All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 大義は我にあり

 夜明けの光は、血を洗い流したかのように白く、そして冷たかった。 作戦司令室の窓から差し込むその光が、机の上に広げられた一枚の羊皮紙を無慈悲なまでに照らし出す。ヴァインベルク公爵の売国という、おぞましい真実が記された密書。その存在は、部屋の空気を鉛のように重くし、ライナスとセレスティナの魂に静かにのしかかっていた。 昨夜、感情の奔流に身を任せて泣きじゃくったセレスティナの瞳に、もはや涙はなかった。極度の疲労で目の下には深い隈が刻まれていたが、そのすみれ色の瞳は、嵐が過ぎ去った後の湖面のように静まり返り、そして底知れないほどの覚悟の色を宿していた。 悲しみは、怒りへと変わった。そしてその怒りは今、この国を蝕む巨悪を断ち切るという、冷徹な使命感へと昇華されていた。 ライナスは、窓辺に立ったまま、夜明けの光に染まる町の景色を黙って見下ろしていた。彼の金色の瞳にもまた、個人的な憎悪を超えた、統治者としての静かで激しい怒りの炎が燃えている。彼は、ただの復讐者ではない。この辺境に生きる全ての民の命と未来を、その双肩に背負う王なのだ。「…ギデオンを呼べ」 やがて、ライナスは振り返ることなく、低い声で命じた。その声は、三日三晩続いた死闘の疲労でかすれていたが、絶対的な支配者の響きを失ってはいなかった。 ほどなくして、側近であるギデオンが、鉄狼団の主要な幹部数名を引き連れて入室した。彼らの顔には、この数日の城の異様な雰囲気と、主君たちの憔悴しきった様子への、隠しきれない懸念が浮かんでいる。「閣下、お呼びと伺い…」「うむ」 ライナスは、ゆっくりと彼らに向き直った。そして、机の上の密書を、無言で指し示す。「読め」 ギデオンたちは、戸惑いながらもその羊皮紙を覗き込んだ。そこに解読された文字が並んでいるのを認め、彼らは息を詰めてその内容を読み進めていく。 最初は、驚愕。やがて、それは戦慄へと変わり、そして最終的には、抑えきれない怒りとなって、武骨な男たちの顔を赤黒く染め上げた。「…こ、これは…」 ギデオンの声が、怒りに震えていた。「ヴァインベルクのあの外
last updateLast Updated : 2025-10-11
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第72話 セレスティナの戦準備 - 1

 王都から「討伐軍編成」という絶望的な報せが辺境の城にもたらされてから、数日が過ぎた。 城と町を覆っていたのは、もはや悲嘆や恐怖ではなかった。それは、来るべき戦いを前にした、静かで、そして熱を帯びた闘志だった。槌の音は防衛用の柵や櫓が組まれる音へと変わり、兵士たちの鬨の声は以前にも増して鋭く、空気を切り裂いた。誰もが、自分たちの未来を、そして敬愛する主君と聖女を、自らの手で守り抜く覚悟を決めていた。 その蜂の巣の中枢、かつて大会議室だった場所は、今や巨大な作戦司令室へと姿を変えていた。壁には辺境一帯の巨大な地図が何枚も掲げられ、テーブルの上には城の防衛計画を示す図面や、武具の在庫リストが山と積まれている。その全ての中心で、ライナスとセレスティナは、ほとんど不眠不休で指揮を執り続けていた。「…以上が、現在の兵糧の備蓄状況です」 側近のギデオンが、分厚い羊皮紙の束をテーブルに置き、報告を終えた。その顔には、連日の激務による疲労の色が濃く浮かんでいる。「民からの供出もあり、小麦と干し肉は、籠城戦となっても半年は持ちこたえられます。ですが、矢を作るための鉄と羽が、圧倒的に不足しています。これでは、本格的な戦闘が始まれば、ひと月ももたずに矢が尽きてしまいましょう」「鉄は、鉱山から急ぎ運ばせよう。だが、羽か…」 ライナスは、腕を組んで唸った。それは、彼の武力でも、セレスティナの知恵でも、すぐには解決できない物理的な問題だった。「近隣の村々に、鳥を狩るよう命じはしましたが、焼け石に水です。