All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 111 - Chapter 120

120 Chapters

第111話 ただいま、私の英雄

 王都の喧騒が遠ざかっていく。 馬車の車輪が刻む規則正しいリズムが、セレスティナを現実へと引き戻していた。数日前まで、あれほど憎しみと策謀が渦巻く舞台の中心にいたことが嘘のようだ。 全ては終わった。 父の、そしてアルトマイヤー家の名誉は回復され、真の国賊ゲルハルト・ヴァインベルクは断罪された。長年、ただその一点だけを目指して張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたような感覚。胸にぽっかりと空いた穴を、虚脱感が満たしていく。 セレスティナは、ドレスの胸元にそっと触れた。そこには、ライナスから届いた手紙が、彼女の肌の温もりで温められている。 ――皆が、お前を待っている。 その武骨な文字を思い出すたび、心の空洞に小さな熾火が灯るのを感じた。復讐は終わったけれど、自分の人生は終わっていない。私には帰る場所がある。待っていてくれる人たちがいる。 その事実が、空っぽだったはずの心を、温かい何かで少しずつ満たしていく。 街道を進むにつれて、車窓の風景は目まぐるしくその表情を変えた。人の手で完璧に整えられた中央の田園風景が、次第に荒々しくも生命力に満ちた辺境のそれに取って代わられていく。ごつごつとした岩肌を見せる山々、どこまでも続く深い森。それは、セレスティナが初めてこの地へ送られてきた時に見た、絶望の色をしていた風景のはずだった。 だが、今の彼女の目には、その全てが懐かしく、そして愛おしいものに映っていた。厳しくも美しい、ありのままの自然。それは、不器用だが真っ直ぐな辺境の民の気質そのものであり、何より、あの人のようだと思った。「奥方様、もうすぐ関所です。ここを越えれば、我らの土地にございます」 向かいの席で微動だにせず控えていたギデオンが、硬い声で告げた。彼の横顔にも、故郷を前にした安堵の色が微かに浮かんでいる。「ええ。空気が変わったのが分かります」 セレスティナが微笑むと、ギデオンは少しだけ驚いたように目を見開いた。「…旦那様も、同じことを仰います。王都から戻られるたびに、『ようやく息ができる』と」「ふふ、あの人らしいですわね」 そんな他愛ない会話さえ、今の
last updateLast Updated : 2025-11-20
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第112話 星空の下のプロポーズ

 万雷の拍手と歓声は、いつまでも鳴り止むことがなかった。 ライナスの逞しい腕に抱かれ、その胸に顔を埋めたまま、セレスティナはしばらく動けずにいた。彼の体の温もり、力強い鼓動、そして自分を包む匂いの全てが、長い旅路の末にたどり着いた安息の地そのものだった。涙はいつしか止まっていたが、込み上げる万感の想いが、彼女の体を小さく震わせる。 ライナスは、彼女が落ち着くのを待って、そっとその体を離した。名残惜しさに震える肩を大きな手で支え、改めて彼女の顔を覗き込む。すみれ色の瞳は涙で潤み、頬は赤く染まっていたが、その輝きは王都へ発つ前よりも一層強く、深く澄んでいるように見えた。彼は満足げに口の端を上げると、民衆に向き直った。「皆、聞いてくれ!」 辺境伯の、腹の底から響くような声が轟くと、あれほど鳴り響いていた歓声がぴたりと止む。「セレスティナは、アルトマイヤー家の名誉を回復し、そして我らの正義を王都に示してくれた。だが、見ての通り、長い旅で疲れている。今宵はゆっくりと休ませてやりたい。祝いの宴は、日を改めて開こう。今夜は皆、家族の元へ帰り、この勝利を静かに噛みしめてくれ」 その言葉は、有無を言わせぬ覇気と、民を労わる温かさを同時に含んでいた。民衆は「おお!」と力強い同意の声を上げると、名残惜しそうに二人を見つめながらも、素直にその場を解散し始めた。彼らは、自分たちの主君が、何よりもその伴侶を大切に思っていることを理解していた。その事実が、彼らにとってはどんな盛大な宴よりも喜ばしいことだった。 ライナスは、人々の波が引いていくのを見届けると、セレスティナに向かってそっと手を差し出した。「帰るぞ、俺たちの城へ」 その、ごく自然に発せられた「俺たちの」という言葉が、セレスティナの心を甘く痺れさせる。彼女はこくりと頷くと、その傷だらけで無骨な、けれど世界で一番頼もしい手を、自らの両手で包むように握った。 二人が並んで城門をくぐると、そこには城の主立った者たちが勢揃いして、彼らの帰りを待ち構えていた。 侍女頭のマルタ、副長のギデオンに代わって城の守りを預かっていた鉄狼団の幹部たち、そして、厨房や厩舎で働く者たちまで。彼らは民衆のように熱狂的な声
last updateLast Updated : 2025-11-21
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第113話 ライナス・アルトマイヤー

