All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

玲は雨音を連れて病室に戻ってから、そう時間も経たないうちに、外から騒がしい物音が聞こえてきた。怒鳴り声に、物を叩くような乾いた音、そしてこころの泣きじゃくる声。どうやら、病院の警備員たちが本気で友也とこころを追い出しているらしい。態度は極めて不親切どころか、ほとんど乱暴だった。友也は顔を真っ青にしてされるがまま押されていたが、警備員がこころにまで手を伸ばそうとすると、必ず飛び出して彼女をかばう。せめて彼女だけは傷つけまいと必死だ。それを見た玲は、すっきりした気持ちと同時に、なんとも言えないやるせなさが胸に広がった。とっさに、雨音が見なくていいようにカーテンを閉めようと手を伸ばす。だが、その手を雨音がそっと掴んだ。雨音は静かに、ただすべてを見届けていた。友也とこころの姿が完全に見えなくなってから、ようやく玲の手を離し、そっとまぶたを閉じる。「玲ちゃん、私たちも帰ろう。玲ちゃんが嫌いな相手を追い出してくれたのはありがたいけど……私も、もうここにいるのが嫌、気が滅入る」「でも、傷は……」雨音の気持ちは理解できるものの、彼女の身体が心配だ。雨音は淡々と答える。「包帯の交換や検査はちゃんと来る。家にも家政婦さんがいるし、休むだけなら大丈夫だよ」「……わかった。そこまで言うなら、無理には止めない」ひとまず安心した玲は、ふと思い出したように声を落とす。「ねえ雨音ちゃん。さっき友也さんの前で頭に血が上って、離婚のことまで口走っちゃったけど……あれ、余計なことだった?」雨音は首を横に振り、静かに玲を抱きしめた。「玲ちゃん。あなたは私の味方でいてくれた。それを嫌だなんて思うはずないじゃない。それに……あなたの言うことは間違ってなかった。これから離婚のこともちゃんと考えないとね」玲が先ほど言ったように――雨音は、友也とこころが自分の目の前で付き合い、幸せになっていくのをただ黙って見ているわけにはいかない。いつか、彼に離婚届を突きつけられてしまったら、屈辱以外の何ものでもないのだ。だからこそ、先ほど黙っていた時間のあいだに、雨音はじっくりと考えていた。彼女はまだ、友也への想いを完全に捨てきれてはいない。けれど、自尊心を投げ捨ててまで「都合のいい妻」でいるつもりもない。――彼女は、玲がかつて弘樹にしたように、同じ方法
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第122話

「玲、お前はここにいてはいけない。綾がお前を見ると情緒が不安定になる。今すぐ病院から出てくれ!」不意に腕を掴まれ、廊下の隅へと引き込まれた玲は、何が起きたのか理解する間もなく、弘樹の厳しい声を耳にした。玲は一瞬だけ目を瞬かせ、次の瞬間、わずかに笑みを浮かべた。だが、その笑みには温度がなかった。「……弘樹さん。やっぱり、いつだってあなたの世界の中心は綾なのね」友也は、何も確かめもせずに雨音を加害者と決めつけた。そして今、弘樹もまた同じように、何のためらいもなく玲を排除しようとしている。ただ綾が安心できるように。――本当に、よく似た男たちだ。どちらも一途で、筋の通った「正義」を掲げて、他人を平気で傷つける。玲は、凍りついたような目で弘樹を見据え、皮肉を吐いた。「ご心配なく。あなたが出ていけと言わなくても、そのつもりよ。だって――二人の義姉として、あなたと綾の幸せな逢瀬を邪魔するほど無神経じゃないもの」「玲、そんな言い方は――」弘樹は眉を寄せ、息を詰まらせる。自分の言葉が彼女を傷つけたことに気づいたが、いま弁明しても火に油を注ぐだけだとわかっていた。それでも、どうしても伝えておきたかった。「玲、もう俺の義姉だなんて言わないでくれ。そんなの聞きたくない」彼の声には焦りと切実さが混じっていた。玲と秀一の結婚が形式的なものだとわかっていても、彼はその言葉がどうしても許せなかった。――玲の隣にいるべきなのは、自分だ。たとえ今、別の男がその場所を占めていても、いずれ彼女は自分のもとに戻るはず。玲は沈黙のまま弘樹を見つめた。もうこれ以上、彼と言葉を交わす気力さえない。そっと弘樹の手を振りほどくと、くるりと背を向けて歩き出した。弘樹はその背中を、ただ黙って見送るしかなかった。やがて彼は深く息を吐き、ポケットに手を戻す。そして綾の病室へ戻ろうと一歩を踏み出した――その瞬間。視界の先に、もう一人の人影が立っていた。冷たい眼差しをした秀一が、廊下で無言のまま佇んでいる。その瞳には怒りよりも、研ぎ澄まされた殺気が宿っていた。「……高瀬。玲は何度も君を拒絶したはずだ。なのに、なぜまだ彼女に執着する?」弘樹は目を細めた。金縁の眼鏡が、白い蛍光灯の光を反射して鈍く光る。「藤原さん。玲と俺のことは、あなたには関係ないはずですが」
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第123話

