All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

智美は冷たい表情のまま立ち去った。祐介は追いかけず、拳を握りしめてその背中を見送った。健太郎は必ず陰で智美に復讐するだろう。どれだけ持ちこたえられるか見ものだ。いずれ苦しい目に遭えば、きっと俺のところに助けを求めてくるはずだ。千尋が祐介を探して外に出てきた。「祐介くん、どうして外にいるの?中に入って、一緒にアフタヌーンティーをしましょうよ」祐介は顔の怒りを引っ込め、うなずいた。「今行く」千尋は彼の手を取り、不安そうな声で言った。「山田先生と智美さんの間にちょっと誤解があるみたいで……智美さんが山田先生に意地悪されないか心配なの。祐介くん、悠のために、腕のいいお医者さんをお願いしてみたら?悠が早く治れば、山田先生も智美さんへの怒りを収めるはずだわ」祐介は悠が以前智美にちょっかいを出したことを思い出し、あまり彼を戻したくはなかった。だが千尋にこう頼まれては断れない。「わかった」彼はアシスタントに命じ、大桐市で一番の医療チームを悠に手配させた。伊藤が尋ねた。「もし悠さんのケガが治って楽団に戻ったら、きっと奥様に復讐しますよ。社長、奥様がまたいじめられるのを、黙って見ていられるんですか?」祐介は心の中では智美を案じつつも、平然とした口調で答えた。「怖いと思えば、あいつは戻ってくるさ。だいたい、あれだけ腕があるんだ。悠ごときに、何ができる?」彼は智美に何度も平手打ちされた記憶を思い出した。今の智美は以前よりずっと手強い。悠は回復すると楽団に戻ってきた。彼は片方の睾丸を損傷し、生殖能力にも大きな影響が出ていた。その表情は陰鬱でどこか凄みさえ漂った。その怪我の噂は楽団中に広まっており、誰も彼に近づこうとしなかった。智美は彼がいつも毒蛇のような冷たい目で自分を見ているのを感じ、内心落ち着かなかった。だからなるべく接触を避け、仕事が終わればすぐ帰るようにしていた。祐介は最近千尋の見学によく訪れていた。悠の姿を見ると腹が立ったが、もうほとんど廃人同然の彼を見て、その怒りも半分は収まった。楽団は次にC市での公演を控えており、全員が練習に力を入れていた。智美は正式な出演はできないが、リハーサルの付き添いや、C市へ行く必要がある。C市のホテルに落ち着くと、短い自由時間を利用して
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第72話

彼女は必死に起き上がって逃げようとした。だが、悠の動きのほうが速かった。彼は歩み寄ると負傷した彼女の左手を踏みつけた。骨が砕ける音がした。恐怖と激痛が全身を襲い、智美の体は震えた。悠はその苦痛に歪む顔を恍惚とした表情で見下ろした。「痛いか?俺はあの時、お前の何千倍も痛かったんだぞ!ピアノがそんなに好きなんだろ?一生弾けなくしてやる!」智美は歯を食いしばったまま、震える手で床に落ちていた毛布を掴み、勢いよく引いた。悠はバランスを崩し床に倒れ込んだ。智美は椅子に手をかけ、息を荒げながらどうにか立ち上がった。そしてその椅子を力いっぱい彼の上に押し倒した。それだけやり切ると、彼女は足を引きずりながらも急ぎ、スタジオを飛び出した。廊下には誰もいなかった。悠は正気を失っていた!追いかけられるのが怖くて、エレベーターへ向かって早足になった。エレベーターの扉が開き、すぐに中へ入り一階のボタンを押した。閉まりかけた扉が再び開き、人影が立っていた。心臓が跳ね上がった。しかしその顔を見て智美は息をついた。祐介だった。彼は彼女の惨めな姿に眉をひそめ、中へ入ってきた。「どうしたんだ?体調が悪いのか?そうだ、千尋ちゃんを見なかったか?彼女、テレビ局でリハーサルをしていて体調を崩したらしい。俺は大桐市から飛んできたんだが、見つからなくてな。居場所を知らないか?」智美は痛みで力が入らず、浅く息をしながら答えた。「さっき悠に襲われたの。