All Chapters of 誘拐され流産しても放置なのに、離婚だけで泣くの?: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

こんな質問、無駄以外の何ものでもない。それでも、凌の勝手な憶測で面倒事になるのは避けたかった。「鈴香の社長よ」鈴香?凌はその名を知っていた。胸の奥で嫌な予感が芽生える。夕星は隠さず言った。「会社に来ないかと誘われたの」「見学させてもらったけど、規模は大きくないのに力はある会社だった」「だから承諾したわ」穏やかだった凌の表情が、じわじわと冷え切っていく。「認めない」夕星は一瞬ぽかんとした。この件で凌の許可を得ようとは思っていなかった。ただ伝えただけで、意見を聞くつもりなど最初からなかったのだ。「凌、私の席は雲和に譲ったから、自分の道を探すしかないでしょ」凌の唇が固く結ばれ、冷たい声が落ちる。「俺が養える」金持ちの妻が他人の下で働くなどありえない。夕星は冷えた目のまま窓の外を見た。凌が十人分の彼女を養えたとしても、だから何だというのか。二人の間の情なんて、とっくに擦り切れてなくなっている。いつ凌が離婚を言い出したっておかしくない。だから自分の足で立てるようにならなきゃならない。男なんか当てにならない。頼れるのは自分だけ。膝を叩いていた凌の指が止まる。「会社に戻ればいい」夕星は小さく笑い、真っすぐ凌を見た。「じゃあ、雲和は?」「サブディレクターの席に就けばいい」凌は淡々と言う。この配置が最善だと思ってる。「雲和が開発を担当して、お前は肩書きだけ。行きたくなければ休めばいい」その言葉に、夕星は思わず吹き出した。凌にとって、彼女が働きたいのは暇つぶしであって、香水への情熱など眼中にないらしい。「片岡さんとはもう話がついてるの」凌の提案は即座に突き返した。雲和の下になんて絶対につきたくなかった。「片岡さんは香水の知識がすごく深い人よ」「まだ二度しか会っていないけど、私の知己と呼べる人だと思う」文弥の話をする夕星の声は柔らかく、自然と敬意がにじむ。「知己」という言葉を使うあたり、彼への評価と好意の深さがよくわかる。凌の目に冷たい光が宿り、怒りがさらに募った。自分には冷ややかな態度なのに、別の男にはこんなふうに目を輝かせる。それが気に入らない。凌は彼女を腕の中へと引き寄せ、眉を吊り上げる。暗い瞳は、嵐の前の静けさのように張り詰めていた。「言っただろ。俺は反対だ
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第32話

夕星は使用人を呼び、荷物を運ばせた。だが、使用人が部屋の前に来た途端、凌の怒鳴り声が飛ぶ。「出て行け」使用人は驚き、夕星の方を振り返った。夕星は落ち着いた声で言う。「いいわ、下がって」凌が怒っているのは自分に対してで、他人を巻き込むつもりはなかった。ただ、二人は腹を割って話す必要があった。「凌、私たちは一度冷静になるべきよ」夕星は静かに口を開く。少し距離を置けば、この関係を見直せるかもしれない。凌の瞳が陰を帯びる。「引っ越すつもりか?それとも片岡文弥に会いに行くのか?」夕星は視線を落とし、箱の中の本を見つめた。一冊一冊、何度も読み返してきた本たち。そこから得た知識と香水への情熱だけは手放せない。「どっちもよ」夕星は正直に答えた。志を同じくする人と出会い、新しい仕事もあり、凌から離れる……そのどれも矛盾しない。凌の目尻が赤く染まる。退院してからの日々、二人は表面上は平穏で、彼は毎日きっちり帰宅し夕食を共にしていた。もちろん、夜になれば夫婦としての時間もあった。夕星は合わせ、応じ、時には自分からも求めた。彼はもう、仲直りできたと思っていた。凌の優しさは一瞬で怒りに変わり、冷ややかな声で言う。「会社にいた時、機密保持契約に署名したはずだ。退職から三年間は同じ業種の仕事には就けない」夕星は呆然とした。「それで私を脅すつもり?」なんて卑劣なのだろう。凌は淡々と続ける。