All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

梨沙子が智美の見舞いに訪れた。ベッドの上で呆然としている智美を見て、梨沙子は思わず表情を曇らせた。「智美、本当に心臓が止まるかと思ったわ。岡田さんがすぐに動いてくれたから良かったものの……」智美は彼女をじっと見つめ、唐突に尋ねた。「梨沙子、離婚してから、前の人とよりを戻したいと思ったことはある?」「絶対にないわ」迷いのない即答だった。智美は眉間に指を当て、ゆっくりともみほぐした。「そうよね。離婚まで至ったなら、もう全部壊れてしまったということだもの。意地を張るためだけに、そんな選択はできないわ」記憶の中にいるあの自分が、どうしても本当の自分とは思えなかった。「なんでそんなこと聞くの?もしかして、拉致された件に……前の旦那さんが?」智美には分からなかった。ただ、あの男が自分を攫ったのは、金のためでも恨みのためでもない。ならば、何のために?検査のための入院が一週間続いた後、智美は退院を申し出た。悠人が心配そうに言った。「まだ検査結果が揃っていない。もう少し様子を見よう」智美は頑として譲らなかった。「仕事があるから。その後は定期的に来て診てもらうわ」今すぐ診断が下りるわけでも、治療が始まるわけでもない。このまま病院に閉じこもっていても時間を無駄にするだけで、余計なことまで考え込んでしまう。仕事に没頭して、余計なことを考えないようにしたかった。悠人も折れるしかなかった。「ボディガードを四人増やした。外出するときは必ず付き添わせる」「分かった」智美は断る気にはならなかった。一晩自宅でゆっくり休み、翌日から仕事に戻った。心配性の悠人は、自ら毎日の送り迎えを買って出た。智美は不思議な記憶の断片に悩まされながらも、自分の気持ちに素直になって、悠人の気遣いを受け入れることにした。そうして穏やかな日々が一週間続いた頃、ついに祐介の堪忍袋の緒が切れた。彼は催眠術師に電話を入れた。「催眠は成功したと言ったはずだ。なら今ごろ、智美が俺を一番愛しているはずだろ。俺が羽弥市に来たことはニュースで知っているはずなのに、なぜ会いに来ない?」医師は困惑を隠しきれない声で答えた。「それは……催眠自体は確実に成功しております。最も熟練した精神科医が診たとしても、異常を指摘することは不可能だと断言できます
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第642話

「分かった、その作戦でいこう」祐介は頷いた。麻祐子はさっそく顔なじみの奥様方に声をかけた。準備が整うと、兄妹は連れだって智美のいるオフィスビルへと向かった。あの拉致事件以来、ボディガードたちは教室の入り口を固めていた。だが、子ども連れの一行を見て客だと判断し、咎めることなく通した。祐介はあっさりと中へ入ることができた。一方、智美は月次の業績レポートに目を通していた。そこへアシスタントが近づいてきた。「社長、奥様方が何人かいらして、直接お話ししたいとおっしゃっています」通常であれば、客の対応はレッスン担当の講師が行う。智美は不思議に思いながら顔を上げた。アシスタントがそっと付け加えた。「……お知り合いとのことです」智美は首を傾けた。羽弥市に来てまだ日が浅く、親しい奥様方などほとんどいない。いったい誰だろう。「じゃあ、通して」しばらくして、誰かがドアをノックした。「どうぞ」ドアが静かに開き、見覚えのある人影が現れた。祐介だった。今日彼が着ているスーツは、智美と入籍したあの日に着ていたのと同じものだった。もちろん、意図的なものだった。彼は智美に、過去を思い出させようとしている。祐介には確信があった。智美がかつて自分と結婚したのは、金だけが目当てではない。彼女も自分に惹かれていた――そう信じていた。祐介は幼い頃から何不自由なく育ち、数え切れないほどの女性に追いかけられてきた。自分の魅力に疑いを持ったことなど、一度もなかった。智美は静かに彼を見つめていた。