All Chapters of 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

二人の子どもは翔吾に連れられて出てきたが、医師によると大事には至らなかったようだ。蓮司は天音の手を取り、大智を連れて、龍一たちに別れを告げた。三人が去っていく後ろ姿を見ながらしょんぼりする直樹に、龍一は頭を撫でた。「パパは頑張るから」直樹は頷いた。「大智くんは愛莉ちゃんのママの方が好きで、自分のママには全然優しくないし、いつも怒らせてばかり。なのにそのママを僕に譲ってくれないんだ。ずるいよ。お姉さんは、今日僕が良い子だって褒めてくれた。僕も頑張る。もっと良い子になって、お姉さんを怒らせないようにする。大きくなったら、お姉さんを守るんだ。そうしたら、お姉さんは大智くんじゃなくて僕を選んでくれるんだ」直樹の無邪気な言葉に、龍一は思わず笑みをこぼした。しかし、それは叶わぬ願いだった。大智は天音の実の息子だ。何をしようと、彼女は彼を愛し、許し、支え続ける。それは変わらない事実だ。龍一は直樹の夢を壊したくなくて、静かに頷いた。「ああ」「教授、桜華大学の学園祭から招待状が届きました。名誉卒業生として、明日の式典でスピーチをしてほしいそうです」翔吾は覇気がない龍一に声をかけた。「招待者リストには、加藤さんの名前もありました」龍一の目に光が灯った。直樹を抱き上げ、歓びを隠せず帰路についた。「パパのスピーチ用に、格好いい服を選んで」翔吾はその後ろを歩きながら、楽しそうに話す二人の様子を見ていた。夜も更け、天音は車のドアにもたれて眠ってしまった。天音の寝顔を見ながら、蓮司は大智を本家に送り返すことにした。「パパ、もういい子にするから。悪いことはしないから、ここに置いていかないで」「大智、おばあちゃんのこと大好きでしょ?」今日の渡辺家の婚約式で起こったことを、千鶴は当然聞いていた。「もう遅いから、お風呂に入って寝ましょう。おばあちゃんが後で、絵本読んであげるわ」大智はしぶしぶうなずき、執事に連れられて二階へ上がった。天音は寝心地が悪くて体勢を変えようとし目が覚め、車の後部座席で寝てしまっていたことに気づいた。まだ、本家の門の前にいた。彼女は車から降り、あまりに疲れていたので、今夜はここに泊まろうと思い屋敷に入った。アーチ形の門を抜け、奥へ進むと、リビングで蓮司と千鶴が話しているのが見えた。千鶴は座っていて、蓮
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第112話

天音はよろめき後ずさりし、ヒールが草に引っかかって、そのまま後ろへ倒れかかった。痛みはなかった。彼女は温かい腕に抱き止められていた。蓮司の怯えた黒い瞳と目が合った。その表情を、彼女はかつて一度も見たことがなかった。天音は疲れ果てていて、理性ではいられなかった。夜目が効かない彼女は、闇に溶け込む彼の輪郭がぼやけていくのを感じた。彫りの深い顔立ちの鋭さが和らぎ、深い黒目は、白黒はっきりとした瞳になった。目の前にいる大人の男が、天音は視野が霞んだせいで、若々しい青年の姿に見えた。まるで10年前の蓮司に会っているようだった。深みのある落ち着きではなく、真っ直ぐで奔放な彼に。純一と千鶴の前に、自分を連れて行った彼。生涯、自分以外は妻に迎えないと誓い、その誓いを守ってくれた彼。あの頃は、幸せで胸がいっぱいだった。慌ただしい足音が聞こえ、千鶴が天音を抱きしめ、「天音!」と叫んだ。天音は意識が遠のく中、心の中で安堵した。今回はもう、彼らのために涙を流さずに済んだ、と。彼らのために悲しむ価値など、もうないのだ。彼女の体が揺さぶられ、蓮司の叫び声が聞こえた。何を叫んでいるのかは分からなかったが、医者を呼んでいるようだった。天音は恐怖で目を覚まし、咄嗟にお腹を押さえた。もし医者が来たら、妊娠していることがバレてしまう。蓮司は、きっと子供を堕ろさせるに違いない。彼女目を開けると、そこは自分と蓮司が使う本家の寝室だった。