「事実を伝えているだけだ。契約してから責任を問われても困るだろう」もう何も言いたくなかった。夕星は段ボールを閉じ、彼を見ることなく、すぐに部屋を出た。凌の胸にざわめきが走る。夕星が寝室には戻らないと直感で分かった。彼は慌てて追いかけ、手首をつかんだ。「どこへ行くんだ」夕星はその手を振り払い、冷たい声を投げる。「決まってる。ここを出るのよ」本は持っていけないなら、それでいい。今は一刻も早くここを離れたい。凌がいる場所は、息が詰まる。「夕星」凌は夕星を呼び、瞳には暗雲が渦巻いていた。何かを必死に堪えているようだった。「俺が出ていく」彼は彼女の手を振りほどき、大股で立ち去った。夕星は窓から彼の車が去るのを見送った。心は複雑だったが、ここに留まりたいとは思わなかった。使用
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第33話

キャサリン先生は国際的に著名な調香師であり、彼女が贈ってきた香水は並の品ではない。その場にいた人々の視線は皆、雲和に向けられ、羨望と称賛が入り混じっていた。キャサリン先生の弟子であるという事実だけでも、雲和がどれだけ高い才能を持っているかがよくわかる。雲和は口元に微笑みを浮かべ、丁寧な口調で言った。「こちらは師匠の最新作です。どうかご鑑賞ください」周囲の人たちは息をのんだように静まりかえり、その香水に目を奪われた。キャサリン先生の新作に触れられる機会はそう多くない。それだけで特別な体験だった。片岡先生は頷く。「開けてごらんなさい」雲和は自らガラスの箱を開け、慎重に香水瓶を取り出して蓋を開けた。すると、濃密で豊かな香りが徐々に空気に広がり、まるで豪奢な宮殿に迷い込んだかのような気分にさせた。「こちらは濃縮タイプのエッセンスで、少し香りが強めなんです」雲和はそう説明すると、蓋を戻し、元通りに丁寧に仕舞った。そして期待を込めて片岡先生に尋ねる。「片岡先生、いかがでしょうか?」片岡先生は微笑みながら、「いいんですね」と一言。雲和は嬉しそうに顔をほころばせたが、片岡先生はすぐに夕星の方へ目を向けた。「秦さんの香りは、牡丹でしょうか?」夕星は頷いて答えた。「はい、牡丹です」普段は香水をあまり使わない彼女だが、今日は特別な日なので使ってきた。牡丹は昔から優美で気品ある象徴とされており、香りも華やかで上品だ。キャサリン先生の作品と比べても、夕星が纏っている香りはより落ち着きがあって、上品さが際立っていた。「素晴らしい香りですね。秦さん、よければ一本分けていただけませんか?」片岡先生はなんと自分からそう頼んできた。夕星は驚きながらも恐縮して、「お気に召していただけたなら、すぐにお届けします」と答えた。「こちらへどうぞ」片岡先生が言った。夕星は隣の休憩スペースに向かった。たった数分のやりとりだったが、誰の目にも明らかだった。片岡先生は夕星を高く評価し、対照的に、キャサリン先生の弟子である雲和にはあまり関心を示していなかった。キャサリン先生の香水については「いいんですね」という一言だけで、それ以上は何も言及しなかったのだ。雲和は目元を赤くし、とても恥ずかしかった。せっかく師匠の作品を持参し、凌
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第34話

凌が歩み寄った。今夜の夕星は、気分がよかった。彼女はこれまで、自分が調香を体系的に学んでいないことを理由に卑下したことはなかった。だが、業界の先輩から直接認められ、称賛されたことは、また別の形での大きな肯定だった。彼女は心の中で思った。榊家グループで過ごした三年間、凌に余計な迷惑をかけたくなかったから、控えめを貫き、業界の催しにはほとんど参加しなかった。今にして思えば、それはあまりにも大きな損失だった。幸い、まだ遅くはない。「片岡先生、今日はご機嫌ですね」凌は落ち着いて腰を下ろし、肘が夕星の肘に軽く触れた。まるで仲のいい夫婦のようだった。夕星はさりげなく肘を引いた。