All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 忍び寄る影

 王都は、爛熟の極みにあった。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう、洗練された笑い声。先の戦争の傷跡など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのように見えた。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く、巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。「…と、いう次第でございます。あの成り上がりの狼めは、我々の提案を一笑に付し、この私を、まるで罪人のように辺境から追い立てました。全ては、あのアルトマイヤーの小娘の差し金に違いありませぬ!」 王都でも五指に入るといわれた大商人、ダーヴィト・フォン・ゲルラッハは、その肥え太った体を震わせ、屈辱と怒りに満ちた声で報告を終えた。数週間前まで辺境で見せていた傲慢な態度は見る影もなく、今はただ、主人の叱責を恐れる犬のように、主の顔色を窺っている。 ヴァインベルクは、窓の外に広がる王都の景色に背を向けたまま、黙って彼の報告を聞いていた。その手には、高価な水晶の杯が握られている。「…そうか。ご苦労だったな、ゲルラッハ」 やがて、ヴァインベルクはゆっくりと振り返った。その顔には、完璧なまでの穏やかな笑みが浮かんでいる。だが、その瞳の奥だけが、何の光も映さず、底なしの沼のように深く、冷たく淀んでいた。「下がってよい。この度の損失は、いずれ別の形で補填してやろう。暫し、身を隠しているがいい」「は、ははっ! ありがたき幸せにございます!」 ゲルラッハは、意外なほどの寛大な処遇に、何度も頭を下げながら、足早に部屋を辞していった。 一人残された執務室で、ヴァインベルクの顔から、すっと笑みが消えた。 次の瞬間、彼が手にしていた水晶の杯が、壁に叩きつけられ、甲高い音を立てて粉々に砕け散った。「……あの、虫けらどもが」 静かな部屋に、地を這うような低い声が響く。それは、彼の心の奥底から絞り出された
last updateLast Updated : 2025-09-21
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第52話 侍女の違和感

 辺境復興祭の熱狂が過ぎ去り、城と町には穏やかで、しかし確かな活気に満ちた日常が戻っていた。狼の道を通じて流入する物資は人々の生活を潤し、冬の厳しさの中にも、未来への希望が確かな灯火となって人々の心に宿っていた。それは、ライナスが力で築いた秩序の上に、セレスティナが慈愛で紡いだ絆が、見事に織り成された結果だった。 軍師執務室の窓から差し込む陽光は、春の訪れが遠くないことを告げているようだった。セレスティナは、机の上に広げられた辺境の地図を眺めていた。彼女の頭の中では、新たに発見された塩の鉱脈をどう活用し、辺境の経済的自立を促すかという、壮大な計画が組み立てられている。復讐という目的は変わらない。だが、今の彼女を突き動かしているのは、憎しみだけではなかった。この穏やかな日々を、この人々の笑顔を守りたい。その想いが、彼女の思考をより深く、より遠くまで見通させていた。 城での生活は、もはや彼女にとって軟禁などではなかった。そこは、彼女の知識と能力が最大限に発揮されるべき戦場であり、同時に、ライナスという唯一無二のパートナーの隣にある、かけがえのない我が家だった。 祭りの夜、焚き火の前で交わした不器用なダンス。城壁の上で、星空の下で交わした誓い。その記憶は、今も彼女の胸を甘く温めている。ライナスはあれ以来、あからさまな愛情表現こそしないものの、彼女に向けるその金色の瞳には、隠しきれないほどの深い信頼と、そして熱を帯びた独占欲が宿っていた。