記憶の中では、自分はずっと祐介を愛し続けていたはずだった。それなのに、どうして彼を目の前にすると、こんなにも強い拒絶感と嫌悪感が込み上げてくるのだろう。悠人に対しては、本能が安心を告げ、信頼が自然と湧き出てくるのに。沈黙が続くのに耐えかね、祐介が口を開いた。「……智美、会いたかった」そう言って、抱きしめようと歩み寄った。智美はさっと身を引いた。まるで見知らぬ相手を見るような目で、静かに彼を見つめた。祐介は面食らった。催眠は成功したと、医師は言っていた。智美は今、自分を愛しているはずなのに。彼は探るように言葉を続けた。「智美、忘れたのか?ずっと一緒にいるって、約束したじゃないか。ちょっとした誤解で別れ
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第643話

祐介は智美と結婚していたとき、ずっと警戒し続け、離婚の際も財産を一切渡さなかった。今さらながら、自分がどれほど身勝手な人間だったかを思い知らされた気がした。智美がさらに続けた。「もし私が、岡田家の財産を手放したくないと言ったら?」祐介はしばらく考えてから答えた。「向こうが自分で渡したものだろう。離婚してもそのまま持っていけばいい」智美が悠人の財産を転がり込ませて渡辺家に資金を注いでくれるなら、それは悪い話ではなかった。智美は口元に冷ややかな笑みを浮かべた。てっきり財産を諦めてさっさと羽弥市を出ろと言うものとばかり思っていたのに。この人は、これほど自分勝手な人間だったのか。生理的な嫌悪感を覚えるのも、当然のことだと思った。「智美……」彼女の表情を読んだ祐介が、焦りを滲ませながら言った。「まだ何か引っかかることでも?」「離婚するつもりはない。あなたについていくつもりも」「なぜだ?岡田のことを愛してもいないのに、なぜあいつのそばで時間を無駄にする?」祐介は思わず前に出て、智美の腕を掴もうとした。智美は反射的に、彼の頬を平手で打った。「触らないでっ!」呆然と立ち尽くす祐介は、信じられないという目で彼女を見つめた。打った後、智美に罪悪感はなかった。むしろ胸がすく思いだった。ずっとそうしたかったのかもしれない、そんな気すらした。智美は冷たく言い放った。「もう帰って。あなたとは行かないわ」「俺たちの過去を、全部忘れたのか?昔の君は、こんなふうじゃなかった」「昔の自分がどうだったかは知らない。でも今の私は、あなたを見ると体が拒絶する。触れられることも、同じ空間にいることも、受け入れられない」祐介の体が石のように固まった。心を鈍器で殴られ続けるような痛みが、一気に顔から血の気を奪っていった。かつて彼女が親しみを込めて自分の世話をしてくれた姿が脳裏に浮かんだ。どれだけ腹を立てても、穏やかな目で自分を包み、傍を離れなかった智美。あの智美は、本当にもうどこにもいないのだろうか。激情に駆られた祐介は、智美の腕を乱暴に掴み、無理やり連れ出そうとした。強く握られた腕が軋むように痛んだ瞬間、智美の脳裏に、ある言葉がフラッシュバックした。「やめて、ぶたないでぇ……!」暴力を受けたときの断片的な記憶が、堰を
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第644話

祐介は無言のまま車に乗り込んだ。「ねえ、お兄ちゃん!智美とどうなったのか、まだ聞いてないわよ!」麻祐子も不満げに助手席へと乗り込む。智美さえ大桐市へ連れ帰ってくれれば、自分が過去に大桐市で起こした醜聞も、羽弥市の奥様方に知れ渡ることはない。そしたら自分も完璧な貴婦人としてのイメージを守り通せると、麻祐子はそう目論んでいた。祐介は黙りこくったままアクセルを踏み込んだ。智美がオフィスで気を失い倒れたことなど、彼には知る由もない。走り続ける車中、智美のあの眼差しが脳裏に焼き付いて離れなかった。汚物を見るような、底知れぬ嫌悪の目。記憶は確かに書き換えたはずだ。それなのに、彼女は本能の底から自分を拒絶した。かつて味わったことのない絶望が、じわりと全身を侵食していく。