All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 81 - Chapter 90

95 Chapters

第81話 愚かなる勅命

 王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら
last updateLast Updated : 2025-10-21
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第82話 揺るがぬ忠誠

 その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
last updateLast Updated : 2025-10-22
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# 第83話 傲慢なる進軍

 王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
last updateLast Updated : 2025-10-23
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第84話 隘路の罠-1

 辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
last updateLast Updated : 2025-10-24
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第85話 隘路の罠-2

 三方を険しい崖に囲まれた鷲ノ巣谷は、天然の墓場だった。 空は狭く、切り立った岩肌が威圧するように迫ってくる。モーリス准将率いる騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の獲物を追い、何の疑いもなくその墓場へと足を踏み入れた。「逃がすな! あと一息だ!」 モーリスの怒声が、谷壁に反響する。彼の目には、前方を逃げるライナスの背中しか映っていなかった。その背中が、谷の最奥、行き止まりと思しき場所でようやく止まった。「もはや袋の鼠よ、反逆者め!」 モーリスは勝ち誇った。功績を独り占めする自身の輝かしい未来が、目の前にちらついた。 だが、振り返ったライナスの口元には、嘲笑が浮かんでいた。それは、罠にかかった愚かな獣を見下す、狩人の笑みだった。「鼠は、どちらかな」 ライナスが静かに呟き、右手を高く掲げた、その瞬間。 世界が、轟音と絶叫に包まれた。「な、なんだ!? 何が起きた!」 モーリスが空を仰ぐと、信じがたい光景が広がっていた。崖の上から、巨大な岩石や丸太が、雨あられと降り注いでくる。それは、地響きを伴う死の豪雨だった。「うわあああっ!」「伏せろ! 崖に張り付け!」 騎士たちの悲鳴が、岩の砕ける音にかき消されていく。密集していた騎士団は、格好の的だった。屈強な軍馬は頭を砕かれて嘶き、誇り高き騎士たちは、その白銀の甲冑ごと、巨大な質量によって無慈悲に圧し潰されていった。 後方からは、退路を断つように、火矢が降り注ぐ。あらかじめ用意されていたのだろう、油を染み込ませた枯れ木や獣脂に火がつき、谷は一瞬にして炎と黒煙に満ちた阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。「罠だ…! 罠にはまったのだ!」 モーリスは、ようやく自らの愚行を悟り、恐怖に顔を引きつらせた。前後を岩と炎で塞がれ、上からは死が降り注ぐ。もはや逃げ場はどこにもなかった。 パニックに陥った兵士たちが、同士を押し退け、わずかな隙間を求めて殺到する。統率を失った軍隊ほど、脆いものはない。モーリスの騎士団は、敵と刃を交えることなく、自滅に近い形で崩壊していった。 その惨状を、ライナス
last updateLast Updated : 2025-10-25
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第86話 隘路の罠-3

 森閑としていたはずの森が、突如として牙を剥いた。 木々の間から躍り出た鉄狼団と民兵たちの鬨の声は、混乱の極みにあった討伐軍の兵士たちの心を、いとも容易く砕いた。「な、側面だ! 側面から敵襲!」「陣形を組め! 立て直すんだ!」 将校たちの怒声が飛ぶが、それはもはや空虚な響きでしかなかった。先鋒の壊滅と退路の喪失でパニックに陥っていた兵士たちは、この予期せぬ奇襲に対応できず、ただ右往左往するばかり。そこに、死神の宣告が響き渡る。「そこをどけぇぇっ!」 ライナスが振るう巨大な戦斧が、人馬の壁を紙屑のように吹き飛ばした。彼の進む道には、凄惨な血の轍が刻まれていく。それはもはや戦ではなく、一方的な蹂躙だった。彼の背後から、ギデオン率いる鉄狼団が、まるで主君の切り開いた道を広げるように、的確に敵の陣形を切り崩していく。「怯むな! 敵は少数だ! 数で押しつぶせ!」 ベルガー元帥は、本陣で馬上で吼えた。彼は親衛隊を盾に、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。だが、その試みは、森の地の利を最大限に活かした辺境軍の前に、ことごとく阻まれた。 討伐軍の兵士たちは、王都周辺の平原での戦いには慣れている。だが、複雑な地形、木々や岩陰から放たれる矢、どこから現れるか分からない敵兵、という不慣れな戦場では、その数の優位性を全く活かせなかった。「くそっ、これが辺境の戦い方か…!」 ベルガーは歯噛みした。敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、故郷の土地を踏みにじる侵略者への、剥き出しの憎悪と決意が宿っていた。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の士気を、さらに蝕んでいく。(それにしても…手際が良すぎる…) ベルガーは、自ら剣を抜き、襲い掛かってくる敵兵を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 隘路への誘導、完璧なタイミングでの罠の発動、退路の破壊、そしてこの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスという男は、確かに恐るべき武人だ。だが、この戦全体の構図は、
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第87話 鉄狼の牙

