All Chapters of 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。: Chapter 391 - Chapter 400

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第391話

傷の手当てが終わると、蓮司は大智に言った。「おいで」大智は怖かったけれど、おとなしく蓮司のそばへ歩いていった。そばに寄ると、蓮司は大智を抱きしめた。「ごめんな、大智。パパが怖がらせちゃったな」大智の目から、たちまち大粒の涙があふれ出た。後頭部を蓮司に抱かれ、蓮司の肩に顔をうずめる。我慢できずに彼の首にしがみついて、声をあげて泣きじゃくった。パパにこうして抱きしめてもらうのは、本当に久しぶりだった。蓮司は続けた。「パパに教えてくれないか。ママは、どうやってあの遠藤おじさんとキスをしていたんだ?」……天音は、一睡もせずに新しいシステムの開発に没頭し、翌日はそのまま会社へ向かった。心配した由理恵は、暁に電話をかけた。離婚届を提出まであと二十日、要の就任式も近づいてきた。要は、かつてないほど多忙を極めていた。彼が望むのは、どちらか一方を選ぶことではない。地位も、不知火基地も、誰にも奪わせるつもりはなかった。それは天音に対しても同じで、諦めることなど考えられなかった。地位も、妻も、両方手に入れる。就任の正式発表はまだだが、要専属のチームが既に庁舎に入っている。毎日、数えきれないほどの案件で要の決裁が必要となり、会議は朝から晩まで続いている。それでも、要は時間を作って天音に会い、想花の幼児教室の選びも手伝っていた。天音が口にする言葉の一つ一つを、要は真剣に受け止めていた。暁が由理恵との電話を終えて戻ると、要は基地の上層部とビデオ会議中だった。瑠璃洋周辺諸国の動向を踏まえ、防衛体制の調整を行っていた。要は少し間を置いて、暁の方を見た。暁は要のそばに寄り、声をひそめた。「夏川さんからの電話です。加藤さんが……」要は冷たく言い放った。「分かった、下がっていい」暁は、予想外のことに思いながらも会議室を出た。隊長の広報担当として女性が必要になり、今朝の会議で達也が澪を強く推薦した。反対されると思ったが、まさか隊長はあっさり同意した。澪の能力は申し分ない。なんといっても隊長自らが育てたのだから。しかし、澪が犯した過ちは天音と関係がある。そして今、隊長は天音のことを一切聞きたがらない素振りを見せている。これがいい兆候なのか悪い兆候なのか、暁には判断がつかなかった。暁は、達也や澪よりも長く隊長に
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第392話

要に見つめられ、携帯を持つ暁の手は、まるで刃物で切り刻まれているかのようだった。やがて、要の淡々とした声が聞こえる。「わかった」電話はそこで切られた。要は携帯をしばらく見つめた後、会議室に入って会議を再開した。夜になり、天音はシャンパンゴールドのベンツの運転席から、嬉しそうに降りてきた。「先輩、さすがだね。この車、運転しやすいし、内装も私と想花にぴったり」これでもう、光太郎や渉に運転を頼む必要はない。想花と由理恵との出かけるのも、ずっと便利になった。天音は値切り交渉が苦手だった。龍一のおかげで、数十万円も安くしてもらえたのだ。龍一は車の向こう側、助手席のドアのそばに立っていた。彼は意味深な眼差しで天音を見つめ、静かに言った。「俺の見る目は、いつだって確かだからな」天音はにこりと笑った。「本当にびっくりしたわ。先輩がこんなに車に詳しいなんて、思いもしなかった」後部座席から、由理恵が想花と直樹を抱いて降りてきた。「佐伯教授、直樹くん、今夜はたくさん食材を買ってきたので、よかったら晩ごはんを食べていってください」由理恵は天音の体をとても心配していた。天音は自分の負担を軽くするため、いつも外食で済ませてしまうが、外の食事が家のものほど安心できるわけがない。どんどん痩せていくのに、ちゃんと食べているのか、何を食べたのか、由理恵にはわからなかった。「いいですね、手伝いますよ」と龍一は言った。「そうよ、夏川さん。先輩は料理もすごく上手なのよ」そう言いながら、天音はトランクから食材を取り出した。龍一は、天音の手からさっと荷物を受け取った。「まあ、佐伯教授ってすごいんですね!」由理恵は驚いた。一行は楽しそうに笑いながらマンションに入っていく。その様子は、まるで本当の家族のようだった。ベンツの隣に、黒い車がゆっくりと停まった。暁は、後部座席から漂う氷のような空気を感じていた。隊長の手にある書類が、もう10分もめくられていないことにも気づいていた。数分後、要が冷ややかに口を開くのが聞こえた。「龍一は、暇すぎるようだな」暁はすぐに意味を察した。「佐伯教授から二つの研究プロジェクトが提出されています。確かに、検討の価値がありそうですね」黒い車は静かにマンションを去った。それから間もなく、龍一も直樹を連れて慌ただし
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第393話

