All Chapters of 誘拐され流産しても放置なのに、離婚だけで泣くの?: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話

雲見市。夜八時。稲妻が漆黒の夜空を切り裂き、激しい雨が降り注いでいる。秦夕星(はた ゆうほ)は冷たい地面に身を丸め、体から流れ出た血の塊を雨が洗い流していた。雨にふやけた指で携帯を操作し、アドレス帳の名前を一つひとつ呼び出して電話をかける。雨の中、機械的な女性の声が繰り返し響いた。「おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」やがて携帯の画面は豪雨の中で消え、何度押しても明かりは戻らなかった。……夜九時。雲見市市民病院。医師の焦った足音が夜の静寂を破る。「患者は流産です。家族には連絡済みですか?」「はい、ただ……」看護師は言葉を濁した。「ただ、何です?」医師は苛立ちを滲ませた。「患者の家族は誕生日会の最中で、対応が難しいとのことです……」……夜十一時三十分。夕星は頭上の冷たい照明と、滴る透明な点滴ボトルを見つめていた。耳元で病室の扉が開き、少し疲れた声が響く。「夕星」一時間前、夕星は手術室を出て、看護師の哀れみを受けながら携帯を借りて榊凌(さかき りょう)にメッセージを送り、都合がついたら医療費を払ってほしいと伝えた。そして今、彼女の夫は遅れて現れた。白いシャツに端正な輪郭、その眉に疲れが見え隠れする。彼女は顔を背け、目に涙を浮かべる。「どこか具合が悪いのか?」凌はいつもの冷たい表情でベッドの端に座った。彼はメッセージを見て急いで駆けつけたが、夕星に起こった残酷な現実をまだ知らない。夕星の胸が激しく痛んだ。彼が他人にどれほど優しいかを見なければ、雨の夜に死にかけていなければ、彼が生まれつきこんな冷たい性格だと思っていただろう。彼の酒の匂いに胸がむかついた。「携帯が壊れた。医療費を払ってもらえる?」彼女の声はかすれ、疲れ切っていた。他のことは、この痛みから回復したら話すつもりだ。凌は彼女の言葉に抑えきれない嫌悪を感じ取った。彼は軽く眉を上げ、説明した。「今日は雲和の誕生日だ。知っているだろう」夕星は天井を見つめた。もちろん今日が秦雲和(はた もな)の誕生日で、彼らが盛大な誕生会を開いていることも知っていた。彼女の家族と夫はほぼ一晩中そこで祝っていた。彼女が痛みに苦しんでいる時も、連絡がつかなかった。「ええ、知ってる
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第2話

凌は夕星の苦しげな呟きに気づかず、そっと布団を掛け直した。「ゆっくり休め。あとでまた来る」取り乱した妻と口論する気はなかった。「夕星、また雲和をいじめたのか!」怒声とともに病室のドアが「バン」と壁にぶつかり、耳をつんざいた。背の高い男が大股で入ってくる。夕星とよく似た顔には怒りが満ちていたが、青ざめた顔を見て一瞬だけ動きを止め、すぐにさらに激しい非難へと変わった。「今日が雲和の誕生日だって分かってるのに、真夜中にこんな騒ぎを起こすなんて、どういうつもりだ?」秦深也(はた しんや)は病床の夕星を睨みつけ、烈火のごとく怒鳴った。「家族全員を巻き込んで満足か?」彼には、夕星が仮病で雲和の誕生日を台無しにしたとしか見えなかった。夕星は指先に力を込めた。全身が痛む中で、兄はただ「なぜ病気になった、なぜ病院に来た」と詰問してくる。心の底から込み上げるのは、どうしようもない悲しみだった。「病気になる日なんて選べるの?」彼女は冷たく言い返した。かすれた声には嘲りが滲んでいた。深也の目には嫌悪と苛立ちが浮かんでいた。「病気のことはもう言わない。だが雲和が見舞いに来てくれたのに、なぜ泣かせた?」さっき、廊下で雲和が涙をぬぐう姿を見た。聞くまでもなく、また夕星がいじめたに違いない。彼女はいつもそうだ。言葉の端々に棘を仕込み、まるで世の中すべてが自分を裏切ったみたいに。