廊下から、話し声が聞こえてきた。「風間社長、奥様は最近流産されたばかりですので、安静にして刺激を与えないようにしてください」美咲の声だった。天音は安堵のため息をつき、ベッドに倒れ込んだ。冷や汗で体が冷え切った。ドアが開き、蓮司が入ってきた。ベッドの横に腰掛け、天音の手を取った。「天音、誤解だ」彼は監視カメラの映像を確認した。天音はずっとそこに立っていた。きっと、自分と母の会話を全部聞いてしまったのだろう。天音は天井を見つめたまま、瞬きひとつしない。胸は軋むのに、痛みを感じない。「心が死ねば、もう痛みも感じなくなる」母が最も辛い時、そう言っていたのを思い出した。蓮司は突然、彼女に覆いかぶさり、顔を彼女の胸に埋めた。冷たい雫が彼女の胸元に落ちる。彼の震える声が、彼女の心を揺
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第113話

お味噌汁いかが?」天音は何も言わず、千鶴をじっと見つめていた。その視線にたじろいだ千鶴は、結局、暖かい味噌汁を運ばせるよう使用人に指示し、天音の世話をしっかりするようにと念を押した。そして、屋敷の隅々まで警備を強化するよう、ボディガードにも指示した。天音はゆっくりと味噌汁をすすりながら、部屋の隅々にある監視カメラに視線を走らせた。味噌汁を飲み終え、メイドが食器を片付け、別の使用人が天音を二階へ案内する際、彼女は使用人のポケットから携帯を抜き取った。「大智は帰ってる?」「坊ちゃんはピアノのレッスンを受けております。お呼びしましょうか?」使用人は答えた。「いいよ、休養の邪魔をされるのは困るから。あなたは戸口に立って誰も入らないように見張っていなさい」天音は淡々と告げ、使用人は逆らえず従った。使用人は天音のために部屋のドアを閉め、まるで門番のように入口に立った。あまりに目立つ場所に立っているので、携帯を見る勇気もなかった。ドアが閉まった瞬間、天音は携帯を開いた。緊急ダイヤルの画面が表示されている。長い数字の列を入力し、発信ボタンを押した。すぐに反応があり、携帯のロックが解除された。バックグラウンドプログラムにアクセスし、コードを入力してWi-Fi経由で監視カメラの信号を遮断した。屋敷内の監視カメラの映像は一瞬にして停止した。監視室の警備員には、映像が0.5秒ほど乱れただけに見える。目の錯覚だと思った彼らは目をこすったが、何も異常は見つからなかった。天音はクローゼットから結び目のあるシーツを取り出し、窓に結びつけた。そして、夜が更け、あたりが真っ暗闇に包まれると、シーツを窓から垂らし、それを伝って降りていった。天音は夜の闇の中を走り抜け、風間家を遠くへ置き去りにした。彼女は茂る森へと駆け込み、もう走れなくなると、記憶に刻んだ秘密の番号に電話をかけた。「隊長、すぐに人を送ってください。迎えに来てほしいです」一方、桜華大学では……スーツ姿の龍一が壇上に立っていた。待っていた天音は来ていなく、同じ舞台に上がったのは蓮司だった。名誉卒業生のスピーチの後、龍一と蓮司は会場に留め置かれた。司会者の伊藤萌(いとう もえ)は二人に強い興味を抱いていた。二人とも業界のトップに君臨する男同士、まさに好敵手といったところ
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第114話

「はい!」ボディガードたちは四方八方へ散り、天音の行方を追った。天音は遠くへ逃げきれず、頭上で突風が巻き起こり、ヘリコプターが旋回しているのを見た。サーチライトの光が彼女を照らした。ボディガードの一人が叫んだ。「奥様を発見しました!」ヘリコプターからつるし下げられたロープを伝って人が降りてきて、大きな手で天音の腰を抱き寄せた。彼女はヘリコプターと共に空へと舞い上がった。ああ――恐怖の叫びが喉から迸ったはずなのに、声は出ない。発熱で喉は刃物で裂かれるように痛み、その痛みは増すばかりだった。ヘリコプターは蓮司の方向へゆっくりと近づいていく。