All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 101 - Chapter 110

120 Chapters

第101話 勝者の度量

 戦が終わった後の静寂は、時として戦の喧騒そのものよりも、人の心を重く締め付ける。 辺境の湿地帯の外れに設けられた、広大な野営地。そこには、武器を奪われ、捕虜となった数千の中央軍兵士たちが、ただ無気力に座り込んでいた。彼らの瞳から、かつての王都軍としての誇りは消え失せ、あるのは敗北という動かぬ事実と、これからの自分たちの運命に対する、漠然とした不安だけだった。 これからどうなるのか。 奴隷として、辺境の復興作業に死ぬまで酷使されるのか。あるいは、見せしめとして、一人ずつ処刑されていくのか。噂に聞く「辺境の狼」の冷酷さを思えば、どのような過酷な運命を強いられても、不思議はなかった。兵士たちは、ただ黙って、その時が来るのを待つことしかできなかった。 その野営地を見下ろす丘の上、ライナスの天幕では、捕虜の処遇を巡って、静かだが熱を帯びた軍議が開かれていた。「閣下、これだけの数の捕虜、前代未聞にございます」 鉄狼団の副長であるギデオンが、興奮と戸惑いの入り混じった声で進言した。「彼らを労働力として使えば、辺境の復興は、飛躍的に進みましょう。あるいは、貴族出身の将校たちからは、相応の身代金を取ることもできます。我らの軍資金も、潤うはずです」 ギデオンの言葉は、戦後の処理として、極めて常識的で、合理的なものだった。他の幹部たちも、それに同意するように、深く頷いている。捕虜とは、勝者がその権利を自由に行使できる、戦利品の一つなのだ。 だが、ライナスは、腕を組んだまま、静かに首を横に振った。「どちらも、採らん」 その、あまりに静かな、しかし有無を言わさぬ一言に、天幕の中の空気が、一瞬で張り詰めた。「…と、おっしゃいますと?」 ギデオンは、主君の真意を測りかね、戸惑いの声を上げた。「奴隷にも、身代金の担保にもしない。ただ…」 ライナスは、そこで一度、言葉を切った。そして、天幕にいる誰もが予想だにしなかった言葉を、静かに告げた。「…解放する」「かい、ほう…ですと!?」 ギデオンは、思わず素っ頓狂な声を上げた。
last updateLast Updated : 2025-11-10
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第102話 政治的勝利 -1

 戦の後には、二種類の静寂がある。一つは、全てが終わり、命が土へと還っていく、墓場のような静けさ。そしてもう一つは、次なる嵐の前の、息を潜めたような静けさだ。 辺境の地を包んでいるのは、間違いなく後者だった。 中央軍を打ち破ったという報せは、辺境の隅々にまで行き渡り、民衆を熱狂的な祝祭の渦へと巻き込んでいた。虐げられてきた者たちが、初めて掴んだ圧倒的な勝利。それは彼らの胸に、何物にも代えがたい誇りの炎を灯した。町の酒場は、夜通しライナスとセレスティナの名を讃える歌声に満ちている。 だが、その熱狂の中心地であるはずの辺境伯の城、その作戦司令室は、対照的に水を打ったように静まり返っていた。「閣下。捕虜の解放、完了いたしました。彼らは王都への帰路についております」 鉄狼団の副長ギデオンからの報告に、司令室に詰めていた幹部たちが、ごくりと喉を鳴らした。誰もが、主君の次の一手を固唾を飲んで見守っている。 一万の軍勢を、ほぼ無傷で打ち破った。この勢いのまま、王都へ進軍すれば、腐敗した中央貴族を一掃し、奸臣ヴァインベルクの首を獲ることも夢ではない。誰もがそう考え、その血を高ぶらせていた。 玉座に深く腰掛けたライナスは、腕を組んだまま、静かに目を閉じていた。戦の指揮を執っていた数日前と、何も変わらない。そのあまりの冷静さが、かえって周囲の緊張を高めていた。「閣下!」 ついに、一人の血気盛んな隊長がしびれを切らしたように声を上げた。「今こそ好機です! このまま王都へ! ヴァインベルクめに、我らの牙がどれほど鋭いか、思い知らせてやりましょう!」「そうだ! 我らに続けと、志を同じくする者も現れましょう!」 その言葉を皮切りに、他の幹部たちからも、次々と進軍を促す声が上がる。彼らの瞳には、勝利の熱と、次なる戦への渇望が燃え盛っていた。 ライナスは、ゆっくりと目を開いた。その金色の瞳に、感情の色はない。ただ、深淵を覗くような静けさだけがあった。「王都へは、行かぬ」 その、地を這うような低い声は、室内の熱狂を一瞬で凍りつかせた。「な…ぜ、でございますか」 ギデオンが、絞
last updateLast Updated : 2025-11-11
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第103話 政治的勝利 -2

