夜が深まった朝霞家は、静寂に包まれていた。庭に植えられた夜来香の甘い香りが、開け放たれた窓から書斎に流れ込んでくる。理玖は古い革装の書物に目を落としていたが、文字は頭に入ってこなかった。 昼間の慎吾との遭遇が、彼の心に暗い影を落としていた。 本当に幸せなのか――。 あの青年の問いかけが、鈴凪の表情を曇らせたのを、理玖は見逃さなかった。 本のページをめくる音だけが、静寂を破っていた。そこに、廊下から足音が聞こえてくる。控えめで、しかし確実に書斎に向かってくる音。 「理玖様」 扉の向こうから、鈴凪の声がした。 「入ってくれ」 理玖が答えると、襖がそっと開いた。鈴凪が盆に湯呑みと食事を載せて現れる。夜着の上に薄手の羽織を羽織った姿は、いつもより幼く見えた。 「お夜食をお持ちしました。今夜は遅くまでお読み物をされているようでしたので」 「ありがとう。そこに置いてくれ」 鈴凪は静かに茶を置いたが、いつものようにすぐには去らなかった。理玖の横で、少し迷うような仕草を見せている。 「どうした?」 「あの……もしよろしければ、少しお話しさせていただけませんでしょうか」 理玖は本を閉じ、鈴凪を見上げた。月光が障子越しに彼女の横顔を照らしている。その表情には、昼間の出来事への困惑がまだ残っていた。 「もちろんだ。座ってくれ」 鈴凪は理玖の向かいの座布団に、慎重に腰を下ろした。二人の間に、温かい茶の香りが漂う。 「理玖様が読まれているのは、どのような本でしょうか」 鈴凪の問いに、理玖は手元の古書を見下
Last Updated : 2025-08-18 Read more