All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 91 - Chapter 100

120 Chapters

# 第91話 情報戦の矢 - 3

 朝の冷たい空気の中で、グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、自らが築き上げてきた軍隊が、音を立てて崩れていくのを感じていた。 彼の眼前で繰り広げられているのは、もはや軍議ではなかった。それは、恐怖に駆られた者たちの、醜い責任のなすりつけ合いだった。「シラー伯爵こそが怪しい! 昨夜から部下を集め、何かを企んでおりましたぞ!」「何を言うか! 貴殿こそ、天幕の明かりを夜通しつけていたではないか! 誰ぞと密会でもしていたのか!」 将校たちの声はヒステリックに裏返り、その瞳には理性のかけらもない。一度植え付けられた不信の病毒は、彼らの精神を蝕み、正常な判断力を奪っていた。「静まれぃっ!」 ベルガーは、腹の底からの怒声を張り上げた。王国の宿将としての威厳が、かろうじてその場の喧騒を鎮める。「貴様ら、見苦しいぞ! 我らは反逆者を討つために集った王の軍だ。内輪揉めをしている場合ではない!」 だが、その叱責も、もはや空虚に響くだけだった。 追い詰められたシラー伯爵が、半狂乱の形相で叫んだ。「わ、私は裏切ってはいない! これは罠だ! 辺境の狼が、我らを仲違いさせるために仕掛けた、卑劣な罠なのだ!」 それは真実だった。だが、パニックに陥った男が叫ぶ真実ほど、信憑性を失うものはない。彼の必死の訴えは、他の貴族たちの目には、罪を逃れるための見苦しい言い訳にしか映らなかった。「ほう。罠だと知りながら、なぜ貴殿はそれほどまでに動揺しているのかな?」 一人の将校が、蛇のような冷たい声で問いかける。その言葉が、とどめの一撃となった。 ベルガーは、この混沌の中心で、静かに目を閉じた。そして、確信する。 これは、単なる混乱ではない。意図的に引き起こされた、巧妙な工作だ。あの見えざる軍師が、戦場だけでなく、人の心すらも盤上として、駒を進めている。その底知れぬ狡猾さに、彼は戦慄を禁じ得なかった。 この病毒を断ち切るには、もはや通常の手段では不可能。腐った指を断ち切るように、迅速で、そして無慈悲な外科手術が必要だった。 辺境伯の城、司令室。 セレスティナは、ザイファルトから敵陣の混乱につい
last updateLast Updated : 2025-10-31
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第92話 兵站なき大軍 - 1

 戦とは、兵の数や武器の質だけで決まるものではない。 それは時に、一本の矢、一通の書状、そして一つの疑念によって、その趨勢が決定づけられる。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、その身をもって、その真理を味わっていた。彼の目の前には、かつて一万を誇った大軍の、見るも無残な残骸が広がっている。 離反した者、恐怖に駆られて逃亡した者、そして、もはや戦う意志を失い、虚ろな目で地面に座り込む者。残った兵力は、かき集めても三千に満たないだろう。そのほとんどが、彼の直属の親衛隊と、今さらヴァインベルク公爵を裏切ることもできぬ、立場のない貴族たちの私兵だけだった。 醜い罵り合いは、いつしか終わっていた。いや、終わらざるを得なかったのだ。あまりにも多くの者が、陣から離脱してしまったために。残された者たちの間には、共通の絶望と、敗北という名の重苦しい沈黙だけが垂れ込めていた。 ベルガーは、馬上で天を仰いだ。辺境の空は、まるで彼の心の内を映すかのように、重く、灰色の雲に覆われている。 屈辱。怒り。そして、己の傲慢さへの深い後悔。様々な感情が、嵐のように胸中で渦巻いていた。だが、それらの感情のさらに奥底で、彼は、これまで感じたことのない種類の、純粋な畏怖を感じていた。 ライナス。そして、その背後にいるであろう、影の指揮官。 自分は、その見えざる敵に、完膚なきまでに敗れたのだ。武力でなく、知略で。正面からの衝突ではなく、人の心の脆さを突く、あまりにも狡猾な戦術によって。 あれほどの情報戦を、これほど完璧なタイミングで仕掛けられる人物とは、一体何者なのか。その正体不明の軍師の存在は、歴戦の将帥である彼のプライドを、根底から揺さぶっていた。 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。将としての、最後の務めが残っている。 それは、この残った兵たちを、一人でも多く、生きて王都へ帰すこと。 たとえ、それがどれほどの屈辱を伴う選択であったとしても。「…聞け」 ベルガーは、声を振り絞った。その声は嗄れていたが、不思議なほどの静けさと、覚悟の響きを帯びていた。「我々は、これより、撤退を開始する」 その
last updateLast Updated : 2025-11-01
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第93話 兵站なき大軍 - 2

