次の条項に目を移す。「緊急時条項……理玖が『危険』と判断した場合の即座の避難指示に従う義務」「危険とは、具体的にはどのような?」「椿京は古い街です。時として、予期せぬ事態が起こることもあります」「予期せぬ事態」 私は理玖の顔を見上げた。彼の表情は相変わらず落ち着いているが、どこか警戒するような空気を纏っている。「火災や地震のような、自然災害のことでしょうか?」「それも含まれます。ただし……」 理玖は立ち上がり、窓辺へと歩いた。庭の向こうには古い石灯籠が見える。明治時代からのものだろうか。「椿京には、表に出ない問題も存在します。政治的な対立、商業的な争い。私の立場上、巻き込まれる可能性がないとは言えません」 なるほど、実業家としての立場故の危険ということか。それなら理解できる。けれど、どうして理玖の説明には、どこか歯切れの悪さがあるのだろう。 最後の条項で、私の目が釘付けになった。「解約条項……契約違反時の即座の解約と、違約金」 違約金の額を見て、思わず息を呑む。一般的な庶民では到底支払えない金額だった。「この金額は……」「あなたを守るためでもあります」 理玖が振り返った。その瞳に、初めて感情らしきものを見た気がした。「守る、というのは……」「契約を軽々しく破らないよう、というのが表向きの理由です。しかし本当は……」 彼は私の前まで戻ってくると、椅子の背もたれに手を置いた。「本当は?」「あなたが、軽はずみな行動で自分自身を危険に晒すことがないよう、という意味も込められています」 理玖の声に、わずかな温かさが混じっているのを感じた。契約上の義務を超えた、個人的な関心。そんなものが、ほんの少しだけ見え隠れしている。 私は契約書の最後のページに目を向けた。署名欄には「朝霞理玖」という文字が、流麗な筆致で記されている。その隣に、もう一つの署名があった。 古風な文字で書かれたそれは、一見すると判読が困難だった。しかし、じっと見つめていると、ある文字が浮かび上がってくる。「九尾……」 思わず呟いた言葉に、理玖の手が僅かに震えた。「今、何とお読みになりましたか?」「いえ、その……読みづらい文字だと思いまして」 慌てて誤魔化す。けれど、確かに私は「九尾」という文字を読み取った。なぜそんな署名が契約書にあるのだろう。「古い
Terakhir Diperbarui : 2025-08-03 Baca selengkapnya