 王都は、不気味な熱病に浮かされていた。 辺境での中央軍壊滅という、にわかには信じがたい凶報。それは、当初、宰相ヴァインベルク公爵が流した「辺境伯の卑劣な罠」という情報操作によって、かろうじて抑え込まれていた。民衆も貴族も、まさか王国の正規軍が、成り上がりの蛮族に敗れるはずがないと、無理やり自分に言い聞かせていたのだ。 だが、その虚構の壁は、日を追うごとに脆く、そして薄くなっていった。 辺境から解放された兵士たちが、続々と王都へ帰還し始めたからだ。 彼らが語る物語は、ヴァインベルクの発表とは、あまりにもかけ離れていた。「ライナス辺境伯は、悪魔などではない! むしろ、我ら敵兵にさえ、温かい食事と手当てを与えてくださった、情け深い御方だ!」「我らは、ヴァインベルク公に騙されていたのだ! 真の反逆者は、辺境伯ではない!」「聖女様は、まさに慈愛の女神だった。あの御方の瞳を見れば、誰もがそう信じるだろう…」 生々しい体験談は、噂よりも遥かに強く、そして速く、人々の心に浸透していく。ヴァインベルクが築き上げた「反逆者ライナス」という虚像は、見る影もなく崩れ去り、代わりに、武威と慈悲を兼ね備えた、恐るべき英雄の実像が、民衆の心に刻み込まれていった。 王城の中も、例外ではなかった。貴族たちは、もはや公然とヴァインベルクへの不信感を口にするようになっていた。彼の権力という巨大な船が、沈み始めている。その船から、我先にと逃げ出そうとする鼠たちのように、彼らは新たな権力の在り処を探り始めていた。 玉座の間は、鉛を流し込んだかのように重い沈黙に支配されていた。 老王は、玉座に深く身を沈め、ただ一点を虚ろに見つめている。その脳裏では、恐怖と後悔と、そして怒りが、嵐のように渦巻いていた。 ライナス。その名が、呪いのように彼の思考にまとわりつく。 王国最強の軍勢を、赤子の手をひねるように打ち破った、軍事的天才。その牙が、いつこの王都へ、この玉座へと向けられてもおかしくはない。その恐怖が、夜ごと、彼を悪夢へと引きずり込んでいた。 そして、それ以上に彼を苛むのは、自らの愚かさへの、どうしようもない後悔だ
last updateLast Updated : 2025-11-12
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第104話 政治的勝利 -3