 時が、止まっていた。 星々の瞬きも、夜風の囁きも、遠い世界の出来事のように感じられる。セレスティナの世界には、ただ目の前で片膝をつき、自分を見上げる一人の男の姿だけがあった。 彼の金色の瞳が、揺らぐことのない絶対的な覚悟を宿して、自分だけを映している。 差し出された、大きく、節くれだった手。それは、幾多の戦場を駆け抜け、この辺境をその腕一つで守り抜いてきた、英雄の手。そして、泥の中にいた自分を掬い上げ、温もりを与え、生きる意味を教えてくれた、世界で一番優しい手。「俺の妻として、これからの人生を、この辺境の未来を、共に歩んでほしい」 彼の言葉が、鼓膜ではなく、魂に直接響き渡る。 セレスティナの脳裏に、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡った。 父と母に愛され、幸福の絶頂にいた日々。ヴァインベルクの陰謀によって全てを奪われ、絶望の淵をさまよった暗黒の記憶。裏切りの口づけ、泥中の白百合と嘲られた牢獄、そして、感情を殺して生き延びた、灰色の辺境の町。 もう二度と、心から笑うことも、誰かを愛することもないのだと思っていた。凍てついた大地のように、固く閉ざされた心。 その氷を、溶かしてくれたのが、この人だった。 圧倒的な力で理不尽を打ち砕き、不器用な優しさで人間らしい生活を取り戻させてくれた。自分の知識を信じ、それを戦うための武器だと言ってくれた。守られるだけの弱い存在ではなく、隣に立つパートナーだと、そう言ってくれた。 この人と出会ってから、自分の世界は再び色を取り戻した。いいえ、以前よりもっと鮮やかで、力強い色彩を放ち始めたのだ。 復讐の炎が、いつしか民を守るための灯火に変わっていたように。憎しみの旋律が、いつしか愛の協奏曲へと変わっていったように。その中心には、いつもこの人がいた。 ああ、そうか。 私の長かった復讐の旅は、失われたものを取り戻すためのものではなかったのかもしれない。 この人の手に、この魂にたどり着くための、運命が定めた道筋だったのだ。 そう悟った瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、悲しみでも喜びでもない、もっと根源的な、魂が震えるような感
last updateLast Updated : 2025-11-22
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第114話 辺境の婚礼