その視線を感じるたびに、セレスティナの心は幸福に震えるのだった。 そんな穏やかな午後、執務室の扉が控えめにノックされた。「軍師殿、失礼いたします」 入ってきたのは、側近のギデオンだった。その顔には、わずかな困惑の色が浮かんでいる。「どうかなさいましたか、ギデオン様」「いえ、大したことではないのですが。城内の人手が不足しておりましてな。特に、厨房や掃除といった雑務を担う者が。マルタ殿も、近頃は歳のせいか、少し辛そうですし」 侍女頭のマルタは、口では決して弱音を吐かないが、その仕事量は明らかに限界を超えていた。ライナスが腐敗した役人を一掃したことで、城の運営はクリーンになったが、同時に慢性的な人手不足という問題も抱えてい
last updateLast Updated : 2025-09-22
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第53話 狼の罠

 月が雲に隠れ、城の輪郭を闇に溶かしていた。 辺境伯の城は深い静寂に包まれ、城壁の上を巡回する兵士の足音だけが、凍てついた空気に時折響く。だがその静けさは、嵐の前の不気味な凪に他ならなかった。 軍師執務室の灯りは、夜が更けてもなお煌々とともっていた。セレスティナは机の上に広げられた羊皮紙から顔を上げ、窓の外の闇に目を凝らす。何も見えない。しかし、その闇の向こう側で、自分を狙う悪意が息を潜めているのを肌で感じていた。「…怖いか」 低い、落ち着いた声が静寂を破った。 振り返ると、部屋の隅の椅子にライナスが音もなく腰を下ろしていた。いつからそこにいたのだろうか。その存在感はまるで闇そのものが人の形をとったかのようで、セレスティナは一瞬心臓が跳ねるのを感じた。「いいえ」と彼女は首を横に振る。「怖いというのとは少し違います。ただ、これから起こることを思うと、肌が粟立つような心地がするだけですわ」 その言葉は強がりではなかった。数日前、新しく城に入った侍女リディアの些細な所作から、彼女が専門的な訓練を受けた間者であることを見抜いた時、確かに彼女は恐怖した。だがその恐怖をライナスに打ち明けた瞬間から、それは戦うべき敵への冷静な分析対象へと変わっていた。 ライナスはそんな彼女の心中を見透かしたように、静かに立ち上がった。そして彼女が広げていた城の見取り図を、その大きな手で指し示す。「罠は、整った」 彼の声には絶対的な自信が宿っていた。 セレスティナの報告を受けたライナスは、すぐに行動を起こした。彼はリディアを泳がせ、彼女が外部の仲間と接触するのを密かに監視させた。その結果、彼女がヴァインベルク公爵の放った暗殺者一味の手引き役であり、今夜セレスティナの寝室を襲撃する計画であることが判明したのだ。 そしてライナスは罠を張った。単純だが、それゆえに最も確実な罠を。「リディアは、お前の寝室へ続くこの西側の回廊が、今夜に限って手薄になるという偽の情報を掴んでいるはずだ」とライナスは説明した。「奴らはそこから一気に侵入し、お前を仕留める手筈だろう。だがその回廊の先で待ち受けているのは、手薄な警備ではな
last updateLast Updated : 2025-09-23
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第54話 抱擁

 時間の感覚は、とうに失われていた。  どれほどの時間が過ぎたのか、セレスティナには分からなかった。自室の扉が内側から乱暴に開けられる音、暗闇の中から現れた黒い影、そして夜の静寂を切り裂いた剣戟の響きと、男たちの断末魔の叫び。その全てが、まるで悪夢の出来事のように、彼女の頭の中で現実味のない残像となって明滅している。 今、彼女の部屋を満たしているのは、死そのものの匂いだった。  鉄錆のような生臭い血の匂いと、汗と、そして消えかけた命が最後に放つ、独特の獣じみた臭気。床には、黒い装束をまとった数人の男たちが、ありえない角度に手足を捻じ曲げ、動かぬ肉塊と化して転がっていた。