落下の感覚は長く続いた。重力に引きずられるというより、魂そのものが底なしに吸い込まれていくような感覚だった。次に足裏に何かが触れた時、そこはもう〈刻罪の砂漠〉でも台座でもなかった。どこまでも広がる漆黒の虚無。風はなく、音もなく、匂いすら存在しない。ただ、足元だけが淡く光を放っていた。その光は水面のように揺れ、踏みしめるたびに柔らかく波紋が広がっていく。波紋の中には、一瞬だけ色や形が浮かんでは消えた──血に濡れた玉座、鎖に繋がれた牢獄、見覚えのある街並み。「……ここは、どこだ?」カインの声が虚無に溶け、遠くまで響く。返事はなかった。代わりに、甘く低い声が空間全体を満たす。『ここは二人の記憶が交差する場所。この核は、その交差点から扉を開く鍵を探す』サティーナの声。だが姿は見えない。近くにいるのか遠くにいるのかもわからず、音だけが全方位から降ってくる。リリスは足元の光を見つめた。波紋の中に、ほんの数秒だけ、自分の過去が映り込む。黒契王として玉座に座る自分、そしてその隣に立つ白銀の髪の女。瞬きの間に消えたかと思えば、今度は牢獄の鉄格子越しに座り込むカインの姿が現れ、また消える。「……記憶が、滲んでる」呟いた途端、足元の波紋が強く脈動し、眩い光が二人を包んだ。光はやがて境界線を描き、二人の間を引き裂く。「別々に行け、ってことか……」カインが短く息を吐き、腰の剣に手を置く。リリスは一瞥をくれただけで、無言のまま境界をまたいだ。瞬間、視界が白く塗り潰される。リリスの鼻腔を満たすのは、薔薇と香の混じった重く甘い匂い。同時にカインの方も、鉄と油の混ざった匂いに包まれていた。『さあ──あなたたちの“奥”を、覗かせてもらうわ』サティーナの声が、虚無全体を震わせ、記憶の扉を開け放った。白に塗り潰された視界が徐々に色を取り戻すと、そこはかつての玉座の間だった。天蓋の下、燭台の炎が揺れ、紅い絨毯が階段を覆っている。その最上段に──過去の自分が座っていた。黒契王の冠を戴き、冷ややかな目で階下を見下ろす、血よりも濃い黒の瞳。その視線の先に立つのは、白銀の髪を流した女。サティーナ。今よりも若く、艶やかな笑みを浮かべている。「……初めて会った時の」リリスは息を呑む。あの日、彼女は契約核の番人として現れ、強い魔力と挑むような視線で、まだ
Last Updated : 2025-08-09 Read more