 玉座の間は、墓場のような静寂に包まれていた。 ほんの数日前まで、この国の権勢を一身に集めていた男、ゲルハルト・ヴァインベルク公爵は、居並ぶ貴族たちの冷たい視線に晒され、立ち尽くしていた。その完璧に整えられた表情は、かろうじて平静を装っているものの、その瞳の奥には隠しきれない焦りと動揺が渦巻いている。 彼の権力という巨大な船は、今や大きく傾き、沈没寸前だった。昨日まで彼に媚びへつらっていた貴族たちは、我先にとその船から逃げ出し、今では対岸から、その無様な沈みゆく様を眺めている。 老王は、玉座から、その男の姿を冷ややかに見下ろしていた。 その胸中を占めるのは、裏切られたことへの燃え盛るような怒りと、自らの愚かさへの、どうしようもない悔恨だった。 辺境から届けられた、ライナス辺境伯の忠誠を誓う書状。そして、罪人として送り返されてきたベルガー元帥の、涙ながらの証言。それらが、全ての偽りを白日の下に晒した。 ベルガーは、玉座の前に引き出されると、自らの傲慢さと、ヴァインベルクの奸計に踊らされた一部始終を、包み隠さず告白した。偽りの密書、辺境軍の圧倒的な戦術、そして、敵であるはずのライナスとセレスティナから受けた、信じがたいほどの慈悲。 その言葉の一つ一つが、ヴァインベルクの罪を、動かぬ事実として、玉座の間に刻みつけていった。「ヴァインベルク」 老王の、低く、そしてこれまでにないほどの威厳に満ちた声が響いた。それは、もはや老人のそれではなく、一国の王としての、絶対的な響きを持っていた。「貴様は、私を、そしてこの王国を、長きにわたり欺き続けた。その罪、許しがたい」「へ、陛下! それは誤解にございます! 全ては、辺境の狼と、アルトマイヤーの魔女が仕掛けた、卑劣な罠! 私は、ただ、王家をお守りしようと…」 ヴァインベルクは、まだ見苦しく言い募ろうとした。だが、その言葉は、老王の次の一言によって、無慈悲に断ち切られる。「黙れ。貴様の言葉は、もはや、私の耳には届かぬ」 老王は、ゆっくりと立ち上がった。その老いた体躯が、これまでにないほどの大きさに見える。「私は、二度、過ちを犯した。
last updateLast Updated : 2025-11-13
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第105話 最後の悪あがき

 かつて王都の政治を、そして社交界を、その指先一つで動かしてきた男は今、自らが築き上げた壮麗な屋敷という名の、静かな牢獄に囚われていた。 ゲルハルト・フォン・ヴァインベルク。元宰相にして、元公爵。その肩書は、もはや過去の栄光を示す、空虚な響きでしかなかった。国王から宰相の任を解かれ、謹慎を命じられた彼には、もはや王城への出入りさえ許されない。屋敷の門には、彼を監視するという名目で、国王直属の近衛兵が常に立っていた。 それは、彼がもはやこの国の政治の中枢から、完全に排除されたことを意味していた。「くそっ…! あの老いぼれめが…! そして、辺境の虫けらどもが…!」 磨き上げられた窓ガラスの向こう、遠くに見える王城を睨みつけながら、ヴァインベルクは地を這うような声で呪詛を吐いた。その完璧に整えられていたはずの髪は乱れ、高価な衣服には葡萄酒の染みがついている。その姿は、もはや王国の宰相ではなく、権力の座から引きずり下ろされた、ただの老人のそれだった。 だが、彼はまだ終わったとは思っていなかった。 数十年にわたり、この国を裏から支配してきたという自負が、彼の歪んだ精神をかろうじて支えていた。まだ手は残っている。まだ、この状況をひっくり返すことはできる。彼は、そう信じようとしていた。「誰か、誰かおらぬか!」 彼が苛立たしげに叫ぶと、ようやく一人の腹心の部下が、おずおずと部屋に入ってきた。その男の顔には、かつてのような主君への畏敬はなく、ただ、沈みゆく船の船長を見つめるような、哀れみと保身の色が浮かんでいる。「…お呼びでございますか、閣下」「閣下、だと? 俺はもはや、ただのヴァインベルクだ」 皮肉げに呟くと、彼は男に詰め寄った。その瞳には、狂気じみた光が宿っている。「まだだ。まだ、終わりではない。聞け、今から王都中に、噂を流すのだ。ありとあらゆる手段を使ってな」「噂…でございますか?」「そうだ。アルトマイヤーの小娘…セレスティナ! あの女こそが、全ての元凶なのだと! あの女は、男を惑わす魔性の力を持った魔女だ! その美貌と
last updateLast Updated : 2025-11-14
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第106話 白百合の出陣