それに…」 ギデオンは、言いにくそうに言葉を続けた。「各部隊からの物資の要求が、錯綜しております。どこに、どれだけの物資が、いつ必要なのか。その全体像を、誰も正確に把握できていない。このままでは、いざという時に、本当に必要な場所に、必要なものが届かないという事態になりかねません」 その言葉は、この場にいる誰もが薄々感じていた、根本的な問題点を浮き彫りにした。 鉄狼団は、戦うことのプロフェッショナルだ。だが、その組織は、ライナスという絶対的なカリスマを中心とした、良くも悪くも小規模な傭兵団の延長線上にあっ
last updateLast Updated : 2025-10-12
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第73話 セレスティナの戦準備 - 2

 辺境の城は、巨大な生き物のように、静かに、しかし力強く呼吸をしていた。 数日前まで、その呼吸は不規則で浅かった。どこにどれだけの栄養、すなわち物資があるのかを正確に把握できず、ただ目前の脅威に場当たり的に備えることしかできなかったからだ。だが、今は違う。「軍師殿の命令だ! 第三倉庫に備蓄されている矢羽根のうち、三百を至急、西の砦へ!」「承知! 帳簿に記帳の上、すぐに輸送部隊を編成する!」 城の中庭で交わされる兵士たちの声には、以前のような混乱や焦りの色はなかった。セレスティナが構築した兵站管理システムは、まるで人体の神経網のように、城の隅々にまで張り巡らされていた。物資の流れは完全に可視化され、どこで何が不足し、どこに余剰があるのかが一目瞭然となった。そのおかげで、兵士たちは初めて、自分たちがどれだけの力を持っているのかを正確に知り、揺るぎない自信を持って決戦の準備に臨むことができていた。 その巨大な生き物の、頭脳と心臓。 軍師執務室で、セレスティナは一枚の巨大な羊皮紙の上に、静かにペンを走らせていた。 それは、辺境の地図ではなかった。彼女が描いていたのは、王国の中枢、王都に広がる、貴族たちの複雑怪奇な勢力図。まるで、巨大な蜘蛛の巣のようだった。 三日三晩にわたる棚卸しで、彼女は辺境の「体」を完璧に把握した。だが、それだけでは足りない。戦に勝つためには、敵の「体」をも、自らのもの以上に知る必要があった。 彼女は、机の上に広げた羊皮紙を、三つの区域に分けていた。 一つは、蜘蛛の巣の中心で、最も濃いインクで記された名前の群れ。彼らは、宰相ゲルハルト・ヴァインベルクに、金と、血と、そして恐怖によって繋がれた、絶対的な忠誠を誓う者たち。セレスティナのペンは、彼らの名を記すたびに、紙を抉るかのように力がこもった。 もう一つは、蜘蛛の巣の外縁で、薄いインクで記された名前たち。彼らは、ヴァインベルクの専横に、内心、強い不満を抱いている者たちだ。だが、その力は弱く、今はただ息を潜めているに過ぎない。 そして、最も広く、最も多くの名が記された、中間の領域。 日和見。風の吹くままに、強い側へと靡く者たち。彼らの心を、いか
last updateLast Updated : 2025-10-13
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第74話 セレスティナの戦準備 - 3

 城の地下大貯蔵庫は、ひんやりとした土の匂いと、整然と積み上げられた穀物の袋が放つ、かすかに甘い香りで満ちていた。数週間前まで、ここはただの埃っぽい地下室に過ぎなかった。だが今、松明の光に照らし出されたその空間は、辺境の生命線を支える巨大な心臓部へと生まれ変わっていた。 ライナスの側近であるギデオンは、その光景を前に、ただただ感嘆の息を漏らした。「…信じられんな。ひと月前まで、どこに何がどれだけあるのか、誰も正確には把握できていなかった。それが今では、この帳簿一冊で、小麦の一粒、矢羽根の一枚に至るまで、全てが分かる」 彼が手にしているのは、セレスティナが作成した新しい形式の管理台帳だった。