天音は、すぐにその手を振り払い、振り返って驚いたように言った。「先輩、どうしてここにいるの?」と驚きの声をあげた。「招待状をもらったんだ」と、龍一は答えた。昨日の夜のことを思い出した天音は尋ねた。「先輩が徹夜で準備していた研究計画書、相手は気に入ったかしら?」「まだ検討中だ」龍一は、連絡してきたのが暁だということを、天音には告げなかった。自分が何者かの制約を受けていることを、天音に知られたくなかったのだ。天音の前では、常に完璧でいなくてはならないと思っていた。「でも、いいスタートね」天音は龍一を気遣って言った。要は、その二人に視線を注いだ。「遠藤隊長、控え室で少々お待ちください」と、情報通信局の局長が声をかけた。要は視線を外し、案内に従って奥へと歩いていった。龍一が天音に向ける視線は、まるで芸術品を鑑賞するかのように、いつも熱っぽく純粋だった。彼女が幾度も自分を危機から救ってくれたこと、そして彼女の白く美しい手が、人類の知恵を超えたインターネットの世界を操り、目に見えない未知の全てを一瞬で掌握してしまうことを、龍一は今でも信じられない。彼女に救われた瞬間、まるで神を見たような気がした。「教授?」少し離れたところから、穏やかな声がした。龍一と天音がそちらを向くと、夏美と目が合った。夏美は笑顔で歩み寄り、「久しぶり」と言った。「夏美、君も帰国していたのか?」「帰国したばかりなの。仕事が落ち着いたら白樫市まで会いに行こうと思っていたのだが、まさかここで会えるとは思わなかったね」夏美は天音を一瞥し、尋ねた。「遠藤隊長の奥様と、お知り合いなの?」「遠藤隊長の奥様」という呼び方に、龍一と天音は二人とも眉をひそめた。「天音とは友人だよ」天音、だって?ずいぶんと親しい呼び方だ。先ほど龍一が天音を支える仕草も、夏美は目にしていた。昔、わざと龍一の前で転んだときも彼は助けてくれたが、そのときは腕を軽く支えてくれただけだった。龍一は、天音がシニアウェアエンジニアたちの間で孤立していることに気づいた。そこにちょうど夏美がやって来たのだ。「夏美、天音はコンピュータープログラミングの専門家なんだ。何かあったら彼女に聞くといい」ポスターにも載っていた何人かの大物が、こちらへ歩いてきた。「夏
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第394話