 星降る夜の誓いから一夜が明けた。 辺境の朝は、いつもと変わらぬ澄んだ空気と、鳥のさえずりと共に訪れた。だが、城を満たす空気は、昨日までとは明らかに違っていた。それは、まるで長い冬の終わりを告げる春の陽光のような、弾むような喜びに満ちていた。 侍女たちは、いつもより上機嫌な鼻歌交じりに廊下を磨き、兵士たちは、すれ違いざまに無言で肩を叩き合い、子供のように笑みを交わしている。誰もが知っていた。昨夜、この城で最も高い場所で、自分たちの主君と聖女が、永遠の愛を誓い合ったことを。 その日の昼前、城の広場に辺境の民が集められた。 何事かと訝しむ人々の前に、辺境伯ライナスと、その隣に寄り添うセレスティナが姿を現す。二人が並び立つ姿は、猛々しい黒狼と気高き白百合が寄り添う紋章画のように、完璧な調和を見せていた。 ライナスは、集まった民衆をぐるりと見渡し、腹の底から響くような声で、簡潔に、しかし力強く宣言した。「皆に報告がある。俺は、セレスティナを妻として迎えることにした」 一瞬の静寂。 次の瞬間、大地が揺らぐような大歓声が沸き起こった。人々は帽子を空に投げ、抱き合い、まるで自分たちのことのようにその吉報を喜んだ。鉄狼団の兵士たちに至っては、雄叫びを上げて拳を突き上げている。 ライナスは、その熱狂を片手で制すると、さらに言葉を続けた。その声には、先ほどよりも一層厳粛な響きが込められていた。「そして、もう一つ。俺は、セレスティナが命懸けで守り抜いた、アルトマイヤー公爵家の名誉と正義に敬意を表し、その名跡を継ぐことを決めた。これより俺は、ライナス・アルトマイヤーと名乗る」 今度は、歓声は上がらなかった。民衆は、ただ息を呑んでその言葉の意味を噛みしめていた。平民から成り上がった自分たちの主君が、由緒ある公爵家の名を継ぐ。それは、単なる結婚の報告ではなかった。血筋や家格といった古い価値観を打ち破り、実力と功績、そして愛によって新しい時代を築くのだという、これは王国の歴史に対する、高らかな宣戦布告だった。 やがて、一人の老婆が、震える声でその新しい名を口にした。「ライナス・アルトマイヤー様…」 その声が
last updateLast Updated : 2025-11-23
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第115話 初夜

 夜空を彩っていた祝祭の篝火が、一つ、また一つと静かに消えていく。 あれほど賑やかだった城の広場も、今はもう祭りの後の心地よい静けさに包まれていた。名残惜しそうに帰っていく最後の民を見送り、ライナスとセレスティナは、あの夜誓いを交わした見張り台を後にした。 宴の熱気と喧騒が嘘のように静まり返った城の中を、二人は侍女頭のマルタに導かれて歩いていく。磨き上げられた石の床に、三人の足音だけが規則正しく響いていた。壁に灯された松明の炎が、影を長く揺らめかせる。 セレスティナは、隣を歩くライナスの大きな手を、知らず識らずのうちに強く握りしめていた。ライナスもまた、その小さな震えに気づいているのか、黙って力強く握り返してくれる。その温もりが、高鳴る心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。 今日一日は、まるで疾風怒濤のようだった。 湖畔での誓いの儀、民衆からの万雷の祝福、そして身分の隔てなく酌み交わした祝宴の酒。その一つ一つが、セレスティナの胸に温かい光となって降り積もっている。かつて王都で経験した、虚飾と政略に満ちた夜会とは全く違う、魂が震えるような本物の喜びに満ちた一日だった。 だが、この長い一日の終わりには、まだ最後の、そして最も大切な儀式が残されている。 復讐でもなく、政略でもない。ただ、愛し合う男と女として、心も体も、完全に一つになる夜。 そう思うだけで、顔に熱が集まるのを感じた。嬉しい。心の底から、この日を迎えられたことが嬉しいのだ。けれど同時に、未知への不安と恥じらいが、彼女の足をほんの少しだけ重くしていた。 やがてマルタは、城の最上階に近い、最も静かな一室の前で足を止めた。重厚な樫の木で作られた扉は、この日のために新しく誂えられたものだろう。「旦那様、奥方様。こちらがお部屋でございます」 マルタは、いつもと変わらぬ厳格な表情で言ったが、その声には隠しきれない温かみが滲んでいた。彼女は、扉の横に控えていた若い侍女たちに目配せすると、セレスティナに向き直り、深く、深く頭を下げた。「…奥方様。どうか、末永く、お幸せに。我ら一同、心よりお祈り申し上げております」 その言葉は、主従の関係を超えた、ま
last updateLast Updated : 2025-11-24
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第116話 豊穣の大地

