All Chapters of 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

「龍一、携帯とパソコンをなくしちゃった。今夜は戻らないから、また明日ね。詳しい話はそれから」そう言ってから、龍一が何も反応しないのに気づき、天音は慌てて付け加えた。「直樹は何か伝えたいことある?」要はソファに座り、長い指をひじ掛けに軽く曲げ、静かに携帯を待っているようだった。隊長の携帯には、きっと部外秘のことがたくさん詰まっているんだろう。あまり長く借りておくわけにもいかない。「梓さんの世話もお願いね。彼女に『仕事は終わった。明後日には戻れる』って伝えてくれる?」何かがおかしい。相手の呼吸音は聞こえるのに、何も話さない。一体どうしたんだろう。電話を切り、携帯を要に返した。要は顔を上げ、天音の頬の赤い跡と擦りむいた手に視線を落とし、携帯を受け取ると言った。「ちょっと待って」「ん?」本当はすぐにでも帰りたかった。ドアのところに特殊部隊の隊員たちがずらっと並んでいて、背を向けられているから何をしているのかは見えないけれど、こちらの話は筒抜けだ。まるで監視されているみたい。さらに、要の秘書の野村澪(のむら みお)は時折顔を上げてこちらを見てくる。「救急箱を持ってきてくれ」要は澪に指示し、ソファの横に手を置いた。天音はソファに座ると、縄で手が擦りむいていることに気づいた。澪は救急箱を置いてすぐに出ていった。要は救急箱を開け、消毒綿を取り出した。「隊長、大丈夫よ、自分でできるから。ちょっとした擦り傷だし、消毒しなくても」今すぐにでもパソコンが欲しい。海翔を操っている黒幕がいるはずだ。一体誰が自分を狙っているのか、調べたい。要は消毒綿を置き、氷嚢を取り出して、天音の腫れた頬に当ててやった。ひんやりとした感触に、思わず体が震えた。顔を上げると、要の澄んだ瞳と、彼独特の墨の香りが鼻をかすめた。天音は視線を落とし、氷嚢に手を添えながら言った。「ありがとう、隊長」要が氷嚢に触れた指先の温もりは、天音が手を重ねた瞬間に消えてしまった。「ああ」要は執務机に戻ると、澪と他の二人の男性秘書が、すぐに書類を机の上に並べ始めた。深夜だというのに、要はすぐに仕事に戻った。天音は傷を消毒し、絆創膏を貼った。ゴミを片付けて帰ろうとすると、部下が新しいパソコンと携帯を持ってきてやった。天音は少し驚いて要を見ると、
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第202話

叫び声が鼓膜を劈く。ハッと目を開けると同時に、ドアが開いた。天音の怯えた瞳が捉えたのは、要の水底のように沈んだ目差しだった。「悪い夢でも見たのか?」天音は体を丸め、震える声で答えた。「いえ、何でもない、隊長」要は天音を見つめながら、部下に何かを指示している。しばらくすると、遠藤家の使用人が牛乳を持ってきてくれた。「どうぞ、お召し上がりください」年配の使用人は、天音の額の冷や汗を優しく拭ってくれた。使用人は要を見ながら言った。「きっと何かで驚かれたのでしょう。今夜は誰か付き添っていた方が良いかと」牛乳を受け取ると、天音は落ち着きを取り戻していた。「大丈夫。ただの夢だから」要はドアのところに立ったまま、部屋には入ってこなかった。天音が牛乳を飲み終え、使用人がグラスを持って出ていき、ドアを閉めるまで、何も言わなかった。ドアが閉まるまで、要は一言も発しなかった。天音はすっかり目が覚めてしまった。パソコンの電源を入れると、海翔の情報が表示された。彼の口座は凍結されていて、しかも、同じ手口で、中の金が盗まれている。すぐにシステムを起動して追跡しようとしたが、経路はブロックされているどころか、完全に破壊されていた。銀行の窃盗事件はまだ終わっていない。海翔の背後には黒幕がいる。だが、肝心の海翔は行方不明だ。和也の部下たちは、その後も川で海翔を見つけられなかったまずは銀行システムから調べてみよう、と天音は考えた。内部に共犯者がいなければ、凍結された資金を盗み出すなんて不可能だ。