 夜の森は、狼たちのための狩場だった。 ライナスが率いる三十名の精鋭は、もはや人間ではなく、闇に溶け込んだ獣の群れそのものだった。彼らは音を立てず、風のように木々の間を駆け抜ける。月明かりさえ届かぬ森の奥深くで、彼らの目は獲物の匂いを正確に捉えていた。 目指すは、敗走を始めた討伐軍の生命線。その腹心とも言うべき輜重隊だ。「…見えたぞ」 斥候として先行していた兵士が、音もなくライナスの隣に戻り、囁いた。その指が示す先、谷間を縫うように続く細い道に、長く伸びる荷馬車の列が見える。その周囲を固める護衛の兵士たちの数は多いが、その足取りは重く、警戒網は弛緩しきっていた。本隊から切り離され、ただひたすらに前進するだけの彼らに、かつての王都軍の威光はなかった。「見事な無防備さだな」 ライナスは、木の幹に背を預けたまま、冷ややかに呟いた。その金色の瞳が、闇の中で鋭い光を放つ。「あれが、自分たちの命綱だという自覚すらないらしい」 傲慢な獅子は、手負いとなってもなお、己の腹の柔らかさを忘れている。その油断こそが、狼たちにとって最高の馳走だった。「作戦通り、三方に分かれろ。合図があるまで、決して動くな。我らが目的は、殺戮ではない。恐怖を与えることだ」 ライナスの低い声に、三十の影が、音もなく散開していく。彼らは、この夜の狩りの意味を、その骨の髄まで理解していた。 しばらくの静寂。 荷馬車の列が、完全に罠の中心へと足を踏み入れた、その瞬間。 ライナスは、夜の静寂を破る、一声の口笛を鳴らした。 それが、饗宴の始まりを告げる合図だった。 最初に、火の矢が放たれた。 狙いは、兵士ではない。荷馬車の幌や、積まれた乾草、そして食料袋そのものだった。油を染み込ませた矢尻は、いともたやすく燃え広がり、夜の闇にいくつもの巨大な篝火を打ち立てた。「な、なんだ!? 敵襲! 敵襲だ!」 護衛の兵士たちが、パニックに陥って叫ぶ。だが、敵の姿はどこにも見えない。ただ、闇の中から、次々と火矢が飛来し、彼らの命の糧を灰へと変えていく。「水をかけろ! 火を消すんだ!」
last updateLast Updated : 2025-11-02
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第94話 壊乱の序曲