智美はもう、本当に自分のことを愛してはいないのだ。以前はまだ、取り戻せるという自負があった。だが、その一縷の望みは今日、完膚なきまでに打ち砕かれた。未知の痛みと苦悶が、心身を容赦なく苛んでいく。ホテルの前に車を停めた瞬間、黒服のボディガードが二名、立ち塞がるように現れた。車を降りた祐介は、冷ややかな視線を向ける。「何の用だ」「悠人様がお話をしたいとのことです」ボディガードは事務的でありながら、威圧感のある口調で告げた。……一方、智美は依然として意識を失ったままだった。医師が懸命に検査を重ねるも、原因は一向に判明しない。悠人は眠り続ける智美を見つめながら、胸の内で荒れ狂う感情を持て余していた。経験したことのない喪失の恐怖が、冷たい波のように全身を攫っていく。アシスタントが足早に近づいてきた。「社長、渡辺祐介を連れてきました」悠人の表情に、嵐の前の不気味な静けさが宿る。「分かった。すぐ行く」智美の邪魔はしたくなかった。悠人は病室から離れた休憩室へ祐介を引っ立てさせた。祐介は悠人の顔を見た瞬間、どす黒い嫉妬が腹の底から湧き上がるのを感じた。智美はこの男と再婚し、あろうことか子どもまで授かっている。本来なら自分のものだったはずの幸せを、この男に横取りされたのだ。悠人は顔を合わせるなり、有無を言わさず、いきなり殴り飛ばした。祐介は避ける間もなく、その重い一撃をまともに顔面へ受けた。口の端が裂け、血の味が口内に広がる。殴
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第645話

美穂は目の前で狼狽する麻祐子を一瞥し、不快げに眉をひそめた。悠人は確かに気性は激しいが、決して理不尽に暴力を振るうような人間ではない。麻祐子の兄がよほどの暴挙に出たからこそ、悠人は動いたに違いない。それに、この麻祐子という女の評判は、羽弥市の社交界でも芳しくなかった。地元の大桐市で何かトラブルを起こし、家の手配で羽弥市へ送られ、父親ほども年の離れた資産家に嫁がされたという噂は、美穂の耳にも届いていた。美穂はひどく冷ややかに告げた。「悠人くんのすることに、義姉の私が口を挟む筋合いはないの。ご自分で何とかしてください」「そんな!」麻祐子は焦燥を露わにして食い下がる。「悠人さんが勝手に兄を拘束するなんて、明らかな違法行為じゃないですか!」美穂は淡く笑った。「まさか、訴えるつもり?」麻祐子は内心で激しく怯んだ。岡田家という巨木を揺るがすことなど、自分には到底できない。もし本当に悠人を法廷に引きずり出そうものなら、真っ先に婚家から叩き出されるに決まっている。手に入れたばかりのこの贅沢な暮らしを、手放すわけにはいかなかった。麻祐子は慌ててトーンを落とし、媚びるように言った。「そういうわけじゃなくて……ただ誤解を解いて、兄を連れ帰りたいだけなんです」しかし美穂は、迷うことなく身内の側に立った。「お兄様が何かしたから、悠人くんがそういう対応をしたんでしょう。でしたら、私はなおさら動けないわね」言い捨てるなり、美穂は冷ややかに一瞥をくれると、病室の中へ入っていった。ボディガードに阻まれ、ただ立ち尽くすことしかできない麻祐子は、行き場のない怒りと屈辱に身を震わせた。岡田家の人間は、どうして揃いも揃って自分たち兄妹をこんな目に遭わせるのか。兄の安否は確かに気がかりだ。だが、自分が嫁いだ夫の底意地の悪さは、誰よりも身に染みて分かっている。あの老いぼれが自分を妻に迎えたのは、単なる若くて見栄えのいい飾りが欲しかったからに過ぎない。妻のために奔走し、岡田家を敵に回してまで兄を救い出してくれるような男では断じてなかった。麻祐子は忌々しげに舌打ちをし、仕方なくその場から逃げ去るしかなかった。……智美が重い瞼を開けたとき、脳を締め付けていた激痛はすっかり引いていた。傍らには悠人が付き添っており、彼女が目を覚ましたことに気づくや否
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第646話