「玲が君の手を離した以上、もう二度と握り返すことはない。一度去った彼女は、戻ってこないのだ」つまり――今の弘樹が抱いている「いつか戻る」という期待は、ただの逃避でしかない。だが弘樹が現実から目をそらしたいなら、放っておけばいい。玲がそうしたように、秀一もこれ以上、彼と話す価値を感じていなかった。「玲は俺の妻だ。夫婦としてどう進めるかは俺と玲が決めること。ただ一つ、勘違いしないでくれ――玲とやり直せるなんて、もう思わない方がいい」冷え切った声音で言い残し、秀一がその場を立ち去ろうとした――その時。「藤原さん、そこまで必死になる必要、ありますか?」鋭い声が背中を刺した。「あなたが玲を助け、結婚までしたのは――昔の借りを返すためでしょう?そこまで自分を犠牲にしてまで、付き合う理由なんてあるんですか?」秀一は玲を愛していない。だったら、彼ほどの立場なら、結婚なんて手を使わなくても彼女を救えたはずだ。……なのに、なぜ?自分でも気づき始めている答えを、弘樹は必死に否定していた。その刹那、秀一の足が止まる。ゆっくりと振り返り、わざわざ弘樹の正面へ歩き出す。「……俺は自分を犠牲になどしていない」弘樹は思わず目を見開いた。「……え?」「むしろ――今の俺はとても幸せだ」淡々とした声なのに、逃げ道を一つ残さないほど重い。「高瀬。君はもう答えを知っているはずだ。だから今日、確かめに来たんだろ?それならはっきり言わせてもらう。玲に借りがあるように見えるが、それは俺にとってのチャンスでもあった。ずっと前から、自分で仕掛けてきたチャンスだ。掴めなければ、何年でも待つつもりだった……だが掴んだ以上、二度と離す気はない」弘樹は絶句した。少し探れば、秀一の心の内など簡単にわかると思っていたが、彼の執着は、想像していたよりも遥かに深かった。気づかぬうちに、玲の周りには彼が張り巡らせた糸が静かに絡み、時が来るのをじっと待っていたのだ。そして秀一は、とどめの一言を落とす。「高瀬。優しくて、誰のことも傷つけない玲が、どうして突然、結婚という手段で君と高瀬家から抜け出そうとしたと思う?」鋭い視線が突き刺さり、弘樹の表情が音を立てるように崩れていく。「その理由さえわかれば……俺がここまで必死になる意味も、理解できるはずだ」……
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第124話