 規律という名の箍が外れた時、軍隊はただの牙を持った獣の群れと化す。 討伐軍の陣営は、今や地獄の様相を呈していた。最後の食料配給が途絶えた瞬間、兵士たちの理性は完全に蒸発した。彼らは飢えという最も原始的な欲求に突き動かされ、将校たちの天幕へと殺到する。「食い物を隠しているんだろう! 出せ!」「どけ! 俺が先だ!」 扉は蹴破られ、天幕は引き裂かれる。略奪の対象は、やがて食料だけに留まらなくなった。金目のもの、上等な武具、わずかでも価値のありそうなもの全てが、狂乱した兵士たちの手によって奪い合われた。 制止しようとした将校は、昨日まで忠誠を誓っていたはずの部下に突き飛ばされ、泥の中に顔を押し付けられる。もはや階級など、何の意味も持たなかった。あるのは、飢えた獣たちの、生存を賭けた醜い争いだけだった。 その光景を、グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、自らの天幕の奥で、ただ静かに聞いていた。 怒声、悲鳴、何かが破壊される音。それらが混じり合った不協和音が、彼の耳には、自らの軍隊の断末魔のように響いていた。 終わった。 その一言が、彼の心の中で、重い石のように沈んでいく。 ライナス。そして、その背後にいるであろう影の軍師。あの見えざる敵は、一万の軍勢を、一人の兵士も失うことなく、内側から完膚なきまでに破壊し尽くした。武器ではなく、飢えと恐怖という、最も原始的な力を使って。 これほどの完敗が、これほどの屈辱が、彼の長い武人としての人生にあっただろうか。 いや、ない。 ベルガーは、固く拳を握りしめた。その拳は、怒りではなく、どうしようもない無力感に、わなわなと震えていた。傲慢だった自分を、嘲笑うかのように。 彼はもはや、王国最強と謳われた将帥ではなかった。統率を失い、自滅していく獣の群れを、ただ見つめることしかできない、無力な老人に過ぎなかった。 天幕の外の狂乱は、やがて、奪うべきものが無くなると共に、次第に静まっていった。後に残ったのは、破壊された天幕の残骸と、わずかな戦利品を巡って睨み合う兵士たちの、虚ろな目だけだった。 壊乱の序曲は終わり、今はただ、絶望的な静寂が、敗残の軍を支配し
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第95話 決戦の地へ

 辺境伯の城に、ひとりの騎士が馬を進めていた。 その騎士が掲げるのは、武器ではなく、降伏と交渉の意思を示す、汚れた白い布切れだった。 城壁の上からその姿を認めた見張りの兵士が、緊張した声で城内へと報せを飛ばす。その報は瞬く間に城中を駆け巡り、勝利の歓喜に沸いていた空気を一瞬にして凍てつかせた。 作戦司令室にも、その報せはすぐに届けられた。「敵陣より、白旗を掲げた使者が一騎! 面会を求めております!」 伝令兵の切羽詰まった声に、それまで勝利の余韻に浸っていた文官や将校たちは、互いに顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべた。 降伏。 その言葉が持つ甘い響きと、しかしその裏に潜むかもしれない罠の匂いが、部屋の空気を奇妙な緊張で満たした。「罠かもしれませんぞ!」「そうだ、我らを油断させるための策略に違いない!」 口々に上がる警戒の声を、セレスティナは静かに聞いていた。彼女は壁に広げられた巨大な地図の前から動かず、そのすみれ色の瞳で、崩壊した敵軍を示す赤い駒を見つめている。 父を陥れ、自らの全てを奪った憎い敵。その敵が、今、白旗を掲げて目の前に現れた。復讐の終焉が、すぐそこまで来ている。だが、彼女の心に、勝利の高揚感はなかった。あるのは、氷のように冷徹な分析と、次なる一手への思考だけだった。「…使者を、司令室へ通してください」 セレスティナが、静かだが凛とした声で命じた。その場の誰もが、若き軍師の言葉に反論することなく、ただその指示に従う。この城において、彼女の言葉はすでに、絶対の重みを持っていた。「ですが、セレスティナ様、危険です」 ザイファルトが、影の中から現れるように彼女の隣に進み出て、低い声で懸念を告げた。「どのような罠が仕掛けられているか分かりません。私が代わりにお会いしましょう」「ありがとう、ザイファルト。でも、大丈夫」 セレスティナは、心配する腹心に穏やかに微笑みかけた。「これは、武力による戦いではありません。言葉と、心を読む戦いです。ならば、私が行くべきでしょう」 彼女の瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた
last updateLast Updated : 2025-11-04
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第96話 ベルガーの絶望

