All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

向かいに座る悠人を前に、智美は息の詰まるような気まずさを感じていた。悠人も黙ったまま窓の外を眺めている。そんな二人をよそに、兄の和也が料理を注文していく。やがて、次々とテーブルに料理が運ばれてくる。真っ赤な唐辛子が浮かぶ料理ばかりで、濃厚なスパイスの香りが瞬く間に広がった。悠人の眉間に、さらに深い皺が刻まれる。喉を通せそうな料理が一品も見当たらない。彼にとって、それはまさに「災難」以外の何物でもない。重苦しい空気の中、いち早く動いたのは千夏だった。彼女はまず店員さんを呼び止め、白湯を持ってくるよう頼む。それから箸を手に取ると、赤い油にまみれた具材をつまみ、その白湯の中で優しく揺らし始めた。油がほとんど洗い流されたところで、彼女はそれを悠人の目の前にある取り皿に置く。「どうぞ。こうすれば、そんなに辛くないはずよ」目尻を下げて微笑む彼女の様子を、智美は複雑な思いで見つめていた。一目でわかる。彼女は悠人のことが好きなのだ。そして、彼のことをよく理解している。彼が辛いものを苦手だと知っているということは、きっと二人で食事をする機会も多かったのだろう。だが悠人は、彼女が取り分けた料理に手をつけようとはしなかった。千夏は少しだけ落胆した表情を見せたが、すぐに笑顔を取り繕う。「悠人くんは辛いものが苦手だもの、何か野菜料理でも追加で頼もうか」「いらない」短く答えると、悠人はテーブルで唯一辛くない冷菜──きくらげの和え物に箸を伸ばした。ちょうどその時、智美も同じ皿に箸を伸ばす。二人の箸が、まるで示し合わせたかのように空中でぴたりと重なった。互いの動きが、止まる。はっとして顔を上げると、視線が交わった。時間が、その瞬間だけ凍りついたかのようだ。智美の長いまつ毛が、微かに震える。悠人は、ただじっと彼女を見つめていた。深い海のような瞳に、言葉にならない感情が揺らめいている。先に視線を逸らし、箸を引いたのは智美だった。悠人は一瞬ためらう素振りを見せた後、何事もなかったかのようにきくらげを掴んで口へと運ぶ。その一連のやり取りを見ていた千夏は、鋭く眉をひそめた。何かがおかしい、と彼女の直感が告げている。悠人くんが極度の潔癖症なのは有名な話だ。幼い頃から、誰かが彼の食べ物に触れたり、食器に手が触れ
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第102話

周りにお邪魔虫が何人いようと、テーブルが苦手な辛い料理で埋め尽くされていようと、こうして智美の顔が見られるのなら、そんな不快感など取るに足らない。弟の返事を聞き、和也は心の中でほくそ笑んでいた。やっぱりな。悠人のやつが智美さんのために妥協することなど、お見通しだった。辛い料理どころか、たとえ目の前に毒を盛られたとしても、彼女がここにいる限り、こいつは迷わず飲み干すだろう。生真面目な弟をからかうのは、実のところかなり面白い。その時、唐辛子の強烈な辛さが喉を直撃し、智美は激しく咳き込んだ。込み上げる辛さを抑えようと、無意識に水を求めて手を伸ばす。慌てて手元のグラスに手を伸ばすが、手に取ったグラスは空だった。咳の苦しさに耐えながら、ポットはどこだろうとテーブルの上を探すより早く、すっと手が伸びてきた……悠人だ。彼は素早くポットを手に取ると、智美のグラスを水で満たした。智美は慌ててグラスを受け取り、一気に呷る。冷たい水が、焼けるように渇いた喉を潤していくのがわかった。ようやく落ち着きを取り戻した智美は、顔を上げて悠人に向き直る。「ありがとう」悠人はわずかに目を伏せ、墨のように深い瞳で静かに彼女を見つめていた。彼女の礼の言葉に、彼はただ短く「ああ」とだけ応えた。その光景に、千夏は目の奥が燃えるような嫉妬を覚えた。悠人くんは、女性に甲斐甲斐しく世話を焼くような男ではない。普段、女性のことなどまるで洪水か猛獣でも見るかのように避けている彼が、だ。それなのに今、自ら進んで、こんなにも細やかな気遣いを見せている。嫉妬で気が狂いそうだった。