そこには、物資の種類、数量、保管場所、そして入出庫の記録が、彼女の寸分違わぬ美しい文字で整然と記されている。無駄な備蓄はなく、不足している物資は一目瞭然。それはもはや魔法のようだった。「軍師殿は、おっしゃっていた。戦とは、前線だけで起こるものではない、と。俺たちの背中には、これだけの備えがある。この事実が、兵たちのどれほどの支えになることか」 ギデオンは、帳簿を胸に抱きしめるようにして、深く頷いた。彼の、そして鉄狼団の全ての兵士たちの心には、この聡明で気高い軍師への、絶対的な信頼が根付いていた。 その頃、セレスティナは軍師執務室で、最後の戦準備に取り掛かっていた。 物理的な城壁は、日に日に高く、そして強固になっていく。地下貯蔵庫には、民の協力もあって、命の糧が山と積まれた。だが、本当の城壁は、石や木でできたものではない。人の心だ。そして、敵の城を崩すのもまた、人の心だった。 彼女の目の前には、巨大な蜘蛛の巣にも似た、王都の貴族たちの勢力図が広げられている。この数週間、彼女は兵站の管理と並行して、ザイファルトが命がけで送り届けてくる断片的な情報を、自らの知識と照らし合わせ、この一枚の図へと集約させていた。 ヴァインベルクという毒蜘蛛が、巣の中心にいる。その糸に絡め取られた者、自ら巣作りに協力する者、そして、その巣の重みに、息を潜めて耐えている者。 セレスティナは、ペンを置くと、静かに目を閉じた。 脳裏に、無数の顔が浮かんでくる
last updateLast Updated : 2025-10-14
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第75話 ライナスの戦準備 - 1

 王都から「討伐軍編成」という絶望的な報せが辺境の城にもたらされてから、数日が過ぎた。 だが、城と町を覆っていたのは悲嘆や恐怖ではなかった。それは来るべき戦いを前にした、静かで熱を帯びた闘志だった。槌の音は防衛用の柵や櫓が組れる音へと変わり、兵士たちの鬨の声は以前にも増して鋭く空気を切り裂いた。誰もが自分たちの未来を、そして敬愛する主君と聖女を、自らの手で守り抜く覚悟を決めていた。 その蜂の巣の中枢、かつて大会議室だった場所は今や巨大な作戦司令室へと姿を変えていた。壁には辺境一帯の巨大な地図が何枚も掲げられ、テーブルの上には城の防衛計画を示す図面や武具の在庫リストが山と積まれている。その全ての中心でライナスとセレスティナは、ほとんど不眠不休で指揮を執り続けていた。 ライナスの前に、鉄狼団の主要な幹部たちが集結していた。その顔には、連日の激務による疲労の色が濃く浮かんでいるが、瞳の奥には主君と同じ、不屈の闘志が燃えている。「…以上が、王都から届いた最新の情報です」 諜報部隊を率いるザイファルトが、淡々とした口調で報告を終えた。その内容は、辺境の者たちにとって絶望的と言ってよかった。「討伐軍の総兵力は、やはり一万。先鋒は、グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる重装騎士団三千。後続に、各貴族領から集められた兵が七千。すでに王都を出立し、三日後には辺境の入り口である『嘆きの谷』に到達する見込みです」「一万、か」 側近のギデオンが、苦々しげにその数字を繰り返した。「対する我らが兵力は、鉄狼団の正規兵が千、そして各村から志願した民兵が千。合わせて、わずか二千。五倍の兵力差…まともにぶつかれば、半日ももたずに蹂躙されましょう」 その言葉に、部屋の空気が重く沈む。誰もが、その圧倒的な戦力差を前に、言葉を失っていた。正面からの野戦では勝ち目がない。それは、ここにいる誰もが嫌というほど理解している事実だった。 だが、その重い沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は、玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の
