All Chapters of 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした: Chapter 51 - Chapter 60

77 Chapters

第51話 結界の亀裂

 夜闇が椿京を包み込んだその時、朝霞邸を守る結界に最初の亀裂が走った。 空気が震え、庭に咲く椿の花弁が一斉に舞い散る。華は中庭で空を見上げると、長い袖を翻しながら縁側へと足を向けた。華の瞳に宿る紅い光は、迫り来る危険を敏感に察知していた。 「奥様を奥の間へ! 急いで!」  華の声が、屋敷に潜む眷属たちに響く。猫又や狸、狐たちが影のように動き、中庭の鈴凪を迎え入れ、奥の間の廊下を走っていた。しかし、彼らが奥の間の襖を開く前に、結界の破砕音が夜気を裂いた。 ばきり、と。まるでガラスが砕けるような音と共に、朝霞邸を包んでいた不可視の守りが崩れ落ちる。 「来たか」  理玖の声が、書斎から低く響いた。彼は窓辺に立ち、夜闇に潜む影たちを見つめている。月明かりが彼の琥珀色の瞳を照らし出すと、そこには静かな怒りが宿っていた。 庭の向こうから、足音が近づいてくる。一人、二人、三人——いや、もっとだ。朧月会の術者たちが、息を殺してこの屋敷を包囲していた。 先頭に立つのは、慎吾だった。 慎吾の手には、月光を反射する短刀が握られている。その刃には封印の術式が刻まれており、妖を縛る力を宿していた。慎吾の瞳は決意に燃えているが、その奥には迷いのような影もちらついている。 「鈴凪さん……必ず、あの化け物の手から救い出してみせる」  慎吾の呟きが夜風に混じる。彼の後に続く朧月会の術者たちも、それぞれに武器や術具を手にしていた。彼らの顔は皆、正義感に満ちている。自分たちが正しいことをしているのだと、疑いもしていなかった。 華が門前に姿を現したとき、慎吾は一歩前に出た。 「玉依華! 鈴凪さんをどこに隠した!」  慎吾の声が夜空に響く。華は袖で口元を隠しながら、静かに微笑んだ。その笑みには、どこか哀れみのような色
last updateLast Updated : 2025-08-23
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第52話 理玖の応戦と限界

 理玖が屋根から庭へと舞い降りた瞬間、夜気が一変した。 彼の足が地面に触れると同時に、封印していた妖力の一部が解放される。空気が震え、庭の木々がざわめき、月すらもその光を翳らせたかのようだった。 「これが……狐の妖の力……」  術者の一人が呟く。理玖の周囲に立ち上る蒼い炎のような妖気を見て、朧月会の面々は思わず身を寄せ合った。しかし、彼らの手には封印の術具が握られている。 「怯むな! 所詮は化け物だ! 僕たちには、代々受け継がれた封印術がある!」  慎吾が叫び、術者たちを鼓舞する。彼の声に応えるように、術者たちが一斉に札を取り出した。それらの札には、妖を縛る強力な術式が刻まれている。 「封印術・金縛りの鎖!」  詠唱と共に、光の鎖が理玖に向かって伸びる。しかし、理玖は表情を変えることなく、片手を軽く振った。蒼い炎が鎖を包み込み、あっという間に術式を焼き尽くす。 「そんな……嘘だろう……」  術者の一人が青ざめる。朧月会の封印術は、これまで数多の妖を封じてきた実績がある。それが、こうも簡単に破られるとは。 理玖は静かに歩を進めた。その一歩一歩が、地面に蒼い炎の足跡を残していく。 「貴様らが私に何をしようと構わん。だが――」  理玖の瞳が、金色に燃え上がる。 「私の家族に害をなそうとするなら、容赦はしない」 「家族だって? ふざけるな!」  慎吾が短刀を構えながら前に出る。 「鈴凪さんは人間だ! おまえのような化け物の家族なんかじゃない! おまえ
last updateLast Updated : 2025-08-23
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第53話 鈴凪の拉致