視線を向けると、深也の背後で雲和が赤い目をして、怯えるように涙を流していた。「お兄ちゃん、お姉ちゃんのせいじゃないの。私……目に砂が入っちゃって」その言い訳は火に油を注ぐようなものだった。案の定、深也は眉をひそめて言った。「夕星、その卑しい根性をたたき直せ。秦家はお前に負い目なんて何もない。雲和も同じだ」「お兄ちゃん、もうやめて。お姉ちゃんはまだ妊娠中なんだから」雲和は深也の袖を引く。「それに私が悪いの。お姉ちゃんが妊娠してるのに、無理に凌ちゃんを誕生日に引き止めて……入院させてしまったの」彼女がそう言いながら、涙の粒がまた頬を転がった。夕星は手のひらを握りしめ、こみ上げる怒りを抑え込んだ。喧嘩をしたくなかった。結局、傷つくのは自分だから。それでも深也は言い続ける。「妊娠してる女なんていくらでもいる。彼女だけが特別なわけじゃない」「やめろ
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第3話

「また演技か」深也は軽蔑の笑みを浮かべ、床に倒れた夕星を見下ろした。「夕星、後ろめたくなると気絶のふりか?ここは病院だぞ、医者が診ればすぐバレる」凌は夕星を抱き上げた。驚くほど軽く、まるで重さを感じなかった。最近は顔を合わせることも少なく、こんなに痩せているとは知らなかった。胸の奥に妙な違和感が走る。「医者を呼んでくる」深也は夕星を暴こうと執念を燃やし、足早に廊下へ出た。ちょうどその時、病室のドアが開き、看護師が入ってきた。流産後で身寄りもない夕星を気にかけ、点滴が終わる頃合いを見計らってきたのだ。看護師は近づき、彼女の状態と血のついた手の甲を見て顔色を変え、すぐに緊急ボタンを押した。「先生、29番ベッドの患者が意識不明です。救急処置をお願いします」廊下から慌ただしい足音が響く。医師と看護師たちが駆け込んだ。診察の後、すぐに夕星を救急室へ運んでいった。ドアの外で、凌の心臓が理由もなく高鳴る。耳元に深也の無関心な声が響く。「看護師さん、彼女は演技してるだけだ。そんな大げさにしなくても」看護師は冷ややかに返した。「演技かどうか、あなたの方が私よりもわかるんですか?」凌は夕星の青ざめた顔を思い浮かべて尋ねた。「彼女はどうしたんだ?」「流産です」短く答え、看護師は再び病室へ駆け込んだ。廊下が一瞬で静まり返る。雲和が呟いた。「どうしてお姉ちゃんが流産したの?」凌は呆然と立ち尽くし、深也の暴言に対して夕星が激しく反応していたことを思い出した。彼女に一体、何があった?スマホを取り出し、アシスタントに今夜のことを調べるよう指示する。深也が呟く。「どうして流産なんかしたんだ。わざとじゃないよな」即座に顔を上げた凌の冷たい視線が、深也を突き刺す。深也は身をすくめ、言い訳を口にした。「ちょっとおかしいと思うから……」雲和は深也の袖を引っ張り、小声で言う。「お兄ちゃん、少し黙ってて」凌の表情は冷たく、すらりとした体躯からは威圧感が漂っていた。「彼女は俺の妻だ。これ以上勝手なことを言えば、容赦しない」深也は口を尖らせたが、それ以上は何も言えなかった。一時間ほどして夕星は運ばれ、容体は安定した。看護師が尋ねる。「ご家族は?」凌が答える。「彼女の夫だ」看護師は彼を一瞥し、目に軽
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第4話

何枚かの写真が送られてきた。画面の中――凌は黒いオーダースーツを身にまとい、胸元には上品なチーフ。その腕には雲和の白い手首が絡められていた。雲和は優雅なドレスを着こなし、簪でまとめた長い髪。全身から漂うのは柔らかな女らしさ。まるで絵に描いた理想のカップル。夕星の胸がぎゅっと締めつけられる。自分は流産してまだ病院のベッドにいるというのに、彼は雲和に付き添ってフレグランスグランプリに来ている。あのドレスが……乳白色の生地、見ただけで高価なのが分かる。あれは本来、夕星がフレグランスグランプリで着るために澄香が半月かけて仕立てた特別な一着だった。