last updateLast Updated : 2025-10-15
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第76話 ライナスの戦準備 - 2

 作戦司令室の空気は、研ぎ澄まされた刃のように張り詰めていた。 ライナスが叩き台として提示した迎撃戦術の骨子は、幹部たちの心を掴むには十分すぎるほど大胆で、そして理にかなっていた。だが、それはあくまで骨格に過ぎない。その骨に血肉を与え、実際に戦場で機能する生きた戦術へと昇華させるための、壮絶な知恵の戦いが今、始まろうとしていた。「隘路と森。この二つが、我らの主戦場となる。異論はないな」 ライナスは、地図上の二点を指し示しながら、確認するように言った。幹部たちは、皆一様に力強く頷く。「ですが閣下」と、ギデオンが口を開いた。「敵も、隘路での敗北と、森での消耗戦を経験すれば、必ずや次なる手を考えてくるはずです。特に、後続の七千の兵を率いる将軍は、先のベルガー元帥とは違う、慎重で狡猾な男だと聞いております」「ああ。だからこそ、第三の罠を用意する」 ライナスの指が、地図の上を滑り、辺境を東西に分断するように流れる、一本の大河でぴたりと止まった。「竜哭川(りゅうこくがわ)。雪解けの時期には、その流れは激流と化し、屈強な兵士でさえ渡ることは叶わん。この川を渡るための、唯一の橋がここにある」 彼が指したのは、古くから交易の要所として使われてきた、石造りの頑丈な橋だった。「敵は、森での消耗を嫌い、必ずやこの橋を渡って、辺境の心臓部であるこの城へと、一気に攻め込んでこようとするだろう。そして、そここそが、奴らにとっての最後の墓場となる」「…橋を、落とすのですか」 ギデオンの言葉に、ライナスは静かに頷いた。「ただ落とすのではない。敵が、その半分を渡り終えた、まさにその瞬間にだ」 その、あまりに非情で、しかし効果的な作戦に、幹部たちは息を呑んだ。 敵軍を、川の中央で完全に分断する。渡り終えた前衛は、城壁の前で孤立させ、後続の部隊は、川の向こう側で、ただ味方が蹂躙されるのを見ていることしかできない。それは、敵の戦意を根底から砕く、心理的にも破壊的な一撃だった。「だが、あの石橋を、どうやって落とす。あれは、先の戦争の砲撃にも耐えた、堅牢な造りのはずだ」「力で壊せぬのなら、知恵で壊せばい
last updateLast Updated : 2025-10-16
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第77話 ライナスの戦準備 - 3

第77話 ライナスの戦準備 - 3 辺境の地に、奇妙な静寂が訪れていた。 あれほどまでに響き渡っていた槌の音は完全に鳴りやみ、代わりに城壁の上を巡回する兵士の足音と、武具がかすかに触れ合う金属音だけが、張り詰めた空気に吸い込まれていく。町では女子供の姿はほとんど見えず、家々の扉は固く閉ざされている。だがそれは絶望による沈黙ではなかった。来るべき戦いを前に、辺境の全てが息を殺し、一つの巨大な生き物のように、その神経を研ぎ澄ませているかのようだった。 全ての準備は、整った。 隘路には、崖の上が見えぬよう巧妙に偽装された落石と丸太が、その時を今や遅しと待ち構えている。森の中には、地の利を知り尽くした猟師たちによって、無数の罠が仕掛けられた。竜哭川の石橋の橋脚には、鉱山から運ばれた発破用の火薬が、防水の革袋に包まれて密かに設置されている。 辺境は、もはやただの土地ではない。ライナスの武勇と、セレスティナの知略によって作り上げられた、巨大で、そして完璧な罠そのものだった。 その罠の中心、作戦司令室に、鉄狼団の全幹部と、各村から選抜された民兵の代表者たちが、最後の軍議のために集結していた。 彼らの顔に、もはや不安や恐怖の色はなかった。あるのは、自分たちがこれから成し遂げるべきことへの、静かで、そして揺るぎない覚悟だけだった。 