そのあからさまな皮肉に、慎也は眉をひそめた。「加藤さんは自分の実力で安全センターの顧問の座についたんですよ。青木さん、先日、加藤さんと勝負した結果を、彼らには話していないのですか?」夏美が口を開くより先に、慎也は天音をかばうように畳みかけた。「青木さんが負けたんですよ。青木さんが負けたからこそ、加藤さんを安全センターの顧問として採用したんです。加藤さんには実力があるんです」その言葉に、数人は驚き、夏美の方を見た。「何の勝負をしたんだ?」「夏美が負けるわけないだろう?」夏美も負けるなんてありえないと思っていた。でも、現実に起きてしまった。悔しさいっぱいに、こう言うしかなかった。「あの日は、体調が悪かったの」もし天音が夏美に勝てるほどの実力者なら、これまでに全く無名なのはおかしい。ここ数年、国内にそんな人物はいなかったはずだ。浩平が言った。「夏美の実力は誰もが知るところで、HF大学の優秀な卒業生なんですよ。ところで、遠藤隊長の奥様はどちらの大学を卒業されたんですか?」「……」天音は無言になった十八歳のとき、隊長に留学という名目で基地に送られた。そこは、確かに学校のような施設はあった。しかし、その学校の名前を覚えてすらいなかった。天音がなかなか口を開かないのを見て、周りの人々は、どうせ三流大学に違いないと思った。「猿も木から落ちるって言うじゃないですか。たった一度の勝負で、こんなに重要な役職を決めてしまうなんて。松田さん、俺は到底、納得できませんね」浩平は今日、夏美の面目を保ってやろうと決意していた。権力を盾に一般人の道をふさぐ特権階級が嫌いなのだから。「そもそも奥様の学歴は、この役職に本当に見合っているんですか?」慎也は困ってしまった。彼も天音がどこの大学を卒業したのか知らない。天音の卒業証書なんて、見たこともなかったからだ。その時、情報通信局の局長が、要に見せるためのデモンストレーションとして、すでに内定済みのソフトウェアエンジニアを壇上に上げていた。浩平が突然、大股で壇上へと近づき、下から声を張り上げた。「部長、夏美と遠藤……」天音は天音を散々バカにしていたが、壇上の要の冷ややかな視線と目が合うと、さすがに言葉を飲み込んだ。「夏美と……安全センターの新しい顧問である加藤さんと勝負させ
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第395話

夏美は天音の手首を強く掴んだ。その力に、天音は顔をしかめた。こんな学歴の天音にそんなことを言われるなんて、夏美にとっては挑発としか思えなかった。夫が要だからって、それがどうしたっていうのよ。自分の父は公安調査庁の長官だろうと、それを利用したことは一度もない。なのにこの女は、完全に男の権力に寄りかかってのし上がっている。こういうタイプが一番嫌いだ。「今日、私と勝負しない限り、ここから帰れると思わないでください」その瞬間、龍一が夏美の手を引いて、引き離した。天音は手首をさすりながら、顔をしかめた。その姿が、要の目に映った。慎也も頭を抱えていた。確かに、天音の学歴は問題だった。誰も触れない限り、特に問題はないのだが。でも、実際ほとんどの人は学歴が足りずに安全センターに入ることすらできない。夏美が引き下がらないので、慎也は仕方なく口を挟んだ。「加藤さん、もう一度勝負して、青木さんを納得させてやってくれませんか」慎也にそう言われ、夏美にも詰め寄られては、天音は頷くしかなかった。一同は、壇上へと向かった。要は壇上から降りて、彼らに場所を空けた。一番前の席へと向かうと、そこで待っていた人々と顔を合わせた。彼らは要に軽く会釈した。ただ天音だけは要に目もくれなかった。しかし、要のそばを通り過ぎようとした瞬間、手首を掴まれた。天音が顔を上げると、そこにいたのは澪だった。天音は少し驚いた。澪とはずいぶん会っていなかったので、突然の再会に戸惑ったのだ。天音は、澪が一度去ってまた戻ってきた理由を知らなかった。掴まれた手首は、温かいタオルで包まれた。「ありがとうございます」天音は澪にそう言うと、要の横を通り過ぎて壇上に上がった。要は情報通信局の局長と最前列に座った。淡々とした表情で、天音のキーボードを叩く両手を見つめていた。二日前の指の傷はかさぶたが取れたばかりで、まだ跡が残っている。天音は傷跡を消そうとはしなかった。両手には何もつけておらず、真珠の指輪もしていなかった。周りからは時折、ざわめきや驚きの声が聞こえてくる。それでも要は、ただ静かに天音を見つめているだけだった。天音が夏美に勝つと、人々は信じられないという顔をした。天音はずっと平然としていた。少しも楽しそうではないのは、相手が
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第396話

