All Chapters of 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした: Chapter 41 - Chapter 50

77 Chapters

第41話 夜の会話と告白

 夜が深まった朝霞家は、静寂に包まれていた。庭に植えられた夜来香の甘い香りが、開け放たれた窓から書斎に流れ込んでくる。理玖は古い革装の書物に目を落としていたが、文字は頭に入ってこなかった。 昼間の慎吾との遭遇が、彼の心に暗い影を落としていた。 本当に幸せなのか――。 あの青年の問いかけが、鈴凪の表情を曇らせたのを、理玖は見逃さなかった。 本のページをめくる音だけが、静寂を破っていた。そこに、廊下から足音が聞こえてくる。控えめで、しかし確実に書斎に向かってくる音。 「理玖様」  扉の向こうから、鈴凪の声がした。 「入ってくれ」  理玖が答えると、襖がそっと開いた。鈴凪が盆に湯呑みと食事を載せて現れる。夜着の上に薄手の羽織を羽織った姿は、いつもより幼く見えた。 「お夜食をお持ちしました。今夜は遅くまでお読み物をされているようでしたので」 「ありがとう。そこに置いてくれ」  鈴凪は静かに茶を置いたが、いつものようにすぐには去らなかった。理玖の横で、少し迷うような仕草を見せている。 「どうした?」 「あの……もしよろしければ、少しお話しさせていただけませんでしょうか」  理玖は本を閉じ、鈴凪を見上げた。月光が障子越しに彼女の横顔を照らしている。その表情には、昼間の出来事への困惑がまだ残っていた。 「もちろんだ。座ってくれ」  鈴凪は理玖の向かいの座布団に、慎重に腰を下ろした。二人の間に、温かい茶の香りが漂う。 「理玖様が読まれているのは、どのような本でしょうか」  鈴凪の問いに、理玖は手元の古書を見下
last updateLast Updated : 2025-08-18
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第42話 不穏な予感

 椿京の古い蔵屋敷の地下、石造りの部屋に灯るのは蝋燭の光のみだった。壁に刻まれた古い呪文が、炎に照らされて不気味に踊っている。 朧月会の秘密拠点――人間を妖から守るという大義の下に、数々の密談が交わされてきた場所。 慎吾は重い扉を押し開け、円卓を囲む黒いローブ姿の人影たちの前に立った。その中央に座るのは、朧月会の筆頭である高師小夜。年の頃は三十代半ば、鋭い眼光と薄い唇が、彼女の冷徹さを物語っている。 「遅いじゃないか、慎吾」  小夜の声は低く、感情を押し殺したものだった。 「申し訳ありません。少し、考える時間が必要でした」  慎吾は深く頭を下げたが、その胸の内には迷いが残っていた。昼間の朝霞夫妻との遭遇が、彼の心を大きく揺さぶっていた。 「考える時間?」  小夜の眉がわずかに上がり、威圧感に慎吾はつい委縮しそうになる。 「我々に考慮すべきことなど、あるまい。妖は排除する、ただそれだけだ」 「しかし、鈴凪は何も悪いことはしていません。ただ、契約結婚をしただけで……」 「契約結婚?」  小夜の声に、嘲笑が混じった。 「愚かな。あの娘は既に妖の影響下にある。薄縁の血を引く者が九尾と契りを結べば、どのような変化が起こるか、君も知っているはずだ」  慎吾の顔が青ざめた。薄縁――妖と人の間に生まれた存在の血筋。通常は薄まりすぎて力を発現することはないが、強力な妖との接触により覚醒する可能性がある。 「まさか、鈴凪に妖の力が……」 「確定ではないが、可能性は高い。そうでもなければ
last updateLast Updated : 2025-08-18
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第43話 作戦の真実