天音は抵抗しようと身をよじったが、無力感に襲われた。蓮司は、まるで失ったものを取り戻したかのように、彼女を愛おしそうに見つめている。蓮司は両腕を広げ、喜びと興奮に満ちた表情で待っていた。しかし、天音の目には、その姿がまるで鬼のように恐ろしく映った。恐怖が全身を駆け巡る。いや。彼女は心の中で叫び、全身で拒絶した。蓮司の手が天音に触れようとした瞬間、ヘリコプターが突如急上昇し、巻き起こった暴風がその場の人間をたじろがせた。「天音!」「奥様!」地上からの叫びを背に、天音が驚いて振り返ると、龍一の落ち着いた視線が彼女を真っ直ぐに捉えていた。彼女は泣き出しそうな顔で言った。「先輩?」「しっかり掴まっていろ」龍一の目は星のように輝いていた。天音が落ちないように、そして自分の傍から離れないように、彼女の細い腰をさらに強く抱きしめた。天音は龍一の首に腕を回し、顔を彼の肩に埋めた。溢れ出る涙が彼の襟を濡らし、彼の耳元で静かに囁いた。「助けてくれてありがとう、先輩」その一言で、龍一は世界のすべてを手にしたかのように胸を震わせ、どうしようもなく心が疼いた。ヘリコプターが遠くへ飛び去っていく様子は、すべてニュースの生中継で映し出されていた。萌は内心興奮しながらも、焦った様子で伝えた。「緊急速報です!東雲グループの社長夫人が何者かにヘリコプターで連れ去られました!」そのマイクを、突然大きな手が奪い取った。蓮司だ。彼は遠ざかるヘリコプターと、そこで寄り添う二人の姿を凝視し、眉間に凄まじい殺気を漲らせ、カメラの向こう、全市民に向けて言い放った。「妻を見つけた者には4億円の懸
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第115話

「東雲グループは白樫市の交通網を事実上掌握している。全社員に一斉に休暇を出したことで、現場に人がいなくなれば運行は止まり、結果として交通が麻痺する。つまり意図的に線路や信号を破壊したわけではなく、人的な欠員が原因だ。たとえこの件が表沙汰になっても、せいぜい業務怠慢として問われる程度だろう。財力のある彼なら、不満を口にする者を金で黙らせてしまうのはたやすい」龍一は桜子が渡したパソコンから視線を上げ、冷静に言った。「すぐ隊長に連絡して、ここでの状況を報告し、指示を仰げ」「承知しました、教授!」桜子と翔吾は部屋を出て行った。龍一はミネラルウォーターを開け、呆然と一時間も黙り込んでいる天音に差し出した。おそらく怯えきっているのだろう。「水を飲んで」天音は水を受け取ったが、感謝の言葉を伝えようとしても、声が出なかった。頭はくらくらし、喉は刃物で裂かれるように痛む。思わず眉をひそめた。その時、突然足が持ち上げられた。驚いて顔を上げると、龍一の優しい瞳と視線が合った。「足の裏に擦り傷がある。消毒して、包帯を巻いてあげる」龍一は天音の両足を自分の膝の上に抱き上げた。『大丈夫!』天音は足を引こうとしたが、足首を龍一の大きな手に掴まれた。温かい感触が、じんわりと足首の肌に伝わってきた。龍一は科学者であるだけでなく、救急救命士の資格も持っていた。傷の手当てなどお手の物だ。彼は天音の足傷のところに水をかけ流し、消毒液を染み込ませたコットンを傷口に当てた。『先輩、自分でできる』天音は龍一の手を押さえた。声が出ないので、彼女はただ首を横に振った。天音は傷口を押さえられ、あまりの痛みに息を呑んだ。天音が顔を真っ青にして、力なくテーブルに寄りかかっているのを見て、龍一は心を痛めた。「強すぎたか?もっと優しくする」『いや、自分で!』天音は龍一の手を押し返そうとしながら、何度も首を横に振った。だが、龍一は天音の足首をさらに強く掴み、真剣な声で言った。「天音、じっとしていろ。これは石で切ったんだ、甘く見るな。少し我慢しろ」天音が苦しそうな顔をしているのを見て、龍一は痛みが和らぐようにと、傷口に息を吹きかけた。温かい息が足の裏をくすぐり、まるで羽根で軽く撫でられたように感じた。龍一が優しく、根気強く自分の足の裏に息を吹きか