 辺境の夜の闇は、王都のそれよりも深く、そして冷たかった。 鷲ノ巣谷の最奥、三方を絶壁に囲まれた天然の処刑場で、モーリス准将はついに追い詰めたはずの獲物を前に、勝利を確信していた。彼の率いる重装騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の男を包囲している。数は圧倒的にこちらが上。もはや逃げ場はない。「終わりだな、反逆者。貴様の首を、国王陛下への土産としてくれる」 モーリスが勝ち誇った声で言い放った。功を焦る彼の心は、手柄を立てて王都に凱旋する輝かしい未来で満たされていた。 だが、ライナスの返答は、彼の期待を無慈悲に裏切るものだった。「鼠は、どちらかな」 静かな呟きと共に、ライナスがおもむろに右手を高く掲げる。 それが、地獄の釜の蓋を開ける合図だった。 最初に訪れたのは、音だった。 空気を引き裂くような、無数の鋭い風切り音。そして、大地そのものが呻くような、地響き。 モーリスが何事かと空を仰いだ瞬間、彼の視界は、天から降り注ぐ黒い雨で埋め尽くされた。「ひ、矢だ! 矢の雨だ!」 誰かが絶叫した。崖の上、闇に溶け込むように潜んでいた伏兵たちが、一斉に矢を放ったのだ。それは狙いを定めるというよりも、谷底に密集した騎士団という巨大な的に向かって、ただ無慈悲に射かけるだけの作業だった。 鋼の鎧を貫く鈍い音、馬の甲高い嘶き、そして兵士たちの断末魔の悲鳴が、狭い谷間に木霊する。「盾を構えろ! 密集隊形を組め!」 モーリスは必死に叫んだが、その声はすでに統率力を失っていた。降り注ぐ矢から逃れようと、兵士たちはパニックに陥り、互いを押し退け、味方を盾にする者まで現れる始末。 だが、本当の絶望は、天からではなく、地を揺るがしてやって来た。「う、うわあああああっ!」 地響きは、轟音へと変わった。崖の上から、あらかじめ仕掛けられていた巨大な岩石や丸太が、凄まじい勢いで転がり落ちてきたのだ。それはもはや、人の力では抗いようのない、天災そのものだった。 誇り高き重装騎士団は、赤子の手をひねるように、その圧倒的な質量の前に蹂躙されていく。馬は足から砕け、騎士は鎧ごと
last updateLast Updated : 2025-10-27
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第88話 城の司令塔

 辺境の森は、侵略者にとって巨大な迷宮と化した。 側面からの奇襲を受け、完全に陣形を崩された討伐軍は、もはや統制の取れた軍隊ではなかった。地の利を熟知した鉄狼団と民兵たちは、木々や岩陰を巧みに利用し、一撃を加えては闇に消えるというゲリラ戦を展開する。どこから矢が飛んでくるか、どこから剣を持った敵兵が躍り出てくるか分からない。その終わりの見えない恐怖が、討伐軍の兵士たちの士気を、じわじわと、しかし確実に削り取っていった。「怯むな! 隊列を組め! 円陣を組んで敵を迎え撃つのだ!」 本陣で、ベルガー元帥は声を嗄らして叫んでいた。彼は親衛隊を周囲に固め、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。さすがは王国の宿将というべきか、その声にはまだ兵士を奮い立たせるだけの威厳が残っていた。 だが、その奮闘も、森という地の利と、辺境の民の剥き出しの敵意の前では、焼け石に水だった。討伐軍の兵士たちは、王都周辺の開けた土地での集団戦には慣れている。しかし、足場の悪い森の中、散発的に繰り返される小競り合いでは、その数の優位性を全く活かすことができなかった。「くそ、猪武者が! 深追いするなと言っているだろうが!」 将校の一人が、命令を無視して森の奥へと突っ込んでいく部下を怒鳴りつける。だが、その声が届く前に、森の闇から数本の矢が放たれ、兵士は短い悲鳴と共に地面に崩れ落ちた。 それは、戦場の其処彼処で繰り返されている光景だった。 敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、恐怖の色はなかった。そこにあるのは、自分たちの土地を、家族を、そして主君を守るのだという、揺るぎない決意の光だった。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の兵士たちの心を、さらに蝕んでいく。「おのれ、おのれ蛮族どもが…!」 ベルガーは歯噛みした。彼は自ら剣を抜き、襲い掛かってくる辺境の兵士を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 この戦況は、異常だ。 隘路の罠、退路の破壊、そしてこの完璧なタイミングでの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスとい
last updateLast Updated : 2025-10-28
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第89話 情報戦の矢 - 1