ライナスは、壁に掲げられた巨大な地図の前に立ち、集まった者たちを見回した。その金色の瞳は、炎のように燃えている。「全ての準備は整った」 彼の声は、静かだったが、部屋の隅々にまで響き渡るほどの重みと力を持っていた。「間もなく、中央軍の先鋒が『嘆きの谷』を抜けて、我らの庭へと足を踏み入れる。奴らは、我らを数で劣る、ただの蛮族の集まりだと侮っているだろう。その傲慢さこそが、奴らの最初の、そして最後の過ちとなる」 彼は、地図上の隘路、『蛇の腹』を、その大きな手で力強く叩いた。「我らの最初の牙は、ここだ。ギデオン、お前の部隊が、奴らの先鋒を完全に叩き潰せ。だが、決して深追いはするな。お前たちの役目は、あくまで敵の鼻先を砕き、その足を森へと向けさせることだ」「御意」 ギデオ
last updateLast Updated : 2025-10-17
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第78話 出陣前夜

 最後の軍議が終わり、作戦司令室からは兵士たちの熱気が潮のように引いていった。男たちは、それぞれの持ち場へと散っていく。その足音は、決戦を前にした興奮と、死地へ赴く覚悟がない交ぜになった、重く、そして力強い響きをしていた。 やがて、だだっ広い部屋には、ライナスとセレスティナの二人だけが残された。壁に掲げられた巨大な地図、山と積まれた帳簿、そしてテーブルの上に無数に置かれたロウソクの燃え殻。それら全てが、この数日間の死闘を物語っている。 嵐の前の、最後の静寂だった。 セレスティナは、椅子に深く腰掛けたまま、自分の指先を見つめていた。兵士たちに手渡したお守りの、素朴な布の感触がまだ残っているようだった。彼らの、自分に向けてくれた絶対的な信頼。その重みが、彼女の双肩にずしりとのしかかっていた。 自分は、その信頼に応えられるのだろうか。 これから始まるのは、自分が経験したことのない、本物の戦だ。人が死に、血が流れる、残酷な現実。自分の立てた策が、果たしてこの辺境を守り、そして何よりも、愛する彼を無事にこの場所へ帰すことができるのだろうか。 不安が、冷たい霧のように心の隅から立ち上り始める。 その時、ライナスが、音もなく彼女の隣の椅子に腰を下ろした。彼は、何も言わなかった。ただ、彼女と同じように、燃え尽きようとしているロウソクの炎を、静かに見つめている。 その、ただ隣にいてくれるという事実だけで、セレスティナの心にあった霧が、少しだけ晴れていくのを感じた。「…怖いか」 不意に、ライナスが呟いた。 セレスティナは、ゆっくりと首を横に振った。「いいえ。怖くは、ありませんわ。ただ…」 彼女は、言葉を探すように、少しだけ間を置いた。「ただ、あなたのいないこの城で、吉報を待つ時間の長さを思うと、胸が張り裂けそうになるだけです」 その、あまりに率直で、偽りのない言葉。 ライナスは、驚いたように彼女の顔を見つめた。その金色の瞳が、ロウソクの光を反射して、優しく揺れている。「…そうか」 彼は、短く応じると、ふっと、自嘲するように
last updateLast Updated : 2025-10-18
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第79話 覚悟の口づけ

 作戦司令室の空気は、燃え尽きる寸前のロウソクの炎だけが揺れる、深い静寂に包まれていた。 壁に掲げられた巨大な地図も、山と積まれた防衛計画の図面も、今はその意味を失っている。この部屋の全世界は、今、セレスティナの小さな両手の中にあった。 ずしり、とした重み。 黒曜石を削り出して作られた辺境伯の印章。そのひんやりとした感触が、彼女の熱を帯びた掌に、絶対的な現実として食い込んでくるようだった。 それは、ただの石ではなかった。 この辺境に生きる、数万の民の命。鉄狼団の兵士たちの、揺るぎない忠誠。そして、何よりも、目の前に立つ、不器用で、愛おしい男の、魂そのものの重み。 