All Chapters of 狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 鈴凪という存在

 私は溢れる涙が止まらないまま、抑えきれない感情をすべて口にした。「最初は契約結婚だと思っていました。お互いに割り切った関係で、一年で終わるものだと。それなら、私も心の準備ができました。でも、これは違います。私は最初から私として見られていなかった。朝霞様にとって私は、失った恋人の代替品でしかなかった」 「鈴凪、それは誤解だ」  理玖は否定するけれど、つい今しがた、身代わりかと聞いた私にはっきりと『そうだ』と答えた。それは誤解などではない、理玖の本当の思いじゃないのだろうか。 「誤解?」  私は振り返り、涙を流しながらも毅然として見えるように、しっかりと理玖を見つめた。 「では、聞かせてください。朝霞様が私の名前を呼んでくださる時、傷つけたくないと仰ってくださった時、優しい言葉をかけてくださった時、本当に私を見ていたのですか」  私の問いかけに、理玖は答えなかった。空を見つめる目は、どこか遠くを見ているように感じる。 「答えてください。一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか」  理玖は苦しげに目を閉じた。一言も発することなく、ただ俯いている。 「なかった……ということなのですね……」  私は理玖の沈黙を答えとして受け取った。空はもう明け方近く、わずかに白み始めている。結局、一睡もできないままで、私は心だけでなく体も疲弊していた。 「鈴凪……」 「私は、百合様ではありません。私は鈴凪という、どこにでもいる普通の女です。美しくもなければ、特別な才能があるわけでもない。ただ、少しばかり頑固で、思ったことをそのまま口にしてしまう、そんな女です」
last updateLast Updated : 2025-08-13
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第32話 鈴凪の逃避

 部屋に戻った私は、畳の上に崩れ落ちた。 涙が止まらなかった。理玖の告白、妖としての正体、そして百合という女性の存在――すべてが心の中で渦を巻いていた。 「私は……私は一体、何なの」  私は膝を抱えて震えていた。自分というものが、まるで霧のように曖昧に感じられた。朝霞鈴凪として生きてきた数カ月間は、すべて偽りの上に築かれたものだったのか。理玖の優しさも、穏やかな日々も、私が理玖を慕う気持ちさえも――すべてが百合という女性の影に過ぎなかったのだろうか。 私がただの、生まれ変わりだから――? 「ただの代替品……」  私は誰かの身代わりとして選ばれ、愛されていたという事実が、私の存在そのものを否定されたような気持ちにさせた。頼れる人のいない、たった一人だった時の寂しさよりも辛かった。  窓の外で、白み始めた空が明るさを増していた。けれど、私の心の中は、深い闇に覆われたままだった。  気がつくと、私は僅かな荷物を手に部屋を出ていた。足は自然と屋敷の外へ向かって行く。契約結婚とはいえ、理玖の妻として過ごした日々が、今の私には重すぎて辛い。  草履を履き玄関を開く音が、静寂の中で妙に大きく響いた。 「奥様? こんな早くからどちらへ行かれるのです?」  華の声が背後から聞こえたが、私は振り返らなかった。 「少し……散歩に出ます」  それだけ言って、私は屋敷を出た。 振り返ると、薄暗い屋敷の奥で、書斎の明かりがまだ灯っていた。あの部屋で、理玖は一人、何を考えているのだろうか。 門を出て数歩、歩いたところで私は振り返った。朝霞邸の大きな屋根が、靄の中にぼんやりと浮かん
last updateLast Updated : 2025-08-13
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第33話 理玖の思い

 書斎で夜を明かした理玖は、外が明るくなったことに気づいてようやく顔を上げた。一睡もしていない目は赤く、疲労で霞んでいる。 「鈴凪……」  彼女の名前を呟くと、胸が締め付けられた。さっきの会話を何度も思い返しても、もっと上手く説明できたのではないかという後悔ばかりが残る。 『本当の私を愛してくれる人は、いるのでしょうか』  鈴凪の問いかけは、彼女自身に向けられたもののようだった。中庭に立つその姿は、まるで霧の中に立つ迷子のように、頼りなく見えた。 『一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか』  あの時――理玖は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。間違いなく鈴凪を見ていた。ただ、百合の面影が浮かんでいたのも事実だ。 その事実を、どう言葉にすれば良かったのか。それが分からない。  自分の過去が、今の幸せを壊してしまう皮肉を感じていた。説明すればするほど、鈴凪を傷つけてしまう。この状況を、どう修復すればよいのか見当もつかなかった。  二人の間に横たわる溝は、想像以上に深かった。 「もう、手遅れだろうか……」  理玖がつぶやいた言葉は、朝の静寂の中に重く響いた。 書斎を出ると、慌てた様子の華が駆け寄ってきた。 「旦那様、たった今、奥様がお屋敷を出ていかれました」  華の言葉に理玖は愕然とした。あれからまだ数時間だというのに、まさか、こんなにも早く理玖から離れてしまうなどと、考えてもみなかった。 「そうか……」 「散歩に出ると仰っていま
last updateLast Updated : 2025-08-14
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第34話 慎吾の慰め