秀一は、医者から受け取った消炎剤と鎮痛薬を持って戻ってきた。雨音が「すぐ退院したい」と言っても、特に反対することなく、今後の診察や処置は優先的に案内するよう病院へ指示を出した。そして、荷物をまとめるのは洋太に任せ、車で雨音を家へ送り届けることにした。当然、玲も同乗していた。――ただ、ここ数日。玲は秀一との「触れ合う距離」が、どうにも近い気がしてならない。さっき手を握られた感触が、まだ手のひらに熱として残っている。それを意識してしまうせいで、秀一の顔を見るのがなんとなく恥ずかしく、雨音を降ろしたあとも、玲はずっと窓の外ばかり眺めていた。暮れゆく空と街灯の明かりを追うふりをしながら。けれど、同じ姿勢を続けていたせいか、それとも、隣から伝わる秀一の存在感と安心感のせいか。玲は、いつの間にか深く眠り込んでしまっていた。そして目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは、見慣れないが可愛らしい家。次は真っ暗になった空。「起きた?」低く落ち着いた声が耳元で響き、玲は一瞬ぽかんとなる。そして、運転席にいる秀一を見つけた。彼はずっと、彼女の隣にいてくれたらしい。「秀一さん?起こしてくれればよかったのに……待ってる間、退屈だったでしょう?」「いや。退屈じゃなかった」秀一は穏やかに答えた。けれど、それは社交辞令ではない。玲が眠っている間、彼はずっとその横顔を眺めていた。整った唇に指先でそっと触れ、昨夜の柔らかな感触を思い出しながら。時間は長く感じるどころか、むしろ、あっという間だった。その静かな時間の中、秀一はふと、弘樹の言葉を思い返していた。弘樹の前では、秀一は迷いなく「玲は戻らない」と言い切った。だが――恋というものは、どれだけ強い男でも、不安を呼び込む。まして、弘樹が玲に抱いていた感情は、表面に見せていた軽いものではない。秀一は、最初からそれに気づいていた。だから人生で初めて、「怖い」と思った。もし弘樹が本気で後悔し、玲にしがみついてきたら――長い間想い続けた相手に、玲の心は揺れてしまうのではないか。玲は、十三年間、ずっと弘樹だけを見ていた。それに対して、自分は――玲に愛された時間が、一日もない。だからこそ、眠る彼女の横顔を見つめながら思う。結婚してから少しずつ距離を縮めようと思っていたが、そんな生ぬるいやり方
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第125話

「玲、ここは俺たちの家だ」秀一は玲の言葉を遮った。次の瞬間、彼は身をかがめ、玲のシートベルトを外す。「それに、荷物は全部ここに運ばせてある。必要なものは全部揃ってるはずだ」何より、家に関することはすべて秀一が手配していた。つまり――今夜、玲がどんな理由を並べたとしても、逃げ道はないということだ。とはいえ、「家」という響きは、張りつめていた心をほんの少しだけほぐしてくれたし、秀一はうまく彼女を誘導し、不思議と安心をくれる「夫」の顔をしている。結局、玲は深く息を吸い、彼に促されるまま車を降り、新しい家へと足を踏み入れた。……玄関に入った瞬間、玲は悟った。ここは、秀一が本気で準備した「二人の家」なのだと。別荘は、首都でも選ばれた者しか住めない高級住宅地「グランメゾン」に建つ邸宅。夜の月に照らされた外観は、派手すぎず気品があり、洗練されている。庭には緑濃い木々が移植され、薔薇の花畑からはほのかに香りが漂う。そして花畑の中央には、真っ白で綺麗なブランコ。――もし仕事で粘土や彫刻に追われて疲れても、ここで風に揺られれば、それだけで心が軽くなる。見れば見るほど、玲の目は輝いた。さっきまでの警戒や緊張は、どこかに消えていく。代わりに胸に満ちてくるのは驚きと喜びだった。「気に入らないところがあれば、好きに直すといい」と秀一は言っていた。けれど、どう見ても――すでに彼女好みに仕上がっている。思わず笑みがこぼれる。「秀一さん、この家、本当に素敵です!デザイナーさん、私の好みを完璧に理解してくれてますね!」「それはよかった」花よりも綺麗な玲の笑顔を見つめながら、秀一は低い声で言った。「もう遅い。恵子さんに部屋を案内させる。今日はゆっくり休んでくれ」「はい」玲は素直に頷いた。二階に、住み込みの家政婦、恵子(けいこ)が待っていた。絞ったばかりのジュースと、色とりどりの果物の皿を手に持ってくる。「奥様、こちらはお風呂上りに召し上がれるようにと、ご用意しました。では、お部屋にご案内いたしますね」「ありがとうございます」恵子の丁寧な言葉が心に沁み、玲は微笑みながら答えた。恵子とは違って、高瀬家の使用人は、果物ひとつ出すのにも嫌味を言うので、結局用意するのは雪乃になってしまう。そのうえ、表では愛想よくしても裏では態度を変えることが多く
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第126話