ライナスは、彼女の返事を待っていた。 彼は、自分という存在の全てを、差し出したのだ。その金色の瞳は、戦場で敵の大軍を前にしても決して揺らぐことのない、絶対的な王の瞳。だが、その奥の奥に、ほんのかすかな、答えを待つ男の不安が揺らめいているのを、セレスティナは見逃さなかった。 その、あまりに人間的な弱さの現れが、彼女の胸を、愛しさで締め付けた。 涙が、再び瞳の縁に熱く込み上げてくる。だが、彼女はそれを、決してこぼしはしなかった。 今、この男が自分に求めているのは、涙ではない。共に戦う、パートナーとしての覚悟だ。 彼女は、その重い印章を、まるで大切な宝物を抱きしめるように、そっと胸に当てた。どくん、と、自分の心臓の鼓動が、硬い石を通して指先に伝わってくる。「…確かに、お預かり、いたします」 彼女の声は、涙で濡れていた。だが、その響きには、どんな困難にも揺るがない、鋼のような強さが宿っていた。「あなたの、その魂。この私が、この命に代えましても、必ずやお守りいたします」 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。そして、彼の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。「ですから、あなたも。必ずや、ご無事で、私の元へお帰りください」 その、あまりに真っ直ぐな言葉と、すみれ色の瞳に宿る絶対的な信頼。 ライナスは、彼女のその気高い魂の輝きに、完全に心を奪われていた。 ああ、俺は、とんでもない女を見つけ
last updateLast Updated : 2025-10-19
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第80話 王都の讒言

 王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう洗練された笑い声。辺境で起きた血生臭い事件や、その背後で蠢く巨大な陰謀など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのようだった。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。 その巣の主は今、珍しくその完璧な平静を失っていた。「…と、いう次第でございます。シラー伯爵は、我々の再三の出兵要請にも、『領内の治安維持を優先する』との一点張りで、応じる気配を見せませぬ。それどころか、先日より、辺境との国境警備を名目に、兵を増強しているとの報せも…」 腹心の部下からの報告を聞きながら、ヴァインベルクは窓の外に広がる王都の景色に背を向け、黙って立っていた。その手には、高価な水晶の杯が握られている。「さらに、王都の商人ギルドの一部が、辺境との独自交易を模索する動きを見せております。『辺境伯ライナスは、公正な取引相手である』などという、馬鹿げた噂を信じ込んでいるようでして…」 シラー伯爵の離反。そして、経済界の動揺。 セレスティナという小娘が放った、見えざる矢。それは、ヴァインベルクが数十年かけて築き上げてきた、盤石のはずだった支配体制の、まさに心臓部へと、静かに、しかし確実に突き刺さっていた。 彼は、自分が放った刺客たちが、ことごとく失敗に終わったことよりも、この静かなる内部崩壊の方に、より大きな屈辱と、そして得体の知れない恐怖を感じていた。 あの女は、戦い方を知っている。 自分たち貴族が、何を最も恐れ、何を最も重んじるかを、骨の髄まで知り尽くしている。そして、その知識を武器に、最も痛い場所を、最も効果的なやり方で攻撃してくる。「…下がれ」 ヴァインベルクは、低い声で命じた。部下が、安堵とも恐怖ともつかない表情で一礼し、
last updateLast Updated : 2025-10-20
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