それを聞いて、天音は慎也を見上げた。慎也は、数日前の自分を後悔していた。あの時、彼は夏美を雇うことを決め、天音が諦めるように仕向けてもらおうと、夏美に天音のことを少し話してしまったのだ。まったく、自業自得だな。「あなたの会社は何をしていますか?どんな製品がありますか?」と夏美が尋ねた。周りの大物たちも少し興味を示した。「アンチウイルスソフトです」天音がそう言うと、みんなは吹き出して笑った。「もうちょっと新しいものにした方がいいんじゃないですか?」夏美はあざけるように笑い、ようやく少し面目を取り戻した。夏美は名刺を取り出して天音に渡して言った。「どんな製品に変えるか決めかねているなら、うちの雲航テクノロジーに見学に来てもいいですよ」天音がここに来たのは、彼らと交流するためだった。その目的を遂げようと、これまで沈んでいた彼女の瞳に、ようやく光が宿る。「うちの社員も一緒に見学させていただけますか?」とても真摯な願いだった。そのせいで、夏美は少し戸惑った。さっきの招待は、ただの皮肉のつもりだったからだ。それなのに、天音は本気にしてしまった。天音の潤んだ瞳が夏美の方を向いた。その眼差しはとても素直で、見ていて心地がよく、今まで職場で見てきたものとは全く違う、温かい眼差しだった。夏美は天音に答えた。「一人か二人ならいいですよ」一行が壇上から降りると、夏美は龍一が緊張した面持ちで天音に歩み寄っていくのを目にした。誰かを好きになったら、その人のこと全部知りたくてたまらなくなるんだ。そして、その人が誰かを好きだった時はどんな様子だったのかも知りたくなるものだ。龍一は、天音のことが好きなのだ。夏美は、複雑な気持ちで要に何度か視線を送った。「教授、皆で一緒に食事でもどう?」夏美は誘いをかけた。天音を連れて行きたくはなかったが、彼女を誘わなければ龍一も来ないことは分かっていた。科学者である龍一が、研究もせずに国際ソフトウェア交流会なんかに、何をしに来たというのだろうか。その言葉を聞いて、龍一が最初に見たのは天音ではなく、要だった。「先輩、行きましょう」耳元で天音が興奮した声で言った。コンピューター業界の大物たちと食事ができるなんて、行かないわけがない。要は情報通信局の局長と話していたが、
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第397話

天音は蓮司を冷たい目で見つめていた。蓮司は一歩も近寄れずにいた。蓮司が捕まった日の夜、天音は密かに警察署のシステムに侵入して、事件の進展を掴んでいた。脅されたって?蓮司が雇っているボディーガードは、ただの飾りじゃない。蓮司が誰かに脅されるなんてありえない。豪は逮捕された後、司法取引に応じて蓮司のことをすべて話そうとした。豪が嘘をつくはずがない。嘘をついているのは蓮司の方だ。蓮司が豪に指示して、殺し屋に要を撃たせたに違いない。まだ証拠がないだけ。証拠さえ見つかれば、必ず自分の手で彼を刑務所送りにするつもりだ。「社長?お店の視察ですか?」個室の入口から、夏美の声が聞こえてきた。夏美は海外から戻ったばかりで、京市の人付き合いにも慣れていなかった。だから、噂話にも疎くて、天音と蓮司の関係も知らなかったのだ。蓮司は天音から視線を外し、夏美に顔を向けた。「ああ、友達と食事か?」「そうなんです。お二人に紹介しますね」夏美はそう言って、「こちらが……」と続けようとした。天音は夏美の言葉を遮った。「ごめんなさい、青木さん。お話はまた今度にしましょう」天音は、そのまま二人の間を通り過ぎて行った。天音のスカートの裾が、蓮司のスーツのズボンをかすめていく。蓮司は、天音のやつれた後ろ姿を、ただぼんやりと見送っていた。天音の瞳に宿る憎悪が、蓮司の心をひどく締め付けた。他の男のために、自分を憎んでいるのか。その時、天音がふと足を止め、蓮司の方を振り返った。その瞬間、蓮司の心臓が高鳴った。「雲航テクノロジー……」天音はそう呟くと、はっとしたように言った。「青木さん、すみません。御社の見学は、やはりお断りします」そこは蓮司の会社だったからだ。そう言うと天音は個室に戻り、少し酔いが回っている龍一に肩を貸した。わけが分からなかった龍一だが、部屋から出て蓮司の顔を見ると、酔いが大半吹き飛んだ。龍一は厳しい口調で警告した。「天音に近づくな!もう一度天音に近づいてみろ、ただじゃおかないからな!」龍一はそう言い捨てると、先に階段を降りていく天音の背中を追った。「え、教授?一体……どうしたんですか?」夏美はその場に立ち尽くし、蓮司に視線を向けた。蓮司は深い悲しみに沈んでいるようだった。漆黒な瞳は光を失い
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第398話

