All Chapters of 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話 プロローグ

 椿京──東と西が交錯する近代都市。白漆喰の町屋が並び、軒先では狐面が風に揺れ、通りには人力車と馬車がすれ違っていく。文明開化の光が射す一方で、どこか古めかしい静寂が都市の底に息づいていた。 鈴凪は、竹籠の入った風呂敷を抱えて、その異質な豪邸の前で足を止めた。 門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚絹を隔てているかのような感覚──それが、朝霞邸の印象だった。 門の上には銀の紋が刻まれていた。薄の穂が左右から寄り添い、根元で結ばれている文様。「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」 小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。  私がここへ嫁ぐ――?  一年間だけ、形式的な妻として。  それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。  鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。村を出てから、数カ月。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。  あちこちの村や町を渡り歩き、辿り着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。「時雨さん、椿京にある朝霞邸って知っています?」 ふと店主がそう言った。「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」 ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか?  きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」「条件……」 店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある煙管は、美しい狐とすすきの蒔絵が施されている。以前、それとなしに店主と話していた時、その煙管は妖の意匠だと言っていた。古い友人が人の世界で暮らす妖たちと懇意にしていて、譲り受けたものだと。 この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共存
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第2話 ことのはじめ

 そして、今――。 朝霞邸の門前。  昨夜、受け取った書状を手に、鈴凪は成り行きで、ここに立っている。 門が静かに軋んだ音を立て、独特な気配が、扉の奥から滲み出てきた。「あなたが時雨鈴凪さん、ですか」  呼びかけられて鈴凪は顔を上げた。目の前には、黒羽織の青年が立っていた。 ──美しい、と思った。 それが初めての感想だった。  ただ、その美しさは、普通の人とはどこか違う気がした。  彼の瞳は琥珀色で、獣のような冷たさを帯びていた。銀の指輪が左手に光り、立ち姿はまるで絵巻の登場人物のように見える。「はい。時雨鈴凪です。朝霞様……ですね」 言葉が喉の奥で震えるのを押さえて問いかけた。彼が静かに頷くと、後ろに控えていた使用人たちに促され、鈴凪は屋敷の居間に通された。「あの……それで、契約による婚姻というのは……」「先ずは簡単にご説明します。これから一年間、形式上の妻であること。書面上の婚姻関係を結び、朝霞邸に暮らす。あなたの自由はある程度、制限されます。外出は許可制。契約の秘密は漏らしてはならない。この契約について、外部では黙っておくこと──以上が条件となります」「契約については秘密……ですか?」 鈴凪は耳を疑った。既に古書店の店主も知っているほど噂になっているようなのに、今さら、秘密にしなければならないのはなぜなのだろう。  理玖の瞳はまっすぐ鈴凪を見つめている。「不服ですか? 秘密を守ることもできないほど、口が軽いようでは困るのですが」 棘のある言い方に、鈴凪は驚いた。初対面であるのに少し失礼なのではないか……そんな風に感じていた。観察しているような、様子を窺っているような、そんな理玖の視線も気になった。「え……いえ、不服だなんて、そんなことはありません」「私は昔、ある人と約束を交わしています。いつか時雨家に何かあったら助けてやってほしい、と――。今、この契約を機にその手助けができるかと」「ある人……?」 ある人とは誰だろう?  鈴凪には身内と呼ばれるような親戚などいないし、過去に誰かが何かを頼んでいるとしたら、父か母しか思い浮かばない。けれど、父や母なら、『ある人』などと曖昧な言いかたをするはずがない。「……それでも、この婚姻は契約ですよね。助けていただくのは有難く思いますが、私は道具ではありませんので、契約以上のこ
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第3話 朝霞邸