 公園のベンチで時を過ごしていた私の元に、見慣れた人影が現れた。 「鈴凪さん」  振り返ると、慎吾が心配そうな表情で立っていた。いつもの穏やかな笑顔はなく、眉間に深い皺を寄せている。 「慎吾さん……どうしてここに」 「朝霞邸の方が、君を探していると聞いて」  慎吾は私の隣に座った。 「こんな早い時間に、一人でこんな所にいるなんて。どうしたのです?」  私は俯いた。慎吾の優しい声が、かえって胸を苦しくさせた。 「何かあったのですか? 顔色が悪いし、泣いていたようだ」  慎吾は静かに問いかけてくる。 私は慎吾を見上げた。その温かな目を見ていると、すべてを打ち明けたい衝動に駆られた。けれど、理玖のことや妖の世界のことは、とても話せるものではなかった。例え慎吾が朧月会で、理玖を妖だと知っていたとしても。 「朝霞様と……少し、言い争いをしてしまって」  私は曖昧に答えた。嘘ではなかったが、真実からは程遠かった。 「言い争い?」  慎吾の表情が険しくなった。 「朝霞が君に何をしたのですか」 「いえ、朝霞様が悪いわけでは……」  私は慌てて首を振ったが、慎吾の表情は晴れなかった。 「君はいつもそうだった……自分を責めて、相手を庇う。でも、君がこんなに苦しんでいるのを、僕は黙って見ていられません」  慎吾は私
last updateLast Updated : 2025-08-14
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第35話 夢の中の百合

 慎吾と別れた私は、椿京を出て実家へと向かった。 朝霞邸に戻る勇気がまだ持てず、一人で考える時間が必要だった。椿京から少し離れた実家にたどり着いたのは、日付も変わった深夜だった。 実家は小さく、質素だったが、温かみのある家だった。両親は既に他界し、追われてこの家を出てから、今は空き家同然になっていたが、私にとっては心の支えとなる場所だった。 久しぶりに足を踏み入れた家の中は、静寂に包まれていた。埃っぽい空気の中に、かすかに母の使っていた香の匂いが残っている。僅かに残っていた荷物の中から手拭いを出すと、近くの井戸で足を洗った。 「足が痛い……」  私は自分の部屋に入り、そこで一人、座り込んだ。 畳の感触が、幼い頃の記憶を呼び起こす。 この部屋で、どれほど多くの夜を過ごしただろう。母の読み聞かせを聞いた夜、将来への夢を語り合った夜、そして仕事が決まった時の逸る気持ちを抱えて眠りについた夜……。 「私は、どうしたいのだろう」  膝を抱えて呟いた。 慎吾の温かさも、理玖への複雑な想いも、すべてが心の中で絡み合っていた。答えを見つけるために実家に来たのに、一人になると余計に混乱が深まった。 やがて疲労に勝てず、私はそのまま眠りに落ちた。 夢の中で、私は桜舞い散る神社にいた。 狐燈坂の上にある小さな神社。石段を上がった先にある、椿京の街を見下ろす静かな場所。桜の花びらが風に舞い、まるで雪のように地面に舞い落ちている。 そこに、一人の女性が立っていた。 黒髪を風に揺らし、白い着物に身を包んだ美しい女性。その横顔は確かに私に似ていたが、どこか大人びて、深い憂いを湛えていた。 百合の姿だった。 『あなたが……鈴凪さんですね』  百合は振り返って微笑ん
last updateLast Updated : 2025-08-15
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第36話 華の老婆心