二日前には澄香から完成の連絡を受けていたのに、あの日の事故で受け取れずにいた。今、そのドレスは雲和の体を包んでいる。考えるまでもない。凌の仕業だ。夕星は奥歯を噛みしめ、ベッドから立ち上がると澄香にメッセージを送った。【今から行く。ホテルにドレスを一着届けて】返ってきたのは短い返事。【了解】三十分後。夕星はフレグランスグランプリが開かれるホテルの前に到着し、そこでは澄香が待っていた。夕星の様子を見て、彼女は驚いた。「夕星、どうしてそんなに顔色が悪いの?」夕星は隠さず、自分が流産したことを打ち明けた。澄香は憤慨した。「あの二人最低だ。よくもあなたをこんな酷い目に合わせて。行くよ、仕返ししてやる」夕星は澄香を引き止めた。澄香の義憤に感謝したが、いくつかのことは自分で解決するしかない。「まず着替えるから、メイクもお願いしたいの」「わかった、夕星。どんなことがあってもついているから」澄香に付き添われてドレスに着替え、メイクを施し、簡単に髪を結い上げた。夕星の目に映る自分の姿がまずまず元気そうだと確認すると、二人は腕を組んで宴会場へ向かった。フレグランスグランプリは業界の一大イベントで、毎年開催される。夕星は榊家グループのチーフパフューマーとして、早くから招待状を受け取っていた。しかしこの3年間はめったに人前に姿を見せず、知る人も少なかった。そのため会場に入ると、聞こえてくるのは雲和への賛辞ばかりで、「榊家グループのチーフパフューマーにふさわしい」「最高級の香水を調合できるだけでなく、美しいからこそ榊社長が彼女を表に出さないのだ」といった話ばかりだった。
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第5話

ウエイトレスが慌てて袋を受け取った。夕星はさらに言葉を添える。「このドレスは2000万円以上の価値があるわ。中古でも1000万円にはなるでしょう。欲しければそのまま持って帰っていいわよ」ウエイトレスは興奮して目を輝かせた。「ありがとうございます」夕星が気が変わるのを恐れるように、袋をしっかり握りしめると、彼女は速足で立ち去った。1000万円は、半生かけてようやく貯まる金額だ。もらえるものならもらわない理由はない。雲和は目を見開き、顔を真っ赤に染め、目尻に涙をためた。信じられない。夕星はドレスをウエイトレスに渡しただけでなく、中古品だと言い放った……こんなに多くの人の前で……周囲の視線とひそひそ声に耐えきれず、雲和は涙をこらえながら、うつむいたまま走り去った。「雲和」凌は夕星を冷たく一瞥すると、雲和のあとを追った。夕星は無表情のまま、二人の背中が人混みに消えていくのを見送った。「夕星」澄香が心配そうに夕星の腕を取る。今日の出来事は、きっとすぐに社交界中に広まるだろう。雲和は面目を失ったが、凌が雲和を追って去ったことも、夕星にとっては屈辱に違いなかった。「大丈夫、行きましょう」夕星は背筋を伸ばして歩き出した。ホテルの入り口まで来たところで、夕星は澄香に謝った。ドレスは澄香が一針一針縫い上げたもの。それを捨てるのは、彼女の心を踏みにじるようなものだった。だが、あのドレスを持ち帰ったところで、夕星の心にはわだかまりしか残らない。「夕星、そんなこと言わないで。あの時あなたが助けてくれなかったら、私は今ごろもうどこにもいないかもしれない」澄香の目尻に涙が浮かぶ。「ドレスどころか、命だってあなたにあげるわ」「何を馬鹿なことを」夕星は慌てて彼女の手を握った。「私たちは一緒に幸せにならなきゃ」澄香は夕星を病院まで送ると強く主張したが、歩き出す前に、黒い車がホテルの入口に停まった。同時に、夕星の手首が誰かに掴まれた。驚いて顔を上げると、そこには凌がいた。夕星は眉をひそめる。雲和を追って行ったじゃなかったのか?凌の表情は冷え切っていた。「病院まで送る」澄香は夕星のもう一方の手を握ったまま離さず、嘲るように言った。「夕星は私が送るから、榊社長は他の女性でも追いかけたら?」凌は淡々とした視線を