文弥はいつも控えめな人柄だが、この時ばかりは微笑んで声をかけた。「榊社長はどうしてこちらに?秦ディレクターは大丈夫ですか?」凌は人前で感情を表に出すことは滅多にない。ましてや、ここには片岡先生もいる。彼はソファの背もたれに腕を回し、まるで夕星を抱き寄せるような姿勢をとった。「夕星の夫です。当然、彼女のそばにいるべきでしょう」夕星は上品な微笑みを保っていた。片岡先生は隣の文弥をちらりと見てから、向かいの二人をにこにこと眺めた。「榊社長と秦さんは仲睦まじいご夫婦で、羨ましい限りですな」長年の人生経験から、片岡先生にはすぐにわかった。凌が夕星に抱く思いは、他の誰とも違っていた。凌の表情には、ほんの少しだけ、真心のこもった笑みが浮かんだ。夕星は話題を変え、片岡先生と香水について語り合った。文弥も時折言葉を挟み、三人の会話は和やかに続いていった。凌は業界のことには詳しくなかったが、それを気まずく思うこともなく、夕星の長い髪を指で軽くいじりながら、実にくつろいでいた。そのうち、片岡先生の気分はますます高まり、夕星に自身のコレクションを見せたいと誘った。夕星は喜んで承諾した。その場には、凌と文弥だけが残された。文弥は静かに言った。「秦さんと離婚すべきです」凌と夕星の離婚の噂は、すでに広く伝わっていた。ただ、凌が人前では「仲の良い夫婦」を演じ続けていたため、その真偽は曖昧なままだった。だが、文弥は夕星と直接関わる中で、二人の関係がすでに終わりかけていることを見抜いていた。凌の整った横顔に、淡くも強い意志がにじんだ。「夕
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第35話

文弥は振り返り、別の客と話し始めた。凌はその場に座ったまま、顔を曇らせ、眼差しの奥に陰鬱さを漂わせていた。雲和は少し離れた場所に立ち、顔色を失っていた。文弥が片岡先生の孫だったのか。お姉ちゃんはいつの間に、こんな縁を結んでいたのか。道理で榊家グループを辞めるとき、あれほどまでに平然としていられたわけだ。これまで雲和は、夕星という姉をまともに見たことがなかった。田舎育ちの娘で、同じ血が流れていても、環境の差は埋まらない――そう思っていた。だが今日、その田舎者の姉は別の一面を見せつけ、彼女に痛烈な衝撃を与えた。ゆっくりと歩み寄り、柔らかな声で問いかける。「凌くん、どうしたの?」凌は我に返り、腕時計を一瞥してから立ち上がった。「運転手に送らせる」片岡先生が夕星をこれほど高く評価している以上、雲和の存在はここでは意味を失っていた。雲和はおとなしく頷いた。外へ出ると、そこには夕星と文弥の姿があった。文弥が何かを言うと、夕星はふっと笑みをこぼし、眉尻から目元にかけて女性らしい柔らかさを宿らせた。文弥は車のドアを開け、夕星を送るつもりらしい。「お姉ちゃんだ……」雲和が小さくつぶやく。その瞬間、凌はすでに大股で歩み寄り、夕星の手首をつかんで自分のそばへ引き寄せ、冷ややかな視線を文弥に向けた。「片岡さんにお世話になる必要はありません」文弥は穏やかに夕星を見つめる。「君は?」文弥は、あくまで夕星の意思を尊重した。夕星は、文弥と凌が衝突することを望まなかった。「榊社長と同じ方向です」運転手が車を寄せると、夕星は自ら助手席に乗り込み、後部座席を凌と雲和に譲った。凌は目を暗くし、運転手にまず雲和を送るよう命じた。夕星は文弥に別れを告げる。車が走り去る。文弥はその場に立ち尽くし、深く落胆していた。年老いた片岡先生が歩み寄り、文弥の肩を軽く叩く。「秦さんは、今まで出会った中で最も才能のある人間の一人だ」文弥はわざと驚いたような顔をした。「その一人って……まさか私も含まれているとかじゃないでしょうね?」片岡先生は孫を横目で見やり、長くため息をつく。その顔には、どこか未練の色が滲んでいた。「あの人……残念だった」文弥は、祖父の心に長年引っかかっている存在がいることを知っていた。真剣な口調で