要は書類に次々とサインをし、時折、窓に映る天音の忙しそうな姿に目を向けた。龍一は直樹を寝かしつけ、梓を安心させ、階下に降りると、蓮司がニュースを見ていた。川辺で拉致事件が発生し、被害者は無事保護されたが、犯人は川に飛び込んで逃走したというニュースだった。テレビ画面には、犯人の写真が映し出された。「こんなことをしても、天音はますますお前を許さないだろう」龍一は、別荘の周りにいるボディガードたちと、蓮司がまだ握っている携帯を見た。「俺が姿を消せば、明日には部下たちが気づくだろう……」直樹と梓を人質に取られている龍一は、蓮司と事を構えるわけにはいかない。「その時になれば、俺たちを解放せざるを得なくなる。もう諦めろ。天音
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第203話

玲奈は明らかに驚いた様子だったが、天音の若々しい美しさを見ると、とても母親には見えなかった。天音は頷きながら言った。「直樹の境遇は少し複雑で、実のご両親はもういません。私もあまり会えていないんです。今回久しぶりに帰ってきて、甘えん坊になっているみたいです」「そうだったのね」玲奈も同情して言った。「それなら、子供も一緒に連れてきなさい。ここに住めばいいじゃない。子供と一緒に過ごせるし、要とも一緒にいられる。一石二鳥ね。それにおじいさんとおばあさんの家は自然豊かできれいなところなんでしょう?子供を連れて遊びに行くのもいいわ」天音は玲奈の期待のこもった視線を感じ、「では、後で荷物を取りに行って、直樹の義理のお父さんに相談してみます。もし彼が良ければ、直樹を連れてきます」と答えた。この言葉を聞いて、玲奈は眉をひそめ、要に非難の視線を向けた。直樹の義理のお父さんって、要であるべきじゃないの?どうして他の人なの?昨夜、天音は他の男の家に泊まったっていうの?使用人の九条彩子(くじょう あやこ)が昨夜報告してきたことを思い出した。夫婦は別々に寝ていて、会話もほとんどなく、天音が悪夢を見たときも、要は慰めにも行かなかったらしい。二人の雰囲気は、玲奈にとってどうにも気がかりだった。新婚なのに、ラブラブというより、まるで他人みたい。とはいえ、息子も確かに忙しいし、家には人がたくさんいるから、二人きりになるのも難しいだろう。玲奈は自分に言い聞かせていた。「直樹くんのお父さんも数日滞在していただいてもいいわよ。天音はわざわざあちらまで迎えに行く必要はないわ。住所を教えてくれれば、こちらから人を遣わせて迎えに行かせるから」要は秘書の小島暁(こじま あかつき)を見ると、暁は天音に言った。「佐伯教授は最近、隊長と連絡を取りたいと、ずっとおっしゃっています」天音は頷き、それで話がまとまった。遠藤家の運転手が天音を銀行まで送り、天音は昨夜入手した情報と自分の分析を和也に伝えた。「黒幕は大輝だと睨んでいます」和也は言った。「あなたが拉致されたのも、あいつが海翔さんに指示した可能性が高いです。奴が違法行為に関わっているのは薄々感づいていたんですが、毎回逃げられてました」大輝……大輝の険しい顔が天音の脳裏をよぎった。「木村局長が
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第204話

天音は一日中、梓に会えず、携帯にも繋がらない。遠藤家の運転手から、迎えには行ったもののまだ会えていないと聞き、少し不安になり、自ら迎えに行くことにした。リビングの窓際にいくと、1階は真っ暗だが、2階には明かりがついていた。ドアノブに手をかけると、裏庭から植木鉢が割れる音が聞こえた。直樹がかくれんぼをしているのだと思った。天音は窓に沿って裏庭へ向かいながら、声を潜めて言った。「直樹、ママはもうすぐ見つけるわよ」窓ガラスとレースのカーテン越しに、自分のすぐ後ろに人影があり、自分の歩調に合わせて近づいてきていることに気づかなかった。生き生きとした天音が、蓮司の視界に入った。すらりとした体つき、健康的な顔色、笑うとまるで花のように純粋で美しい。