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第116話

ハッと我に返った天音は、渾身の力で龍一の胸を押しのけた。龍一はすぐに天音から離れ、慌てた様子で言った。「俺、怪我をさせたか?」彼は心配そうに天音を起こし、彼女の手を取って上から下まで確認した。天音は彼に振り回されるがまま、くるくると回わった。天音は龍一の手を押さえ、ため息をついた。もしかして、龍一は女性と付き合ったことがないのでは、と天音は思った。女の子の顔色ひとつ読めないなんて。もし、蓮司だったら……天音の脳裏に蓮司の顔が浮かんだ。彼女は首を横に振り、その幻影を振り払った。その時、ドアが勢いよく開かれ、桜子が焦った様子で入ってきた。怒りを滲ませた目で、彼女は言った。「教授!風間さんが研究所に押しかけてきました!天音さんを渡せと……さもないと研究所を焼き払うと!」翔吾も続いて入ってきた。「あいつ、なんて無茶を!教授が研究しているのは国や人のための機密事項です。もし破壊でもされたら、たとえどんな大物だろうと、国民を裏切った罪で処罰されるはずです!」それを聞いて、天音の顔は一気に青ざめ、早く帰らなければと思った。自分のせいで龍一を巻き込むわけにはいかない。ましてや研究所全体を危険に晒すことなど、絶対にできない。天音の心中を察した龍一は、彼女の手を掴んで引き留めた。「隊長は何と言っている?」「隊長は天音さんを必要としています。約束どおり必ず迎えに来ると……そう伝えるように言われました」桜子はうつむいた。その言葉に、室内は静まり返った。誰もが状況を理解した。今は組織に緊急事態が発生し、隊長はすぐには動けない。しかし、組織は天音を必要としており、必ず迎えに来ると約束しているのだ。天音は隊長に迷惑はかけるわけにはいかない。天音は龍一の手を取り、彼の掌に「私を返して」と書いた。「天音?」龍一は天音の手を握りしめた。「奴は君を傷つけるつもりだ」天音は首を横に振り、彼の手から自分の手を引き抜いた。30分後、一台の黒塗りの車が桜華大学の構内へと滑り込んだ。研究所の前には、記者や野次馬でごった返していた。「風間社長が何か証拠を掴んで、研究所に乗り込んでるらしいです!」「この前、風間社長の奥さんの不倫相手は佐伯教授だって噂、ありましたよね。結局はデマってことになったけど、本当に何もなければそんな
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第117話

龍一は微動だにせず、防御の構えすら取らず、蓮司を睨みつけていた。窓の外では、みんなが息を呑んだ。しかし、蓮司の拳は、寸前で止まった。窓の外にいた捜査員が蓮司に手を挙げた。「風間社長、ここみてください!」蓮司は龍一の顔を冷たく一瞥し、すれ違いざまに、天音を連れ去った男が、どれほど親しげに彼女を抱きかかえていたかを思い出し、怒りがこみ上げてきた。そして、身を翻して龍一に蹴りを入れた。龍一は訓練を受けていたため、身を引いてかわし両手で蓮司の脚を受け止めた。しかし、勢いに押され二歩後ずさりし、何とか体勢を立て直した。龍一の目は冷たくなった。「風間社長、奥さんは誘拐されたというより、まるで社長に虐待されて逃げ出したように見えるんだが」その言葉に、窓の外は騒然となった。「そうですね!私もその場にいましたが、ヘリコプターが飛び立った時、社長夫人は風間社長とすごく近い距離にいました。手を伸ばせば助けを求められたはずなのに、明らかに拒否するような態度でした!」誰かが疑問を投げかけた。人々は次々と携帯を取り出し、天音が連れ去られる映像を繰り返して見た。夜のため顔までははっきり見えないけど、動作ははっきりと確認できた。疑問の声は波のように広がっていった。蓮司は眉をひそめ、冷たく言った。「誰が、俺と妻のことに口を出す権利を与えた?」龍一は冷笑した。その時、捜査員がパソコンを持って入ってきた。「風間社長、この車のルートが消去されています。つい2分前です。