胸の中で嫉妬の炎が荒れ狂い、全身がおかしくなってしまいそうだ!彼女は、無造作を装いながらも探るような視線を智美に向け、唇に微かな笑みを浮かべて口を開いた。「智美さんって、こんなに美人だもん。もしかして、もう彼氏いるんじゃない?もしまだいないなら、紹介しましょうか?ちょうど私の幼馴染で、すごく優秀な男性が何人かいるのよ。智美さんにきっとぴったりだと思うわ!」言葉に込められた敵意を敏感に感じ取りながらも、智美は礼儀正しく、当たり障りのない笑みを返す。「お気持ちは嬉しいのですが、今は仕事に集中したくて、恋愛のことまで考える余裕がないんです」智美の答えを聞き、千夏はわずか
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第103話

その言葉が発せられた途端、智美の胸は激しく締め付けられ、馴染みのある息苦しさが再び込み上げてきた。まるで巨大な石が胸にのしかかり、呼吸を奪っていくかのようだ。刹那、悠人は電気が走ったかのように弾かれた動きで、千夏との間にさっと距離を取った。千夏の表情もまた、その瞬間に強張り、浮かべていた笑みが凍り付いた。しかし、彼女はすぐに我に返ると、崩れ落ちそうな表情を必死に笑顔で取り繕った。だが、千夏が再び口を開き、彼女と悠人の親密さを演出しようとするよりも早く、悠人は何の前触れもなく立ち上がった。その表情は感情の読めない、ひどく冷たいものだった。「少し席を外す」そう言い残し、彼は振り返ることなく化粧室の方へと歩いていった。悠人の姿が遠ざかるにつれ、千夏の顔にかろうじて残っていた笑みも、ついに支えきれずに崩れ去った。今の彼女の表情は、凍てつくように冷え切っている。憎悪に満ちた視線が、傍らの智美へと突き刺さった。一方、智美は目の前の料理に目を落としていたが、食欲はまったく湧かなかった。彼女は手にしていた箸を置くと、祥衣に向かって淡々と言った。「ごめんなさい、もうお腹いっぱいです。お先に失礼します」言うが早いか、彼女は席を立ってその場を後にした。智美の言葉に、祥衣と隣にいた美羽は思わず顔を見合わせた。今の智美が明らかに不機嫌であることに、二人とも気づいていた。やはり、智美は悠人に好意を抱いているのだ。そして先ほどの千夏に対する悠人の冷たい態度を見れば、彼もまた智美のことを気にかけているのだろう。明らかに両想いなのに、どうしてこうもぎこちないのか。二人の仲を応援しているこちらが、じれったく感じる。悠人が席に戻ると、智美の姿がないことに気づき、わずかに表情を曇らせた。さらに隣の千夏に目をやり、彼の機嫌は一層悪くなった。いてほしい人間は去り、いてほしくない人間が居座っている。この店の料理は元々口に合わない。ならば、これ以上ここに留まる理由もなかった。彼は腕時計に目を落とし、和也に告げた。「もう遅い。俺も失礼する」そう言うと、和也の返事を待たずに身を翻して去っていった。目的を果たした和也は、悠人を引き止めなかった。智美が悠人に特別な感情を抱いていることは、もう探り当てたのだ。あとは悠人がもう
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第104話

三年に及んだ結婚生活を思う。かつての祐介は、自分に対して常に冷酷だった。彼の心は千尋にあり、彼女とずるずると関係を続けていた。そして千尋が原因で、祐介は何度も何度も、智美を深く傷つけたのだ。智美は、この結婚生活に終止符を打つことを決意した。これでようやく祐介がもたらす影から完全に解放されるはずだったのに、離婚した今もなお、彼は自分を解放しようとしない。祐介は自分の母を盾に、自分をこの息の詰まる家に縛り付けている。そこまで考えたところで、彼女の表情に疲労の色が浮かんだ。この男とやり直すつもりなど毛頭ない。ただ、彼との縁を完全に断ち切り、二度と会わずに済むことだけを願っていた。「結構よ。今夜は帰らないわ」彼女の声は、氷の欠片がこぼれ落ちそうなほど冷え切っていた。祐介は眉をひそめ、その目に不快な色がよぎった。「それなら、お義母さんに説得してもらうしかないな、智美。分かっているだろう?