「秀一さんから聞いてるので、大丈夫です」恵子の念押しに、玲は小さく笑って頷いた。秀一は「新婚用の新居だから、少しだけ特別な飾りがある」と言っていた。だから、多少ロマンチックでも自分が驚くほどじゃない――玲はそう思っていた。だが、それはまったくの思い違いだった。扉を開いた瞬間。ぱっと目に飛び込んできたのは、斬新なシーツと枕カバー一式と、ベッドに置かれたタオルアートの白鳥。そして、部屋いっぱいにバラの甘い香りが漂い、正面の壁に「LOVE」の形で並べられた風船が飾られている。玲はその場でフリーズした。隣で果物の皿を抱えた恵子が、満足げに目を細めながら説明を始める。「奥様、これは全部、旦那様が用意されたんですよ。今日はご結婚後、初めてお二人で新居に住まれるめでたい日ですから、家の中はロマンチックに飾りたいとのことです」つまり――秀一はタオルアートを作り、花を温室で自ら摘み、風船も一つずつ空気を入れて壁に並べた。あの少し不格好だが可愛らしい「LOVE」の文字も、彼の手によるものだ。玲は言葉を失い、ただぼんやりと部屋を眺めていた。頭の中では、勝手に想像が膨らむ。スーツ姿の秀一が無表情のまま足で空気入れを踏み、飛んでいく風船を追いかけ、また「プシュープシュー」と空気を入れる様子。風船を膨らませる作業は、かつて玲も経験したことがある。弘樹の親戚が、付き合っている彼女にサプライズプロポーズをするため、玲を含め、数人の知り合いに会場の飾りつけを頼んだ。その時玲は、丸一晩風船を膨らませ続け、指先まで腫れてしまった。でも、風船で彩られた美しい会場を見たとき、玲はただただ羨ましかった。もし弘樹が自分にプロポーズするなら、会場もこんなふうに飾られるかもしれない――そう勝手に想像していたのだ。しかし現実は違った。弘樹とは別れ、そして自分は契約結婚という形で秀一と夫婦になった。契約結婚なのだから、サプライズプロポーズもなければ、ロマンチックな光景を自分が体験することもない――そう思っていたのに。秀一は、彼女が心のどこかで見たかった光景を、このような形で目の前に届けてくれたのだ。「……言ってくれればよかったのに」声は小さく震え、目元がじわりと熱くなる。恵子が耳を傾け、確認する。「奥様、今、何とおっしゃいました?」
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第127話

パジャマを手に取った瞬間、玲は思わず頬を赤くした。なぜなら――「新婚」というコンセプトで飾りつけられたこの部屋の演出は、思った以上に徹底されていたのだ。部屋自体がロマンチックに仕上げただけではなく、彼女の下着までおしゃれで、セクシーなレースが入っている。まさか下着まで秀一が選んでくれたかもしれない――そう思うと、玲は狼狽えた。危険な想像に陥る前に、彼女は慌てて思考を遮り、パジャマに着替え、髪を乾かして浴室を出た。そのとき、軽いノックの音が聞こえた。玲は小走りでドアを開け、目を見開く。そこに立っていたのは、秀一だった。秀一も風呂上がりの様子で、パジャマ姿だった。そのデザインは玲のものとペアルックのようだが、上の二つのボタンは無造作に外され、整った鎖骨と逞しい胸筋がわずかに見える。普段は落ち着きがあり、ストイックな彼だが、今の姿は妖しい魅力に満ち、心を惑わす魔物のようだった。玲は視線が定まらず、気まずさで言葉も出ない。以前、雨音が「玲を前にしたら秀一が我慢できなくなる」みたいなことを言っていたが――今度は玲が、秀一を前にして我慢できなくなる番なのだ。玲は服の端をぎゅっと握り、声を震わせて尋ねた。「秀一さん……こんな夜遅くに、何か用ですか……?」「ああ」秀一の瞳が静かに、しかし鋭く玲の手元に注がれる。シルクのパジャマを握る小さな手を見つめてから、ようやく穏やかな声で言った。「お腹がすいたなら、一緒に何か食べよう」玲は頷いた。朝食は雪乃に邪魔され、まともに食べられなかった。さっきの果物も、腹を満たすほどではなく、むしろ食欲をそそる程度だった。家には恵子がいるし、秀一が食事に誘うのは、きっとキッチンですでに用意があるのだろう――玲はそう考え、すぐに秀一について階下へ向かった。だが、予想外の光景が待っていた。秀一は自ら台所に立ち、玲のためにそばを作ろうとしていたのだ。「秀一さん、やっぱり私が……」「大丈夫、ただの食事だ。気にしなくていい」秀一は軽く手を伸ばし、玲を外の椅子に座らせると、鍋を手に取りながら言った。「以前、君が蜂蜜水を作ってくれただろう?これはそのお返しのようなものだ」つまり、玲は肩の力を抜いていいということだ。しかしその一言で、玲の顔はさらに赤くなる。「そんな……ただの蜂蜜水だから、秀一さ
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第128話