意図的に消されたようです」蓮司は龍一が天音を誘拐したと確信し、「研究所をぶっ壊せ!」と叫んだ。突然、すべての通信画面が真っ暗になった。画面には黒い人影が映し出され、あらゆる通信機器からノイズ音が響き渡り、人々を震撼させた。機械音が流れた。「皆さん、東雲グループの社長夫人が失踪したのは私の仕業です。彼女はもう、行くべき場所へ行ったのです」人々は恐怖に慄いた。蓮司は龍一を突き飛ばし、壁の液晶ディスプレイに向かって叫んだ。「天音はどこだ!教えろ!」画面は変わり、ヘリコプターが山に衝突し、火花を散らしながら谷底へ落ちていく様子が映し出された。そして、通信が元に戻った。「天音っ!」蓮司は血走った目で、激しい痛みを堪えながら研究所を飛び出し、ロールスロ
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第118話

天音は崖っぷちで倒れていた。誰かが彼女を見つけ、谷底に向かって叫んだ。「風間社長!奥様を見つけました!」「奥様は崖下にいません!」だが、ロープはなおも底へと落ち続けていた。人々はパニックに陥った。天音は身を投げ出してロープをつかんだ。滑り落ちるロープの勢いに手のひらが裂かれ、血が滲んだ。彼女は喉が裂けるほどの大声で谷底に向かって叫んだ。「蓮司!私はここにいる!戻ってきて!」その声は谷底に響き渡り、崖の上の全員に届いた。しかし、ロープは彼女の手のひらをすり抜け、まだ滑り落ちていた。ボディガードたちも急いでロープをつかんだが、ロープは止まらず、さらに急激に滑り落ちた。「ロープの昇降は旦那様自身で制御しています」ボディガードは天音を支えながら、悲痛な声で言った。「奥様……旦那様はもう……」天音は泣き崩れ、ボディガードや専門家につかみかかり、何とかしてくれと懇願した。「そんな……はずは……ない……」ボディガードと専門家の激しいやり取りが彼女の耳元で聞こえ、上空では捜索ヘリコプターが旋回し、サーチライトの強烈な光で目がくらんだ。彼女は涙を流しながら崖っぷちに座り込み、蓮司の姿や笑顔が脳裏に浮かんだ。ただ彼から離れたかっただけで、彼に死んでほしいと願ったことは一度もなかった。かつて彼は、自分を苦境から救い出してくれた救世主だった。母が亡くなってからは、彼は自分のすべてだった。天音は胸の痛みを手で押さえた。彼女は、彼を心から愛していた。激しい痛みが彼女を襲い、息をするのも苦しかった。彼女は意識が徐々に朦朧として行くこと感じながらも、崩れ落ちそうな身体を必死に支え、かすれた声で言った。「夜明けを待てない。今すぐ、酸素ボンベを背負った救助隊を降ろして」天音はそう言うと、視界が暗くなり、全身の力が抜け、意識を失って倒れた。周囲の叫び声が聞こえる中、彼女は誰かの冷たい腕の中に抱えられた。蓮司の顔が脳裏に浮かんだ。そしてその目は深い憂いと切実な愛を宿した眼差しだった。「ピー」という電子音が聞こえた。その瞬間、頭上に光が見えた。彼女は、母の声が届いた気がした。母は天音が18歳の時、盛大な成人式と蓮司との婚約式を開き、彼女を蓮司に託した。母に会いたい。体がふわふわと浮き上がり、耳元で感情を抑
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第119話

突然、手術室の扉が開いた。医師が出てきて、「風間社長、奥様は搬送が早かったおかげで、手術は成功しました」と告げた。蓮司は良い知らせを聞いても、胸の痛みは増すばかりだった。さらに医師の言葉が続く。「ただ、奥様の心臓はとても弱っていて、再手術には耐えられません。もし再発したら、心臓移植しかありません。心の準備をしておいてください」蓮司は目を伏せ、暗い表情で「このことは妻には言わないでください」と頼んだ。医師は頷いた。天音を乗せたベッドが看護師に押されて出てくると、蓮司は駆け寄り、彼女の手を握り、優しく「天音」と呟いた。彼女を起こさないようにした。そして、失いかけた彼女を再び取り戻した喜びを噛み締めていた。三日後、天音は退院した。