 中央軍との決戦が終わり、辺境には束の間の静寂が訪れていた。 それは、嵐が過ぎ去った後の、全てを洗い流したかのような清澄な静けさだった。空は高く澄み渡り、吹き抜ける風には秋の気配と、土の匂いが混じっている。戦火の傷跡は未だ深く、領内のあちこちで復旧作業が続けられていたが、人々の顔に浮かぶのは絶望の色ではなく、未来をその手で作り上げるのだという力強い光だった。 王都から届いた報せは、辺境の民を歓喜させた。 ゲルハルト・ヴァインベルク公爵、失脚。 長きにわたり王国の中枢に巣食い、その権勢をほしいままにしてきた男が、ついにその座から引きずり下ろされたのだ。ライナスとセレスティナが仕掛けた周到な策が、王都の政治地図を根底から塗り替えるという劇的な結末をもたらした。 帰還したベルガー元帥と数千の捕虜たちの証言は、生きた刃となってヴァインベルクの喉元に突き刺さった。彼らが語る辺境伯ライナスの武威と度量、そして「聖女」セレスティナの慈悲深さは、ヴァインベルクがばら撒いた悪評を一夜にして覆し、民衆の心を掴んだ。 老王はついに目を覚まし、奸臣の罪を断じた。それはセレスティナにとって、父アルトマイヤー公爵の名誉を回復するための、大きな大きな一歩だった。 その日の午後、セレスティナは城の一室で、山と積まれた書類の整理にあたっていた。 辺境伯の執務室の隣に設けられた、彼女専用の部屋だ。そこは今や、辺境の統治における第二の心臓部と言っても過言ではなかった。戦後処理、復興計画の策定、各村落への物資の再分配。やるべきことは無限にあるように思えた。 ペンを走らせる彼女の横顔は、かつての無力な「人形令嬢」の面影をどこにも残してはいなかった。凛と引かれた眉、思慮深く細められたすみれ色の瞳、そして固く結ばれた唇。それは、自らの知識と意志で民の暮らしを支える、女主の顔だった。 静かにドアが開く。顔を上げなくとも、その無言の圧力と、そこに立つだけで空気がわずかに張り詰めるような感覚で、誰かは分かった。「ライナス」 彼女が名を呼ぶと、書類の山を眺めていた長身の男が、ふっと口元を緩めた。「熱心なことだ。少しは休んだらどうだ」
last updateLast Updated : 2025-11-15
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第107話 王都への帰還

 辺境を発った馬車は、王都へ続く街道をひた走っていた。  車輪が立てる規則正しい響きと、馬の蹄の音だけが静かに続く。車窓から見える風景は、日を追うごとにその色合いを変えていった。荒々しくも生命力に満ちた辺境の山々が次第に遠ざかり、代わりに現れるのは、人の手で丁寧に整えられた畑や、穏やかな起伏の丘陵地帯だ。  それは、王国の心臓部へと近づいている証だった。 セレスティナは、馬車の座席に深く身を沈め、窓の外を流れる景色を静かに見つめていた。  揺れは少なく、乗り心地は良い。ライナスが彼女のために、特別に誂えさせたものだった。内装は華美ではないが、上質な織物と柔らかなクッションが使われ、長旅の疲れを少しでも和らげようという彼の心遣いが随所に感じられた。  隣には、護衛部隊の指揮を任されたギデオンが、微動だにせず座っている。彼は、セレスティナが景色を眺めている間、一言も発さなかった。だが、その全身から放たれる警戒心と、時折窓の外へ向けられる鋭い視線が、彼が片時も任務を忘れていないことを物語っていた。「ギデオン」  セレスティナが不意に声をかけると、岩のような男はわずかに肩を揺らして向き直った。 「はっ。何かございましたか、奥方様」 「いいえ。ただ、あなたたちの主君は、少し心配性すぎるのではないかと思って」  彼女は悪戯っぽく微笑んだ。 「最強の精鋭部隊を護衛につけて、影にザイファルトまで。まるで、私が一人で竜にでも挑みに行くかのようですわ」  その軽口に、ギデオンは生真面目な顔で首を横に振った。 「旦那様のお気持ち、俺にはよく分かります。王都は、竜の巣よりも厄介な場所でございますから」  彼の言葉には実感がこもっていた。辺境の男たちにとって、貴族たちが陰謀を巡らす王都は、正々堂々と戦う戦場よりもよほど恐ろしく、油断のならない場所なのだ。 「それに、奥方様は我々辺境の宝。万が一のことなど、あってはなりません」  真っ直ぐな忠誠心に、セレスティナは微笑みを深くする。 「ありがとう。頼りにしています」  その言葉に、ギデオンは「もったいないお言葉」と短く返し、再び前を向いた。これ以上の
last updateLast Updated : 2025-11-16
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第108話 告発の舞台