 夕暮れの空が朱に染まる頃、華は朝霞邸の自室で煙管を手に、深いため息をついていた。 鈴凪が家を出てから三日が過ぎた。その日のうちに戻ると思っていたのに、一体、どこへ行ってしまったのか。朧月会に囚われてしまったのかと思い、探ってみるも、朧月会の方でも鈴凪を探しているらしいことが見て取れて、ほっとしていた。とはいえども、まだ戻らないのが心配だ。 理玖は理玖で、鈴凪がいなくなった日から様子がおかしい。食事は喉を通らず、仕事もすべて屋敷に持ち込んでも手つかずのまま。まるで魂が抜けたような有様だった。そして何より、一日に何度も鈴凪の部屋の前を素通りしては、襖を見つめて立ち尽くしている姿を見かけるのだ。 二人の間に何かがあったことは確実だけれど、一体、何があったと言うのか。すっかり腑抜けた理玖からは、まだ何も聞けていない。 「このままでは、両方とも不幸になるばかりですね……」  華は煙管を置くと、決然と立ち上がった。理玖に無断で行動を起こすのは越権行為かもしれない。だが、あの二人を見ていると、誰かが背中を押してやらねば、永遠にすれ違いを続けてしまうだろう。 「旦那様、少し街まで用事に出て参ります」  書斎の前で声をかけると、中から力のない返事が聞こえた。華は小さく首を振り、足早で裏庭へ向かった。 「要さん」  華は裏庭で庭石に腰をおろしている桐山要に声を掛けた。黒い作務衣の裾に雑草の種がついているところを見ると、草むしりでもしていたのだろうか。要は天狗の末裔で、華と同様に朝霞家では古株の一人だ。 「なんだい、華さんか。どうかしたのか?」 「どうもこうも……旦那様がねぇ……」 「ああ、奥様が出て行かれてしまったから、かね」 
last updateLast Updated : 2025-08-15
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第37話 華の仲裁

 三日ぶりに見る鈴凪の顔は、やつれているものの、以前よりも落ち着いた表情を浮かべていた。「華さん......どうしてこちらに?」「奥様、お元気そうで何よりです」 華は鈴凪を見上げ、微笑みかけた。鈴凪は華が居所を突き止めたことに警戒心を抱いているように感じる。「少しお話ししたいことがあります。お時間をいただけますか?」 鈴凪は戸惑いながらも頷き、部屋へと招き入れてくれた。夕暮れの薄明かりが差し込む静かな部屋で、華と鈴凪は向かい合って腰を下ろした。 家の中はがらんどうで、家具類は何一つない。僅かに着替えなどはあるようで、洗濯物が庭で揺れている。 この様子だと、食事もろくに取っていないのではないだろうと心配になる。 そんな華の思いを悟ったのか、鈴凪が口を開いた。「すみません、お茶も何もお出しできなくて……」 華は首を振り、目の前の鈴凪を見つめた。「奥様。もう十分お考えになったのではありませんか?」 鈴凪は膝の上で手を組み、俯いた。「まだ答えが見つかりません。私は……私は百合様なのか、鈴凪なのか。朝霞様が愛していらっしゃるのは、本当は誰なのか」 この鈴凪の口調から察するに、恐らくあの夜、中庭で百合の話を聞かされたのだろう。理玖のことだから、ありのままを口にしたに違いない。鈴凪に傷つくな、などと無理な話だ。「それに……朝霞様の本当のお姿も……」 ――本当の姿。 理玖は鈴凪にそこまで曝け出したのか。華は驚きと衝撃を抑えるのに必死にならざるを得なかった。理玖の正体を知ったということは、当然、華をはじめ朝霞邸の使用人のことにも気づいたはず。それでいて、鈴凪にあまり驚いた様子も、怖がる様子も見えないのは、やはり薄々感じ取っていたからだろう。「今は本当に、私自身の気持ちさえも、良くわからないのです」 鈴凪は自分自身に問いかけるように俯いている。「では、お聞きします」 鈴凪の気持ちは分からなくもない。だからと言って、このままにしておけるはずもなく、華は鈴凪の想いに率直に問いかけることにした。そうでもしなければ、こんなところまで追ってきた意味がない。 華の声に、鈴凪は顔を上げた。「旦那様を愛しているのは、百合様ですか? それとも奥様ですか?」「え……?」 鈴凪は困惑した顔を見せた。「私は……私は……」 言葉に詰まる鈴凪に、華は穏やかに
last updateLast Updated : 2025-08-16
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第38話 決意の帰還