 湖畔の樫の木の下で永遠の愛を誓い合ってから、五年という歳月が流れた。  辺境の地は、まるで長い眠りから覚めたかのように、その姿を劇的に変えていた。  かつて、中央から見捨てられた罪人たちの流刑地であり、灰色の絶望が支配していた町は、もうどこにもない。街道は整備され、石畳の道には活気ある人々の声と、荷馬車の車輪の音が陽気に響いている。家々の壁は白く塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。町の中心を流れる川には、頑丈で美しい石橋が架けられ、子供たちの笑い声が水面に弾ける。  それは、ただ町並みが綺麗になったというだけの変化ではなかった。人々の顔つきそのものが、変わったのだ。誰もがその背筋を伸ばし、自分の仕事に誇りを持ち、明日という日を信じて生きている。その瞳には、かつての諦観の色はなく、自分たちの手で未来を築くのだという、力強い光が宿っていた。  この奇跡のような変化をもたらしたのが、彼らが心から敬愛する辺境伯夫妻、ライナス・アルトマイヤーとセレスティナ・アルトマイヤーであることは、この地に住まう者ならば誰もが知っていた。 その日の午後、セレスティナは簡素な作りの馬車に揺られ、領内の視察に出かけていた。  五年という月日は、彼女にも穏やかな変化をもたらしていた。かつての儚げな少女の面影は薄れ、今は辺境の女主人としての落ち着きと、慈愛に満ちた柔らかな風格が備わっている。銀糸の髪は、今は実務的な三つ編みにまとめられていることが多かったが、その気高さは少しも損なわれてはいない。  最初に訪れたのは、町の東地区に建てられた、領内最大規模の診療所だった。 「奥方様、ようこそお越しくださいました」  白衣をまとった初老の医師が、深々と頭を下げて彼女を迎えた。彼は、セレスティナの呼びかけに応じて、王都からこの辺境の地へやってきた、数少ない良心的な知識人の一人だった。 「変わりはありませんか、先生」 「はい。おかげさまで、皆、健やかに過ごしております。これもひとえに、奥方様がこの地に衛生という概念と、薬草学の知識を広めてくださったおかげです」  診療所の中は、清潔な木の匂いと、薬草を煎じる穏やかな香りで満ちていた。かつて、
last updateLast Updated : 2025-11-25
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第117話 王国の礎

 辺境の朝は、いつも変わらぬ静けさと共に訪れる。 城壁の向こうに広がる山脈の稜線が、暁の淡い光を浴びて紫水晶のように輝き始める頃、ライナス・アルトマイヤーはすでに馬上の人となっていた。彼の愛馬である漆黒の軍馬は、主の意を汲んでか、土を踏む蹄の音も静かだ。 冷たく澄んだ空気が肺を満たす。この感覚こそが、彼に生きていることを実感させた。 セレスティナと結ばれて五年。辺境は劇的な変化を遂げた。かつて絶望の色に染まっていた大地は、今や王国で最も豊かな土地の一つとして知られている。その変革の中心にいたのは、間違いなくこの二人だった。ライナスの揺るぎない統率力と、セレスティナの深い知識と慈愛。二つの力が完璧に融合した時、奇跡は必然としてこの地に起きたのだ。 日の出前の薄闇の中、ライナスは馬を駆り、広大な麦畑を見下ろす丘の上で足を止めた。眼下に広がるのは、収穫を間近に控えた黄金色の海。風が渡るたびに、さざ波のように穂が揺れる。五年前には、痩せた土地と荒れ果てた村々が広がっていた場所だ。「…見事なものだ」 誰に言うともなく、ライナスは呟いた。その金色の瞳には、戦場で敵を射抜く鋭さとは違う、穏やかで深い満足の色が浮かんでいる。 背後から、もう一頭の馬が静かに近づいてきた。鉄狼団の副長であり、今や辺境の内政を実質的に取り仕切るギデオンだ。「旦那様。そろそろお戻りになりませんと、奥方様がご心配なさいます」「ああ、分かっている」 ライナスは頷き、手綱を返した。彼が辺境の狼と呼ばれた男から、一人の夫、そして父へと変わったことを、ギデオンは誰よりも強く感じていた。 城へ戻ると、セレスティナが玄関ホールで彼を迎えた。彼女はもう、華奢なだけの令嬢ではない。辺境の女主としての気品と落ち着きが、その全身から滲み出ている。「おかえりなさい、あなた。今朝も早かったのですね」「ああ。畑の様子を見てきた。今年の収穫は期待できそうだ」 ライナスは馬から降りると、ごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼らの間では、もう日常となった光景だ。「それより、王都からの急使が参着しております。旦那
last updateLast Updated : 2025-11-26
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第118話 陽だまりの家族