 セレスティナ・アルトマイヤー帰還の報は、王都に投じられた一つの石として、瞬く間に巨大な波紋を広げていった。 それは、ただ没落した令嬢が戻ってきたというだけの話ではなかった。討伐軍を打ち破った辺境伯ライナスの力を背景に、そして「聖女」という新たな名声と共に、彼女は帰ってきたのだ。その事実は、ヴァインベルク公爵の失脚でかろうじて保たれていた王都の政治的均衡を、根底から揺るがすに十分だった。 貴族たちは三つの派閥に分かれた。最後までヴァインベルクに与し、破滅を恐れる者。辺境伯の武威に恐れをなし、新たな権力者に媚びを売ろうと画策する者。そして、事の成り行きを固唾を飲んで見守り、有利な方につこうと待ち構える、最も数の多い日和見主義者たち。 誰もが固唾を飲んで次の動きを待つ中、王城から布告が出された。 国王陛下の名において、緊急の御前会議を執り行う。当事者として、セレスティナ・アルトマイヤーの召喚を命じる、と。 ついに、舞台の幕が上がる。王都中の視線が、一人の女性の元へと注がれていた。 会議が開かれる日の朝、セレスティナは滞在先の屋敷で静かにその時を待っていた。 侍女たちが、ずらりと並べたドレスの中からどれを選ぶか、お伺いを立てる。辺境でマルタが用意してくれた、いずれも上質で気品のあるものばかりだ。 セレスティナは迷うことなく、一着のドレスを指さした。 それは、ほとんど装飾のない、純白のドレスだった。上質な絹の光沢だけが、その仕立ての良さを物語っている。虚飾を嫌い、潔白を愛した父が、最も好んだ色。そして、これから自分が証明すべきものの色でもあった。「これにします」 彼女の選択に、侍女たちは息を呑む。それは、これから断罪の場へ向かうには、あまりにも潔く、そして挑戦的な色だったからだ。 身支度を終えたセレスティナが姿を現すと、玄関ホールで待機していたギデオンが、そのあまりの気高さに一瞬言葉を失った。「奥方様…」「どうかしら、ギデオン。戦いの場に、白は不似合いかしら」「いえ…。雪山の頂に咲く、ただ一輪の花のようです。誰にも、指一本触れさせることなどできませぬ」
last updateLast Updated : 2025-11-17
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第109話 真実の紋章