 夜の帳が降り、眠るように静かな椿京の街を、私は一人歩いていた。 星々が夜空に瞬き、月は雲間から静かな光を投げかけている。足音だけが石畳に響く中、私の心は不思議なほど落ち着いていた。 百合との夢が、すべてを変えていた。 あの優しい女性の言葉が、心の奥深くに染み込んでいる。愛することに正解はない。恐れることも、迷うことも、すべて愛の一部。そして、理玖が自分に真実を告白したのは、本当に愛しているからなのだと。 朝霞邸の門が見えてきた。躊躇いを感じながらも、私は門をくぐった。 「お帰りなさいませ」  玄関では既に華が待っていた。その表情は安堵に満ちていた。 「華さん……今日はありがとうございました。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」  私は深く頭を下げた。華は慌てて私を支えた。 「とんでもございません。こんなに早く戻られて……お疲れではないですか?」  華の声は温かく、涙を含んでいた。こんなにも近くに、心から私を心配してくれる人がいてくれることを、今さらながら実感する。 「私は大丈夫です。あの、朝霞様は……」  私の問いに、華は書斎の方を見やった。 「書斎でお待ちでございます。一歩も外に出ず、ずっと奥様の帰りを待っていらしたようですよ」  私の胸が締めつけられた。理玖は追いかけることも、探すことも止めて、静かに待っていてくれたのだ。私が戻ると信じて――。 「ありがとうございます、華さん」  私は華の手を握った。この温かい気遣いが、どれほど自分を支えてくれていたかを改めて感じた。 
last updateLast Updated : 2025-08-16
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第39話 日常の中の変化

 朝霞邸の中庭に、初夏の陽光が踊っていた。石畳に落ちる木漏れ日は、まるで金の砂を撒いたように美しく、池の鯉たちがゆったりと泳ぐ姿を照らしている。 茶室から聞こえる湯の沸く音が、静寂を心地よく破った。 鈴凪に真実を話してから三カ月が経とうとしている。共に過ごせる時間は多くはないけれど、顔を合わせる時間をなるべく作るようにしていた。 「今朝は碧螺春にいたしますね」  鈴凪の声は、朝霞邸に来た時と比べてずいぶんと自然になっていた。茶葉を量る手つきも慣れたもので、理玖好みの濃さを熟知している。 理玖は座布団に正座したまま、鈴凪の様子をじっと見つめていた。白い着物に薄紫の帯を締めた鈴凪の横顔は、朝の光に透けて見えるほど美しく、彼女が茶を淹れる一つ一つの動作に、なぜか見惚れてしまう。 「碧螺春を?」  理玖の声は少し掠れていた。慌てて咳払いをする。 「失礼。鈴凪は、いつから私の好みを覚えていたのだ?」 「えっと……」  鈴凪の手が一瞬止まった。頬に薄い赤みが差している。 「二カ月ほど前から気づいていました。理玖様は日本茶よりも輸入茶葉を好まれるのですね。朝は碧螺春、午後は龍井茶、夜は武夷岩茶……」 「鈴凪は私をそんなに観察していたのか」  理玖の言葉に、鈴凪の手がまた止まった。今度は顔全体が紅潮している。 「あ、あの……観察というか……」 「怒っているわけではない」  理玖は苦笑した。実際のところ、鈴凪が自分のことをそこまで
last updateLast Updated : 2025-08-17
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第40話 買い物と心の距離

 初夏の陽射しが石畳に踊る午後、椿京の商店街は穏やかな賑わいに包まれていた。格子戸から漏れる藍染めの暖簾、軒先に吊るされた風鈴の涼やかな音色、そして行き交う人々の笑い声が、まるで時が止まったような錯覚を覚えさせる。 「普通の夫婦みたいに、一緒にお買い物がしてみたくて」  私の提案に、理玖は一瞬、面食らったような表情を見せた。契約結婚をしてから、二人きりで屋敷の外に出るのはこれが初めてだった。 「普通の、か」  理玖は小さく呟いた。理玖にとって「普通」という言葉は、どこか遠い響きを持っているようで、時々、戸惑うような顔を見せる。 商店街を歩く理玖の姿は、否応なく人々の視線を集めた。濃紺の和装に身を包んだ理玖は、まるで絵画から抜け出してきたような美しさだった。 「朝霞の旦那様と奥方様じゃないか」 「本当におきれいなお二人だねえ」  道行く人々の囁き声が聞こえる度に、私の心は複雑に揺れた。奥方様――本当の妻として見られていることへの嬉しさと、それが本当はまだ偽りであることへの後ろめたさが、胸の奥で絡み合っていた。 呉服屋の前で、私は帯留めを眺めていた。淡い桜色の珊瑚で作られたそれは、陽の光に美しく輝いて見えた。 「そちら、お似合いになりそうですね」  店主の声に、私は微笑んで首を振った。 「いえ、見ているだけで……」 「桜色よりも、若草色の方が鈴凪には良いと思う」  突然の理玖の声に、私は振り返った。彼は別の帯留めを手に取り、私の着物に合わせるように近づけている。 「理玖様?」 「鈴凪の瞳の色に近い。きっと映える」
last updateLast Updated : 2025-08-17
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