 私は奥の間で、膝を抱えて座っていた。 襖の向こうから聞こえてくる戦いの音に、私の心は千々に乱れている。理玖の声、慎吾の叫び声、術が激突する音、そして――華や眷属たちの苦悶の声。 「理玖様……」  私の手の中で、銀の鈴が微かに震えていた。不安と恐怖に呼応するかのように、鈴は小さく鳴り続けている。 リン、リン、リン――。 その音色は、いつもの澄んだ響きとは違っていた。まるで泣き声のような、切ない音を奏でている。この奥の間……襖のすぐ向こうでも傷つけられた狐たちの鳴き声が響いている。 「私のせいで……私がここにいるせいで、みんなが……」  私の目に涙が滲む。理玖が傷つく声が聞こえるたび、私の胸は締め付けられた。慎吾の怒りに満ちた声が響くたび、罪悪感が心を蝕んでいく。 その時、襖が勢いよく開かれた。 「鈴凪さん!」  現れたのは、朧月会の術者の一人だった。以前、古書店で会った椋本だ。息を切らせながら、椋本は私を見つめる。その瞳には、安堵と共に義務感が宿っていた。 「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」  私は立ち上がり、椋本から距離を取った。 「あなたは……朧月会の方ですね」 「ええ、そうです。慎吾さんに頼まれて、あなたを救出に来ました」  椋本が手を差し伸べる。 「さあ、一緒に来てください。ここは危険です。あの化け物から、あなたを守らなければ」 「化け物……?」 
last updateLast Updated : 2025-08-24
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第54話 朧月会の隠れ家

 椿京の郊外、山の中腹にひっそりと佇む廃寺――。 かつては多くの参拝者で賑わっただろうその寺も、今では朽ちた柱と苔むした石段だけが、往時の面影を留めていた。本堂の屋根は所々が崩れ落ち、月光が境内を斑に照らしている。 ここが、朧月会の隠れ家の一つだった。 鈴凪は本堂の奥、畳の上に横たえられていた。封印術の影響で意識を失っていた彼女の頬に、蝋燭の炎がゆらゆらと影を落としている。その手には、銀の鈴がしっかりと握られていた。 術者たちが彼女を囲むように座り、慎吾はその中央で膝をついていた。その表情には、使命を果たした満足感と、なぜか拭えない複雑な想いが混在している。 「よくやってくれた」  朧月会の長老格である術者が、慎吾の肩に手を置いた。白髪の老人で、深い皺に刻まれた顔には、長年妖と戦ってきた者の厳しさが宿っている。 「これで、あの忌まわしい狐の手から、この娘を救うことができる」 「はい……」  慎吾の返事は、どこかぎこちなかった。理玖の涙を流す姿が、まだ心に引っかかっている。 「慎吾よ、どうした? 浮かない顔をしているが」  長老の問いかけに、慎吾は慌てて首を振った。 「いえ、何でもありません。ただ……」 「ただ?」 「あの狐は、本当に鈴凪さんを騙していたのでしょうか」  慎吾の言葉に、周囲の術者たちがざわめいた。長老は眉をひそめる。 「何を言っているのだ。妖が人間を愛するなど、そんなことがあるはずがない。あれらの行動は全て、人間を食らうための偽りの感情だ」 「でも、あの狐は泣いていました。まるで、本当に鈴凪さ
last updateLast Updated : 2025-08-24
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第55話 銀の鈴の音

 鈴凪の掌で、銀の鈴が宙に浮き上がった。 それは重力を無視するかのように、鈴凪の掌の上で回転しながら、これまでにない光を放っている。月光のような銀色の輝きが、廃寺の本堂全体を包み込んだ。 「これは……一体……」  長老が後ずさりする。長年妖と戦ってきた彼でも、これほどの力を感じたことはないようだ。鈴凪から発せられる、妖気とは違う、まるで別次元の力が空間を支配しているように感じていた。 鈴凪はゆっくりと立ち上がった。その動作に、先ほどまでの人間らしい不安定さはない。まるで何百年も生きている古い存在のような、静謐な威厳を纏っている。 「私は……覚えています」  鈴凪の声が変わっていた。普段の柔らかな響きではなく、どこか遠い昔から響いてくるような、深い音色を帯びている。 「遠い昔、この地に生まれた時のことを。人と妖が、まだ共に生きていた時代のことを」 「何を……何を言っているんだ……」  術者の一人が震え声で呟く。鈴凪の瞳が彼を見つめると、その術者は立っていることすらできなくなった。 鈴凪の瞳は、もはや人間のそれではなかった。星空のような深い青に、無数の光が瞬いている。それは、椿京の守り神として生まれた『鈴の子』の瞳だった。 「私の役目は、この地に生きる全ての存在を守ること。人も、妖も、分け隔てなく」  鈴凪の言葉と共に、宙に浮かぶ鈴の音が響く。  リーン、リーン、リーン――。  その音色は、もはや単なる金属音ではなかった。まるで天界から降り注ぐ音楽のような、神聖で美しい響きを奏でている。 
last updateLast Updated : 2025-08-25
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第56話 理玖の到着