その明るい笑顔は、春の風のように蓮司の傷ついた心を癒す。しかし、悲しみに暮れる天音の様子もまた、蓮司の心に焼き付いていて、鋭い刃物のように、既にズタズタになった心を少しずつ切り裂いていく。天音は裏庭で割れた植木鉢を見つけたが、直樹の姿は見えない。リビングから足音が聞こえてきたので、微笑みながら裏庭のドアを押して入った。「直樹、見つけた」けど、誰もいない。天音は2階を見上げた。「2階に行ったのかしら?」そして、天音は微笑みながらリビングに入った。蓮司はリビングの中央に立っていた。天音が近づいてくるのを見て、彼女のほのかな香りが鼻腔をくすぐり、胸が高鳴る。そして、抑えきれないほどの痛みが心を締め付ける。天音を抱きしめたい。もう一度、自分のものにしたい。二度と逃がしたくない。しかし、もう二度と、彼女を悲しませたくない。蓮司が一歩前に出ると、天音は彼の姿に気づき、自然に近づいてきた。そして、腕の長さほどの距離で立ち止まった。その声は美しく、そして優しい。「先輩?どうして電気をつけないの?昨夜電話したのに、どうして何も言わなかったの?ここに泊まるのは難しくなって、遠藤家と一緒に出かけることになったの。要が帰ってきたわ。秘書の方から、あなたはずっと彼と連絡を取りたがっていたと聞いた。2日後には要と一緒に彼のおじいさんとおばあさんの家に行く予定なんだけど、もう少し直樹と一緒にいたいから、一緒に来てくれない?先輩、どうして何も言わないの?」天音は振
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第205話

梓は暁と廊下を歩きながら、ぶつぶつと文句を言っていた。「佐伯教授のお客さん、なんか変、ちょっと怖いだし、まだ2階で話してるみたいですよ」「佐伯教授と交流があるのは、みんな科学界の重鎮ばかりでしょうからね。専門用語が分かりにくくても無理はないでしょう」暁は冗談めかして言った。「それもそうですね。見るからに凄腕って感じましたけど、ちょっと胡散臭いのも、科学界の重鎮の定番かもしれませんね」要は天音の隣を歩きながら、白いシャツの袖が彼女のワンピースの袖に軽く触れるのを感じた。そして小さく尋ねた。「腕を組むか?」「ええ」天音は、要が玄関の方を見ているのに気づいた。要の喉仏が話すたびに小さく上下に動いている。要の両親が外で待っていることを悟り、天音は彼の腕に自分の腕を絡ませた。薄い生地越しに、二人の肌がかすかに触れ合った。二人は並んで別荘を出て、車の中で待つ裕也夫妻に挨拶をして、黒い車に乗り込んだ。何台もの黒い車が、別荘地から出て行った。中には、訓練された特殊部隊の隊員も同乗している。その圧倒的な威圧感を前にして、別荘に集結していたボディーガードたちは、うかつな真似などできるはずもなかった。2階のベランダに立つ蓮司の暗い瞳は、底知れぬ深さをたたえていた。「遠藤家です」ボディーガードのリーダーが報告してきた。「これほどの格式は、京市でも屈指のものです。奥様は、佐伯教授と一緒にいるのではなかったのですか?まさか……」蓮司は、前の黒い車から聞こえてきた着信音を思い出した。あの時、天音は車の中にいたのだ。白樫市の庁舎を探していた時、要と出くわしたことも思い出した。あんな人が、火災現場で部下の女性と不適切な関係を持つことなどありえない。その時、天音は庁舎の中にいた。特別な許可が必要な飛行場から発信された携帯の信号。あの時も、天音は要の飛行機の中にいた。奴か。あの猫かぶってる偽善者。隙を突いて、天音を奪いやがった。天音と何度もすれ違っていたことを思い出した。蓮司の目に血がにじみ、頭に浮かぶのは、要の冷淡な顔ばかりだった。「旦那様、どうしますか?」ボディーガードのリーダーが尋ねた。背後から、龍一の嘲るような声が聞こえた。「天音にちょっかいを出すのはやめろ。ここは京市だ。お前がやりたい放題できる
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第206話