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第36話

「おばあちゃん」夕星は梅代の胸に飛び込み、甘えるように抱きついた。梅代は孫娘の背を優しく叩きながら微笑む。「今日はどうして私に会いに来る時間があったの?」心の底では、夕星がもっと会いに来てくれることを願っていた。けれど、あの偏った息子夫婦のことを考えると、来てほしくない気持ちもあった。来るたびに、夕星を嫌な思いをさせてしまうからだ。夕星は「通りがかっただけ」と嘘をついた。梅代が立ち上がろうとすると、夕星は手を伸ばす。だが凌が先に支え、「俺がやる」と言った。夕星は唇を結び、もう一方の腕を支えた。梅代は左右を見比べ、心から嬉しそうに言った。「二人とももう年頃なんだから、早く曾孫の顔を見せてちょうだい」老人にとって、子どもがいて初めて家庭は完成する。凌低い声で笑みを込めて言う。「おばあちゃん、俺頑張るから」そう言いながら妻を見ると、夕星の顔色は少し青ざめていた。視線を感じた夕星は俯き、検査結果と唐沢先生の言葉が頭をよぎる。彼女には、もう自分の子供を持つことはできない。悲しみが全身に広がり、涙が込み上げる。けれど、梅代の前では必死に堪えた。梅代が部屋に戻ると、正邦が使用人を遣わして凌を呼びに来た。凌はその場を離れた。夕星が梅代としばらく話すと、梅代の寝る時間になった。夕星は梅代の寝支度を整え、眠りについたのを確認してから、静かに部屋を出た。外には雲和が立っていて、小声で呼びかける。「お姉ちゃん」夕星の表情は一瞬で冷え、淡々と彼女を見る。雲和はピンクのロングドレス姿で、白い指をもじもじと絡め、言いかけてはやめる表情を浮かべていた。不倫騒動以来、二人が二人きりで向き合うのは初めてだった。夕星は挨拶もせず、そのまま通り過ぎる。「お姉ちゃん」雲和は唇を噛み、白い頬に我慢の色を浮かべて呼び止めた。夕星は歩みを止めない。雲和と話すことなど何もなかった。背後から再び雲和の声が聞こえる。「お姉ちゃんはわざとだったの?」声は泣き声を帯び、満腹の悔しさがにじんでいた。足を止めて振り向いた夕星は、冷ややかに言った。「おばあちゃんは寝てるんだから、声を抑えて」雲和が近づく。目尻には涙が溜まり、強情に顔を上げた。「お姉ちゃんと争うつもりなんてなかったのに、どうしてこんな恥をかかせる
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第37話

「満足した?もう帰っていい?」夕星は腕を組み、無表情で言った。雲和はすすり泣きながら、それでも夕星の袖をつかもうと手を伸ばす。「お姉ちゃん、ごめんなさい」夕星は嫌悪を隠さず一歩下がった。「本当に悪いと思うなら、私から離れて」そう言って背を向け、歩き出す。ここにいれば、雲和はいつまでも泣き続ける。まるで人の言葉が通じないかのように。いや、通じないのではない。自分に都合の悪いことだけ、選んで無視しているのだ。雲和は自己中心的であることに慣れ切っていた。秦家に甘やかされて育ち、誰もが自分を中心に回って当然だと思っている。だが夕星は違った。親の愛も、姉妹の情も、これまで一度も味わったことがない。リビングに入ると、正邦と楽しげに話し込む凌が目に入った。「帰っていい?」夕星は淡々と問いかける。正邦は眉をひそめた。空気が読めないにもほどがある。自分が凌と話しているのが見えないのか。蘭は表情を読み取り、すぐに声をかけた。「夜食を用意させたから、食べてから帰りなさい」夕星はただ凌を見つめる。凌はすでに立ち上がっていた。「お義父さん、また今度話しましょう」正邦は笑顔でうなずいたが、その直後、夕星を鋭く睨みつけた。夕星が踵を返して歩き出したその瞬間、肩を強く押される。不意を突かれ、後ろに倒れかけた。だがすぐに、背後から力強い腕が腰を抱き、肩を支えて引き寄せた。「深也、何してるの」蘭がたしなめるように言ったが、声に力はなかった。深也は怒りを隠さず、夕星に指を突きつけて罵った。「帰りたくないなら来るな。