早く警察に通報して、彼を捕まえて。それと私、体調がかなり悪いから、救急車も呼んで」その時、祐介の携帯が鳴った。相手は千尋だった。受話口から、鋭く恐怖に満ちた声が響いた。「祐介くん!助けて!悠に会ったの!彼、智美さんが見つからないからって、私を殴ろうとしてる!」祐介の顔色が一変した。智美を振り返り、怒気を含んだ声をぶつけた。「悠が暴れてるって知ってたのか?それなのに千尋ちゃんを一人で上に残したのか!」エレベーターが一階に着くと、彼は怒りのまま智美を乱暴に押し出し、すぐさまボタンを押して上階へ向かった。智美は元々全身が痛く、気力だけで立っていた。その一押しで、床に叩きつけられた。痛い。だが、このまま倒れてはいられない。必死に這い進み、警備
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第73話

祐介は、智美の冷たい態度に少し胸を痛めた。まさか悠がここまで卑劣な手を使うとは思ってもみなかった。「一番腕のいい医者を呼ぶ。きっとすぐによくなるから」智美は背中だけを見せたまま短く言い放った。「出ていって」それでも祐介は動かず、立ち上がって水を注いだ。「俺がここに残って面倒を見る。もう拗ねるのはやめろ」智美は何も返さなかった。病室の外では千尋が険しい顔で二人の様子を見ていた。彼女はさきほど悠に協力して、蓮の携帯を盗んた。智美を徹底的に潰してくれるはずだった。しかしあの役立たずは失敗した。腹立ちまぎれに悠を挑発したところ、逆上した悠が今度は彼女に牙を剥いた。蹴り飛ばしてようやく逃げ出し、慌てて祐介に電話をかけた。祐介が約束通りC市まで来てくれていて本当によかった。そうでなければ、今ごろ自分のほうが智美よりひどい目にあっていたに違いない。彼女は悠の無能さを恨み、そして智美のしぶとさをも憎んだ。なぜあの女はさっさと消えてくれないのか。祐介は病室を出ると智美の主治医を探し出し、怪我の具合を尋ねた。医者は検査結果を見せながら説明した。「手の骨は軽い骨折です。三か月以内に回復しますし、リハビリを行えばもっと早く元通りになります」祐介は、ふと低い声で言った。「彼女に、もう二度と完全には治らない、細かい作業はできないと伝えてもらえませんか」医者は眼鏡を押し上げ、真顔で答えた。「そんなこと、私には言えません」祐介は小切手を取り出し、数字を書き込んだ。「2千万。たった一言です。悪くない取引じゃないですか?」医者は小切手を見つめ、唾を飲み込んだ。そして、逡巡の末にうなずいた。「……わかりました」祐介は口元をわずかにゆがめた。「では、お願いします」病室で休んでいた智美は、回診に来た主治医に尋ねた。「先生、私の手は元通りになりますか?」医者の視線が一瞬揺れ、その後、深刻そうに言った。「骨折はかなり重く、回復には三か月から半年はかかります。リハビリをしても、今後は細かい動きが難しいでしょう」智美の頭の中で、何かが鈍く響いた。呆然としたまま、かすれた声で聞いた。「……ピアノは、弾けますか?」「それは回復の経過次第です」直接的な否定はなかった。だが
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第74話

蓮から智美が事故に遭ったと聞いた瞬間、悠人の胸は何かに締め付けられたように苦しくなり、息が詰まりそうになった。彼はすぐにC市行きの航空券を予約した。智美は蓮の練習を邪魔したくないと、代わりに看護人を頼んだ。夕食を終え、看護人と一緒に検査へ向かった。ぼんやりと病院の廊下を歩いていたとき、エレベーターから降りてくる人影が目に入った。その人物は足早にこちらへ向かってきた。悠人だった。C市は大桐市より十数度も気温が低いのに、彼は薄手のコート一枚だけ。智美は驚きの声を上げた。「どうしてここに?」彼は彼女の青ざめた顔と、包帯の巻かれた手を見ると胸の奥が鋭く痛んだ。歩み寄るとそのまま抱きしめた。