All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 61 - Chapter 70

95 Chapters

第61話 辺境の聖女

 城の医務室は、薬草を煎じる匂いと、人の発する熱気で満ちていた。 ライナスとセレスティナが、命がけの遠征から幻の薬草『月光草』を持ち帰ってから、丸一日が過ぎようとしていた。その間、セレスティナは一睡もせず、この小さな部屋に籠りきりだった。彼女のすみれ色の瞳は極度の集中で爛々と輝き、その白い指先は休むことなく薬草を刻み、乳鉢ですり潰し、そして慎重な手つきで他の薬草と調合していく。 彼女の周りでは、城の医務班や侍女のマルタ、そして町の薬師までが、固唾を飲んでその作業を見守っていた。誰もが、彼女のその鬼気迫るほどの気迫に圧倒され、声をかけることさえできない。彼女が今行っている作業が、この辺境に生きる数千の民の命運を握っていることを、誰もが理解していたからだ。「水銀の含有量が多すぎる。このままでは毒性が強すぎるわ。濾過布をもう一枚重ねて、三度、蒸留を繰り返して」「こちらのヂキタリスは、量を百分の一まで減らして。心臓への負荷が大きすぎる」 セレスティナの口から発せられる指示は、淀みなく、そして絶対的な確信に満ちていた。その知識は、もはやただの貴族令嬢の教養などという生易しいものではない。長年の研究と、膨大な文献の読解によって培われた、専門家そのものの領域にあった。 ライナスは、部屋の入り口に壁のように立ち、腕を組んでその光景をただ黙って見つめていた。彼の顔には、遠征の疲労の色が濃く刻まれている。だが、それ以上に、目の前の女性に対する畏敬と、そしてどうしようもないほどの焦燥感が渦巻いていた。 彼女は、限界を超えている。 ただでさえ、何日も眠らずに病の原因を突き止め、そしてあの過酷な山行を乗り越えてきたのだ。その細い体のどこに、これほどの力が残っているというのか。今にも、その糸がぷつりと切れて、倒れてしまうのではないか。 だが、彼は何も言えなかった。 今、彼女を止めることは、民を見殺しにすることと同義だった。そして何より、彼女自身の、人々を救いたいという気高い魂を、踏みにじる行為に他ならなかった。彼にできるのは、ただ彼女を信じ、そして彼女が倒れた時には、何をおいてもその身を受け止める覚悟を決めることだけだった。 作業は、夜を徹して続
last updateLast Updated : 2025-10-01
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第62話 報復の狼煙 -1

 疫病の嵐が過ぎ去った辺境の地には、脆く、そしてかけがえのない平穏が戻っていた。死の恐怖から解放された人々は、まるで初めて陽の光を浴びたかのように、その日常の尊さを噛み締めている。市場には再び活気が戻り、子供たちの笑い声が灰色の町に色を添える。その全ての中心には、今や民衆の絶対的な信頼を勝ち得た、辺境伯ライナスと「聖女」セレスティナの姿があった。 だが、その穏やかな光の裏側で、次なる戦いの準備は静かに、そして着実に進められていた。 その日の朝、ライナスの執務室は、夜明けの冷気と、男たちの静かな闘気で満ちていた。「…以上が、捕らえた暗殺者カスパールの証言の全てです」 側近のギデオンが、数枚の羊皮紙をテーブルに置き、報告を終えた。そこには、ヴァインベルク公爵が疫病テロを指示した動かぬ証拠と、その実行に協力した者たちの名が、克明に記されていた。 ライナスは、腕を組んだまま、壁に掲げられた巨大な地図を睨みつけていた。その金色の瞳は、獲物の首筋に狙いを定める狼のように、冷徹な光を宿している。「地方貴族、ヴィクトル・フォン・ヘスラー男爵か。己の領民を、主君への忠誠と引き換えに、平然と毒牙にかけたか。腐りきっているな」 ヘスラー男爵領は、辺境の北東部に位置する、小さな領地だった。疫病が最初に発生したミルバッハ村は、まさにその目と鼻の先。彼がヴァインベルクの手先として、毒の散布を手引きしたことは、もはや疑いようもなかった。 隣に立つセレスティナは、その名を聞いて、書庫の記憶を探っていた。「ヘスラー家…確か、三代前まではヴァインベルク公爵家と婚姻関係にありましたが、現在は疎遠のはず。おそらくは、先の戦争で領地が疲弊し、その弱みに付け込まれたのでしょう。ヴァインベルクは、金と、中央での地位をちらつかせ、彼を言いなりにしたのですわ」 その分析は、淀みなく、そして的確だった。彼女の頭脳は、もはや単なる知識の宝庫ではない。敵の心理と、貴族社会の力学を読み解く、鋭利な刃と化していた。「閣下、いかがいたしますか」とギデオンが問う。「この証言書を王都へ送り、国王陛下に直接、彼の罪を問い質しますか」「無駄だ」
last updateLast Updated : 2025-10-02
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第63話 報復の狼煙 -2