再び蓮司に会うなんて、天音は思ってもみなかった。過去の記憶が、荒れ狂う波の音とともに、彼女の胸に押し寄せた。もう全て忘れたと思っていたのに、蓮司と恵里が浮気していた時の光景が、次々と脳裏に蘇る。彼らは五年もの間、自分を欺き続けていた。自分が難産で苦しんでいる時ですら、蓮司は愛人の出産に付き添っていたのだ。自分の娘は亡くなったのに、蓮司は愛人の娘に、自分の娘の名前を与えた。それどころか、愛人の子を養子として引き取り、娘の代わりに可愛がり、娘が得られなかった人生を送らせようとしていた。恵里が、自分の義理の妹であることを、蓮司は知っていたのに。自分の母が、恵里の母親のせいで、この世を去ったことも、彼は知っていたのに。それでもなお、彼は恵里と関係を持ち続けていたのだ。蓮司は、自分の息子に愛人を「ママ」と呼ばせ、愛人の娘を妹ってことにしてた。母の莫大な保険金と遺産を、全て彼のものにした。何度も、自分のお腹の子を堕ろそうとした。天音は蓮司の手を振りほどこうとした。しかし、彼の手はまるで吸い付くように彼女を捉え、そのまま強く抱き寄せた。木の香りが鼻をつき、吐き気がする。「天音、お願いだ、話を聞いてくれ」蓮司は天音を抱きしめ、彼女の温もりを感じ、心臓が激しく鼓動する。「俺は間違っていた。二度とお前を裏切るようなことはしない。3年前に恵里を白樫市から追い出し、愛莉を施設に預けた。それにお母さんの保険金も、お母さんが俺の名前を書き、お前のために管理しろと言ったんだ。だから、そのお金は全てお前の名義で預けている。お前は娘が欲しかったよな。でも、お前の体、心臓は出産に耐えられなかった。だから、お前と俺にそっくりな娘を、作ってあげたかったんだ。俺は間違っていた。もう二度とお前の代わりに決断することはしない。天音」蓮司は心の傷が滲み出ているような目で天音を見つめ、優しく囁いた。「もう一度だけ、チャンスをくれ。愛している。お前を失いたくない」かつてないほど、蓮司は卑しく懇願した。天音は冷ややかな目で蓮司を見つめた。彼が苦しそうに懇願する様子を、氷のように冷たい視線で見つめ、冷たく言い放った。「離して!」蓮司は天音を強く抱きしめ、連れ去りたいと思った。彼女を自分のものにしたい、独り占めにしたいと思った。蓮司の瞳
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第207話

天音が自分の元を去り、他の男の腕に飛び込む姿を目の当たりにして、蓮司の胸は張り裂けそうで、呼吸もままならない。天音は息を切らせながら、要の側に駆け寄った。「隊長」「あまり遠くに行くなよ」天音の服が少し乱れ、髪も少し崩れているのを見て、要は森の方へ視線を向けた。「天音さん、森の中には野生動物がたくさんいますから、夜は危ないですよ」蛍は天音の腕を取りながら言った。「ジンギスカンが焼けました。おばあさんが、もう席に戻ろうって」天音は呼吸を整えた。蛍だけでなく、千葉家の皆もそこにいた。自分のことで他の人たちを驚かせたくなかった天音は、何も言わずに蛍と立ち去った。「天音さん、さっき急に居なくなって、お兄さんがすごく心配してたのですよ」蛍は天音の耳元で小声で言った。「お兄さんはクールそうに見えますけど、本当は天音さんのことを大切に思っているんです」天音は、その言葉を聞いて微笑んだが、何も言わなかった。要はその場に立ち止まり、黒い瞳に冷たい光を宿した。程なくして、特殊部隊の隊員たちが森の中から現れ、報告した。「隊長、何人もの痕跡と、大量の血痕がありました。追跡しましたが、見つけることはできませんでした」森はあまりにも広く、さらに奥へ進むと本格的な山になってしまう。それを聞いて、要は別荘へ向かって歩き出した。特殊部隊の隊員たちはすぐに警戒区域を広げ、警備を強化した。ヘリコプターも上空を巡回し始め、千葉山荘全体は鉄壁の守りで覆われた。楽しい時間はまだまだ続く。砂浜での興奮冷めやらぬまま、場所を千葉家のダイニングテーブルへと移した。使用人がジンギスカンを運んできた。