少しでも機嫌を損ねれば、見知らぬ路上に平気で置き去りにされた。あの頃の麻祐子は、智美がどうなろうと知ったことではなかった。走り去る車の中から、必死に追いすがってくる智美の惨めな姿を、優越感に浸りながら見下ろしていた。今、その立場は完全に逆転した。後部座席にいるのは智美で、必死に追いかけているのは麻祐子のほうだ。だが、智美の胸中に痛快さなど微塵も湧かなかった。あるのは、ただただ疲れと、得体の知れない嫌悪感だけだった。渡辺家の人間は、どうしてこうも図々しく、他人の人生に土足で踏み込んでくるのだろう。ボディガードに無情に引き剥がされた麻祐子は、地面に座り込んだまま、智美への呪詛の言葉を吐き続けた。そのとき、ハンドバッグの中でスマホがけたたましく鳴り響いた。画面には、年の離れた夫の名前が光っている。「麻祐子、お前は頭がどうかしているのか!お前の兄が岡田悠人の妻を拉致して捕まるのはまあいい、どうしてそこにお前まで首を突っ込もうとする!これ以上、岡田家にちょっかいを出すつもりなら、今すぐ離婚だ!あのろくでなしの兄とも今すぐ縁を切れ。うちのプロジェクトは岡田家に頼っているんだぞ、こんな馬鹿げた騒動に巻き込まれてたまるか!」若くて見栄えが良く、家運を上げる相をしていると贔屓の占い師に吹き込まれていなければ、あの老いぼれが自分と結婚するなどあり得なかった。今となっては、この夫だけが唯一の頼みの綱だ。この太い金づるを失えば、麻祐子には本当に何も残らない。彼女は屈辱に奥歯を噛み締めながら、蚊の鳴くような声で答えた。「分かりました……すぐに戻ります」夫は容赦なく捲し立てる。「なら、さっさと戻ってこい。妊活中の身で、どこをほっつき歩いている。うちに跡取りを産むのがお前の最優先事項だろうが。今夜、家にいなかったら、ただじゃ済まさないからな」脂ぎった加齢臭漂う夫の重みを想像した瞬間、麻祐子は本能的な嫌悪感で全身がすくんだ。なぜ自分はこんな男の妻になるしかなかったのに、智美は幸せをつかめるのだろうか。……祐介は弁護士を通じて智美に面会を申し入れたが、智美は全て断った。もう二度と、あの独善的で不快な顔など視界に入れたくなかった。催眠という手段で他人の記憶を弄り、精神を侵すなど、あまりにも卑劣で悪辣すぎる。翌日、今度は千尋
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第647話

土曜日、智美は少し遅めに目を覚ました。朝食をとりにダイニングへ向かうと、そこには明日香の姿があった。明日香は家政婦に牛乳を温めさせながら、自ら進んで智美の分のおかゆをよそってくれた。「お義母さん、自分でやりますから」明日香はそっと智美の手に自分の手を重ね、制した。「座ってなさい。あなたは今、体を大事にしなきゃいけない時なんだから。お母さんに任せておきなさい」実の母親である彩乃でさえ、ここまで細やかに世話を焼いてくれたことはなかった。最初は気恥ずかしくて戸惑うばかりだったが、今はもうすっかりこの温かさを受け入れていた。明日香は根っからの世話好きで、逆に何もさせてもらえないと機嫌を損ねてしまうのだ。おかゆを受け取り、智美は尋ねる。「お義母さんはもう召し上がったんですか?」「とっくに済ませたわよ。そうそう、智美。今日の夜ね、平井家で新しく生まれた赤ちゃんのお披露目パーティーがあるんだけど、一緒に行かない?」悠人は今日、会社で残業の予定だった。智美が一人で退屈しないよう、明日香なりに気を利かせて外へ連れ出そうとしてくれたのだ。それに、柔らかくて小さな赤ちゃんを見れば、最近のゴタゴタでささくれた気持ちも少しは和らぐかもしれない。岡田家の嫁として、こうした社交の場は無下には断れない。智美は素直に頷いた。「ええ、ご一緒します」可愛い嫁を綺麗にしてあげようと、明日香はわざわざ専属のスタイリストチームを自宅に呼び寄せた。ついでに美穂にも声をかけたが、美穂はひらひらと手を振って辞退した。「私は遠慮しておきますわ。