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第6話

凌は枕を取って夕星の背後に置き、シャツの袖をまくってたくましい前腕を露わにした。彼はベッドサイドの保温容器を開けて、スープを注いだ。食べ物の香りが部屋に広がり、夕星のお腹がタイミングよくグーと鳴った。彼女は手を伸ばして取ろうとした。凌は避けてベッドの端に座り、「俺が食べさせる」と言った。この時の彼は眉目が柔らかく、少しだけ気遣いが見えた。夕星はぼんやりとして、まるで雲和をめぐる諍いがなかったかのように感じた。「自分で食べるわ」彼女は凌を拒んだ。凌はゆっくりとスプーンを夕星の唇に運んだ。夕星は眉をひそめた。車の中で彼が雲和をかばい、謝るように責めたことを思い出した。今は何事もなかったかのように平静だった。まさか車の中でのあの言葉が、彼の少しの良心を呼び覚ましたのか。夕星は乳白色のスープを見ながら言う。「何か用があるならはっきり言って」凌の黒い瞳には少しの優しさが宿る。「子供のことは俺のせいだ。償いたい」彼は真剣に言った。夕星の目尻に涙がにじみ、胸の奥に鬱屈が渦巻いた。償い?どうやって償うというの?スープが急に気持ち悪く感じられた。「食欲がない。食べたくない」「わがままを言うな」凌の顔色が曇った。「まだ雲和を好きなら、二人のことは認める」「穏やかに別れましょう」夕星は真剣に言った。凌は椀を置き、顔を近づけて夕星の頬に寄せた。視線が交錯した。「最初は契約結婚で……」彼女は言葉を遮った。「ええ、知ってるわ。契約したとき三年と決めた。今はあと三ヶ月だけ」彼女の鼻がつんと痛み、声はかすれていた。最初の結婚は確かに取引だったが、彼女は真剣にこの関係を築いてきた。凌を夫として、そして一生を共にする家族として見てきた。でも、最初から自分のものではなかったのかもしれない。「離婚届受理証明書が発行されるのも一ヶ月かかる……」「たとえ最後の一日でも、お前は俺の妻だ」凌は突然怒った。彼は再びスープの椀を手に取る。「流産した妻の世話をするのは夫の務めだ」夕星は涙をこらえ、スープを飲んだ。どうやら彼はただ夫としての義務を果たしているだけだ。罪悪感でも他の感情でもない。スープを飲み終えた頃、部屋の空気はすでに重くなっていた。夕星はゆっくりと横になり
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第7話

「三年前、自分がいらなくなった婚約者を私に押し付けて、今になって帰国したかと思えば私の夫まで奪うなんて。これが彼女の姉に対する思いなの?」夕星は皮肉っぽく言った。「そんなもの、私には到底受け入れられない」「あなた……」「休みたいから、出て行ってください」夕星は顔を背け、それ以上話す気をなくした。蘭は怒りを抱えたまま部屋を出ていき、ドアのところで振り返って言った。「おばあちゃんがあなたに会いたがっているわ。体調が戻ったら顔を見せなさい」夕星の心に積もっていた怒りや恨みは、「おばあちゃん」という言葉を聞いた途端に消え去った。天井を見上げながら、涙が止まらなかった。悲しみが波のように胸に押し寄せた。子供を失ったのは自分なのに、誰一人として「痛くないか」とすら聞いてくれなかった。それなのに、雲和が泣いたというだけで自分が責められる。自分の子供は、雲和の涙よりも軽いのだ。やっと感情を抑えた頃には、夕星の目はもう腫れて痛んでいた。夕星は祖母である秦梅代(はた うめよ)に電話をかけ、流産のことは言わずに出張中だとだけ伝え、戻ったら会いに行くと約束した。梅代は喜び、何度も言葉を重ねて、孫娘への愛情を惜しみなく注いだ。傷だらけだった夕星の心に、少しずつ温もりが広がった。夕星が半月入院している間、凌は病院に泊まり込みで付き添った。何から何まで自分の手で世話をした。唐沢先生は夕星の検査をしながら感心して言った。「榊社長は、本当に珍しいくらい一途な方ですね」今まで女性関係の噂は一切なく、アシスタントも男性ばかりだ。