要はすらりとした手でナイフとフォークを持ち、丁寧に肉を切り分けて、天音の前に置いた。森から戻ってからというもの、天音はどこかぼんやりしていて、元気がない。目の前に置かれたジンギスカンを見て、ようやく我に返った彼女は、要に軽く微笑み返したが、箸をつける様子はない。そこにいる誰もが、要が誰かの世話を焼く姿など見たことがなかった。要は生まれながらの天才で、性格もクールだった。幼い頃から将来を嘱望され、家を離れることも多く、大人になってからはさらに鍛錬のために各地を転々としていた。孤高の雰囲気を持つ要に、同世代の親戚の子供たちは恐れ多くて、頼みごとを
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第208話

蓮司が部屋に入ってきた時も、天音の表情は変わらず、氷のように冷たい声で言った。「知り合いではありません」その瞬間、蓮司の心はどん底に突き落とされた。彼女の顔から、一瞬たりとも目を離すことができない。二人がこんな関係になってしまうとは、思ってもみなかった。天音が知らないと言うので、蓮司も否定しなかった。そして皆は、二人が全くの他人であるかのように振る舞った。天音は美人なので、男なら誰でも一目見てしまうものだ。だから、彼らは蓮司がじっと天音を見つめているのを、特に気に留めなかった。婚約者である要でさえ、蓮司を一瞥しただけで、特に何も言わなかったのだから。「蛍が言っていた友達があなただとはね。女性の誘いを受けることなんてなかったのに。奥さんは……」話しているのは、要の叔父の拓海だ。彼は要より少し年上だけだ。蓮司の暗い表情を見て、拓海は言葉を詰まらせた。そして、何があったのかを思い出し、こう言った。「ずっと落ち込んでいるのかと思っていたよ。立ち直ってよかった」「皆にご紹介しましょう。こちらは白樫市の有名の実業家、風間社長です。こっちは海外で彼と仕事をしたことがあります」拓海は使用人に蓮司の席を用意させ、自分の隣に座らせた。とても丁重な扱いだった。「風間社長でしたか……どうぞおかけください」要の祖母、千葉光希(ちば みつき)が言った。蓮司に関するニュースは、みんなは多少なりとも耳にしていた。彼は妻に一途な愛を捧げる男として知られていた。蓮司は軽く会釈して席に着いた。彼の席は、ちょうど要と天音の向かい側だった。二人の繋がれた手は、蓮司の目に突き刺さり、抑えていた心の痛みが増した。テーブルを挟んで座る蓮司の視線は、ずっと天音に注がれていた。まるで、目を離したら彼女が消えてしまいそうで。天音は時折要と話したり、千葉家の人の質問に答えたりしていた。天音が和也の部下である、ただの事務員だと知ると、千葉家の面々は明らかに不快感を露わにし、何度も裕也夫妻に視線を向けた。しかし、裕也夫妻は気にしていないようだった。他の人には、息子が結婚しない悩みは理解できないだろう。むしろ、天音が要のクールさに怖気づいて逃げ出さないか、心配していたのだ。天音が千葉家の人々に軽んじられているのを見て、蓮司の心は怒りでいっぱいになった。天音
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第209話

要は指先で血痕を摩挲しながら、蓮司のスーツの襟元から覗くかすかな血の跡を冷ややかに一瞥した。そして、眸を少し暗くすると、部屋を出て行った。要に無視された蓮司は、両脇に垂らした手をぎゅっと握り締めた。だが、特殊部隊の隊員たちがそばにいる手前、要に向かって警告するしかできなかった。「天音に手を出すな」要はドアの前で足を止めた。長年、ここまで傲慢な態度を取られたことはなかった。すらりとした長身の背中からは、計り知れない威圧感と冷淡さが漂っていた。ほとんど抑揚のない声で言った。「連れ出せ」特殊部隊の隊員たちはすぐに蓮司の前に立ちはだかり、それ以上近寄ることを許さなかった。蓮司は拳を握りしめ、骨が軋む音がした。要が特殊部隊の隊員たちに囲まれながら出て行く様子を、ただ見ていた。要は自分の部屋には戻らず、妹の蛍の部屋へ向かった。