 ヘスラー男爵の断罪から数日が過ぎた。 辺境の町は、まるで熱病から回復した病人のように、ゆっくりとその日常を取り戻し始めていた。広場で晒された男爵の無様な姿と、彼が犯した罪の詳細は、人々の間に衝撃と、そして奇妙な安堵をもたらした。自分たちを苦しめていた疫病が、天災ではなく人災であったという事実。そして、その悪を断ち切る、絶対的な力を持つ統治者がいるという現実。それは恐怖であったが、同時に先の見えない不安よりは遥かにましな、確かな道標だった。 没収されたヘスラーの財産は、セレスティナの厳格な監督のもと、迅速かつ公正に分配された。疫病で家族を失った者には手厚い見舞金が、生活の糧を失った者には再建のための資金が、滞りなく届けられていく。そのあまりに誠実な統治は、民衆のライナスへの信頼を、もはや揺るぎないものに変えつつあった。 だが、その穏やかな町の空気とは裏腹に、城の執務室の空気は、来るべき嵐を前にした海のように、静まり返っていた。「…以上が、ヘスラー領から接収した資産の目録です」 セレスティナは、分厚い羊皮紙の束をライナスの机に置き、報告を終えた。その顔に疲労の色は濃いが、すみれ色の瞳は、次の戦いを見据える軍師のそれとして、冷徹な光を宿している。「予想以上の額ですわ。あの男は、民から搾り取った血税で、ずいぶんと贅沢をしていたようです」「ふん。その汚れた金が、今や俺たちの血肉となる。皮肉なものだ」 ライナスは、彼女が作成した完璧な帳簿に目を通しながら、低い声で言った。 彼の隣では、ギデオンが厳しい表情で地図を睨みつけている。「閣下。ヘスラーの一件は、間違いなく王都のヴァインベルクの耳に入りましょう。今頃、あの老獪な狐は、次なる手を考えているはずです」「ああ」とライナスは頷いた。「次は、もっと直接的で、もっと大規模なものになるだろう。もはや、暗殺者や疫病のような、小細工では来るまい」「…討伐軍、ですな」 ギデオンの言葉に、部屋の空気がさらに重くなる。 ヘスラー男爵の断罪は、辺境の法に則った正当な裁きだ。だが、王都の貴族社会では、そうは受け取られないだろう。彼らにとってそれ
last updateLast Updated : 2025-10-03
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第64話 報復の狼煙 -3