「鈴凪!」  理玖の声が廃寺に響いた瞬間、銀の鈴の音が一瞬止まった。 理玖は本堂の入り口に立ち、月光を背に受けている。肩から血を流し、衣は戦いで破れ、黒髪は乱れているが、その瞳には私だけを見つめる深い愛情が宿っていた。 「理玖様……」  傷ついた理玖の姿に、私の全身から血の気が引いたような気がした。周囲を包んでいた銀の鈴の光が、一瞬だけ和らぐも、すぐに力の波動が再び強くなる。 「来ては、だめです……危険です……」  私は後ずさり、理玖を制止しようとした。理玖は躊躇することなく一歩、また一歩と私に近づく。 「何が危険だと言うのだ?」  理玖の声は穏やかだった。まるで、いつもの朝霞邸での日常を過ごしているかのような、優しい響きを帯びている。 「私にとって危険なのは、鈴凪がいない世界だけだ」 「理玖様……」  私の中で覚醒した奇妙な力の感覚に、人としての感情が混じり込んでいく。 理玖はゆっくりと歩を進めた。朧月会の術者たちは理玖を警戒した様子で手に武器を握って構えた。それを長老が手で制する。 「待て……今は、そんなことをしている場合ではない」  長老の深刻そうな声の響きに、私の中で不安が大きく湧き上がってきた。 理玖が私に近づくにつれ、銀の鈴の音が激しくなっていく。 リーン、リーン、リーン――! 「だめです! 近づかないで!」  私が叫ぶと、廃寺の柱が更に軋み、天井の梁が崩れ落ちそうになっ
last updateLast Updated : 2025-08-25
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第57話 力の収束

 廃寺の境内に響いていた鈴の音が、徐々にその激しさを和らげていく。 私を包んでいた銀白の光も、まるで呼吸を整えるように脈動の間隔を広げ、やがて肌に溶け込むように消えていった。夜風が吹き抜けて、舞い散った埃を運んでいく。 「鈴凪……」  理玖の声が、静寂に染まった境内に優しく響いた。 血を流しながらも膝をつき、私へと手を伸ばす理玖の姿を見て、私は罪悪感に押し潰されそうになっていた。 「あ……あ……」  唇が震え、言葉がうまく出てこない。 自分の両手を見下ろすと、そこには微かに残る銀の光の粉のようなものが付着していた。そして、目の前には傷だらけの理玖がいる。着物の袖は破れ、額や頬には血が滲んでいる。何より、その優しい瞳に映る痛みの色が、私の心を鋭く貫いた。 「理玖様……」  かすれた声で名前を呼ぶと、理玖はほっとしたような表情を浮かべた。 「鈴凪、迎えに来るのが遅くなってすまない……大丈夫か?」  理玖は立ち上がろうとして、力が入らないのか、よろめく。慌てて私が駆け寄ろうとすると、理玖は軽く手を上げて制した。 「私は大丈夫だ……それより、鈴凪は……怪我はないか?」  その言葉に、私は胸が詰まった。 私こそが──私の力が理玖を傷つけたのだ。それなのに、この人は真っ先に私の心配をしてくれている。 「どうして……どうしてそんなことを言うのですか」  問いかける声が震えてしまう。愛しているなどと
last updateLast Updated : 2025-08-26
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第58話 沈黙の中で