 王都での激務を終え、辺境に戻ってから、さらに三年という歳月が流れた。 ライナス・アルトマイヤーの名は、今や王国全土に轟いている。若き国王の最も信頼篤い臣下として国政の中枢に関わりながら、彼は決して辺境の主であることを忘れなかった。王都での改革が軌道に乗ると、その後の実務は信頼できる者たちに任せ、自身は愛する妻と民が待つこの土地へと帰還した。 彼の不在中も、辺境はセレスティナとギデオンによって見事に治められ、その豊かさは留まるところを知らなかった。王国に新しい秩序が生まれ、辺境がその礎として確固たる地位を築いた今、かつてのような戦乱の日は遠い昔の物語のように感じられた。 そして、その穏やかな日々の中に、新しい光が一つ、灯っていた。 その日の午後、城の書庫は静かな陽光で満たされていた。 セレスティナは、大きな机に領内の村から届いた陳情書の束を広げ、一本一本丁寧に目を通していた。その横顔は、母親となったことで、かつての凛とした美しさに、さらに深い慈愛と柔和さが加わっている。 ふと、ペンを置いた彼女は、窓の外へと視線を向けた。書庫の窓からは、手入れの行き届いた中庭が一望できる。初夏の風が木々の葉を揺らし、色とりどりの花が陽光を浴びて咲き誇っていた。 その、絵画のように美しい庭の一角に、彼女の愛する二人の姿があった。 夫であるライナスと、彼らの息子。 セレスティナは、思わず笑みを浮かべた。その光景は、彼女がこの世で最も尊いと感じる、陽だまりのような時間の結晶だった。 中庭の芝生の上で、ライナスは屈強な体を小さくかがめ、目の前に立つ小さな男の子と向き合っていた。 男の子の名は、リアム・アルトマイヤー。 今年で四つになる、辺境伯夫妻の待望の長子だ。父親譲りの癖のない黒髪と、母親から受け継いだ澄んだすみれ色の瞳を持っている。その小さな手には、彼のために作られた短い木剣が、少し頼りなげに握られていた。「リアム。剣はそうやって振り回すものではない」 ライナスの声は、軍を指揮する時と同じように低く、厳しい。だが、その声色には、隠しようもない愛情が滲んでいた。「足を開け。腰を落とす。そうだ、もっと
last updateLast Updated : 2025-11-27
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第119話 私たちの協奏曲

