した。「それは……星乃の原因?」

悠真は答えなかった。

脳裏に浮かんだのは、涙で濡れ、蒼ざめた星乃の顔。

言葉にできない混乱が彼の頭を支配した。

彼の沈黙を、結衣は肯定だと受け取った。

拒まれただけでも屈辱なのに、さらに相手が星乃だと気づいた瞬間、その屈辱は一層膨れあがった。

「悠真……忘れたの?本来、冬川家の妻の座は、私のものだった」涙をこらえながら結衣は訴える。

「もし星乃が現れなければ、今ごろ私たちは一緒にいたはずなのに」

悠真は彼女を見つめた。

たしかに最初はそうだった。星乃が妻の座を奪ったせいで結衣を裏切ったと考え、その罪悪感から星乃を痛めつけてきた。

けれど今、彼の胸に蘇ったのは、あの本宅で星乃に告げられた言葉だった。

――もしかしたら、結衣への想い自体が、すべてを投げ出してでもつなぎとめられるほど深いものではなかったのかもしれない。

悠真は、もはや自分を誤魔化すことができなかった。

立ち上がり、静かに言った。「俺たちが別れたのは
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