壁には生々しい血飛沫が飛び散り、彼女が大切にしていた書物や羊皮紙の束が、無残にも血溜まりの中に沈んでいる。  そこは、もはや彼女の私室ではなかった。一夜にして、墓場へと姿を変えていた。  セレスティナは、壁際に立ち尽くしたまま、身じろぎ一つできなかった。目の前で繰り広げられた、あまりに濃密な死の光景に、彼女の思考は完全に麻痺していた。怖い、という感情さえ湧いてこない。ただ、目の前の現実を、理解することを脳が拒絶しているかのようだった。 そんな彼女の耳に、冷静で、しかし抑えきれない怒りを滲ませた声が聞こえてきた。 「…ギデオン。生き残りはいるか」 「はっ。三名捕らえましたが、いずれも舌を噛んで自決を。残りの五名は、ご覧の通りです」  ライナスと、側近であるギデオンの声だった。  ライナスは、部屋の中央に仁王立ちになり、忌々しげに床の死体を見下ろしている。その金色の瞳は、地獄の業火のように冷たく燃えていた。彼の全身からは、戦闘を終えたばかりの獣が放つ、危険な殺気が立ち上っている。 「所持品を改めろ。ヴァインベルクに繋がるものが、何かあるかもしれん。死体はすぐに片付け、この部屋を元通りにしろ。軍師殿が、不快な思いをされぬよう、血の一滴も残すな」 「御意」  ライナスの命令一下、鉄狼団の兵士たちが、音もなく部屋になだれ込んできた。彼らは、慣れた手つきで死体を運び出し、血の痕を拭い始める。その動きには一切の無駄がなく、恐ろしいほどに効率的だった。  セレス
last updateLast Updated : 2025-09-24
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第55話 黒幕の証言

 悪夢のような夜が明けた。 セレスティナの部屋は、鉄狼団の兵士たちの懸命な働きにより、夜明け前にはすっかり元通りになっていた。床は磨き上げられ、血痕ひとつ残っていない。壁の血飛沫も綺麗に拭き取られ、無残に汚れた書物や調度品も、いつの間にか真新しいものと交換されていた。まるで、昨夜の惨劇など、何もなかったかのように。 だが、セレスティナの心に刻まれた恐怖と、肌に残るライナスの腕の温もりは、あれが紛れもない現実であったことを、何よりも雄弁に物語っていた。 侍女のマルタは、何も聞かなかった。ただ、いつもより少しだけ優しい手つきで、セレスティナの髪を結い上げ、朝食のスープを差し出すだけだった。その無言の気遣いが、今のセレスティナにはありがたかった。 彼女は、窓の外に広がる穏やかな朝の景色を眺めながら、ゆっくりとスープを口に運んだ。味は、ほとんど感じなかった。 ライナスは、昨夜、彼女が落ち着くまでずっとそばにいてくれた。そして、彼女がようやく眠りにつくのを見届けると、「あとは俺に任せろ」とだけ言い残し、部屋を出て行った。 その言葉の意味を、彼女は理解していた。 これから、報復が始まるのだ。自分を傷つけようとした者たちへの、そして、その背後で糸を引く黒幕への、容赦のない狼の牙が。 その戦いは、きっと血生臭く、非情なものになるだろう。彼女の知らない、彼のもう一つの顔が、今、この城のどこかで現れているはずだった。 そのことを思うと、胸がかすかに痛んだ。彼に、自分のために、汚れた仕事をさせてしまっている。その罪悪感。だが、それ以上に、彼への絶対的な信頼が、彼女の心を支えていた。この人は、自分を守るためならば、どんな闇をも恐れない。 その頃、城の最も深く、冷たい場所。 地下牢へと続く石の階段を、ライナスとギデオンは、音もなく下りていた。松明の炎が、湿った壁と、二人の厳しい横顔を、不気味に照らし出す。空気は氷のように冷たく、黴と、そして絶望の匂いが満ちていた。 最奥にある、特別尋問室。その重い鉄の扉を開けると、中には一人の男が、手足を枷で拘束され、椅子に固く縛り付けられていた。 昨夜、セレスティナの部屋を襲撃した暗殺者た
last updateLast Updated : 2025-09-25