お義母さんの今月の健康診断の日が近い。もし俺たちの間のこんな些細なことで病院へ行くのが遅れて、万が一何か問題が起きたら……本当に、俺たちのせいで彼女が自分の体を蔑ろにするのを見ていられるのか?その時、もし彼女に何かあったら、君はそれで平気なのかい?」その言葉に、智美は怒りで頭に血が上り、心の中で祐介の卑劣さを罵った。しかし、母の体を思うと、心の怒りを無理やり抑え込むしかない。彼女は歯を食いしばり、その隙間から絞り出すように言った。「……分かった。帰るわ」一言一言に、全身の力を振り絞るかのような、抑えきれない怒りが込められていた。一方、祐介は上機嫌に応えた。「それでいいんだ、智美。今夜、待ってるよ」智美は怒りに任せて電話を切った。夕方、祥衣が用事があるからと先に帰ることになり、一緒に帰らないかと誘ってくれた。智美は祐介と顔を合わせたくなくて、「先に帰って。もう少し仕事がしたいから」と断った。祥衣は無理強いせず、去り際に言い添えた。「そういえば、玄関のスマートロック、まだ新しいのに交換してないから。外から施錠されると中から開けられないの。閉じ込められないように気をつけてね」智美は頷いた。「分かった、先輩」祥衣は帰っていった。智美はオフィスの片付けを続けた。不意に、遠くから近づいてくる足音が聞こえ、それは扉の
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第105話

智美の元々冷ややかだった表情は、さらに冷たく凍りついた。その眼差しは、一層の冷たさを増している。彼女はわずかに顎を上げ、言い放った。「私の私生活がどうであれ、あなたに指図される筋合いはないわ。もし他に用がないのなら、今すぐ目の前から消えてちょうだい!」その言葉に、千夏の怒りが一気に燃え上がった。彼女は目を見開き、智美の無表情な顔を睨みつけた。これほど面の皮の厚い女だとは思わなかった。怒りと羞恥に駆られた千夏は、勢いよく前に踏み出すと、右手を振り上げ、智美の頬を打とうとした。しかし、その手のひらが頬に触れる寸前、智美の手が素早く伸び、振り下ろされた手首を寸分の狂いなく掴み取っていた。智美の口角がかすかに動き、嘲るような笑みが浮かんだ。「森下さん、あなた、馬鹿なの?それとも性根が腐っているのかしら。あなたと岡田さんは恋人ですらないのに、そんな正妻顔で威張っていいの?言わせてもらえば、ここで私に牙を剥く暇があるなら、どうすれば彼があなたと付き合ってくれるか、よく考えた方がいいんじゃない?好きな男を射止められないからって、他の女に当たり散らすなんて。あなたみたいな人、本当に哀れね」千夏には、その言葉がまるで鋭い刃で心臓を抉られたかのようだった。彼女の顔色はみるみるうちに険しくなり、憎悪に染まっていった。智美を殴りつけようとしたが、掴まれた手首はびくともしない。次の瞬間、智美は強い力で彼女を突き放した。千夏は無様に床に尻餅をついた。智美は冷ややかに告げた。「二度と私に近づかないで。私はあなたの好き勝手にされるほど弱くはない。窮鼠猫を噛む、とも言うでしょう?」そう言い終えると、床に座り込む千夏には目もくれず、自分の作業に戻った。手も足も出なかったことで、千夏の怒りはさらに燃え盛った。その時、彼女は先ほど廊下で耳にした祥衣の言葉を思い出した。玄関は外から施錠すると、中からは開けられない、と。それに、このフロアへ来る前、エレベーターの壁に貼られた告知も目にしていた。夜の十一時に停電になる、と。つまり、ドアに鍵さえかければ、智美をこのオフィスに一晩中閉じ込めておけるのだ!智美がピアノの整理に背を向けている隙に、千夏は机の上に置かれた彼女のスマホに目をつけた。そして、素早くそれを盗み取ると、足音を忍ばせてその場
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第106話