 セレスティナの静かな宣言は、張り詰めた玉座の間に落ちた一滴の雫のように、深く、そして鮮烈な波紋を広げた。「証拠は、ございます。ここに」 その言葉と共に、彼女の白く細い指が、純白のドレスの胸元へと差し入れられる。ゆっくりとした、ためらいのない動き。その一挙手一投足に、玉座の間にいる全ての者の視線が、まるで磁石に引かれる砂鉄のように吸い寄せられていた。 誰もが息を飲む。時が止まったかのような濃密な静寂の中、衣擦れの音だけがやけに大きく響いた。 ゲルハルト・ヴァインベルクは、その光景を信じられないものを見るかのように見つめていた。血走った目が大きく見開かれ、引きつった口元がかすかに震えている。証拠だと? あるはずがない。自分が長年かけて築き上げてきた完璧な計画に、綻びなどあるはずがないのだ。あれはただの小娘の虚勢、最後の悪あがきに決まっている。そう頭では理解しようとしながらも、彼の本能は警鐘を乱打していた。あの女の、あのあまりにも落ち着き払ったすみれ色の瞳は、ただの虚勢で浮かべられるものではない、と。 やがて、セレスティナの手がドレスから引き抜かれる。その指に握られていたのは、丁寧に折り畳まれた、一枚の古びた羊皮紙だった。 なんの変哲もない、ただの古い紙切れ。それを見た瞬間、ヴァインベルクの顔に安堵と嘲笑の色が浮かんだ。「は…ははは! それが証拠だと申すか! そのような紙切れ、いくらでも偽造できよう! アルトマイヤーの残党が、この日のために用意した偽書に決まっているではないか!」 彼の声に同調するように、ヴァインベルク派の貴族たちからも失笑が漏れる。場の空気は一瞬、ヴァインベルクが言うように「茶番」なのではないかという疑念に傾きかけた。 だが、セレスティナは動じなかった。彼女は嘲笑を浴びながらも、その羊皮紙を恭しく侍従へと手渡す。侍従は緊張した面持ちでそれを受け取ると、玉座の王の前へと進み出て、銀の盆の上にそっと置いた。 老王は、眉間に深い皺を寄せ、その羊皮紙に視線を落とす。そこに書かれているのは、一見すると何かの取引記録にしか見えない、無機質な文字の羅列だった。「陛下。そして、ご列席の皆様」 セレス
last updateLast Updated : 2025-11-18
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第110話 復讐の協奏曲、終演

 国王による宣言は、絶対的な権威をもって玉座の間に響き渡った。 アルトマイヤー家の、完全なる名誉回復。 その言葉は、長きにわたり王都の貴族社会を覆っていた偽りの秩序に、終止符を打つ鐘の音だった。 一瞬の静寂の後、貴族たちの間から、堰を切ったような囁きが広がった。ヴァインベルク派として公爵に媚びへつらっていた者たちは、まるで自分の死刑宣告を聞いたかのように顔面を蒼白にし、その場に崩れ落ちんばかりに体を震わせる。一方で、これまで日和見を決め込んでいた者たちは、手のひらを返したように、我先にとセレスティナの勇気と聡明さを称える言葉を口にし始めた。「おお、さすがはアルトマイヤー公爵の血筋…!」「初めから、あの方の潔白を信じておりましたとも」 醜悪なほどに現金な変わり身だった。 その喧騒の中、ただ一人、時が止まったかのように立ち尽くす男がいた。 アラン・ベルクシュタイン。 彼は、王が頭を下げ、諸侯が称賛の声を送るセレスティナの姿を、呆然と見つめていた。純白のドレスを纏い、凛と立つその姿は、あまりにも気高く、美しい。かつて自分が婚約破棄を告げた、牢獄の中の無力な少女とは、まるで別人だった。 いや、別人になったのではない。あれが、彼女の本来の姿だったのだ。自分がその価値を見抜けず、自らの手で踏みにじり、捨て去った宝物。その輝きは、辺境の狼と呼ばれる男の手によって完璧に磨き上げられ、今や王国の誰よりも眩い光を放っている。 自分が選んだ道は、どうだ。ヴァインベルクに媚び、彼の権勢を傘に着て、一時の安寧と快楽に溺れた。その結果が、これだ。後ろ盾を失い、おそらくはヴァインベルク派として断罪されるであろう、惨めな未来。彼は、全てを間違えたのだ。後悔が、遅すぎた絶望となって、彼の全身を内側から食い破っていくようだった。  御前会議が終わると、王はセレスティナを私室へと招いた。 豪華だが、華美ではない、落ち着いた部屋。王は人払いをした後、セレスティナに椅子を勧め、自らも重い体をソファに沈めた。そこにはもう、玉座の上の威厳ある王の姿はなく、ただの疲れ切った一人の老人の姿があった。
last updateLast Updated : 2025-11-19
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