この家はお前を歓迎しない」夕星は体勢を整え、深也の背後に立つ雲和を見やった。また雲和のために出てきたのだと悟った。深也は昔から雲和の涙に弱かった。正邦は元々夕星に不満を抱いており、深也の言葉に乗じて叱りつけた。「今度は何をした?」雲和が深也の背後から出てきた。赤く腫れた目、肩にかかる乱れた髪――その姿はいかにも痛ましげだった。その時、夕星は肩にかかる凌の手が、わずかに強くなるのを感じた。彼女の瞳に嘲りが浮かぶ。一歩後ずさり、肩からその手を振り払った。蘭は雲和のもとに歩み寄り、優しく慰める。正邦は夕星が口を開かないのを見て、さらに声を強めた。「聞いているんだ。また妹をいじめたのか?」夕星の
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第38話

蘭は肝を冷やした。榊家の後継者だ。婿養子とはいえ、そう簡単に手を上げられる相手ではない。「この子ったら、何で身を挺すんだ?」夕星は呆然と凌を見上げた。まさか彼が自分をかばうとは思いもしなかった。しかも、その音から察するに、正邦はかなりの力で叩いたようだ。目頭が熱くなり、瞳に涙が滲む。唇が何度か震えたが、言葉は一つも出てこなかった。正邦は我に返ると、慌てて運転手に凌を病院へ運ばせた。凌は半身を夕星に預け、少しふらついていた。病院に着くと、凌はそのまま検査室へと運ばれていった。夕星は虚ろな目で検査室の灯りを見つめ、胸中は複雑な思いでいっぱいだった。あの時、凌は雲和を気遣っていたはず。自分が叩かれるのは、むしろ望むところではなかったのか?それなのに、なぜわざわざ間に入ってきたのか。「夕星」珍しく柔らかな声で、正邦が娘の名を呼んだ。「話がある」夕星は冷ややかな視線を向ける。正邦はその態度が気に入らなかったが、今後のことを考えて不快感を飲み込んだ。「凌くんはお前をかばって叩かれたんだ」「榊家の人に聞かれたら、どう答えるか分かっているな?」凌の体は大事にされている。擦り傷ひとつでも大騒ぎになるのだ。ましてや今回は後頭部という要所の怪我だ。榊家が黙っているはずがない。正邦の言いたいことは明白だった――夕星に責任をかぶれというのだ。夕星の背筋に冷たいものが走った。「つまり榊家に嘘をついて、凌を私が殴ったことにしろと?」「もともとお前を守ってのことだろう」正邦は不機嫌に言い放つ。夕星の心は奈落へ沈んでいった。この世にこんな父親がいるだろうか。自分の非を認めず、娘に責任を押し付けるなんて。もし彼が理不尽なえこひいきをしなければ、こんな事態にはならなかった。彼女が黙っていると、正邦の怒りが再び顔を出す。「夕星、お前と凌くんは夫婦だ。榊家は凌くんの顔を立てて、お前を責めるはずがない」「だが俺となれば、ただで済むわけがない。お前だって、あの年でおばあちゃんが心配に押し潰される姿は見たくないだろう?」また梅代の話――夕星は目を赤くして怒りを覚えた。梅代は夕星の祖母であると同時に、正邦の母親でもあり、秦家の目上だ。それすら気に留めないのか。正邦は夕星の表情を見て、自分の言葉が効いていると確信し
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第39話

正邦が先を争うように言った。「すべて夕星のせいだ。凌くんに手を出すべきではなかった。彼を傷つけてしまった」オフィスは一瞬静まり返った。凌の母は医師の方を見た。「凌は自分で転んだんじゃないの?」医師は冤罪を被ったような表情で言った。「榊社長はご自身がそうおっしゃいました」凌の母は冷たい視線で夕星を見つめた。「凌に手を出したというの?」夕星は喉が渇き、言葉が出なかった。本来凌は医師に自分で転んだと説明していたが、正邦が責任逃れのためにこの嘘を暴いてしまった。「話しなさい」凌の母は声を張り上げ、厳しい表情になった。正邦はゆっくりとため息をついた。「これは……」凌の母は冷たい目線をぶつけてきた。「秦家の育て上げた立派な娘だわね。