 辺境の地に、槌の音が響いていた。 それは、破壊の音ではない。未来を築くための、力強い創造の音だった。 ライナスの号令一下、辺境全土で始まった防衛網の強化は、驚異的な速さで進んでいた。「狼の道」の要所には見張り塔が次々と建てられ、城下には巨大な地下貯蔵庫の建設が始まっていた。鉄狼団の兵士たちの指導のもと、民衆もまた、自らの家と未来を守るために、喜んでその労働に参加した。男たちは鍬を振るい、女たちは炊き出しでその労をねぎらう。そこには、かつてこの地を覆っていた無気力と絶望の影は、もはやどこにもなかった。 その全ての中心で指揮を執っていたのは、セレスティナだった。 彼女は、もはや書庫に籠るだけの軍師ではなかった。自ら現場に足を運び、兵士たちに混じって図面を広げ、民の声に耳を傾ける。その姿は、日に日に統治者としての気品と威厳を増していた。ライナスがこの辺境の「力」の象徴であるならば、彼女はまさしく「知恵」と「慈愛」の象徴だった。二つの太陽に導かれ、辺境は一つの共同体として、かつてないほどの結束を遂げようとしていた。 だが、その穏やかで充実した日々は、一本の矢によって、唐突に終わりを告げた。 王都へ放たれた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。 男は、馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す、蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 報告は、ライナスの執務室にもたらされた。 セレスティナとギデオンが、息を詰めてその言葉を待つ。「…ザイファルトは、任務を遂行いたしました」 伝令の兵士は、かろうじて声を絞り出した。「軍師殿が作成なされた証拠の写しは、リストにあった全ての貴族家と商人ギルドの長へ、確かに届けられた、と。ですが…」 男は、そこで一度、苦しげに咳き込んだ。「ヴァインベルク公爵の反撃は、我々の想像を遥かに超えて、迅速かつ、卑劣でありました」 ザイファルトが王都で見たものは、すでにヴァインベルクによって完全に情報操作された、異様な光景だった。
last updateLast Updated : 2025-10-04
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第65話 決戦の予兆

 疫病テロの元凶であったヘスラー男爵の断罪からひと月。辺境は、まるで長い冬眠から目覚めたかのように、静かだが確かな活気に満ちていた。ライナスの号令一下、辺境全土で始まった防衛網の強化は、驚異的な速さで進んでいた。「狼の道」の要所には見張り塔が次々と建てられ、城下には巨大な地下貯蔵庫の建設が始まっている。鉄狼団の兵士たちの指導のもと、民衆もまた、自らの家と未来を守るために、喜んでその労働に参加した。男たちは鍬を振るい、女たちは炊き出しでその労をねぎらう。そこには、かつてこの地を覆っていた無気力と絶望の影は、もはやどこにもなかった。 その全ての中心で指揮を執っていたのは、セレスティナだった。 彼女は、もはや書庫に籠るだけの軍師ではなかった。自ら現場に足を運び、兵士たちに混じって図面を広げ、民の声に耳を傾ける。その姿は、日に日に統治者としての気品と威厳を増していた。ライナスがこの辺境の「力」の象徴であるならば、彼女はまさしく「知恵」と「慈愛」の象徴だった。二つの太陽に導かれ、辺境は一つの共同体として、かつてないほどの結束を遂げようとしていた。 穏やかな日々。だが、その穏やかさこそが、嵐の前の不気味な静けさであることを、城の中枢にいる者たちは理解していた。報復の狼煙は、確かに上がった。その煙は、遠く王都にいる宿敵の目に、必ずや届いているはずだった。 王都は、爛熟の極みにあった。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう、洗練された笑い声。辺境で起きた血生臭い事件など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのように見えた。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く、巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。「…と、いう次第でございます。辺境伯ライナスは、あろうことか、王国法を無視し、ヘスラー男爵様を不当に断罪。その領地と財産を、己がものといたしました。もはや、単なる辺境の統治者ではありませぬ。王権を脅かす、明白なる反逆者にございます」
last updateLast Updated : 2025-10-05
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第66話 奇妙な置き土産