 夜道を歩く二人の足音だけが、椿京の静寂を破っていた。 理玖は私を抱きかかえるように支えてくれて歩いている。左肩から血が滲み、着物の袖は所々破れているが、理玖の歩みに迷いはない。私は理玖の腕の中で小さく身を縮めて、時折上目遣いに彼の横顔を見上げていた。 椿京の街並みが、月明かりの下で青白く浮かび上がっている。普段なら風情のある夜景も、今の私には重く感じられた。 「理玖様……」  思い切ってかけた私の声は、夜風にかき消されそうなほど小さかった。 「痛みませんか? その傷……」 「大したことではない」  理玖の返答は簡潔だったが、その声に苦痛の色が混じっているのを私は見逃さなかった。 「嘘です」  私は理玖を見上げた。 「理玖様はいつも、私に心配をかけまいとして……でも、私にはわかります。理玖様が我慢していることが」  理玖の足が、ほんの一瞬止まりかけた。 「鈴凪……」 「私が傷つけたんです」  私から弾けた光が理玖に襲いかかったところが、今でもまぶたの裏に焼き付いて離れない。 「私の力が、あなたを……」 「鈴凪」  理玖の声に、静かな制止の響きがあった。 「さっき話したばかりだろう。鈴凪は何も悪くない」 「でも……」 「でも
last updateLast Updated : 2025-08-26
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第59話 真の家族

 朝霞邸の門が見えてきた時、私がふと立ち止まると、理玖も足を止めて振り返った。 「理玖様」 「どうした?」 「華さんに、何とお話しすればよいでしょうか? きっと心配なさっているでしょうし……」  理玖は考え込んだ。 「正直に話そう。隠し事をしても仕方がない」 「私の力のことも?」 「ああ。華には、いずれ話さなければならないことだ」  私の胸に不安が過る。華はいつでも私に良くしてくれて、いつでも心配してくれていた。それが……この力を知ることで、変わってしまうのではないかという恐怖が浮かぶ。 「嫌われたりしませんでしょうか?」 「華はそんな人じゃない。それに……華は鈴凪が鈴の娘であることを知っている」  理玖はきっぱりと言い切った。華は古くから朝霞家と関わっているようだから、二人の信頼関係は強く結ばれているのだろう。 「もしも誰かが鈴凪を受け入れなくても、私が鈴凪を守る」  私は理玖を見上げた。 「本当ですか?」 「約束だ。何があっても、私は鈴凪の味方だ」  その言葉に支えられて、鈴凪は再び歩き始めた。 朝霞邸の門をくぐる時、私の心には新しい決意が芽生えていた。自分の力を恐れるのではなく、それを理玖と共に受け入れていこう、と。 そして、どんな困難が待ち受けていても、二人で乗り越えていこう、と。 朝霞邸の門扉が静かに開かれると、玉依華が心配そうな表情で二人を迎えた。
last updateLast Updated : 2025-08-27
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第60話 覚醒の余韻

 朝の光が障子を透かして、鈴凪の頬をやわらかく照らしている。昨夜あれほど激しく光を放った彼女の妖力も、今は跡形もなく静まりかえっていた。理玖は畳に正座したまま、一睡もせずに鈴凪の寝顔を見つめ続けていた。 彼女の呼吸は深く穏やかで、時折、小さく唇が動くのは夢を見ているからだろうか。理玖の胸の奥で、百五十年前の記憶が蘇っては消えていく。百合の面影を宿したその顔立ちが、相変わらず理玖の心を激しく揺さぶっていた。 「旦那様」  襖の向こうから、華の控えめな声が聞こえてくる。理玖は振り返ることなく、静かに答えた。 「入れ」  華は朝餉を載せた膳を手に、そっと部屋に入ってくる。その足音さえも、鈴凪を起こさないよう細心の注意を払っていた。膳を理玖の傍らに置くと、華もまた鈴凪の寝顔に視線を向ける。 「一晩中、付き添っていらしたのですね」 「ああ」  理玖の返事は短い。その声には深い疲労と共に、言い表せない複雑な感情が混じっていた。華は主の横顔を見つめ、意を決したように口を開く。 「旦那様、奥様の力は……やはり、百合様の?」  華の問いかけに、理玖は長い沈黙を返した。鈴凪の寝息だけが、静寂の中に響いている。やがて理玖は、まるで重い荷物を下ろすように、静かに頷いた。 「間違いない。ちよの言った通り……百合の魂が、鈴凪の中に宿っていた」  その言葉は、確信に満ちていると同時に、深い哀しみを帯びていた。華は黙ったまま理玖を見つめている。 「旦那様、奥様は……」 「魂は同じでも、鈴凪は鈴凪だ」  理玖の声は強い
last updateLast Updated : 2025-08-27
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