 辺境の地に、収穫を祝う季節が巡ってきた。 黄金色に実った麦は刈り取られ、ずっしりと重い果実は籠に満ち、人々の一年の労苦が豊かな恵みとなって結実する。この時期、辺境全土は一年で最も陽気な祝祭の空気に包まれた。 城下町の広場には、巨大な焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは老いも若きも関係なく、手を取り合ってダンスの輪が広がっている。楽師たちが奏でる笛や太鼓の軽快なリズム、香ばしい肉の焼ける匂い、そして何よりも、人々の屈託のない笑い声。その全てが混じり合い、生命力に満ちた一つの大きな音楽となって、秋空へと響き渡っていた。 ライナスとセレスティナ、そして息子のリアムもまた、その祝祭の輪の中にいた。 辺境伯夫妻は、もはや民衆にとって遠い存在ではない。ライナスは、鉄狼団の古参兵たちと豪快にエールを酌み交わし、セレスティナは、村の女たちが持ち寄った焼き菓子を「美味しい」と微笑みながら頬張る。「奥方様! このパイは、うちの畑で採れたカボチャなんですよ!」「まあ、素晴らしい。甘くて、太陽の味がしますわね」 そんな気さくなやり取りが、ごく自然に交わされる。 リアムは今年で五つになった。父親譲りの運動神経で、同じ年頃の子供たちと広場を駆け回り、頰をリンゴのように赤く染めている。時折、母親の元へ駆け寄っては、得意げに戦利品の木の実を見せに来た。 その光景は、数年前には誰も想像できなかった、平和そのものの縮図だった。この豊かさと笑顔こそが、ライナスとセレスティナが長い戦いの果てに手に入れた、何よりも尊い宝物だった。 やがて、太陽が西の山脈へと傾き始め、空が燃えるような茜色に染まる頃、祭りの喧騒も少しずつ穏やかになっていった。 ライナスは、人々の輪から少し離れた場所で、妻と息子の姿を静かに見つめていた。その金色の瞳は、いつになく穏やかで、深い思索の色を湛えている。 彼は、セレスティナの元へ歩み寄ると、その耳元で静かに囁いた。「セレスティナ。少し、付き合ってくれないか」「あなた? どこかへ?」「ああ。リアムも一緒に。とっておきの場所がある」 その悪戯っぽい笑みに、セレスティナはすぐに察しがつ
last updateLast Updated : 2025-11-28
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第120話 辺境の狼は、愛する白百合を永遠に

 春。 辺境の地に、生命が芽吹く季節が訪れた。 長く厳しい冬を乗り越えた大地は、雪解け水で潤い、柔らかな陽光を浴びて一斉に緑の衣をまとう。城壁の向こうに連なる山々の頂にはまだ残雪の白が見えるが、麓の森では鳥たちが愛の歌を競い合い、麓の村々では新しい命の誕生を祝う声が響いていた。 十数年前、この地が中央から見捨てられた絶望の流刑地だったことなど、もはや若い世代の者たちは知らない。彼らにとって辺境とは、王国で最も豊かで、平和で、そして希望に満ちた故郷だった。 その春たけなわのある日、ライナス・アルトマイヤーの一家は、城の南に広がる広大な植物園を散策していた。 ここは、かつてセレスティナが、生きるために、そして人々を救うために、たった一人で始めた小さな薬草園だった場所だ。今では、彼女の知識と領民たちの愛情によって、王都の王立庭園さえも凌ぐほどの、見事な植物の楽園へと姿を変えていた。薬効のあるハーブの区画、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、そして遠い国から取り寄せた珍しい果樹が並ぶ果樹園。その全てが完璧に手入れされ、領民たちの憩いの場として、広く開放されている。「お母様、見て! このお花、すみれ色だわ!」 小さな手が、足元に健気に咲く一輪のパンジーを指さした。 その声の主は、エレナ・アルトマイヤー。今年で三つになる、ライナスとセレスティナの長女だ。父親譲りの黒髪は、光に当たると母親の銀髪のようにきらきらと輝き、大きな瞳の色は、父親の金色と母親のすみれ色が混じり合ったような、不思議なヘーゼル色をしていた。 セレスティナは、娘の前に優しく屈み込むと、その柔らかな髪を撫でた。「本当ね、エレナ。とても綺麗。あなたのお兄様が生まれた年に、お母様が初めて植えたお花よ」「へええ」 エレナは、感心したようにその小さな花をじっと見つめている。 少し先では、ライナスと長男のリアムが、何やら真剣な顔で話し込んでいた。 リアムは、今年で八つになった。背はぐんと伸び、顔つきも幼さが抜けて、少年らしい精悍さが備わり始めている。その姿は、若い頃のライナスを彷彿とさせたが、時折見せる思慮深い表情は、母親から受け継いだものだった。
last updateLast Updated : 2025-11-29
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