二人は以前の家に戻った。天音が壊すように指示したあの家は、すっかり新しく改装され、模様はすべて変わっていたが、何も変わっていない気もした。リビングの中央には二人の結婚写真が飾られ、家族三人の写真立てがあちこちに置かれていた。「天音、友達がお前の退院祝いと引っ越し祝いをしたいって言ってるんだ。今夜来てもらうけど、どう思う?」「いいわよ」天音が病院で目を覚ましてから、蓮司は片時も彼女のそばを離れなかった。会社には行かず、自宅で仕事をしていた。大智にも幼稚園に行かせず、一日中彼女と共に過ごさせた。毎日、家族と数人の使用人の顔しか見ない生活に、天音は苛立ちを感じていた。自分が外に出られないのなら、人を呼ぶしかない。「この間、佐伯教授に誤解があったでしょ。これを機会に謝ったらどう?」彼女には防御システムの構築を急がなければならず、無駄にできる時間はもう残っていなかった。蓮司は表情を曇らせ、「彼の息子も呼ぶ必要があるのか?」と尋ねた。天音は軽く「ええ」と頷いた。人が多い方がいい。「佐藤先生も呼んで」手術の時、医師たちは天音の妊娠に気づいていなかった。心臓が停止し、全身麻酔をかけられたことで、子供への影響がないか、美咲に診てもらう必要があったのだ。夜になると、別荘には次々と客が訪れ、賑やかになった。天音は淡い青色のドレスを着て、腕にはヒスイのブレスレットが揺れていた。それは風間家の女主人の証だった。彼女は優しく蓮司の腕を取り、玄関で客を出迎えていた。恵里
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第120話

首を締めつけられ、恵里は顔が真っ赤になり、恐怖に震えた。天音を刺激しないと約束したのに、また彼女の悪口を言ってしまった。しかし、今回の千載一遇のチャンスを、絶対に逃すわけにはいかなかった。恵里は蓮司の首に両腕を回し、色っぽい目つきで、甘えた声で言った。「佐伯教授の研究所には、凄腕のハッカーがたくさんいるわ。あの夜、現場にいた坂本さんも、研究所の天才ハッカーよ。彼が細工した可能性だってある」その時、携帯が鳴った。会社の技術部からだ。「風間社長、監視カメラの映像復元に三日もかかってしまい、申し訳ございません。誰かが映像をつなぎ合わせていて、ほとんど痕跡が残っていませんでしたが、ハッカーの友人に頼んで、ようやく綻びを突き止めました。すぐにお送りします」電話から聞こえてくる声を聞き、恵里は命拾いをしたように、「蓮司さん、私は命に懸けて、真実を話しているわ」と言った。蓮司は携帯に届いた動画を開き、すぐに再生した。休憩室から次々と人が飛び出してくる映像を見て、蓮司の表情はますます険しくなり、恵里は満足げに笑みを浮かべた。彼女は首の締め付けが緩んだのを感じると、赤い唇を蓮司の唇に重ねて、甘く囁いた。「蓮司さん、天音さんと佐伯教授は、狭い給湯室で一体何をしていたのかしら?あなたからもらった大切なブレスレットまで失くしてしまうなんて」蓮司は怒りを抑えきれず、恵里を突き飛ばして書斎を出て行った。恵里は床に倒れ込み、痛みに顔をゆがめ首を押さえながら咳き込んだ。怒りに満ちた蓮司の後ろ姿を見ながら、内心は晴れやかだった。蓮司がどんなに天音を溺愛していようと、他の男と親密にしていることだけは許せないはずだ。今度こそ、自分の勝ちだ。蓮司は廊下に立ち、向かいの建物のキッチンで、天音が直樹と大智の世話をしているのを見た。大智が直樹のケーキの方が大きいと騒ぎ出し、天音は仕方なくそれを分けてやっていた。困っていながらも、彼女は楽しそうだった。退院してから初めて、彼女が笑うのを見た。その時、桜子がキッチンに入り、バッグから小型のノートパソコンを取り出した。天音はパソコンを受け取ると、ピアノを奏でるよう軽やかに両手でキーボードを操った。エクセルの表の作り方すら分からなかった彼女とはまるで別人だった。彼女の瞳には鋭い光が宿り、眉間には
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