妹が蓮司に淡い恋心を抱いているのを見て、少し感傷的な声色で言った。「蛍、風間はお前には合わない」蛍は要を見つめた。裕福な家庭で甘やかされて育った蛍は、欲しいものは何でも手に入り、苦労を経験したことがなかった。生まれて初めて、自分の思う通りにならないことが起きたのだから、機嫌が悪くなるのも当然だ。蛍は露骨に顔をしかめた。「お兄さん、蓮司さんの奥さんは夫と子供を捨てて出て行ったきりよ。私は彼のことが本当に好きなの。再婚相手でも構わないし、彼の息子の継母になるのも構わないわ」要は眉をひそめた。「お前はまだ若いんだ。お前自身もまだ子供じゃないか」要が不機嫌になると、蛍は少し怖じ気づいたが、それでも勇気を振り絞って言った。「お兄さん、私はもう大人よ。継母だって、ちゃんとできるわ。それに、私はお兄さんの恋愛には口出ししないわ。だから、お兄さんも私の恋愛に口出ししないで。おばあさんやおじさんたちは、天音さんの家柄がお兄さんに釣り合わないって言ってるけど、私はずっとお兄さんの味方だったわ。なのに、どうして私の味方になってくれないの?今まで、お兄さんにお願いしたことなんてなかったわ。今回だけ。お願いだから、蓮司さんと付き合うのを邪魔しないで」蛍は強い口調で言った。夜、蓮司はバルコニーに立ち、煌々と輝く向かいの建物を見つめていた。彼の視線の高さにあるのは、遠藤家の部屋だ。じっと見つめているのは、要と天音の部屋だ。レー
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第210話

しかし、蓮司が部屋を出ると、千葉山荘は再び明るく照らし出された。山荘全体は、ほんの数分慌ただしくなっただけで、すぐに平静を取り戻した。飛び立ったヘリコプターが再び山荘の上空を旋回し、特殊部隊の隊員たちと千葉家のボディガードたちが整然とパトロールを行い、要のいる建物を厳重に守っていた。蓮司の世話係の執事が駆けつけて説明した。「風間社長、申し訳ございません。ネズミが電源コードを噛み切ってしまい、停電してしまいました。しかし、予備電源は既に起動しております。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」蓮司は険しい表情をした。執事は、蓮司に他に指示がないのを見て、その場を離れた。蓮司は向かいの建物を見た。鉄壁の守りが、要と天音の姿を完全に覆い隠している。二人の様子を伺うことすらできず、ここで天音を連れ戻せる可能性はゼロだと悟った。胸が張り裂けそうだった。「風間社長、もしかしたら、私がお役に立てるかもしれません」要の秘書、澪が蓮司の視界に現れた。……天音はアンティーク調のベッドの端に腰掛け、背もたれに寄りかかっていた。体は震え、荒い呼吸が静まり返った部屋に響いていた。要は彼女の異変に気づき、そばに立った。長い指で汗で濡れた額の髪をかき上げ、そっと額を撫でながら、穏やかな口調で言った。「少し熱いな。昨日の夜、川に落ちて冷えたせいだろう」要は冷却シートの袋を破り、一枚を取り出して天音の額に貼った。ひんやりとした感触が額に伝わると、天音は身震いし、凭れかかっていた体勢を、もはや保てなかった。要は両手で彼女の脇を抱え、支えた。視界がぼやける中、天音は顔を上げて要を見た。少し目眩がしたが、それでも彼に伝えたいことがあった。「さっき、森の中で……彼に会った」天音の言葉には罪悪感が滲んでいた。要は優しく言った。「人がたくさんいたから、言いづらかったんだな?」天音は小さく「うん」と頷き、そして不安そうに言った。「まさか、彼が千葉家にいるとは思わなかったわ。もし、ご両親が私の過去を知ったら、結婚に反対するかもしれない」天音は、千葉家の人間が自分のことを探っていたこと、そして菖蒲が言った言葉を思い出した。もし彼らが自分の過去を知ったら、きっとこの結婚を許さないだろう。二人の結婚は、そもそもお互いの利害が一致した結果だった。
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