 夜が明け、湿った冷気が敗残兵たちの体を芯から蝕んでいた。  グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の残党は、最後の決戦の地として指定された『狼の牙』へと、重い足取りで進んでいた。兵士たちの瞳は虚ろで、生気はない。だが、その隊列の先頭に立つベルガーの胸中には、屈辱と怒りに燃える、最後の闘志があった。  斥候の報告によれば、決戦の地は広大な荒野だという。地形の利を活かせぬ平地での戦い。それは、辺境伯の若さ故の傲慢か、あるいは自分への侮りか。いずれにせよ、好都合だった。純粋な兵の練度と戦術でぶつかり合えば、たとえ兵力で劣っていても、この王国の宿将としての経験が勝るはずだ。彼はそう信じ、この最後の戦いで一矢報いることだけを考えていた。 だが、彼らがその地に足を踏み入れた瞬間、その淡い希望は、冷たい絶望へと変わった。 「…なんだ、これは」  ベルガーの口から、愕然とした声が漏れた。  目の前に広がっていたのは、報告にあったような開けた荒野ではなかった。朝霧が立ち込める、広大な湿地帯。そして、その奥には、視界を遮るように鬱蒼とした森が、まるで巨大な獣の顎のように口を開けていた。ぬかるんだ大地は重装の兵士たちの足を取られ、歩を進めることさえ困難を極める。 「罠だ…! あの小僧、我らを騙したか!」  ベルガーは激昂し、馬上で拳を震わせた。斥候は、敵の偽情報にまんまと踊らされたのだ。この地形は、地の利を熟知している者にとって、これ以上ない天然の要塞。そして、侵入者にとっては、出口のない墓場だった。 「元帥閣下! もはや進むのは危険です! 一刻も早く撤退を!」  副官が悲鳴に近い声で叫ぶ。 「馬鹿者! どこへ退くというのだ!」  ベルガーは一喝した。背後には、あの狼の群れが息を潜めている。今ここで背を向ければ、無防備な背中を無慈悲に食い破られるだけだ。もはや、道は一つしかなかった。 「進め! この湿地帯を突破し、森の向こうへ抜ける! 活路は、前にしかない!」  それは、合理的な判断というよりは、もはや破れかぶれの叫びだった。彼の命令を受け、討伐軍は、絶望的な沼地へとその足を踏み入れていく。彼らの進む先で、静かに、そして確実に、狩
last updateLast Updated : 2025-11-05
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第97話 狼の采配

 湿地と森が作り出した巨大な罠の中で、討伐軍はもはや軍隊ではなかった。 四方八方から断続的に飛来する矢、ぬかるみに足を取られ身動きできない仲間、そして霧と木々の間から神出鬼没に現れては消える狼の群れ。そのすべてが、兵士たちの心を、じわじわと、しかし確実に蝕んでいた。「降伏する! 俺はもう戦わない!」「助けてくれ! 命だけは!」 恐怖に駆られた兵士たちが、次々と武器を泥の中に投げ捨て、その場に膝をつき始める。規律も、命令も、もはや何の意味も持たない。指揮官である将校たち自身が、自らの命を守ることで精一杯だった。 ベルガー元帥は、本陣でその光景を呆然と見つめていた。彼の周囲を固める親衛隊だけが、かろうじて円陣を組んで抵抗を続けているが、それも時間の問題だった。敵は、巧みにこちらの体力を奪い、じっくりと包囲の輪を狭めてくる。それは、獲物が完全に弱るのを待つ、狼の狩りそのものだった。(終わった…) 彼の心の中で、何かが完全に折れた。武人としての誇りも、王家への忠誠も、この圧倒的な現実の前では、もはや色褪せた感傷に過ぎなかった。 その光景を、霧に隠れた丘の上から、ライナスは静かに見下ろしていた。 敵の指揮系統は乱れ、兵士の戦意は尽きた。戦いの趨勢は、完全に決している。このまま包囲を続ければ、やがて敵は自滅するだろう。それもまた、一つの勝利の形だった。 だが。「…ギデオン」 ライナスは、傍らで控える腹心を呼んだ。「はっ」「仕上げだ。この戦を、我らの完全な勝利として、歴史に刻むためのな」 ライナスの声は、それまでの冷静な指揮官のものとは異なっていた。そこには、戦というものの本質を、その血と肉で味わい尽くしてきた、猛将の熱が宿っていた。「閣下、しかし、これ以上は…」「分かっている。無益な殺生は不要だ。だが、獅子の喉元に、狼の牙を突き立て、その心臓を完全に止めてやらねば、この戦は終わらん」 彼はゆっくりと立ち上がった。その屈強な体躯から放たれる凄まじい圧が、周囲の空気を震わせる。「ベルガーという老将に、敬意を
last updateLast Updated : 2025-11-06
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第98話 崩壊