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第56話 見えざる毒牙

 暗殺者の襲撃という血生臭い事件は、しかし皮肉にも、城の中に確かな絆を育むきっかけとなっていた。あの夜、ライナスの腕の中で恐怖を吐き出し、彼の不器用な優しさに触れたことで、セレスティナを縛り付けていた最後の氷は完全に溶け落ちた。彼女はもう、ただ守られるだけのか弱い令嬢ではない。ライナスの隣に立ち、共に戦う覚悟を決めた、かけがえのないパートナーだった。 二人の関係の変化は、城の空気そのものを変えた。執務室で交わされる会話は、以前にも増して活発で、そしてどこか親密な響きを帯びている。ライナスはセレスティナの意見に真摯に耳を傾け、彼女の知識を絶対的に信頼した。セレスティナもまた、彼の決断を支え、その武骨な優しさを何よりの拠り所としていた。その姿は、周囲の目には、すでに辺境を治める若き王とその妃のように映っていた。 辺境の町は、束の間の平穏を謳歌していた。 狼の道を通じて物資は安定的に供給され、セレスティナが立案した薬草園の苗は力強く根付き始めている。腐敗した役人たちから取り上げた不正な富は、民の生活再建のために公平に分配された。人々は、冬の厳しさの中にも、確かな希望の光を見出していた。 だが、その光が強ければ強いほど、王都の深い闇の中で渦巻く憎悪もまた、その濃度を増していることを、彼らはまだ知らなかった。 最初の報せは、北の山麓にある小さな村からもたらされた。「閣下! 北のミルバッハ村より急報です! 村人の半数以上が、原因不明の高熱と咳に倒れたとのこと!」 執務室に飛び込んできた伝令兵の切迫した声に、ライナスとセレスティナは顔を見合わせた。「原因不明の熱病だと?」ライナスが低い声で問い返す。「この時期の風邪の類ではないのか」「それが、通常の風邪とは症状が異なると。一度熱が出ると決して下がらず、咳は血を吐くまで止まらぬと。すでに、数名の老人が命を落とした模様です」 その報告に、部屋の空気が一気に緊迫する。 セレスティナは、すぐに壁に掲げられた辺境の地図へと歩み寄った。ミルバッハ村。それは、先の戦争で大きな被害を受け、今もまだ復興が遅れている、最も貧しい村の一つだった。「…閣下。すぐに、城の医務班と、薬
last updateLast Updated : 2025-09-26
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第57話 古文書の中の光明

 辺境の空は、人々の心を映すかのように重く、低い雲に覆われていた。 城下に満ちていた復興祭の熱気は、見えざる敵の襲来によって跡形もなく消え去り、代わりに冷たい恐怖と疑心暗鬼が、じっとりとした霧のように町を包み込んでいる。原因不明の疫病は、ライナスが敷いた厳戒態勢を嘲笑うかのように、次々と新たな村へとその牙を剥いていた。死者の数は、日に日に増えていく。それはもはや、ただの数字ではなかった。パン屋の亭主の老いた父親、市場で花を売っていた娘、そして昨日まで元気に走り回っていたはずの幼い子供。人々の日常に、死はあまりに唐突に、そして無慈悲に訪れた。 軍師執務室の窓から差し込む光は弱々しく、部屋の中央に置かれた巨大な机の上を頼りなげに照らしていた。セレスティナは、その机に山と積まれた古文書の中から、顔を上げた。もう何日、ろくに眠っていないだろうか。目の下の隈は濃くなり、すみれ色の瞳は極度の疲労と集中で、熱を帯びたように潤んでいる。 だが、彼女はペンを置くことをしなかった。 数日前、ライナスと共に視察した村の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れなかったからだ。 人の気配が消えた通り、固く閉ざされた家々の扉。そして、唯一開いていた粗末な診療所から漏れ聞こえてくる、苦しげな咳と、家族の名を呼ぶうわごと。彼女が持ち込んだ薬草も、町の医者が施した治療も、その病の前では全くの無力だった。