 夕刻の空が茜色に染まる頃、私――時雨鈴凪は、人生で最も大きな分岐点の前に立っていた。「こちらが朝霞様のお屋敷でございます」 人力車の車夫が振り返って言った言葉に、私は小さく頷いた。目の前にそびえ立つのは、これまで見たこともないほど立派な屋敷だ。洋館の重厚さと日本家屋の優美さが不思議に調和した建物は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのように幻想的で、私のような庶民には場違いな場所だと感じる。それなのに――。 先日、訪ねてきた時にも感じたけれど、どこか懐かしいような感覚が胸をよぎる。「ありがとうございました」 震え声にならないよう気をつけながら車夫に礼を言い、小さな竹籠の入った風呂敷包み一つを抱えて車を降りる。これが私の全財産だった。父の死後、家財道具はほとんど借金の形に取られてしまったのだから。 門の前で立ち止まり、私は深く息を吸った。 朝霞邸――。 椿京でも有数の大企業、朝霞開発の代表を務める朝霞理玖氏の邸宅。そして今日から一年間、私がその「妻」として暮らすことになる場所。 契約結婚。そんな現実離れした話が私の元に舞い込んできたのは、ほんの一週間前のことだった。「本当にこれでよかったのだろうか」 心の中で呟きながら、私は重厚な門扉を見上げた。黒塗りの木材に施された金の装飾が、夕日を受けて鈍く光っている。門柱には「朝霞」の文字が刻まれた表札があり、その下には見慣れない家紋――すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれた優美な意匠が彫り込まれていた。「お嬢様、時雨様でございますね」 突然声をかけられて、私は背筋がピンと伸びた。いつの間にか門番の老人が現れていたのだ。白髪を丁寧に撫でつけた、品のある初老の男性だった。「は、はい。時雨鈴凪と申します」「ご足労をおかけいたしました。旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」 老人の敬語は丁寧すぎるほど丁寧で、まるで私が本当に身分の高い令嬢であるかのように響いた。それがかえって居心地の悪さを増していく。 ――私には身分なんてないようなものなのに。 門をくぐると、玉砂利の敷かれた前庭が広がっていた。手入れの行き届いた植木や、季節外れなのに美しく咲いている彼岸花が目に入る。  彼岸花は秋の花のはずなのに、なぜ今の季節に?  そんな疑
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第4話 お屋敷の中

「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。「珍しい造りでございましょう?」 華が私の様子を見て微笑んだ。「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」「とても素敵です」 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。「まるで夢の中にいるようです」「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。「あの……」 私は遠慮がちに声をかけた。「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」 華は振り返って答えた。「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。「華さん」 私は思い切って尋ねた。「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。「いえ、そのような……」 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」「曾祖母を?」 私は驚いて声を上げた。「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。「そうだったのですね」 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱え
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第5話 夕食の時間

 柱時計から夕刻の七時を告げる鐘が鳴ると、若い女中が私を迎えに来た。「奥様、お食事のご用意ができております」 彼女もまた、足音をほとんど立てずに歩いた。廊下を進みながら、私は改めてこの屋敷の静寂さに驚いていた。二十人もの使用人がいるというのに、まるで誰もいないかのように静かなのだ。 案内された食堂は、屋敷の他の部屋と同様に和洋折衷の美しい空間だった。長いテーブルには西洋風の椅子が並び、その上には繊細な和食器が美しく配置されている。部屋の四隅には提灯が下がり、壁には風景画が掛けられていた。  そしてテーブルの上座に、理玖が座っていた。「お疲れ様でした」 理玖が立ち上がって私を迎える。「お部屋はいかがでしたか?」「とても素敵なお部屋をありがとうございます」 私は丁寧に頭を下げた。「華さんにも大変よくしていただいて……」「それは良かった。華は長年この家に仕える古株ですから、何でも相談してください」 理玖は私のために椅子を引いてくれた。そのさりげない仕草は完璧に紳士的で、作法に一点の曇りもない。「ありがとうございます」 席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。季節の野菜を使った煮物、新鮮な刺身、上品に味付けされた焼き魚。どれも料亭で出されるような見事な品々だった。「口に合いますでしょうか?」「はい、どれもとても美味しいです」 理玖に問われ、私は正直に答えた。「こんなに豪華なお食事をいただいて、恐縮してしまいます」「妻が遠慮する必要はありません」 理玖は静かに微笑むけれど、その笑顔は、どこか表面的に見える。「これからは、ここがあなたの家なのですから」 妻、という言葉に私の頬が熱くなる。例え契約上のことだとしても、まだ慣れない響きにいちいち戸惑う。食事の間、理玖は完璧すぎるほど優雅だった。箸の持ち方、食べ物を口に運ぶ所作、すべてが絵に描いたような美しさで、まるで舞台の上の役者を見ているようだった。「朝霞様」 私は意を決して口を開いた。「改めて、契約の内容を確認させていただけますでしょうか?」 理玖の手が一瞬止まった。それから彼は箸を置き、私を見つめた。「もちろんです。確認は大切ですから」 理玖の声は相変わらず穏やかだったが、その瞳には冷たい光があった。「まず、あなたには一年間、私の妻として振舞っていただきます。対外的には、
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第6話 夜、一人の時間

 部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。「あの方は、どうして私を選んだのかしら」 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第7話 深夜の廊下