 辺境の城は、巨大な蜂の巣と化していた。 王都から「討伐軍編成」という絶望的な報せが届いてから数日。城と町を覆っていたのは、もはや悲嘆や恐怖ではなかった。それは、来るべき戦いを前にした、静かで、そして熱を帯びた闘志だった。槌の音は、防衛用の柵や櫓が組まれる音へと変わり、兵士たちの鬨の声は、以前にも増して鋭く、空気を切り裂いた。誰もが、自分たちの未来を、そして敬愛する主君と聖女を、自らの手で守り抜く覚悟を決めていた。 その蜂の巣の中枢、かつて大会議室だった場所は、今や巨大な作戦司令室へと姿を変えていた。壁には辺境一帯の巨大な地図が何枚も掲げられ、テーブルの上には城の防衛計画を示す図面や、兵站管理のための帳簿が山と積まれている。その全ての中心で、ライナスとセレスティナは、ほとんど不眠不休で指揮を執り続けていた。「…以上が、現在の備蓄状況です。食料は民からの供出もあり、籠城戦となっても半年は持ちます。ですが、矢を作るための鉄と羽が、圧倒的に不足しています」 セレスティナの声は、疲労でかすれながらも、その内容は常に冷静で的確だった。彼女は、もはや貴族令嬢の面影をどこにも残していなかった。そのすみれ色の瞳は、無数の数字と情報を瞬時に処理し、最善の一手を導き出す、冷徹な軍師のそれだった。「鉄は、鉱山から急ぎ運ばせよう。だが、羽か…」 ライナスは、腕を組んで唸った。それは、彼の武力でも、セレスティナの知恵でも、すぐには解決できない問題だった。 二人の間に、重く、しかし充実した沈黙が流れる。この、絶望的な状況の中で、共に考え、共に戦う。その事実が、彼らの魂を、かつてないほど強く結びつけていた。 その沈黙を破ったのは、部屋の外から聞こえてきた、慌ただしい足音だった。「失礼いたします!」 入ってきたのは、側近のギデオンだった。その顔には、いつもの実直さに加え、わずかな困惑の色が浮かんでいる。「どうした、ギデオン。何かあったか」「はっ。先日、廃坑で捕らえたヴァインベルクの手下どもですが、その最後の所持品検査が、先ほど完了いたしました」 疫病テロの実行犯。彼らのリーダー格は、ライナスによって生け
last updateLast Updated : 2025-10-06
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第67話 紋章に隠された鍵

 城の空気は、鉛を溶かし込んだかのように重かった。 王都から「討伐軍編成」という絶望的な報せが届いてから数日。辺境の城は、巨大な蜂の巣が嵐を前に静まり返るような、異様な緊張感に包まれていた。槌の音は防衛用の柵や櫓が組まれる音へと変わり、兵士たちの鬨の声は以前にも増して鋭く空気を切り裂く。誰もが、自分たちの未来を、そして敬愛する主君と聖女を、自らの手で守り抜く覚悟を決めていた。 その蜂の巣の中枢、かつて大会議室だった場所は、今や巨大な作戦司令室へと姿を変えていた。壁には辺境一帯の巨大な地図が何枚も掲げられ、テーブルの上には城の防衛計画を示す図面や、兵站管理のための帳簿が山と積まれている。その全ての中心で、ライナスとセレスティナは、ほとんど不眠不休で指揮を執り続けていた。 だが今、その司令室の主役は、二人ではなかった。 セレスティナ、ただ一人。 彼女は、部屋の中央に置かれた巨大な机の上で、たった一枚の古びた羊皮紙と向き合っていた。 それは、先日、疫病テロの実行犯が隠し持っていた、奇妙な置き土産。一見すると、ただの闇取引の帳簿にしか見えない、不可解な文書だった。 ライナスは、彼女の邪魔にならぬよう、部屋の隅の椅子に深く腰を下ろし、ただ黙ってその背中を見守っていた。彼の獣じみた直感が、この紙切れに何か重要な意味が隠されていると告げていた。そして、その謎を解ける者がいるとすれば、それは目の前のすみれ色の瞳の軍師だけであることも、彼は理解していた。 セレスティナの世界は、今、この一枚の羊皮紙と、そこに隠された謎だけに完全に支配されていた。 彼女は、まず、羊皮紙そのものを注意深く観察することから始めた。指先で、その質感と厚みを確かめる。そして、窓から差し込む光にそれを透かして見た。「…やはり」 彼女の唇から、かすかな確信の声が漏れた。「この羊皮紙は、王立製紙院で、それも貴族の中でも伯爵家以上の者にしか使用が許されていない最高級のものですわ。辺境の闇商人が、手に入れられるような代物では決してありません」 次に、彼女はインクの匂いを嗅ぎ、その文字の書き方に目を凝らした。「この筆跡&helli
last updateLast Updated : 2025-10-07
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第68話 知の協奏曲