高熱に浮かされ、虚ろな目で彼女を見つめてきた老婆の手の感触が、まだ指先に残っているようだった。『聖女様…どうか、孫だけは…』 そのか細い声が、今も耳の奥で木霊する。 自分は聖女などではない。無力感と焦りが、彼女の心を容赦なく苛んでいた。(何かが、違う) 彼女は、目の前の羊皮紙に再び視線を落とした。 歴代の辺境伯が残した領地経営の記録、古い年代記、そして旅の僧侶が書き記した風土病に関する報告書。この城の書庫にある、病に関する全ての文献を、彼女はすでに読み尽くそうとしていた。 だが、どの記述も、今起きている事態とは決定的に異なっていた。 この土地の風土病は、そのほとんどが湿度の高い夏か、寒さの厳しい冬の初めに発生する。そ
last updateLast Updated : 2025-09-27
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第58話 聖女の仮説、英雄の実行

 夜明け前の静寂が、ライナスの執務室を支配していた。 机の上に広げられた古びた手記と、そこに描かれた一枚の地図。それは、絶望の闇の中に差し込んだ、あまりにも細く、しかし確かな光明だった。「見つけました、閣下」 セレスティナの声は、極度の疲労でかすれながらも、揺るぎない確信に満ちていた。彼女のすみれ色の瞳は、何日も続いた不眠不休の調査で潤み、熱を帯びている。だがその奥には、謎を解き明かした者だけが持つ、鋭い知性の光が燃えていた。 ライナスは、彼女が机の上に広げた証拠の数々を、食い入るように見つめていた。 病が発生した村々と、古い廃坑の地理的な一致。錬金術の書に残された、特殊な鉱物毒の記述。そして、その症状の、恐ろしいまでの一致。 点と点が、線として繋がっていく。それはもはや、ただの推測ではなかった。冷徹な論理と、膨大な知識に裏打ちされた、戦慄すべき仮説だった。「…人工病」 ライナスは、地を這うような低い声で呟いた。その言葉の響きには、ヴァインベルクという男への、底なしの憎悪が込められている。「奴は、人の命を何だと思っている。戦場で兵を駒として使い捨てるだけでは飽き足らず、今度は非力な民を、実験動物のように弄び、殺しているというのか」 彼の大きな拳が、机の上でギリ、と音を立てて握りしめられた。その全身から放たれる殺気は、部屋の空気を物理的に震わせるほどの凄まじさだった。 だが、セレスティナは臆さなかった。彼女は、彼の怒りを自らのものとして受け止めながら、冷静に言葉を続ける。「ええ。ですが、奴は同時に、命綱も用意していました。この毒には、特効薬となりうる植物が存在します。『月光草』。この手記によれば、その薬草は、この辺境のどこか、最も険しい場所に自生している、と」 彼女は、植物学者の手記に描かれた、銀色に輝く花の絵を指し示した。「これこそが、我々の反撃の狼煙です。敵の正体を暴き、その罪を白日の下に晒す。そして、我々自身の力で、人々を救うのです」 その声は、静かだった。だが、そこには、どんな鬨の声よりも力強い、不退転の決意が込められていた。 ライナスは、彼女の顔
last updateLast Updated : 2025-09-28
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第59話 解毒の処方箋

 軍師執務室の空気は、燃え尽きる寸前の蝋燭のように、静かで張り詰めていた。 夜明けの光が窓から差し込み、机の上に散乱する古文書の山に、長い影を落としている。その中心で、セレスティナは一枚の羊皮紙を手に、立ち尽くしていた。二百年以上前の植物学者が残した、古びた手記。そこに描かれた、月光の下で銀色に輝くという幻の花のスケッチ。『月光草』。 その文字が、彼女の疲れきった脳裏で、希望の鐘のように鳴り響いていた。 見つけた。 この見えざる毒牙から、人々を救うための、唯一の鍵を。 何日も続いた不眠不休の調査。