午後から友人たちと麻雀の約束が入ってます」ようやく夫を休日出勤に送り出し、二人の息子たちも習い事で家を空けている。美穂にとって、待ちに待った久しぶりの完全な自由時間だった。しかも、麻雀仲間の一人がこっそり【今日はとびきり若くていい男を呼んでるから絶対に来て】と耳打ちしてきているのだ。美穂は即座に【這ってでも行く】とメッセージを返していた。こんな千載一遇のチャンス、何があっても逃すわけにはいかない。明日香も無理に誘うようなことはしなかった。美穂には美穂の交友関係と息抜きがある。それを尊重しているからこそ、この家の嫁姑関係はいつも良好で、穏やかなのだ。午後四時、スタイリストチームが岡田邸に到着した。羽弥市でもトップ
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第648話

ちょうど会議の真っ最中だった悠人のスマホに、母親からの次々とメッセージが届き始めた。画面を開いてみると、そこには美しく着飾った智美の写真が何枚も並んでいた。すっぴんでも十分に目を引く整った顔立ちが、今日はプロのスタイリストの手によって極限まで磨き上げられ、息を呑むほどの美しさを放っていた。悠人は素早くすべての写真を保存し、最も写りの良い一枚をそのまま待ち受け画面に設定した。その間、懸命に業績報告を行っていた幹部は、悠人の視線が上の空で、手元のスマホに釘付けになっていることに気づき、自信を喪失しかけていた。今の自分の報告に、何か致命的な欠陥があったのだろうか。なぜ社長はあんなにも上の空なのか――自分のプレゼンは、そこまで聞く価値のない酷い出来だったのだろうか。一方、岡田邸では、智美がスタイリストたちと明日香から絶賛され続け、すっかり赤面していた。羽弥市という大都会には、美しい女性など掃いて捨てるほどいる。自分の容姿が、そこまで特別に際立っているとは到底思えなかった。義母は流石に少し大げさすぎるのではないか。だが、智美を見つめる明日香の瞳には、純粋で偽りのない温かな愛情が溢れていた。娘を持たなかった彼女は、以前は美穂のことを、まるで実の娘のように可愛がり、慈しんできた。気がつけば、娘として手塩にかけて育てた相手が、そのまま頼もしい嫁になっていた。そして今度は、次男の悠人がため息が出るほど美しく、気立てのいい嫁を連れ帰ってきたのだ。その愛らしい顔を見ているだけで、明日香の心はぱっと明るく華やぐのだった。約束の時間になると、明日香と智美は揃って送迎車に乗り込み、平井家へと向かった。滑るように走る車の中で、明日香が優しく話しかけてきた。「うちの拓真くんや謙太くんが生まれたときもね、盛大なお披露目のパーティーを開いたのよ。親戚中を集めて、それはもう賑やかにお祝いしたわ。智美の赤ちゃんが無事に産まれたら、岡田家の総力を挙げて、ちゃんとお祝いしましょうね。今日はその予行演習だと思って、社交界の雰囲気を心得ておいてちょうだい」智美は静かに頷き、明日香の言葉に耳を傾けた。歴史ある名家の社交界では、こうした祝いの宴が頻繁に催される。単なるお祝い事ではなく、人々の縁を深め、人脈構築の場でもあるのだ。岡田家ほどの影響力を持つ
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第649話

かつて雪絵の夫が経営危機に直面したとき、会社も家も支え抜いたのは彼女だった。大局を見据えることのできる、芯の強い女性なのだ。子どもを産めと口うるさく言う癖を除けば、これといった欠点はない。しかも息子の嫁たちには気前がよく、子どもを一人産むたびに自社の株式を贈るという。それだけの安心感を与えているのだから、平井家の嫁たちが喜んで子どもを産むのも頷ける。産めば産むほど、個人の財産が増えるのだから。奥様方がそのまま出産話に花が咲き始めると、明日香は智美を気遣い、「あっちで若い奥様方と麻雀でもしていらっしゃい」と送り出してくれた。智美が席へ向かうと、岡田家に取り入りたい若い奥様方が、すぐさま特等席を譲ってくれた。智美は愛想よく微笑んで腰を下ろし、あとは静かに牌を並べながら、彼女たちの噂話に耳を傾けていた。