 作戦司令室の空気は、一本のロウソクの炎だけが揺れる、深い静寂に包まれていた。 壁に掲げられた巨大な地図も、山と積まれた防衛計画の図面も、今はその意味を失っている。この部屋の全世界は、中央の机に広げられた、たった一枚の古びた羊皮紙の上に凝縮されていた。 セレスティナが「隠し紋」という鍵を発見してから、半刻ほどが過ぎていた。ライナスは部屋の隅の椅子に深く腰を下ろし、ただ黙って彼女の作業を見守っている。彼の獣じみた直感が、この紙切れに何か重要な意味が隠されていると告げていた。そしてその謎を解ける者がいるとすれば、それは目の前のすみれ色の瞳の軍師だけであることも、彼は理解していた。「…やはり、これだけでは足りませんわ」 静寂を破ったのは、セレスティナのかすれた、しかし悔しさを滲ませた声だった。 彼女の目の前の羊皮紙には、隠し紋の角度から導き出した計算式に基づき、文書の数字を置換した結果の文字列が並んでいた。だが、それは意味のある言葉の体をなしていない。ただのでたらめな文字の羅列にしか見えなかった。「鍵は手に入れた。だが、錠前の構造が、我々の想像以上に複雑だということか」 ライナスの声は、静かだった。そこには焦りの色はない。ただ、目の前の難問を、戦場の障害物のように冷静に分析する、指揮官の響きがあった。「はい。おそらくは、二重、三重の罠が仕掛けられています。この置換法則は、第一の扉を開けるための鍵に過ぎない。本当の錠前は、この文書に記された言葉、そのものに隠されているはずです」 彼女は、文書の冒頭に記された符牒を指し示した。「『緋色の絹』、『南海の香辛料』、『月の涙』…。これらはただの商品名ではありません。貴族社会、特にヴァインベルクのような古い家系の者たちが好んで使う、裏の意味を持つ符牒。この符牒そのものが持つ意味と、置換した数字。その二つが組み合わさって、初めて一つの意味が生まれる…まるで、詩を読み解くように」 それは、もはや単なる暗号解読ではなかった。失われた古代言語を復元するような、途方もなく複雑で、繊細な作業だった。 二人の、壮絶な知恵の戦いが始まった。 
last updateLast Updated : 2025-10-08
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第69話 暴かれた売国

