蓮司が聞く耳を持たないのを気に留める様子もなく、杏奈は涼しい顔で言った。「天音は、あなたと恵里の浮気をとっくに知ってるわ」蓮司は、その言葉を聞いてハッと杏奈の方を向いた。冷たい視線には、危険な香りが漂っていた。「嘘だろ?」「天音の反応は、あなたが予想してたのと違ったでしょ?きっと、裏切りを責め立てて、泣き叫んで、離婚を迫ってくると思ってたんじゃないかしら?」杏奈はクスッと笑った。「彼女は、静かにあなたの元を去ろうとしていたのよ。これは本人から聞いたことよ。この間、天音が何者かに連れ去られた事件、覚えてる?白樫市中を封鎖したせいで、連れ去ることができなくなって、結局戻ってきたっていう。あなたのお母さんから話を聞いたんだけど、監視カメラには何も映ってなかったらしいの。でも、天音はその時、2階の寝室に一人でいたのよ。シーツを使って窓から抜け出したとしか考えられないわ」蓮司の視線がますます冷たくなるのを感じながら、杏奈は続けた。「天音は、自分で逃げ出したのよ。あなたに気づかれることなく姿を消そうとしてたの。二度と見つからないようにね」杏奈は冷笑した。杏奈は自分が不幸なら、皆も同じく不幸でいいと思ったのだ。蓮司は、大智と直樹を病院に連れて行った時のことを思い出した。後から病院に行った蓮司は、天音と龍一が話しているのを偶然耳にしたのだ。天音は、数日後にはいなくなると言っていた。蓮司は大股で階段を下りながら、最近の天音の不可解な行動の数々を思い返した。バラバラだったピースが、一つにつながっていくような気がした。キッチンに入った蓮司は、天音の細い腰に手を回し、強く抱き寄せた。彼女の肌に自分の吐息がかかり、蓮司の胸はざわめき波打っていた。そして、低い声で彼女を呼んだ。「天音」「キス!キス!」周りの友人たちは、ぴったりと寄り添う二人を見て、囃し立て始めた。蓮司は、不安げな目で天音のやつれた顔を見つめ、何か少しでも不審な点を見つけ出そうとしていた。もし彼女が、自分と恵里の事を知っていても、怒り狂ったり、泣き崩れたりせず、ただ黙って去ろうとしているのだとしたら、答えは、一つしかない。天音はもう自分を愛していないのだ。天音はいつものように、恥ずかしそうに蓮司の胸に顔を埋め、甘えるような声で言った。「恥ずかしいから、何とかしてよ」
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