智美の両手はカタカタと震え、額にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。心に巣食う恐怖が堰を切ったように溢れ出し、彼女の意識を呑み込んでいく。その場にずるずるとしゃがみ込み、頭を抱えると、体の震えがもう止まらない。その頃、祥衣は美羽に電話をかけていた。すぐに、スピーカーから美羽の声が聞こえてくる。「もしもし、祥衣ちゃん?」祥衣の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。「美羽、さっきから智美ちゃんに電話してるんだけど、全然繋がらないの。もしまだビルにいるなら、ちょっと様子を見てきてくれない?」美羽はちょうどデスクの上を片付け、帰ろうとしていたところだった。大野法律事務所の弁護士たちは皆、仕事の鬼だ。残業など日常茶飯事だった。今日は停電のおかげで、珍しく早く帰れることになったのだ。美羽は二つ返事で答える。「うん、いいよ!どうせまだビルの中だし。階段で上がって見てくるね」そう言って、整理しかけていた書類を置くと、階段へと向かった。その時、すでに帰り支度を終えていた悠人が、偶然にも美羽たちの会話を耳にする。胸に、ずしりと重い予感が突き刺さった。足を止め、眉を寄せて尋ねる。「智美さんがどうかしたのか?連絡が取れないと聞こえたが」美羽は、悠人の険しい表情に頷いた。「祥衣ちゃんが何度電話しても繋がらないから、様子を見てきてほしいって頼まれたの」悠人の心臓が、どくんと嫌な音を立てた。「君はもう帰っていい。俺が見に行く」声こそ平静を装ってはいるが、その実、内心の不安は隠しようもなかった。言い終わるか終わらないかのうちに、悠人は階段を駆け上がっていた。何度も智美の番号を呼び出すが、無機質な呼び出し音が虚しく響くだけで、彼女が出る気配はない。芸術センターのあるフロアに近づくにつれ、胸の鼓動はさらに激しくなっていく。その時だった。聞き覚えのある着信音が、どこからともなく聞こえてきた。──ゴミ箱の中から。悠人は駆け寄り、スマホのライトで中を照らす。着信を受け、画面を明滅させる一台のスマホが、そこに無造作に転がっていた。間違いなく、智美のものだ。一体誰が、何のために……?思考を巡らせる暇はない。悠人はスマホを拾い上げると、智美のオフィスへと走った。智美は冷たいドアに身を預け、涙で視界が滲んでいた。もう誰も
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第107話

悠人の視線が、思わずその画面に落ちる。表示された名を見た瞬間、彼の心臓が軋むような音を立てた。彼は拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込み、ちりちりと痛んだ。胸を焼くような、これまで感じたことのない激しい嫉妬──それでも、長年培ってきた理性が、かろうじてその感情を捩じ伏せる。悠人はゆっくりと立ち上がると、窓際へと歩いていった。一歩一歩が、鉛のように重い。静まり返った空間に、着信音はまるで警告のように鳴り続けている。ソファに座る智美の顔は真っ青だった。何度も躊躇した末、震える指で通話ボタンに触れる。電話の向こうから、祐介の怒りと嫉妬が混じった怒号が鼓膜を突き破った。「智美、どういうつもりだ!今日は家で夕飯だと約束しただろうが!今どこにいる!? まさか、あの岡田とかいう男と一緒じゃないだろうな!ふざけんなよ!後悔させてやるからな!」智美は、つい先ほどまでの恐怖からまだ立ち直れていなかった。心の傷は生々しく、感情の波は未だ荒いままだ。そこへ、追い打ちをかけるようなこの電話。ただでさえ脆くなっていた神経が、ぷつりと切れさせた。今の智美には、自分が深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。途方もない疲れが千斤の重石のようにのしかかり、息をすることさえ、ひどく苦しい。彼女は通話が切れたスマホを眺めたまま、魂が飛んだかのようにその場に固まってしまった。祐介は彼女の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。怒りに任せて一方的に電話を切る音と叫び声が、まだ智美の耳の奥で反響している。