 天が白み始め、夜の闇が薄れていく。 だが、辺境の湿地に広がる光景は、夜の闇よりもなお深い絶望に染まっていた。朝霧が立ち込める中、かつて王国の威信を誇った討伐軍の軍旗は、無様に泥の中へと突き刺さっている。 それを合図にしたかのように、兵士たちの心は、完全に折れた。「もうだめだ…終わりだ…」 誰かが、力なく呟いた。その声は、乾いた風にかき消されそうなほど弱々しかったが、絶望という名の伝染病となって、瞬く間に陣営全体へと広がっていった。 一人、また一人と、兵士たちがその場に膝をつき、錆びついた剣や槍を、ぬかるんだ地面へと手放していく。カラン、という虚しい金属音が、戦場のあちこちで響いた。それは、彼らが武人としての誇りを、そして生きる意志さえも放棄した音だった。 もはや、敵の姿は見えない。だが、そのことが、かえって兵士たちの恐怖を増幅させていた。霧の向こう、森の闇の中、あの黒い狼たちが、自分たちが完全に弱りきるのを、静かに待っている。その見えざる視線が、背中に突き刺さるようで、誰もが身動き一つ取れずにいた。 飢えと、寒さと、そして圧倒的な恐怖。 それらは、人の心を内側から蝕む、最も強力な毒だった。ライナスという男と、その背後にいるであろう影の軍師は、その毒を完璧に使いこなし、一万の軍勢を、刃を交えることなく、ただの骸の集まりへと変えてしまったのだ。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、その地獄絵図の中心で、馬上から微動だにせずにいた。 彼の周囲を固めていたはずの親衛隊も、今やその数を半数以下に減らし、残った者たちも、ただ虚ろな目で遠くを見つめているだけだった。 終わった。 その事実が、老将の全身を、鉛のような重さで打ちのめしていた。 彼の長い武人としての人生で、これほどの完敗は、一度たりともなかった。敵の策略に、ここまで完璧にはめられたことは。 隘路への誘い込み、兵站の破壊、情報戦による内部崩壊、そして、この最後の決戦の地。その全てが、一つの巨大な、そしてあまりにも精緻な罠だった。自分は、その罠の上で、ただ無様に踊らされていただけなのだ。(ライナス&helli
last updateLast Updated : 2025-11-07
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第99話 敗将の末路