遊び回る二世三世ばかりの中で、潔白な品格を保つ貴重な存在だった。夕星は淡々とした表情のまま、唐沢先生の言葉を聞き流した。凌の一途な想いは、最初から自分に向けられたものではない。「どうですか?」夕星は話題を変えた。唐沢先生は検査結果を見終え、明るかった表情が一転して険しくなった。「何か問題でも?」夕星の心臓が早く打った。唐沢先生は検査結果を夕星の手元に置く。「腹部に大きなダメージがあり、あの雨に長く打たれたせいで、これからは妊娠が難しくなる可能性が高いです」夕星は呆然とその紙を見つめた。書かれた文字は一つ一つわかるのに、並ぶと見知らぬ言葉のように思えた。声が震える。「つまり……もう母
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第8話

夕星は指を引き抜き、嘲りを含んだ笑みを浮かべた。「結構だわ。あなたは親友とここにいればいい。私のせいで仲が悪くなるのはごめんだから」本当は聞きたかった。用事があると言っていたのは、雲和に会うためだったのかと。けれどその言葉は何度も胸をよぎっただけで、最後まで口には出さなかった。分かりきっていることだ。自分から恥をかく必要はない。凌は譲らない。「一緒に行く」夕星の笑みが消えた。さっきの騒ぎのあとで、仲むつまじく振る舞う意味などない。この結婚の裏側がどれだけみっともないものか、本人が一番わかっている。梅代の足が不自由で、ほとんど部屋で過ごしていたが、今は杖をついて玄関まで出てきた。夕星は慌てて支えながら部屋に戻り、言葉を発する前に目が赤くなる。「おばあちゃん」声を詰まらせ、老人の膝に顔を埋めた。梅代は孫娘の頭を撫でながら、心配そうに何度もどうしたのか尋ねる。心配でいっぱいだった。夕星はすぐに感情を押し込み、涙を拭って梅代の手を握る。「大丈夫。ただ会いたくて来ただけ」「夕星ってば、会いたいならいつでも来ればいいのに」梅代はため息をつく。孫娘がこんなにも泣くのは、よほどのことがあったからに違いない。そしてその理由は……梅代は入り口に立つ凌を見た。凌は中へ入り、「おばあちゃん」と声をかけた。梅代はうなずき、夕星に向かって言う。「台所でスープを煮ているから、できたか見てきておくれ」夕星は素直に従った。梅代は凌に座るよう手振りをして、声を厳しくした。「あのとき夕星と結婚させる話が出た時、私は賛成していなかった」凌は目を伏せ、両手を膝に置き、黙って耳を傾ける。梅代は続ける。「今、雲和が戻ってきて、あなたの気持ちはどうなの?」彼女は凌に選択を迫った。凌の顔は冷たく無表情で、感情は読み取れない。ただ手のひらで指がかすかに縮んだ。「夕星とは離婚しません」それが彼の約束だった。「もし夕星が離婚したいと言ったら?」梅代はさらに問う。凌の心に苛立ちが広がる。「安心してください。ちゃんとやっていくから」彼は曖昧な返事をした。梅代はため息をつき、孫娘を気の毒に思いながらも無力感に苛まれた。彼女は凌に頼むしかない。「もし夕星が自由を望む日がきたら、無理強いはしないでほしい」凌は
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第9話

夕星の胸は引き裂かれるように痛み、彼らの言葉ひとつひとつが全部自分のせいだと責め立てるようだった。怒りが込み上げてきた。「そんなこと、あなたたちに教わった覚えはないけど」彼女は口元を歪ませ、皮肉たっぷりに笑った。家に戻ってからというもの、彼らは雲和と比べては、何から何まで自分が劣っていると責め続けた。でも、この差を作ったのが誰なのかを考えようとはしない。よくもまあ、今さら責め言葉なんて言葉を口にできるものだ。「お前……」正邦は激怒し、荒い息をついた。「もう黙れ」凌は夕星の手を引く。「先に行こう」夕星は彼の手を振り払った。もう仮面は剥がれたのだから、いっそはっきりさせたかった。彼女は凌に問いかける。「あの日、私が外にいた理由、知ってるの?」