要は冷たいオーラを放ちながら、天音の答えなど気にも留めない様子で、別荘へと歩いて行った。すらりとした要の体が、天音のそばをすり抜けていく。白いシャツの袖が、彼女のスカートのパフスリーブにそっと触れた。天音の視線は、無意識のうちに要の方へと向かった。彼のたくましい背中が目に映った。彼がソファに腰掛け、背もたれに寄りかかり、物音に気づいて階段を下りてきた翔吾を、どこか気だるげな眼差しで見ているのが見えた。そして、畏まっている翔吾と、言葉を交わしていた。突然、ぐっと手を引かれ、天音は我に返った。振り返ると、そこには緊張した面持ちの龍一がいた。その時、暁がドアの外から入ってきた。「佐伯教授、ご心配なく。隊長と加藤さんの仲は良好ですよ」暁の言葉を聞いても、龍一は悔しそうに天音の手をさらに強く握った。そして彼女の暗く、静かな瞳を見つめて言った。「でも天音、君たちはそうは見えない。全然うまくいってない」天音が何かを言いかけた時、暁が前に出て龍一の腕を取った。「教授、中へは私がお連れします。隊長が研究計画の報告をお待ちですよ」暁は少し力を込めて、龍一を支えた。酔いが回り、龍一は頭がくらくらしていた。暁に逆らう気力も、思考力も残っていなかった。龍一は天音の手を離すしかなかった。暁に支えられて中に入っていく龍一を見送りながら、天音は小声で言った。「先輩、それじゃあ、私はこれで失礼するね」天音が背を向けて外へ向かおうとした瞬間、要の視線が大きな窓越しに彼女を捉えた。その時、小さな影が二階から駆け下りてきて、天音のそばに寄り、彼女の手を握った。要は視線を戻し、龍一に向かって淡々と言った。「ずいぶん飲んだのか?」何気ない一言は心配しているように聞こえたが、実際は……「酔い覚ましの薬を飲んだら、すぐに報告できます」龍一は要をよく知っていた。仕事において、要は誰かに時間を無駄にされるのを嫌うのだ。「翔吾、隊長を二階の書斎へお通しして、少し待っていただくように」翔吾はすぐさま先に立って案内した。要は立ち上がって二階へと向かい、階段の踊り場まで来た。その時、直樹が嬉しそうに天音の手を引いて、階段を上がってきた。「ママ、帰る前にもう少しだけ僕と遊んでよ。僕が作った恐竜のアーマーがコンテストで1等賞取ったんだ。テストも1
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第399話