彼の体に宿る冷気に包まれ、智美は思わず震えた。「傷はまだ痛むか?」冷たさが伝わらないよう、彼はすぐに腕を離した。智美はもう気持ちを整えていたはずだった。けれどその優しい一言で、こらえていた涙が溢れ出した。彼は黙って涙をぬぐい、彼女が辛そうにしているのを察して、それ以上は何も聞かなかった。そのまま彼女に付き添い検査を終えた。帰り道、智美は小さな声で言った。「お医者さんにもうピアノは弾けないって言われたの」悠人の瞳がわずかに暗くなった。そして、そっと彼女の肩に手を置いた。「そんなこと、絶対にさせない」その夜、彼は智美が眠るのを見届けてから、兄に電話をかけ海外でも最高の整形外科医を手配してもらった。翌朝智美が目を覚ますと、悠人は転院の手続きを済ませていた。「中央病院に行こう」中央病院は岡田家が出資している病院で、C市にも支院がある。設備はすべて海外の最先端で、今いる病院よりはるかに整っていた。智美はその申し出を断らなかった。転院して二日目、和也が招いた整形外科医が到着し、改めて検査が行われた。報告を見た医師は、悠人と智美に向かって告げた。「智美さんの骨折はそれほど深刻ではありません。最長でも三か月で回復します。きちんとリハビリを行えば、将来ピアノを弾くのも問題ありません」「本当ですか?嘘じゃないですよね?」智美の表情は、悲しみから一転して喜びへ。だが、すぐに疑念が浮かんだ。このお医者さんは悠人が私を安心させるために?半信半疑で尋ねた。「先生、私を
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第75話

主治医はすでに祐介に口止め料を受け取っていたため、とても彼の名を出す勇気などなく、口ごもって何も言えなかった。智美はその様子を見て、鼻で笑った。「そうですか。そんなに口が固いなら、院長に直接話すしかないみたいですね」立ち上がってドアへ向かうと、主治医は慌てて彼女を呼び止めた。「わ、わかりました!言いますから、院長には言わないでください!」主任医師の座を得るまでに、どれだけの年月を耐えてきたか。たった二千万のために失うわけにはいかない。最初から、欲をかいて受け取るべきではなかったのだ。「渡辺社長に頼まれたんです」その名を聞いた瞬間、智美は奥歯を強く噛みしめた。やはり彼だった。前から薄々感じてはいたが、証拠がなく確信できなかっただけだ。彼女はブラックリストから祐介の番号を外し、電話をかけた。ちょうど智美が急に転院したことで落ち着かずにいた祐介は、画面に彼女の名が表示されると一気に表情が和らいだ。「智美、どこにいるんだ?心配してたんだぞ」彼女の声は、まるで氷を含んだ刃のように冷たかった。「祐介、会って話そう」「……ああ、わかった」二人は病院近くのカフェで落ち合った。ほどなくして彼が現れ、包帯で覆われた智美の手を見るなり眉をひそめた。「どうして怪我してるのに動き回るんだ。傷が悪化したらどうするつもりだ?」智美は冷たい眼差しを向け聞いた。「私の前の主治医を買収して、手はもう治らないって言わせたのは、あなただったの?」彼は一瞬も迷わず答えた。「そうだ。俺だ」「……どうして?」理解できない。なぜそんなことを。祐介は歯を食いしばり、言い放った。「君のためだ」「私のため?」声が震えるほどの怒りがこみ上げた。「あの診断を聞いた夜、私がどれほど泣いたか知ってる?どれほど絶望したか、わかってる?あなたに私の診断を勝手に変える権利なんてあると思ってるの?」一瞬、彼は気まずそうに視線を逸らした。だがすぐに、彼女が怪我をしたのは仕事のせいだと思い直し開き直った。「君もわかってるだろ。あの仕事は君にとって害しかない。君の周りには危険な奴らが山ほどいる。将来また怪我をしない保証なんてないんだ。だから俺は君を辞めさせたかった。それだけだ」智美の顔は怒りで赤く染まった。「あなたは一
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第76話