 慎吾が拠点を出たあと、朧月会本部では、深夜まで準備が続いていた。 「時雨鈴凪という女を利用し、今度こそ朝霞理玖を、椿京のすべての妖を、完全に葬り去る計画を実行する」  小夜が叩きつけるようにして机に置いた、資料の束が各席に配られる。詳細な見取り図、人員配置、そして――鈴凪の写真。 「朝霞理玖め……人間の政財界に幅を利かせ、あまつさえ、会合にも堂々と顔を出す……全くもって目障りでならない」  小夜の脳裏に数カ月前の霞月楼での会合が浮かぶ。椿京有数の企業が集まる中に、朝霞理玖が現れたことを。妖でありながら、人の姿で周囲を騙しほくそ笑んでいるあの顔を。 「この女は現在、我々の監視下にあり、いつでも確保可能だ」  写真を手にした年配の幹部の一人が手を挙げた。 「しかし小夜殿。真壁慎吾は、この女に好意を抱いているのでは? 彼は本当に大丈夫でしょうか?」  小夜の唇が薄く笑みを浮かべる。 「真壁慎吾には『彼女を守るため』と説明してある。九尾の脅威から彼女を完全に切り離すのだと。彼は純粋すぎる。利用するには都合が良い」  会議室に重苦しい沈黙が落ちる。やがて、別の幹部が口を開いた。 「で、具体的にはどのような作戦を?」 「簡単だ」  小夜は地図を指差した。 「時雨鈴凪を人質に取り、朝霞理玖をおびき出す。奴が人間の女に執着している以上、必ず現れるだろう。そこを封印術で捕らえ、二度と人間社会に戻れないよう処理をする。その上で、この椿京に潜む妖どもも、同時に排除する」 「九尾ほどの大妖を封印するとなると、
last updateLast Updated : 2025-08-19
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第44話 理玖の書斎にて

 雨音が、古い書斎の窓ガラスを容赦なく叩いていた。 理玖は一人、重厚な木製の机に向かい、黄ばんだ古書のページを静かにめくっている。ろうそくの炎がゆらゆらと踊り、彼の整った横顔に陰影を落としていた。時刻はとうに深夜を回り、屋敷の他の住人たちは皆、安らかな眠りについているはずだった。 「今夜も眠れそうにない、か……」  小さくつぶやいて、理玖は手にしていた書物を机に置いた。『妖怪考証録』――人間の学者が記した、妖に関する古い研究書だった。だが今夜の彼には、どんな文字も頭に入ってこない。 屋敷の奥で、鈴凪が静かに寝息を立てているのが、妖狐の鋭敏な聴覚には手に取るように分かった。彼女は昨夜も、安らかに眠っていた。理玖のそばにいることに、何の不安も抱かずに。 その信頼が、今の理玖には重すぎる。 「鈴凪……」  彼女の名前を口にしただけで、胸の奥が締めつけられるような痛みが走った。日に日に深まっていく想い。朝に彼女の笑顔を見る度に、夕餉を共にする度に、何気ない会話を交わす度に――理玖の心は、もはや後戻りできないところまで来てしまっていた。 だからこそ、あの夢を見るのだろう。 窓の外で、雨脚がさらに強くなった。理玖は立ち上がると、書斎の奥の本棚に歩み寄る。そこには、他の書物とは明らかに異質な、黒い革装丁の日記帳があった。 「また、あの夢を見た」  誰に向けるでもない言葉が、静寂の中に落ちていく。 「百合が振り返りもせずに去っていく夢を――」  水無月百合。凡そ百五十年前、理玖が心の底から愛した、ただ一人の人間の女性。巫女として生まれ、妖を恐れることなく理解しようとした、稀有な魂の持ち主。 理玖の長い指が、黒い日記帳の背表紙を撫でた。中には、百合との日々が克明に記されている。出会いから、愛を育んだ
last updateLast Updated : 2025-08-19
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第45話 百合との出会い

 理玖の意識は、現在から過去へと静かに滑り落ちていった。 凡そ百五十年前の春――狐燈坂の茶屋『富乃や』。 当時の理玖は今ほど人間社会に溶け込んではおらず、姿を変えることはできても、妖としての本性を隠すことにも不慣れだった。それでも椿京の結界を守る使命を果たすため、人里に降りてくることはあった。 茶屋の奥座敷で、理玖は一人茶を啜っていた。外では桜が散り始め、薄紅色の花びらが風に舞っている。平和な午後のひとときだった。 「失礼いたします」  凛とした女性の声が響いた。 理玖が振り返ると、そこには白い巫女装束に身を包んだ女性が立っていた。年の頃は二十代半ば、容姿は理玖よりも年上に見える。切れ長の瞳には意志の強さが宿り、背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿からは、芯の強さが感じられた。 「あの……同席しても? お一人でいらっしゃるようでしたので」  女性――水無月百合は、遠慮がちに声をかけた。 「構わない」  理玖は短く答えた。当時の彼は、まだ人間との距離の取り方を知らなかった。必要以上に関わろうとはしなかったのだ。 百合は軽く頭を下げると、理玖の向かいに座った。茶屋の女将が新しい茶を運んでくる。 「春の訪れが早いですね」  百合が窓の外を見ながらつぶやいた。桜吹雪が、まるで雪のように舞い踊っている。 「……ああ」  理玖は素っ気なく答えたものの、百合の横顔を見つめずにはいられなかった。巫女でありながら、妖である自分を恐れる様子が微塵もない。それが不思議だった。 「あなたは、この辺りの方ではないでしょう?」  百合の問いに、理玖は少し
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第46話 百合との契約と愛の深まり