凌の心に違和感が生じた。調べたところ、彼女が自分で車を運転して出かけたことしかわかっていなかったが、まさか何か知らない事情でもあるのか。夕星は彼の表情を見て、まともに調べてもいないのだと悟った。胸が痛んだが、もうどうでもよかった。彼女は一語一語を噛みしめるように言った。「あなたが交通事故に遭ったと電話で聞いて、病院に向かう途中で私は拉致されたの」凌は息をのんだ。まさか彼女が誘拐された?けれど、帰ってきてから今まで、そのことを一言も口にしなかった。どうしてアシスタントは調べられなかったのか。「誰を騙すつもりだ」深也は軽蔑をあらわにし、信じようともしなかった。「誘拐ならどうやって逃げた?」夕星は深く息を吸い込み、込み上げる痛みと悔しさの涙を必死でこらえた。「犯人たちは、私の電話に誰も出ないのを知って、私を辱めようとした。私を守ってくれたのは、私のお腹の子だった」彼女は手のひらを下腹に当てた。そこにまだ子供の気配が残っているような気がした。「あの人たちは私を蹴り飛ばして、子供はいなくなった。私が出血しているのを見ると、道路に放り出したの」子供がいなければ、とっくにあの人たちに辱められていた。だから彼女を救ったのは、ここにいる誰でもない。彼女自身の子供だった。「その時、あなたたちは何をしていた?雲和の誕生日を祝っていた」感情があふれ出し、もう抑えきれなかった。「私の子供が死んでいく時、あなたたちは彼女の誕生日を祝っていた」それなのに今でも、誰
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第10話

二十四節気シリーズの香水は、夕星が自ら手をかけ一つ一つ作り上げたもので、彼女にとっては子供のような存在だった。誰にも渡す気はなかった。ましてや、その相手が一番嫌っている相手ならなおさらだ。「相談ではない、通知だ」凌の瞳には冷たい氷が宿った。「行きたくないなら、ずっと家で休んでいればいい」そう言い残し、彼は階段を上がっていった。夕星はその背中を見つめ、心のひびがじわじわと広がっていき、最後には荒れ果ててしまった。意気消沈したまま席に戻ったが、食卓に並ぶ豪華な料理はもはや何一つ食欲をそそらなかった。どれだけ時間が経ったのか分からない。ふと腕をさすった。六月だというのに、こんなにも冷たい。「奥様」使用人が毛布を持ってきた。「旦那様が、体を冷やさないようにと」夕星は視線を落とし、目尻がにじんだ。凌は雲和のために、彼女を会社から追い出した。子供を奪った挙げ句、今度は彼女のもう一つの心血までも他人に渡そうとしている。本当に残酷だった。「奥様、大丈夫ですか?」使用人は夕星の頬に流れる涙を見て驚いた。旦那様はあれほど気遣っているのに、なぜ奥様は悲しそうなのか理解できなかった。「大丈夫。片付けて」夕星は毛布を体に巻き付け、疲れ切った体を引きずって部屋に戻った。一時間以上経ったころ、スマホがひっきりなしに鳴り、多くのメッセージが押し寄せた。内容はすべて、雲和が開発部に入る件についての問い合わせだった。それを見て夕星はようやく理解した。凌が直接、雲和が開発部を一時的に引き継ぐと発表したのだ。突然現れた開発部の責任者に対して、社員たちは驚き、何か大きな方針転換があるのではと噂し合った。夕星はグループチャットにこう送った。【私はもうすぐ退職します】どうせ離婚するのだ。離婚すれば退職もする。今はただ、それを早めただけだった。スマホで辞表を作成し人事部に送ると、音を消してすべての通知を遮断した。翌日。榊家グループの本社ビル。最上階のオフィス。人事部長は額の汗を拭いながら、昨夜夕星から届いた辞表を凌に差し出した。凌の表情は冷たく読めなかったが、胸の奥では怒りが沸き起こっていた。辞表で脅すつもりか?自分がいなければ香水開発が成り立たないとでも思っているのか?子供じみた駆け引きだ。人事部
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