翔太の楽団は、彼女にとって音楽の夢を叶える絶好の舞台だった。しかし、その運営責任者の一人が健太郎である以上、ここに残ればこれからの生活はさらに苦しくなるに違いない。智美が迷っていると祥衣が口を開いた。「よく考えてみなさい。そうだ、私ね、近いうちに独立して起業しようと思ってるの。一緒にやらない?」祥衣の提案は智美の心を大きく揺さぶった。手の怪我が治るまでには、まだ数か月かかる。今はピアノも弾けない。祥衣と一緒に起業すれば、新しい道が開けるかもしれない。ただ、今回の翔太との勉強の機会を失うのは惜しかった。「少し考えさせてください」「分かったわ、返事を待ってる」祥衣はそう言って、智美の肩を軽く叩いた。しばらくして、今度は蓮が見舞いに来た。彼は悠が懲役五年の判決を受けたことを伝えた。「山田先生は最近ずっと機嫌が悪くて、よく俺たちに八つ当たりしてるよ。君はしばらくゆっくり休んで。翔太さんが戻ってくれば、もう怖がる必要はないよ」智美はうなずき、礼を言った。「怪我をしたときも、あなたのおかげで助かったわ」蓮は少しバツが悪そうに笑った。「いや…あのとき俺の携帯を悠に取られなければ、君は怪我なんてしなかった。俺の不注意だよ」「悪いのは悠ひとりだよ。あなたのせいじゃない」彼女が全く責める気がないことを知って、蓮はほっと息をついた。蓮が帰ってまもなくして悠人がやって来た。彼は夕食を持ってきてくれた。入院中、智美は薄味の食事ばかりだったので、この日は違う味のものを選び、メインはパスタだった。「手が不自由だろう?俺が食べさせるよ」少し恥ずかしかったが、ちょうどお腹も空いていたので、智美は彼の差し出すフォークからパスタを口に運んだ。智美は気まずさを紛らわそうと、スマホをいじるふりをした。そのとき、祥衣から起業プランのメッセージが届いた。彼女も自分の意見を交えながら、真剣にやりとりを始めた。悠人は食事の邪魔になっている長い髪を見て、そっと机の上のヘアゴムを手に取ると、何も言わずに彼女の髪を結ってやった。突然のことに智美の耳がじわじわと赤くなった。悠人は気づかないふりをして、再びパスタを差し出した。その様子を病室の外から、祐介がドアの隙間越しに見ていた。拳を固く握り、手のひら
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第77話

智美はすぐに電話をかけ、警察に通報した。警察はそのまま健太郎を連行していった。彼女は負傷した悠人を急いで病院へ連れ戻し、傷の手当をさせた。処置が終わったあと、医者はさらにいくつか検査を行った。悠人は目のふちを赤くした智美を見て、柔らかく笑った。「俺は大丈夫だよ。それより君、怖い思いをしてないか?」ケガをしているのに自分を気遣ってくれる彼を見て、智美の胸がじんと締めつけられた。幸い、彼のケガは軽傷で入院の必要はなかった。壊れた車は修理店に連絡してレッカーに移動してもらい、二人はタクシーで帰ることにした。智美は彼のケガが頭だと知って心配になり、「もし今夜、少しでも具合が悪くなったら、必ず私に電話して」と念を押した。「分かった。安心しろ、何ともないから」悠人はそう答えた。しかし心配が拭えず、智美は帰宅後彼に電話をかけた。受話口からはキーボードを叩く音が聞こえた。「どうした?」彼が尋ねた。仕事熱心な性格を知ってはいたが、智美は思わず口にした。「ケガしてるんだから、ちゃんと休まないと」自分を心配してくれる彼女の言葉に、悠人の口元がわずかに緩んだ。「本当に平気だよ……そんなに心配してるのか?」智美はためらわず、はっきり答えた。「ええ、とても心配よ」一瞬沈黙した。キーボードを叩く手が止まり、背もたれに身を預けた。窓の外、向かいの建物の明かりを見ながら、胸の奥が不思議と温かくなった。「じゃあ、スピーカーにしておくよ。もし何かあったら、君が一番に分かるように」智美もそれを受け入れた。