 それから一年半が過ぎた頃――。 椿京の結界に異変が生じていた。古い封印の一部が弱くなり、邪悪な妖怪たちが人里に侵入し始めていたのだ。理玖一人では対処しきれない事態が続いていた。 天樹神社の境内で、理玖と百合は向かい合っていた。夜の静寂の中、月光が二人を照らしている。 「理玖、私にできることがあるなら――」  百合の申し出に、理玖は首を振った。 「危険すぎる。君は人間だ。妖との戦いに巻き込むわけにはいかない」 「でも、このままでは椿京の人々が危険にさらされます」  百合の瞳には、強い決意が宿っていた。一年半の交流で、理玖の使命の重さを理解していた彼女は、傍観しているわけにはいかないと感じているようだった。 「私には、浄化の力があります。師匠からは、代々の巫女の中でも特に強いと言われました」 「浄化の力……」  理玖は考え込んだ。確かに百合からは、並外れた霊力を感じていた。だが――。 「それでも、君を危険にさらすことはできない」 「理玖」  百合は一歩前に出た。 「あなたは、いつも一人で戦っておられる。でも、一人では限界があるのではないですか?」  その言葉は、理玖の心の核心を突いていた。長い間、孤独な戦いを続けてきた理玖にとって、誰かと力を合わせるという発想は新鮮だった。 「もし……もし、私の力があなたのお役に立てるなら」  百合の声は震えていた。それは恐怖からではなく、理玖への想いの深さからだった。 
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第47話 別れの真実

 あの幸せな日々から、さらに数カ月が過ぎた頃――。 水無月百合は、天樹神社の奥の社で一人膝を抱えていた。夜の静寂が境内を包み、月光だけが彼女の白い巫女装束を照らしている。 「私は……間違っているのでしょうか」  誰に向けるでもない問いが、闇に溶けていく。 昼間の出来事が、百合の心を重く圧迫していた。父であり、師匠である大神官・水無月厳道から、厳しい叱責を受けたのだ。 『百合よ、おまえは道を踏み外している』  師匠の言葉が、今も耳に残っている。 『妖と契りを交わすなど、巫女として許されることではない。ましてや、あの狐妖と愛し合うなど――』  百合は膝に顔を埋めた。師匠だけではない。神社に仕える同輩の巫女たちからも、冷たい視線を向けられている。 「真紀江様……」  昨日、最も親しかった先輩巫女・真紀江に諫められた時のことを思い出す。 『百合ちゃん、目を覚まして。あなたは妖に魅入られているのよ』  真紀江の言葉は、心配からだった。それは分かっている。それでも――。 「理玖は、そんな方ではない……」  百合は強く首を振った。 理玖が妖であることは事実だ。けれど、彼は人を害することなど決してしない。むしろ椿京の人々を守るために、日夜戦い続けている。なぜ、誰もそれを理解してくれないのか。 「理玖……」  彼の名前を呼ぶだけで、胸が温かくなる。同時に、激しい痛みも走った。 愛すれば愛するほど、周囲か
last updateLast Updated : 2025-08-21
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第48話 記憶と心の封印