その疲労も、絶望も、この発見の瞬間の高揚感の前には、遠い過去の出来事のように色褪せていく。彼女の心臓は、まるで長い眠りから覚めたかのように、力強く、そして速く鼓動を打っていた。 だが、その高揚感と同時に、新たな、そしてより現実的な問いが、彼女の思考を支配し始めていた。 この幻の薬草は、一体どこに。 手記の記述は、あまりに詩的で、そして曖昧だった。『狼の牙が届かぬ、天に近い場所』。 それは、謎かけのようだった。この辺境で、最も高く、最も険しい場所。だが、それだけでは、あまりに漠然としている。 彼女は、手記の地図と、壁に掲げられた辺境の詳細な地形図を、何度も見比べた。指先が、冷たい羊皮紙の上を滑る。山脈、谷、川の流れ。その全てを、頭の中に叩き込み、二百年前の植物学者の足跡を、必死に追体験しようと試みた。 彼の旅路は、北の山麓から始まっている。そして、彼は徐々に標高を上げ、やがて辺境で最も高く、神聖な場所とされる霊峰、『天剣山脈』へと足を踏み入れていた。「狼の牙が届かぬ…」 セレスティナは、その言葉を小さく口ずさんだ。 辺境の狼。それは、この土地に古くから生息する、獰猛な肉食獣。そして、その狼が最も恐れ、決して近づかない場所。それは、彼らの天敵である、巨大な猛禽類が巣を作る場所だった。 鷲。あるいは、鷹。 彼女の視線が、地図上の一点に、吸い寄せられるように留まった。 天剣山脈の中腹に位置する、一つの断崖絶壁。その場所には、古くから、こう
last updateLast Updated : 2025-09-29
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第60話 あなたのために

 出立の朝は、辺境の空には珍しく、雲一つない蒼穹が広がっていた。だが、その澄み切った空の青さは、これから挑む天剣山脈の峻厳さを、かえって際立たせているかのようだった。城内は、夜明け前から静かな緊張感に包まれていた。誰もが、これから始まる遠征が、ただの薬草採取などではない、この辺境の未来そのものを賭けた、命がけの戦いであることを理解していた。 セレスティナの部屋では、侍女頭のマルタが、いつもと変わらぬ無駄のない手つきで、彼女の身支度を整えていた。だが、その指先は、ごくわずかに震えている。「…本当に、行かれるのですな」 マルタは、セレスティナの髪を、丈夫な革紐で編み上げながら、低い声で尋ねた。その声には、非難ではなく、娘を戦場へ送り出す母親のような、痛切な響きがあった。「ええ」 セレスティナは、鏡に映る自分の姿を、真っ直ぐに見つめ返した。 そこにいたのは、もはや、すみれ色のドレスをまとった、か弱い令嬢ではなかった。ライナスが、この日のために特別に用意させた、体にぴったりと合った革のズボンと、動きやすい上着。腰には、薬草を採るための小さなナイフと、水筒が下げられている。その姿は、まるで熟練の狩人か、あるいは山岳の民の娘のようだった。「私が、行かねばなりません。マルタ」 そのすみれ色の瞳には、恐怖の色は微塵もなかった。あるのは、愛する者たちを守るために、自ら危険な戦場へ赴くことを決意した、戦士の覚悟だけだった。 マルタは、それ以上何も言わなかった。ただ、編み上げた髪に、小さな布製のお守りを、そっと結びつける。それは、彼女が故郷の神殿で、セレスティナの無事を祈って受けてきたものらしかった。「…閣下の、そして皆様の、足手まといにだけは、ならぬことです」 その、いつもと変わらぬ厳格な言葉こそが、彼女なりの、最大限の愛情表現であることを、セレスティナはもう知っていた。「ありがとう、マルタ。必ず、帰ってきます」 彼女は、マルタの手を一度だけ強く握りしめると、部屋を後にした。 城門の前には、すでに今回の遠征のために選抜された、十名の精鋭たちが整列していた。いずれも、先の戦争で山岳
last updateLast Updated : 2025-09-30
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