「分かった」こうして二人はそれぞれの作業をしながら、夜通し通話を繋いだまま過ごした。悠人は受話器越しに聞こえる彼女の気配を感じながら、目を優しく細めた。健太郎が車で智美をはねようとした一部始終は、病院入口の監視カメラにしっかり記録されていた。悠人の証言もあり、彼はすぐに息子のいる刑務所へ送られた。父子はある意味、再会を果たしたわけだ。楽団から山田家父子の妨害は消えたが、智美は悩んだ末やはり辞める決意をした。イギリスから帰国した翔太は、彼女の退団を聞いて何度も引き止めたが、最後まで説得できず残念そうに送り出した。祥衣もアマノ芸術センターを退職し、二人で起業の相談を始めた。だが、智美
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第78話

森社長は、彼女が苦しそうにしているのを見て身を乗り出し、頬に手を伸ばした。「智美さん、お酒が弱いのか?まだ半分しか飲んでないのに、もう限界?少し休もうか?」祥衣は、智美がお酒の席に慣れていないことも、森社長がずっと彼女にちょっかいを出していることも分かっていた。そこで助け舟を出した。「智美は本当にお酒が弱いんです。森社長、笑わないでください。智美、顔でも洗ってきなさいよ」智美は祥衣を一人残すのが気が引けて、ちらりと彼女を見た。祥衣は軽く背中を押した。「行ってきなさい」智美はようやく個室を出た。ちょうど向かいの部屋のドアが同時に開き、出てきたのは見覚えのある顔だった。和也だ。智美は彼だと気づき、軽く笑って挨拶代わりに会釈し、そのまま洗面所へ向かった。和也は祥衣たちの部屋の方を見ると、廊下で立ち止まり悠人に電話をかけた。「今、レストランで智美さんを見かけた。何人かの社長と飲んでるけど、来ないか?」電話を受けた悠人は眉をひそめ、美羽に連絡を取った。美羽は祥衣と仲がいいので、すぐに事情を説明した。「祥衣と智美、起業するつもりみたいです。資金が足りないから、投資を募ってるんじゃないですか?」その言葉で悠人は智美が今夜ここで接待している理由を理解した。彼は和也にメッセージを送った。【今回集まってるのは誰だ?】和也はこっそり祥衣たちの個室を通り過ぎ、写真を撮って悠人に送った。その中の一人、國枝社長は悠人と面識はあった。すぐに國枝社長へメッセージを送った。【祥衣への投資を承諾してくれれば、國枝家の訴訟は俺が引き受けます】突然の連絡に國枝社長は一瞬きょとんとしたが、「訴訟」という文字を見て一気に酔いが醒めた。なぜ悠人が自分の事情を知っているのかは分からないが、彼に弁護を頼めるチャンスは滅多にない。大桐市での悠人の人気ぶりを考えれば、たとえ面識があっても、順番待ちは避けられないのが普通だ。そんな彼が自ら請け負うと言ってくれるのだから投資しないと。智美が洗面所から戻ると、祥衣は國枝社長と笑顔で握手をしていた。「どうしたんですか?」と尋ねると、祥衣は声を落として答えた。「國枝社長が六千万の投資を約束してくれたの」智美は驚き、喜びのあまり國枝社長にも一杯注いだ。やがて智美と
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第79話

祥衣は眉をひそめ、戸惑いを隠せなかった。千尋がまだ芸術センターにいた頃、この男に会ったことがある。その後、智美から「祐介は不倫した元夫だ」と聞かされ、一気に印象が悪くなった。祐介は笑みを浮かべて言った。「君たちが起業するって聞いてね。偶然にも、俺も芸術関係の投資に興味があるんだ。そこで、北田社長がこの機会を俺に譲ってくれた。急に投資家が変わっても、構わないだろう?」智美と祥衣は、顔を見合わせた。まさか話がこんな展開になるとは思ってもいなかった。祥衣は投資家が誰であろうと気にしないが、智美の気持ちは気になった。小声で尋ねた。「智美ちゃん、どうする?あなたの考えに従うよ」智美が祐介と関わりたくないのなら、その判断に従うつもりだった。