 理玖が天樹神社の鳥居をくぐると、本殿の前に百合の姿があった。後ろ姿の百合が理玖を振り返る。 「百合……何をしている」  理玖の目は、百合の手にある巻物を捉えた。瞬間、彼の顔が青ざめる。 「それは……」 「理玖……」  百合は立ち上がった。月の光が差し込む本殿で、二人は向かい合う。 「理玖、私は――もう、あなたの記憶を消したいのです」  百合の言葉に、理玖は愕然とした。 「何を言っている!」 「あなたは、私といることで苦しんでおられます。妖の世界からも、人の世界からも疎外されて――」 「そんなことは、どうでもいい!」  理玖は百合に駆け寄った。 「私にとって大切なのは、君だけだ!」 「でも、このままでは――」 「百合、頼む」  理玖が百合の手を握ると、百合はやんわりと手を解く。そして俯くと小さく呟いた。 「妖と人は決して結ばれてはならないのです」 「そんなことを言うな。君がいなければ、私は――」 「理玖」  百合の瞳に、深い愛情が宿って見える。 「あなたを愛していたことに嘘はない。でも、私は人間として生きることを選ぶ――」  百合は理玖から離れ、巻物を握り直した。 「百合
last updateLast Updated : 2025-08-21
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第49話 現在への帰還

 いつの間にか、雨が止んでいた。 理玖は顔を上げ、窓の向こうに広がる薄紫の空を見つめた。いつの間にか夜が白み始めている。古い書物の頁を捲る音だけが、静寂の中に響いていた。 百合の記憶は、まるで古い傷のように疼いている。百年という歳月を経てもなお、彼女の面影は理玖の心に深く刻まれていた。記憶を封じたはずなのに――なぜ今になって、これほど鮮明に蘇るのか。 「理玖様?」  扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。理玖の肩がわずかに強張る。 「入れ」  短く答えると、障子がそっと開かれた。鈴凪が寝間着姿のまま、心配そうな表情で書斎を覗き込んでいる。髪は寝癖でわずかに乱れ、素足が畳の冷たさに小さく震えていた。 「お休みになられていないのですね」  鈴凪は心配そうに問いかけながら、静かに歩み寄った。 「何か、悪い夢でも?」  理玖は答えない。ただ、鈴凪の存在を意識するだけで、胸の奥に複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。 鈴凪の仕草、声の調子、気遣うような眼差し――それらすべてが、百合の記憶を呼び起こす。同じように、百合も理玖を案じて深夜の書斎を訪れることがあった。同じように、理玖の心の内を察しようとしてくれた。 「理玖様、顔色が悪いです」  鈴凪は理玖の前に立ち、心配そうに顔を覗き込んだ。 「何かあったのですか?」  理玖は鈴凪から視線を逸らした。近づかれるほど、百合との重なりが増していく。同じ人間の匂い、同じ温もり――しかし、百合はもういない。目の前にいるのは鈴凪だ。別の人間だ。 それなのに、なぜこれほど心が乱されるのか。 「……あなたに、
last updateLast Updated : 2025-08-22
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第50話 椿京の夜

 黄昏が椿京の街を包み始めた頃――。 朝霞邸の庭で、私は一人佇んでいた。手には銀の鈴を握りしめていた。 「理玖様……」  私は空を見上げた。夕日が雲間から差し込み、庭の木々を赤く染めている。美しい夕景のはずなのに、今の私には物悲しく映った。  朝の出来事かた、理玖は私を避けるようになっていた。食事の時間をずらし、私が近づこうとすると用事を作って立ち去る。まるで私の存在が、理玖にとって重荷であるかのように。 朧月会が私を狙っているようだと華が言っていた。そんな私がいることで――。 「私、きっと……ご迷惑をおかけしているのね……」  それに――明け方の理玖の態度や目を見て……言葉の端々を……聞いて、気づいてしまった。 理玖は今でも百合を忘れられずにいるのだと。きっとこの先も、忘れることなどできないのだろう。何かの折に、私に百合を重ねて思い出し、苦しんでいる。そんな時、私はどうしたらいいのだろうか。そばにいることで、苦しめてしまうのなら、私は……。  チリン――。  鈴がまたその音を小さく響かせる。 銀の鈴を見つめながら、私はため息を漏らした。この鈴が鳴った時に見た、理玖の驚いた顔を思い出す。この鈴の音に、何かあるのだろうか。  その時――。  庭の向こうから、華が急ぎ足で現れた。いつもの落ち着いた彼女にしては珍しく、焦ったような表情を浮かべている。 「奥様!」 「華さん? どうされたんですか、そんなに慌てて」  私は華に駆け寄った。
last updateLast Updated : 2025-08-22
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