左隣に座ったのは、飲料メーカーの末っ子に嫁いだばかりの、寒川鈴加(さむかわ すずか)という名の快活な女性だった。「ねえ、ここだけの話なんだけど」テーブルの女性たちがさっと顔を寄せ合う。「うちの従姉が最近、深田家の長男とお見合いをしたんだけど、なんと、あっちから断ってきたの!うちの従姉は、誰もが認める美人なのに!」他の二人が頷く。智美は牌を混ぜながら内心で首を傾げた。深田家の長男といえば、あの崇樹のことだ。梨沙子のことが好きなはずなのに、どうしてお見合いなど……「納得のいかない従姉がこっそり調べたら、深田崇樹って、離婚歴のある女性とズルズル関係を続けているらしいの。あんなに条件のいい従姉を袖にしておいて、わざわざバツイチの女と付き合うなんて、どういう悪趣味なのかしら」居心地の悪さを覚え、智美はたまらず口を開いた。「……離婚したからといって、その人の格が下がるわけではないと思いますけど」鈴加の右隣の奥様が鼻で笑うように口を挟んだ。「そうは言っても、私たちの家柄ともなれば、縁談のほとんどが家同士の政略結婚でしょう。それを抜きにしても、せめて過去に瑕疵のない初婚のお嬢さんを選ぶのが普通じゃありません?名家の跡取りが再婚相手を選ぶなんて、外聞が悪すぎますわ。うちの兄弟がそんな真似をしたら、私なら許しませんわ」向かいの一人も同調して頷いた。「そうそう。いくらでも相手は選べるのに、わざわざ出戻りを拾う必要なんてないじ
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第650話

麻祐子はわざとらしく一枚の写真を取り出してみせた。「ほら、こうやって向こうからお兄ちゃんを呼び出しておいて、今さら関わるなって言っても無理な話よ」智美と祐介が同じ部屋にいる隠し撮り写真を見せられ、鈴加たちは色めき立った。あの大人しそうな智美が、実はふしだらな私生活を送っていたなんて――麻祐子はさらに声を潜めて続けた。「前の旦那をこっそり呼びつけて、岡田家の目を盗んで密会しているなんて、肝が据わりすぎていると思わない?私、お兄ちゃんを守りたいから言うけど、あんな大胆なことばかりしていたら、いつか取り返しのつかない修羅場になるわよ」写真はもちろん巧妙な合成だった。だが、実の兄を刑務所送りにした智美を、麻祐子は許せなかった。せめてあの女の評判を地の底まで叩き潰してやる――今の麻祐子を突き動かしているのは、その暗い情念だけだった。周りの奥様方がひそひそと声を交わす。「最低ね」「悠人さんは、この事実を知っているのかしら」「こんなに大きな裏切りを受けているなんて、悠人さんがお気の毒だわ」ひとしきり毒を吐き終えると、麻祐子は満足げに自分の席へと戻り、何食わぬ顔で再び麻雀牌を並べ始めた。お手洗いから戻ってきた智美は、鈴加たちの自分を見る目が一変していることにすぐ気がついた。蔑んだ目を向けては、さっと視線を逸らす。ゲームの続きに誘っても冷たく首を振り、声をかけてもまともな返事をしない。席を外している間に、何かあったのだろうか。理由を聞こうと歩み寄ると、彼女たちは露骨に避けるように、すでに別のテーブルへと移動してしまっていた。他の席の奥様方も、あからさまによそよそしい態度に変わっている。智美は無理に関わろうとはせず、空いた席に静かに腰を下ろした。宴もそろそろお開きかという頃、手元のスマホが震え、美穂からメッセージが届いた。【智美さん、これどういうこと?奥様方の裏グループチャットに、あなたを中傷する書き込みと写真が出回ってるわよ!】添付されたスクリーンショットを開く。【再婚で岡田家に入り込んだくせに素行が悪い】【前の男と縁が切れていない】――そんな根も葉もない言葉が並んでいた。智美は呆れを通り越して、思わず乾いた笑いを漏らした。何をそんなでたらめを。さりげなく室内を見渡すと、麻祐子が少し離れたテーブルで上
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