けれど、電話が切れた瞬間、智美はむしろ安堵していた。腕を緩め、力なくソファに身を沈め、虚ろな目で宙を見つめる。祐介の怒りなど、今さら驚きはしない。彼との記憶は、まるで悪臭を放つゴミのようだ。思い出すたびに、吐き気がこみ上げてくる。すべての記憶の断片、一緒にいる思い出のすべてが、悪夢のように心に絡みつき、消えてくれない……それなのに、運命の悪戯か──どれだけ憎んでも、彼から完全に逃れることができない。あの時、祐介は確かに誓ったはずだ。「君のために変わる」と。今思えば、あれは彼女を繋ぎとめるための、汚い嘘だった。この男は、どこまでも自分勝手で、自分の欲望と利益しか見えていない。他人を思いやる心など、最初から持ち合わせていなかったのだ。悠
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第108話

彼は、彼女にそんな他人行儀な態度を取ってほしくなかった。「あれだけのことがあっても、まだあの男のところへ帰るつもりか」悠人の物言いは相変わらず単刀直入だ。一瞬、何もかも投げ出して、彼女を祐介から力ずくで引き離したい衝動に駆られた。だが──彼女が、自分の言葉に素直に従うはずもない。智美は、力なく笑みを浮かべた。「母が、まだあの家にいるの。それに、彼は今、母をうまく言いくるめていて……母を一人であそこに残すわけにはいかないわ。もし何かあったら……だから、彼がどんな人間か分かっていても、帰らなければならない」「自分が危険だとは思わないのか」短気で、暴力的。思い通りにならなければ、簡単に理性のタガが外れる男。悠人は弁護士として、そういった人間を嫌というほど見てきた。だからこそ、智美があの男のもとへ帰ると聞いて、居ても立ってもいられなかった。智美は少し躊躇ってから、静かに答えた。「これは私の問題なので。自分で何とかするわ。お気遣いなく……それに、今日は本当にありがとうございました」繰り返される拒絶に、悠人の胸に苛立ちが募っていく。二人は恋人ではない。だが、自分の想いに、彼女は本当に気づいていないのだろうか。彼女は一人で全てを抱え込み、こちらに頼ろうとさえしない。拒まれるたびに、胸が締め付けられるようだった。結局、悠人は智美を家まで送ることにした。家の前で車を降りる智美。ドアを静かに閉めると、無理やり笑顔を作った。「送ってくれて、ありがとうございました。それでは……」しかし悠人は、運転席でじっと前を見据えたまま、何も言わなかった。その冷たい眼差しに、智美は胸が痛む。自分が彼を怒らせたことは分かっていた。だが、今はもう、何も言えなかった。そのまま身を翻し、渡辺家の屋敷へと歩き出す。悠人は、智美の背中が見えなくなるまで、車の中からじっと動かずにいた。複雑な思いを心に秘め、ハンドルを握る手に、ギリ、と力が入る。彼の底知れぬほど昏い眼差しは、智美が去っていったその一点を、いつまでも捉えていた。車もまるで時が止まったかのように動かない。一時間が過ぎて、ようやく悠人は重いアクセルを踏んだ。家の中は、静まり返っていた。母も山内さんも、もう寝てしまったのだろう。智美はそっとドアを開け、音を立てないように中へ入る
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第109話

次の瞬間、祐介は容赦なく智美の体をソファの方に突き飛ばした。ソファに叩きつけられた智美の体が、鈍い音を立てる。ソファの背もたれに頭を激しく打ち付け、視界が一気に歪んだ。目の前に星が散り、意識が朦朧とした。そこへ──獣のように、祐介がのしかかってきた。太い指が、智美の華奢な首筋に深く食い込む。「こんな時間まで……どこの男とほっつき歩いてたんだ!?」祐介の怒声が、耳をつんざく。全身の力を使い果たしてしまいそうだった。そして息が、できない。智美は必死にもがいた。目の前の悪魔のような男を、両手で突き放そうとする。だが、力の差は歴然としていた。どれだけ抵抗しても、祐介の体はびくともしない。智美は咄嗟に手を伸ばし、傍にあったクッションを掴むと、無我夢中で彼に叩きつけた。何度か殴りつけると、ようやく圧力がふっと緩み、祐介は首から手を離した。