二人はこれから一緒に事業を立ち上げるのだ。こんなことで溝ができては困る。智美は祐介を見つめ、瞳に淡い冷たさを宿らせた。彼の狙いは読めている。投資家という立場を盾に、自分を縛ろうとしているだけだ。だが、自分はもう離婚した。祐介とは一切関わりたくない。投資家なら他に探せばいい。彼の金など受け取らない。智美はきっぱりと言った。「この契約はやめます。先輩、行きましょう」祥衣は異論もなく、智美と共に立ち上がった。祐介は、こちらの好意を受け入れない智美を見て、目を細め、一歩踏み出すと彼女の手を掴んだ。「そんなに、俺と関わりたくないのか?」智美はその手を振り払い、言葉を区切るように告げた。「ええ、少しも関わりたくないわ」そう言って、会議室を出た。祐介は追いかけようとしたが、秘書の伊藤が行く手を遮った。「社長、佐藤さんの車が追突されたそうで、すぐ来てほしいと」だが彼は耳も貸さず、伊藤を押しのけ、遠ざかっていく智美の背中を追った。伊藤は目を見開き信じられないという顔をした。渡辺社長が千尋ではなく智美を追うなんて、初めてのことだった。智美と祥衣はエレベーターに乗り込んだ。閉まりかけた扉に、突然大きな手が差し込まれた。祐介だ。その目は、獲物を逃すまいとする猛獣のように鋭かった。隣の祥衣は、思わず智美の代わりに冷や汗をかいた。だが智美は、平然とした顔で口を開いた。「何か用?」祐介は祥衣の腕をつかみ、半ば強引にエレベーター
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第80話

事故で負ったケガの後、彼はしばしば感情を抑えられず、周囲の人を傷つけることがあった。特に、智美を。そして、いつも後になって後悔する。感情をコントロールするため、この三年間、彼はずっと心理カウンセラーに通い続けてきた。翌朝十時、彼は創平の所を訪れた。祐介の話を最後まで聞いた創平は数秒沈黙した後、口を開いた。「渡辺社長……もしかして、あなたは智美さんを愛しているのではありませんか」祐介は、表情を一変させた。「そんなはずはない」創平は鋭い視線で彼を見つめた。「この三年間で、あなたの口から千尋という名前が出る回数は徐々に減り、その代わりに智美さんの話が圧倒的に増えています。千尋さんに対しての気持ちは、過去の未練かもしれませんが、智美さんに対しての感情は愛情です。この事実を早く受け入れなければ、これからも彼女を傷つけ続け、やがて永遠に失うでしょう。その時、後悔しないといいのですが」祐介は、魂が抜けたような足取りで出た。伊藤が声をかけた。「渡辺社長、さっき佐藤さんからまた十数件も電話が来てました。本当に会いに行かなくていいんですか?」祐介はスマホを取り出し、未接着信の数を確認した。確かに十数件。だが、その多さが逆にうんざりさせた。彼はためらいなく、千尋の番号を着信拒否に設定した。その動作を見た伊藤は、驚きの声を漏らした。「渡辺社長……」祐介は淡々と告げた。「これから千尋ちゃんが会いに来ても、忙しくて会えないと伝えろ」ちょうどその時、伊藤のスマホはまだ千尋との通話中だった。その言葉は、電話口の千尋にもはっきりと届いた。千尋は怒りに震え、スマホを床に叩きつけた。表情は歪み唇からは低い声が漏れた。「私が負けるわけない……」智美は帰宅後、仲介業者に電話をかけた。「私名義のあの別荘、まだ買い手は見つかっていませんか」売れればまとまった資金が手に入り、起業の資金も確保できる。だが仲介は困ったように答えた。「今のところ、興味を持つお客様はいません。もう少しお待ちいただけますか」智美は少し落胆し、電話を切った。すぐにパソコンを開き、大桐市にある不動産仲介の連絡先をすべて調べ、片っ端から電話をかけた。「自分名義の別荘を売りたい」と。ちょうど全ての電話を終えた頃、チャイムが鳴った
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