 血のように赤い朝焼けが、作戦司令室の窓を染め上げていた。 三日三晩にわたる死闘の末に、セレスティナとライナスがようやく掴んだ、たった一つの単語。「アルトマイヤー」 その響きは、部屋の重い沈黙の中に、いつまでもこだましているかのようだった。それは、失われた名誉の残響であり、これから暴かれるであろう、巨大な真実への序曲だった。 セレスティナは、椅子に深く身を沈めたまま、動けずにいた。全身の力は抜けきり、指一本動かすことさえ億劫だった。だが、その頭脳だけは、極度の興奮と疲労の中で、熱を帯びたように冴え渡っている。 父の、名。 この密書は、やはり、父の事件に関わるものなのだ。その確信が、彼女の枯れ果てたはずの心に、新たな闘志の油を注いでいた。「…少し、休め」 静寂を破ったのは、ライナスの低い声だった。 彼は、窓辺から戻ると、セレスティナの肩に、いつか贈られたすみれ色のショールをそっとかけた。その手つきは、相変わらず不器用だったが、彼女の冷え切った体をじんわりと温める、確かな優しさがあった。「お前の顔は、死人のようだ。今にも、その魂ごと消えてしまいそうだ」「…閣下こそ」 セレスティなは、かろうじて微笑んでみせた。「あなた様のそのお顔も、まるで百年の戦から戻られた、亡霊のようでございますわ」 二人の間に、かすかな笑みが交わされる。それは、極限の戦場を共に戦い抜いた、戦友だけが分かち合える、特別な絆の証だった。 侍女のマルタが、音もなく部屋に入ってくると、二人の前に温かいスープと焼きたてのパンを置いた。彼女は何も言わなかったが、その目には深い労いと、そして主君たちへの揺るぎない信頼の色が浮かんでいた。 二人は、まるで儀式のように、黙ってその食事を口に運んだ。それは、ただの栄養補給ではなかった。これから始まる、本当の戦いを前にした、最後の休息。魂を整えるための、静かな時間だった。 短い休息の後、二人は再び、あの忌まわしい羊皮紙の前に戻った。 もう、そこに迷いはなかった。解読の方法は、完全に確立されている。あとは、この地獄の設計図を、一文字
last updateLast Updated : 2025-10-09
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第70話 静かなる怒りの炎

 血のように赤い朝焼けが、作戦司令室の窓を染め上げていた。 三日三晩にわたる死闘の末に、セレスティナとライナスがようやく掴んだ、おぞましい真実。机の上に広げられた羊皮紙は、もはやただの古文書ではなかった。それは、宰相ゲルハルト・ヴァインベルクという一人の男の罪状がびっしりと書き込まれた、巨大な墓標そのものだった。 セレスティナは、椅子に深く身を沈めたまま、動けずにいた。全身の力は抜けきり、指一本動かすことさえ億劫だった。だが、その頭脳だけは、極度の興奮と疲労の中で、熱を帯びたように冴え渡っている。 父の無実が証明された。 アルトマイヤー家は、反逆者ではなかった。 その事実は、本来ならば彼女に歓喜をもたらすはずだった。だが、今の彼女の心を支配していたのは、安堵よりも遥かに巨大な、戦慄と、そして底なしの絶望に近い感情だった。 ヴァインベルクの罪は、彼女が想像していた、ただの政敵の排除という個人的な陰謀などではなかった。王家を裏切り、この国の富と未来を、外国に売り渡そうとする、売国。その、あまりに重く、そして罪深い二文字が、彼女の魂を巨大な鉄槌のように打ちのめしていた。 父は、ただの政敵に殺されたのではない。この国そのものを内側から蝕む、巨大な病巣によって殺されたのだ。 ライナスは、窓辺に立ったまま、石像のように微動だにしなかった。 彼の金色の瞳は、もはや怒りさえも超越した、絶対的な虚無の色を宿している。彼が戦場で何よりも憎んだもの。それは、己の欲望のために、仲間を、そして国を裏切る者だった。彼の兄弟のような仲間たちは、そういう者たちの功名心のために殺された。そして今、目の前にあるのは、その裏切りの、最も醜悪で、最も巨大な結晶そのものだった。 部屋の空気は、二人の魂が放つ静かな絶望によって、絶対零度まで凍りついていた。「…少し、休め」 静寂を破ったのは、ライナスの低い声だった。 彼は、窓辺から戻ると、セレスティナの肩に、いつか贈られたすみれ色のショールをそっとかけた。その手つきは、相変わらず不器用だったが、彼女の冷え切った体をじんわりと温める、確かな優しさがあった。「お前の顔は、死人
last updateLast Updated : 2025-10-10
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