 夜の森は、敗残兵の呻きと絶望を吸い込んで、どこまでも深く沈黙していた。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍は、かつての壮麗な威容を完全に失い、今は森の中のわずかな開けた場所で、傷ついた獣のように身を寄せ合っていた。兵士たちの顔には、疲労と飢え、そして何よりも、姿を見せぬ敵への根源的な恐怖が色濃く浮かんでいる。 数時間前までの一方的な蹂躙。隘路で壊滅した先鋒部隊の悪夢と、森の闇から放たれる神出鬼没の奇襲は、彼らの誇りを粉々に打ち砕いた。王国最強と謳われた軍勢は、今や統率を失いかけた烏合の衆と成り果てていた。「…報告はどうした」 本陣に張られた粗末な天幕の中で、ベルガーは低い声で問うた。その声は、怒りを通り越して、乾いた響きを帯びている。彼の眼前には、無数の駒が散らばったままの作戦地図が広げられていたが、もはや何の役にも立たないガラクタに等しかった。「はっ。各部隊、損害の確認を急いでおりますが、混乱がひどく、正確な数字は未だ…」 副官の一人が、顔を青ざめさせて報告する。「食料は」「…残存の輜重隊と合流できましたが、あと二日分がやっとかと。兵の士気は、著しく低下しております」 報告を聞きながら、ベルガーは固く目を閉じた。 屈辱。その二文字が、彼の内臓を焼き焦がすようだった。平民上がりの小僧と侮っていた相手に、これほど完璧な敗北を喫した。こちらの思考、将校の功名心、そして兵力差という傲慢さまで、全てを読み切られた上での完敗だった。(ライナス…いや、あの男一人ではない) ベルガーの脳裏に、確信に近い疑念が渦巻いていた。 あの戦術は、一人の武人の発想だけで描けるものではない。まるで、高みから盤面全体を見下ろしている、もう一人の「誰か」がいる。冷徹で、狡猾で、そして貴族の戦い方を熟知している、恐るべき軍師が。 その見えざる敵の存在が、彼の百戦錬磨の経験をもってしても、得体の知れない恐怖を感じさせていた。 だが、感傷に浸っている時間はない。このままでは、飢えと恐怖で自滅するだけだ。活路を見出さねばならない。「&hel
last updateLast Updated : 2025-10-29
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第90話 情報戦の矢 - 2

 夜の闇は、時に最高の隠れ蓑となる。 ザイファルトとその部下たちは、まるで闇そのものから生まれ出た亡霊のように、討伐軍の警戒網をすり抜けていた。彼らは音を立てず、気配を殺し、木々の影から影へと滑るように移動する。見張りの兵士が欠伸をしたその一瞬、持ち場を離れたその一瞬。人の注意が途切れるごくわずかな隙間を、彼らは完璧に見つけ出し、利用した。 敵陣の中心部に近づくにつれ、警戒はより厳重になる。だが、ザイファルトの目には、その厳重な警戒網すら、無数の穴が開いた網のように見えていた。彼は部下たちに手振りだけで指示を出し、それぞれが目標とする天幕へと散開させていく。 最初の標的は、シラー伯爵の天幕だった。彼はヴァインベルク公爵から多額の借財を抱え、今回の戦に半ば強制的に参加させられていた。その精神的な弱さは、潜入する側にとって格好の的となる。 ザイファルトは、天幕の裏手へと音もなく回り込む。布地と地面のわずかな隙間に、指先で小さな穴を掘ると、丸めた羊皮紙をそっと滑り込ませた。それは、まるで蛇が獲物の巣穴に忍び込むかのような、静かで、そして致命的な侵入だった。 同じ頃、彼の部下たちもまた、それぞれの標的の天幕に、毒の矢を放ち終えていた。任務は完了した。彼らは再び闇に溶け込み、誰に気づかれることもなく、その場を後にした。 後に残されたのは、眠りこける兵士たちと、やがて彼らの結束を内側から蝕むことになる、数通の密書だけだった。 シラー伯爵は、浅い眠りからふと目を覚ました。 気のせいか、天幕の外でかすかな物音がしたような気がしたのだ。彼は疲れた体を起こし、剣の柄に手をかけたまま、耳を澄ます。だが、聞こえてくるのは、遠くで燃える篝火の爆ぜる音と、部下たちの寝息だけだった。(…疲れているのか) 彼は自嘲気味に息をつき、再び寝床に体を横たえようとした。その時、彼の視界の隅に、見慣れないものが映った。枕元に、小さな羊皮紙の巻物が、一つ転がっている。「なんだ、これは…?」 衛兵からの報告書か。いや、それならば従者が届けに来るはずだ。彼は訝しみながらも、その巻物を手に取った。封蝋はされていない。ただ、細い革紐で結ば
last updateLast Updated : 2025-10-30
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