呼吸ができると、智美は激しく咳き込みながら、躊躇いなくよろめく足で自分の部屋へと逃げ込もうとする。部屋に駆け込み、ドアを閉めようとしたその時。凄まじい力で、ドアが押し返された。祐介が、亡霊のようにすぐそこまで迫っていた。太い腕がドアの隙間に差し込まれ、閉じることができない。二人の間には、ただ細いドアの隙間があるのみ。そのわずかな隙間から覗く、祐介の暗い瞳。まるで底なしの沼のような、冷たい瞳に、背筋が凍りつく。そんな眼差しを浴びる智美の全身がわなないた。額に、背中に、じっとりと冷や汗が噴き出す。汗で張り付いた服が、ひどく不快だった。三年間の結婚生活で、祐介が荒れ狂う姿は何度も見てきた。彼は体の痛みに耐えきれず、感情の制御を失うことがあった。それで智美が理由もなく怒鳴られ、突き飛ばされ、罵られた。けれど、どんなに酷い時でも──最後の一線だけは、守られていたはずだった。彼女を、そこまで深く憎んではいなかった。しかし今日は、違う。祐介の目に宿っているのは、紛れもない殺意。智美にとって、それは初めてのことだ。その殺意は鋭い刃そのもので、彼女の心臓を貫くように向けられ、未曾有の恐怖と絶望を感じさせた。「妻を殺害した夫」というニュースが、不意に脳裏をよぎる。膝が、がくがくと震えて立っていられない。祐介は、ドアの隙間から、じりじりと身体をねじ込んでくる。悲鳴を上げよ
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第110話

次の瞬間、頬に焼けるような痛みが走った──平手打ちだった。乾いた音が、狭いバスルームに響き渡る。祐介は智美の頬を張り倒し、凄まじい剣幕で詰問した。「言えよ!なぜ俺を裏切った!俺が君に何をしたって言うんだ!よくも浮気なんて真似を!」罵声と共に、もう一発。頭がぐらぐらと揺れる。意識が遠のきそうになった。智美は冷たい床に膝をついていた。全身に染み渡る冷たさよりも、じりじりと熱を持つ頬の痛みの方が、遥かに辛い。その時──彼女の手が、何かに触れた。床に置かれたボディソープのボトル。溺れる者は藁をも掴むように、智美はそれを強く握りしめる。そして、ありったけの力を込めて──祐介の頭部めがけて投げつけた。ゴッ、と鈍い音が響く。ボトルは祐介の頭に命中し、白い泡が辺りに飛び散った。強い衝撃か、あるいは別の何かで、祐介の体が、ぐらりと揺れる。そして──そのまま、ゆっくりと後ろへ倒れ込んだ。床に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなる。その光景に智美は一瞬息をのんだが、すぐに我に返った。――今こそが、逃げ出すための絶好の機会なのだと。彼女は痛みと恐怖感をこらえて立ち上がり、よろめきながらドアへと走った。部屋の外へ転がり出ると、すぐさまドアを閉めて鍵をかけた。祐介が不意に目覚めて追いかけてくることを、ひどく恐れていたのだ。背中をドアに押し付け、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返した智美の心臓が、張り裂けそうなほど激しく脈打っている。その夜、彼女は別のゲストルームで夜を明かした。ドアに鍵をかけ、念のために椅子でバリケードを作った。びくびくしながら一夜を明かした。翌朝、山内さんがドアをノックする音が聞こえた。マスクをつけてドアを開けると、山内さんの心配そうな顔が目に飛び込んでくる。「奥様、昨夜旦那様と何か……?今朝、旦那様のお顔に怪我があったものですから……病院へ行かれました」智美は、詳しい説明はしなかった。この家の防音性が高いせいで、山内さんは昨夜の惨状に気づいていないのだろう。だが、祐介が自分を殴った痕は、この顔に確かに残っている。この傷があれば、母を説得できるかもしれない。一緒にここから出るために。その時、彩乃はリビングで朝食の準備をしていた。娘の姿を認めると、その顔に不満の色が浮かぶ。「昨夜はどうして帰ってこなか
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