私の息子の面倒もろくに見られない上に、手まで出すとは」正邦の目的は達成され、彼は黙り込んだ。「出ていきなさい」凌の母は医師と正邦を追い出した。彼女はソファに座り、優雅で豪華な身なりをしながら、夕星を厳しく批判的な目で見下ろし、軽蔑と辛辣さに満ちていた。「最初から凌があなたと結婚するのには反対だった。家柄も学識もない。たった三年凌の側にいただけで、自分を偉い人間だと思い込み、凌に手を出せるようになったのか?誰がそんな胆力を与えたというの?」「それにあなたの妹、あの時は結婚から逃げ出しておきながら、今さら厚かましくも凌を訪ねてくる」「姉妹で一人の夫に仕えたいのかもしれないが、榊家はそんな恥ずかしい真似はできない」「まったく教養がないわ」夕星は指を握りしめ、凌の母に頭のてっぺんから足の先まで一文の値打ちもないと罵倒されるのを聞いていた。だが彼女は反論することさえできず、ただ沈黙を守るしかなかった。凌がやってきて、ようやく凌の母の言葉は止んだ。凌は夕星に向かって手を差し伸べた。「こっちへ来い」夕星はうつむきながら歩み寄った。凌は彼女の肩を支え、少々冷めたく母に言う。「夕星がここで俺の面倒を見てくれるから、母さんは帰ってくれ」凌の母は夕星を強くにらみつけ、凌をしっかり世話するよう警告して、ようやく立ち去った。夕星は凌を病室に送り届けた。病床に横たわった凌は、夕星がまだ青ざめた顔をしているのを見て、「大したことないから、安心して」と慰めた。夕星は静かに彼を見つ
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第40話

夜八時。雲和が凌を見舞いに来た。夕星は二人の甘ったるい会話が苦手で、口実をつくって病室を抜け出した。「お姉ちゃんはやっぱり私のこと嫌いなんだ」雲和はいつものようにすねた。今日は気持ちが不安定で、夕星への気持ちをもう抑えられなくなっていた。「あれが彼女の性格だよ」凌は淡々と言った。雲和は何となく違和感を感じていた。以前の凌は少しイライラして、夕星のわがままをただの甘えだと思っていた。でも今は、ちょっとした寛容さが口調に混じっている。「お姉ちゃんが片岡先生に気に入られてるなら祝福したいけど、ちょっと落ち込んでて。少しだけ彼女と片岡家の御曹司のことを聞いたら、私の涙が気持ち悪いって言われたの」雲和は目を赤くし、悔しさと寂しさでいっぱいだった。凌は眉をひそめる。確かに夕星ならそんなことを言いそうだ。「そのあと、お兄ちゃんに見つかってね。凌ちゃんが知ってる通り、お兄ちゃんはいつも私をかばうから、説明もできないままお姉ちゃんを探しに行っちゃった」「迷惑かけてごめんね、凌くん」凌は決して雲和を責めなかった。彼女の性格はいつも柔らかかった。「大丈夫。心配しないで」眉間を揉みながら、何か思い出したように凌が聞く。「お義父さんはずっと夕星のことが嫌いだったのか?」あの一撃はかなり強かった。もし夕星の顔に当たっていたら、きっと腫れ上がっていただろう。凌は少し胸が痛み、守れてよかったと安堵した。雲和は凌の気持ちが読めず、数秒考えてから優しく答えた。「嫌いじゃないと思う。でも、お姉ちゃんは田舎で育ったことをずっと気にしてるみたい」「私たちみんなが彼女に申し訳ないって思ってるんだって」凌はそれ以上は聞かず、話題を仕事のことに切り替えた。階下で。夕星は用事を理由に階段を降りたけど、行くあてもなくて辺りをぶらぶらしていた。三十分ほど歩いたところで、文弥に出会った。片岡先生は送別会でこっそりお酒を飲んで高血圧が出てしまい、文弥が薬を取りに来ていたのだ。二人が話していると、文弥が夕星に凌のところへ行ったか尋ねた。夕星は隠さず、秘密保持契約のことを話した。文弥は凌のことを、商売人特有のイヤな雰囲気があると思って、快く思っておらず、夕星に助言した。「離婚したいなら、いい弁護士を紹介します」
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