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共通の記憶、解かれる扉

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-08-09 23:34:34

落下の感覚は長く続いた。重力に引きずられるというより、魂そのものが底なしに吸い込まれていくような感覚だった。

次に足裏に何かが触れた時、そこはもう〈刻罪の砂漠〉でも台座でもなかった。

どこまでも広がる漆黒の虚無。

風はなく、音もなく、匂いすら存在しない。

ただ、足元だけが淡く光を放っていた。その光は水面のように揺れ、踏みしめるたびに柔らかく波紋が広がっていく。

波紋の中には、一瞬だけ色や形が浮かんでは消えた──血に濡れた玉座、鎖に繋がれた牢獄、見覚えのある街並み。

「……ここは、どこだ?」

カインの声が虚無に溶け、遠くまで響く。

返事はなかった。代わりに、甘く低い声が空間全体を満たす。

『ここは二人の記憶が交差する場所。この核は、その交差点から扉を開く鍵を探す』

サティーナの声。だが姿は見えない。近くにいるのか遠くにいるのかもわからず、音だけが全方位から降ってくる。

リリスは足元の光を見つめた。

波紋の中に、ほんの数秒だけ、自分の過去が映り込む。黒契王として玉座に座る自分、そしてその隣に立つ白銀の髪の女。

瞬きの間に消えたかと思えば、今度は牢獄の鉄格子越しに座り込むカインの姿が現れ、また消える。

「……記憶が、滲んでる」

呟いた途端、足元の波紋が強く脈動し、眩い光が二人を包んだ。

光はやがて境界線を描き、二人の間を引き裂く。

「別々に行け、ってことか……」

カインが短く息を吐き、腰の剣に手を置く。

リリスは一瞥をくれただけで、無言のまま境界をまたいだ。

瞬間、視界が白く塗り潰される。

リリスの鼻腔を満たすのは、薔薇と香の混じった重く甘い匂い。

同時にカインの方も、鉄と油の混ざった匂いに包まれていた。

『さあ──あなたたちの“奥”を、覗かせてもらうわ』

サティーナの声が、虚無全体を震わせ、記憶の扉を開け放った。

白に塗り潰された視界が徐々に色を取り戻すと、そこはかつての玉座の間だった。

天蓋の下、燭台の炎が揺れ、紅い絨毯が階段を覆っている。

その最上段に──過去の自分が座っていた。

黒契王の冠を戴き、冷ややかな目で階下を見下ろす、血よりも濃い黒の瞳。

その視線の先に立つのは、白銀の髪を流した女。サティーナ。

今よりも若く、艶やかな笑みを浮かべている。

「……初めて会った時の」

リリスは息を呑む。

あの日、彼女は契約核の番人として現れ、強い魔力と挑むような視線で、まだ
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