椿京──東と西が交錯する近代都市。白漆喰の町屋が並び、軒先では狐面が風に揺れ、通りには人力車と馬車がすれ違っていく。文明開化の光が射す一方で、どこか古めかしい静寂が都市の底に息づいていた。 鈴凪は、竹籠の入った風呂敷を抱えて、その異質な豪邸の前で足を止めた。 門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚絹を隔てているかのような感覚──それが、朝霞邸の印象だった。 門の上には銀の紋が刻まれていた。薄の穂が左右から寄り添い、根元で結ばれている文様。「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」 小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。 私がここへ嫁ぐ――? 一年間だけ、形式的な妻として。 それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。 鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。村を出てから、数カ月。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。 あちこちの村や町を渡り歩き、辿り着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。「時雨さん、椿京にある朝霞邸って知っています?」 ふと店主がそう言った。「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」 ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか? きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」「条件……」 店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある煙管は、美しい狐とすすきの蒔絵が施されている。以前、それとなしに店主と話していた時、その煙管は妖の意匠だと言っていた。古い友人が人の世界で暮らす妖たちと懇意にしていて、譲り受けたものだと。 この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共存
Last Updated : 2025-08-01 Read more