 夜明けの光は、勝者と敗者を等しく照らし出していた。 辺境の湿地帯に広がっていたのは、戦と呼ぶにはあまりにも一方的な、蹂躙の跡だった。泥濘には、持ち主を失った無数の武具が墓標のように突き刺さり、朝霧がそれらを優しく包み込んでいる。 武器を捨て、地に膝をついた数千の兵士たち。彼らはもはや王国の軍人ではなく、ただ飢えと寒さと恐怖に打ちのめされた、哀れな難民の群れでしかなかった。その虚ろな瞳には、昨夜までの悪夢の残滓が色濃く焼き付いている。 彼らを取り囲むように、しかし整然と立つ辺境軍の兵士たちの間には、勝利の歓声はもうなかった。主君ライナスの厳命の下、彼らは勝者としての驕りを見せることなく、ただ静かに、そして規律正しく、投降の受け入れ作業を進めていた。 負傷者には薬が与えられ、飢えた者には温かい粥が配られる。その光景は、戦場のそれというよりは、むしろ大規模な救護活動のようでもあった。投降した兵士たちは、最初は戸惑い、毒を警戒するように粥を口にしていたが、その温かさが凍えた体に染み渡るにつれ、堰を切ったように涙を流し始める者も少なくなかった。 彼らは、敵であるはずの辺境軍から、人間としての尊厳を取り戻させてもらっているのだ。その事実が、武力による敗北以上に、彼らの心を深く打ちのめしていた。 そんな戦場の喧騒から少し離れた小高い丘の上で、ライナスは静かにその光景を見下ろしていた。彼の隣には、腹心であるギデオンが控えている。「閣下。捕虜の武装解除、ほぼ完了いたしました。将校クラスは、現在、一箇所に集めております」「そうか」 ライナスは短く応じた。彼の金色の瞳は、眼下の光景ではなく、そのさらに向こう、王都のある方角を見据えているようだった。 この勝利は、終わりではない。始まりだ。 腐敗した中央貴族社会に、そしてその頂点に君臨するヴァインベルク公爵に、本当の戦いを挑むための、始まりの狼煙に過ぎない。「ベルガー元帥は、どうしている」「はっ。抵抗することなく、捕縛に応じております。現在は、丘の麓の天幕にて、閣下のお越しをお待ちです」「そうか」 ライナスは、再び短く応じると、丘をゆっくりと下り始めた
last updateLast Updated : 2025-11-08
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第100話 王都の激震

 王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 中央広場を行き交う貴婦人たちのドレスは陽光にきらめき、その手には異国から取り寄せられたばかりの扇子が握られている。彼女たちの話題は、今宵開かれる夜会や、新進気鋭の詩人が詠んだ恋の詩について。遥か遠い辺境で、王国の軍隊が泥と血にまみれた死闘を繰り広げていることなど、その優雅な日常には存在しない、取るに足らないゴシップの一つでしかなかった。 辺境伯ライナスという成り上がりの蛮族が、国王陛下に逆らうという愚行に及んだ。だが、我らが誇るベルガー元帥率いる討伐軍が、今頃はその首を刎ね、王都に凱旋してくるだろう。誰もがそう信じ、疑うことすらなかった。宰相であるヴァインベルク公爵が、そう断言していたのだから。 その、根拠のない楽観論が、木っ端微塵に砕け散ったのは、ある晴れた日の午後だった。 王都の城門に、一騎の騎馬が、まるで地獄から逃げ出してきたかのような姿で駆け込んできた。騎乗していたのは、王都を出立した討伐軍の斥候だった。男の鎧は砕け、その顔は恐怖と疲労で歪み、もはや正気の色を失っている。「報告! ご報告申し上げます!」 男は、衛兵の前で馬から転げ落ちると、かすれた声で叫んだ。「討伐軍が…ベルガー元帥閣下の軍が、辺境の地にて、壊滅いたしました…!」 その一言が、城門の空気を凍りつかせた。 壊滅? あの、王国最強と謳われた軍勢が? 衛兵たちは、最初、男が何を言っているのか理解できなかった。あるいは、辺境での戦の恐怖に、気が触れてしまったのだと。 だが、その報せは、瞬く間に王都を駆け巡った。火の粉が風に煽られるように、噂は尾ひれをつけ、人々の口から口へと伝わっていく。「聞いたか? 辺境の討伐軍が、全滅したらしいぞ」「馬鹿な! あのベルガー元帥が、負けるはずがない!」「いや、本当らしい。辺境の狼は、人の皮を被った悪魔だったそうだ…」 王都は、初めて、事態の異常さに気づき始めた。のどかな午後の陽光が、にわかに不吉な色を帯びていく。 その凶報は、当然、王城の中枢にも叩きつけられた。 宰相執務室
last updateLast Updated : 2025-11-09
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