 眠りについてからどれほど経ったのだろう。私は喉の渇きを覚えて目を覚ました。 枕元に置いた懐中時計を見ると、針は午前二時を指している。静寂に包まれた屋敷の中で、時を刻む音だけが規則正しく響いていた。「お水を……」 私は小さく呟きながら布団から起き上がった。昼間、華に案内された時の記憶を辿りながら、台所への道筋を思い出す。確か廊下を右に進んで、階段を下りた先にあったはずだ。 部屋着の上に羽織を引っ掛けて、そっと扉を開ける。廊下は薄暗く、ところどころに置かれた行灯が仄かな明かりを灯していた。昼間見た時とは全く異なる、幻想的で静謐な雰囲気に包まれている。「静かね……」 足音を立てないよう気をつけながら廊下を歩いていると、大きな窓から月光が差し込んでいるのが見えた。今夜の月はとりわけ美しく、銀色の光が廊下全体を淡く照らし出している。 その時だった。「こんな夜中に、どうされたのですか?」 突然声をかけられ、私は驚いて振り返った。「あ……朝霞様」 そこには月光に照らされた理玖の姿があった。昼間の洋装とは違い、深い紺色の着物を纏った和装姿で、いつもと違った趣がある。月明かりの中で見る彼は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しく、思わず見惚れてしまう。「眠れませんか?」 理玖は穏やかな声で問いかけてきたが、私は違和感を覚えていた。昼間の彼よりもさらに所作が静かで、まるで音もなく現れたような――。「いえ、少し喉が渇いて……お水をいただこうと思いまして」「そうですか」 理玖は微かに頭を下げた。その動作も、やはり音がしない。着物の裾が擦れる音すら聞こえないのだ。 月光が理玖の横顔を照らしている。彫刻のように美しい輪郭、長い睫毛、整った鼻筋。私は、その美しさの中に人間離れした雰囲気を感じて、無意識のうちに一歩下がってしまった。「この屋敷は古いので、慣れるまで時間が掛かるかもしれません」 理玖の声は優しかったが、なぜかその言葉に深い意味が込められているような気がする。まるで、慣れなければならないのは建物の古さだけではない、とでも言うように。「そう……ですね」 私が答えた時、理玖がゆっくりとこちらを向いた。 月光の下で見る理玖の瞳は、昼間よりもずっと深く、神秘的だった。そして――。「……!」 私は息を呑んだ。一瞬、理玖の瞳が縦に細くなった
last updateLast Updated : 2025-08-02
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第8話 翌朝の食卓

 朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、私は自然と目を覚ました。 時計を見ると七時を少し回ったところ。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほど、穏やかな朝だった。鳥のさえずりが聞こえ、庭からは爽やかな風が吹き込んでくる。「おはようございます、奥様」 身支度を整えて部屋を出ると、廊下で華が待っていた。昨夜見た薄暗い廊下とは打って変わって、朝の光に満ちた明るい空間になっている。「おはようございます、華さん」「お食事の準備ができております。旦那様もお待ちです」 華の案内で食堂に向かいながら、私は昨夜の記憶を辿った。あの不思議な出来事は本当にあったことなのだろうか。明るい朝の光の中では、全てが夢のように思えてくる。「失礼いたします」 食堂の扉を開けると、そこには昨夜とは全く違う理玖がいた。 明るいグレーのスーツに身を包み、新聞を読みながら優雅にコーヒーカップを傾けている。朝の光に照らされた横顔は穏やかで、昨夜感じた得体の知れない雰囲気は微塵も感じられない。「おはようございます」 理玖は新聞から目を上げると、完璧な笑顔で私を迎えた。その瞳は美しい琥珀色で、昨夜見た獣のような縦の瞳は影も形もない。「おはようございます、朝霞様」 私は軽く会釈をして、向かいの席に座った。テーブルには焼きたてのパンと、色とりどりの料理が並んでいる。「よくお眠りになれましたか?」「はい、ありがとうございます」 そう答えながらも、私の心は複雑だった。理玖の問いかけは自然で、まるで昨夜の出来事などなかったかのようだった。本当に、あれは夢だったのだろうか。「今日から本格的な新生活の始まりですね」 理玖はナプキンを膝に置きながら言った。その動作も、昨夜の音のない歩き方とは違って、普通に衣擦れの音がする。「何か困ったことがあれば華に相談してください。私は会社の仕事で出かけますが、夕方には戻ります」「ありがとうございます」 私はパンを一口食べながら、理玖の様子を観察した。朝食を取る姿
last updateLast Updated : 2025-08-02
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第9話 朝霞家の中庭