「ちょうどよかったです、私たちも帰るところです」暁が天音の方へ歩いてきた。「隊長の車が少し調子が悪くて、修理に出しているんです」「なら、こっちの車を使ってください」龍一はためらわずに自分の車のキーを取り出した。「いえ、お構いなく、佐伯教授。三人なのに車二台は面倒ですから」暁は言った。「明日は直樹くんを学校に送らないといけないでしょう。京市の朝のラッシュは、車がないと大変ですよ」要と目が合った瞬間、天音は視線を落とし、外へ出て行った。運転席に乗り込み、エンジンをかけた。助手席のドアが暁によって開けられ、要が座った。要特有の香りが、一瞬にして車内に広がった。天音は車の窓を開け、風でその香りを紛らわそうとした。暁が後部座席に座ると、車を発進させた。車は別荘地を離れた。天音の耳には要が書類をめくる音が聞こえ、鼻には彼の墨の香りがした。うつむいたまま、天音は尋ねた。「どこへ?」「病院です」と暁が答えた。天音は、はっと要の方を見た。でも要は書類から目を離さず、疲れた表情をしていた。具合が悪いのか?でも、天音はそれを口には出さなかった。ただアクセルを強く踏み込んで、早く要を医者に診せたかったのだ。病院に到着した。天音は、そこで皮膚科の医師に会った。「奥様、その手はすぐに傷跡の治療をした方がいいですよ。時間が経って色素が沈着してしまうと、綺麗に治りにくくなりますよ」と医師は言った。天音が返事をする前に、要はすでにスタスタと前へ歩き出していた。皮膚科の医師は、さらに真剣な目で天音を見つめてきた。天音は医師を困らせたくなくて、一緒に皮膚科の診察室へ向かった。「少し痛みますけど、我慢してくださいね」と皮膚科の医師が言った。天音はうなずいた。医師に手を取られ、レーザー機器が肌の上を滑ると、チクリとした痛みが走った。要が後ろに座っているのを感じ、天音の体は少しこわばった。焼けるような痛みに耐え、決して声を出さないようにした。室内は静まり返り、機械の作動音と、二人の混じり合う息遣いだけが響いていた。三十分後、天音の指は包帯で巻かれていた。皮膚科の医師は注意した。「水に濡らさないでください。二日もすれば良くなりますから」「ありがとうございました」病院を出て、天音が車のドアを開けようとす
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第400話

三十分後、天音がやってきた。天音は複雑な表情で、要の無表情な顔を見つめた。そして、伏し目がちに卒業証書を受け取った。「ありがとう、隊長」天音は証書を受け取ると、小声でそう言った。要からの返事はなかった。天音はうつむいた。その目元はみるみるうちに赤くなり、証書を持って外に出ようとした。そこへ玲奈が入ってきて言った。「もう遅い時間だし、手も怪我しているのに運転は危ないわ。今夜はここに泊まっていきなさい」数秒間静まり返り、誰も動かず、誰も口を開かなかった。「九条さんを行かせたから、想花ちゃんを心配しないで、天音」玲奈はそう言って決めた。「これからは九条さんにあなたの身の回りのお世話をさせるわ」玲奈は天音の細い腰に腕を回し、まるで大きさを測るように言った。「数日会わないうちに、ずいぶん痩せたわね。小島さんから聞いたわ。あなたのお母さんの会社を引き継いだんだって?忙しくて、ちゃんと食事をとらないとだめよ。使用人にあなたたちの部屋を用意させるわ」玲奈は言った。「要も何日も帰ってきていないのよ。ずっと庁舎の方に泊まり込んでいるみたいで」天音は動かなかった。要も動かなかった。その視線は天音の姿をさまよい、玲奈が天音の腰に回した手を見ていた。二人はその場で固まったままで、玲奈は焦りを感じていた。「いえ、お構いなく、おばさん」天音は気持ちを落ち着かせて口を開いた。「少しの怪我だから、大丈夫です」天音は外へ向かって歩き出した。玲奈は引き留められないと分かると、要のそばへ歩み寄った。要は母を見て、淡々とした声で尋ねた。「結果はどうだった?」「ちゃんと養生すれば、体調は良くなるわ。そうすれば、あなたたちも子供を授かれるようになるはずよ」玲奈は言った。「もう一度、天音をなだめてあげてちょうだい」要は天音が庭を去っていくのを見送り、それから母の方を見た。要が誰かをじっと見つめることは滅多にない。だが、いざ見つめるとなると、その淡い色の瞳に暗い光が宿り、相手を畏縮させるのだった。玲奈は後ろめたさから要の視線をまっすぐ受け止めることができず、暁の言葉を思い出していた。要は二日間、一睡もしていない。このまま無理を続ければ、就任の発表どころか、いつ倒れてもおかしくない。玲奈は心を鬼にした。息子の体を思
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