 庭に出ると、朝の陽光が美しい日本庭園を照らしていた。昨夜見た彼岸花は相変わらず季節外れに咲いているが、昼間見ると不気味さよりも美しさの方が際立っている。「美しいお庭ですね」「ありがとうございます。先代からずっと、この庭を守ってまいりました」 華の言葉に、私は振り返った。「先代というと……?」「旦那様のお父君でございます。もう随分前に亡くなられましたが」 理玖の家族について、私は何も聞いていなかった。そういえば、契約の話以外で彼の私的なことは一切話題に上がっていない。「そうなのですね……」 庭を歩きながら、私は様々なことに思いを巡らせた。この美しい庭園、立派な屋敷、そして謎めいた主人。全てが絡み合って、一つの大きな謎を形作っているような気がした。 池のほとりで立ち止まり、水面を見つめる。清らかな水に青空が映り、鯉がゆったりと泳いでいる。平和で美しい光景だった。  その水面に自分の顔が映った時、私は一瞬息を止めた。 またあの錯覚だった。鏡の中で見たのと同じように、自分の顔が一瞬、別人のように見えたのだ。私よりもずっと気品があって、美しい女性の顔に。「奥様?」 華の声で我に返る。水面を見ると、そこにはいつもの自分の顔があった。「すみません、ぼんやりしていました」「お疲れかと存じます。お部屋でお休みになっては?」「いえ、大丈夫です」 私は首を振った。まだ謎は何も解けていない。でも、焦ってはいけない。時間はまだたっぷりある。 一年間――。  この奇妙で美しい屋敷での生活を通じて、きっと全ての謎が明らかになるはず。 そして、もしかしたら……。 私は理玖が去っていった方角を見た。もしかしたら、彼との関係も変わっていくかもしれない。契約結婚として始まったこの生活が、どんな結末を迎えるのか。 それは、まだ誰にも分からないことだった。 風が吹いて、庭の木々がさわさわと音を立てる。その音に混じって、かすかに鈴の音が聞こえたような気
last updateLast Updated : 2025-08-02
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第11話 椿京の街

 ある日の朝、華が私の部屋を訪れた。「奥様、お時間はございますでしょうか? 日用品の買い出しにお付き合いいただければと思うのですが」 華の提案は渡りに船だった。契約書で明かされた謎めいた条項の数々が頭から離れず、気分転換を求めていたのだ。「ぜひお供させていただきます」「それでは、お支度をなさってください。椿京の街は初めてでいらっしゃいますね」 華の表情には、どこか安堵のような色があった。まるで、私を外に連れ出すことに、何かしらの意味があるかのように。支度を整えて玄関に向かうと、既に人力車が用意されていた。車夫の男性は、私たちを見るなり深々と頭を下げた。「朝霞の奥方様、本日はよろしくお願いいたします」「朝霞の奥方様」という呼び方に、まだ慣れない。けれど、車夫の丁寧すぎる態度に、理玖の影響力の大きさを感じ取った。 人力車に揺られながら、私は初めて椿京の街並みをゆっくりと眺めた。朝霞邸から街の中心部へと向かう道は、想像以上に美しく整備されていた。 洋風建築と和風建築が絶妙に調和している。煉瓦造りの銀行の隣に、伝統的な瓦屋根の商家が並ぶ。ガス灯と提灯が同じ通りを照らし、人力車と馬車が行き交う。まるで時代が混在しているような、不思議な街だった。「椿京は明治の初めに開発された新しい街なのですが、古いものと新しいものを大切に残している街でもあるのです」 隣の華が説明してくれる。「とても美しい街ですね」「ええ。旦那様が大変力を入れて開発なさった街ですから」 旦那様……つまり理玖が、街全体の開発に関わっているということだろうか。 人力車は商業区域で止まった。新区と呼ばれるこの一帯には、洋風の商店が軒を連ねている。華やかな看板、美しいショーウィンドウ、行き交う人々の装いも都会的だった。「まずはこちらで日用品を揃えましょう」 華に案内されて入った雑貨店で、店主の老婦人が私たちを見るなり、顔を輝かせた。「これは、朝霞の奥方様でいらっしゃいますね! お噂はかねがね伺っております」「噂を? 私の、ですか?」「ええ、ええ。旦那様がご結婚なさったと聞いて、街中が大変喜んでおります。旦那様にはいつもお世話になっておりますから」 店主の言葉に、私は戸惑った。理玖が街の人々にどれほど慕われているのか、その一端を垣間見た気がした。「朝霞様は、どのようなお世話を
last updateLast Updated : 2025-08-03
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