世の中には、「面倒だ」、「必要ない」と言いながら、奥さんが望むささやかな「幸せの形」を平気で否定していく男の人が多い。でも――本当に大切な人なら、その人が誰かを羨ましく思う瞬間を、黙って見過ごせないはずだ。だからこそ、タオルアートも、花も、風船も、少し古くさいくらい華やかで……どれだけ忙しくても、秀一は一日かけて自分の手で全部を飾りつけた。そんな想いも知らずに、「ただの蜂蜜水」と言ってしまった玲に、秀一は淡々と、けれど確かに優しく訂正する。「玲、その一杯の蜂蜜水の価値は、君が思っているよりずっと大きい。自分を過小評価しないでくれ」静かに鍋をかき回しながら、声を落とす。「それよりも……この家、気に入ったか?どこか直して欲しいところがあるなら、遠慮なく言ってくれ」「はい!すごく気に入ってます!」玲の胸の奥がじんわり熱くなり、思わず笑みがこぼれた。「家具も、飾りつけも……全部。ありがとうございます」新しい家も、この前の指輪も、玲は心から気に入っていた。「秀一さん、今日あなたがいてくれて、本当に良かったって思えました」「そうか」秀一の口元が、目には見えないほど小さく上がる。その横顔は静かで端正なのに、どこか人を惑わせるような色気をまとっていた。「なら……これからは、もっと嬉しいと思える日を増やそう」「……っ」――なにそれ、ちょっとエッチな意味で言ってない?心の中でつっこみながら、玲は思わず視線をそらす。いやいや。首都でもストイックで有名な藤原グループの社長が、そんなことを考えるわけない。きっと自分が考え過ぎてるだけだ。数分後、玲は秀一が作った具材たくさんのそばを食べながら、自分のよこしまな考えを反省した。「ごちそうさま」と言うと、彼女は慌てて部屋へ戻った。これ以上、変な妄想を膨らませる前に。……けれど、ベッドに横になっても、頭に浮かぶのは秀一ばかり。そのうち、ふと昔聞いた話が脳裏によみがえる。秀一の母、紀子(のりこ)――実家は栗林(くりばやし)という名門で、教養も美貌もあり、誰もが認める優秀な女性だった。とある宴会で、当時の藤原グループ社長、俊彦が一目惚れし、強引に奪い取るように結婚したと言われている。もっとも「強引」と言っても、藤原家が栗林家に何か圧力をかけたわけではない。ただ、紀子には幼い頃
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第129話

中には、さらに大胆な推測をする者までいた――紀子は自殺ではなく、他殺。紀子を愛さなくなった俊彦が美穂と再婚できるように、ベランダから突き落としたのだと。真実は闇の中だが、そう考えると辻褄が合うことも多かった。だからこそ、七年後、十五歳の秀一が奇跡的に戻ってきた時、俊彦は、長年行方不明だった息子を前にしても驚くほど冷たかった。最初の数年は顔すら合わせず、秀一の面倒はすべて美穂任せ。だがその「面倒」を見ていたというより、美穂は「良き後妻」の顔で、秀一を徹底的に追い詰めていた。怪我をしても、熱を出しても、優しく気遣ってくれる人は誰一人いなかった。何せその当時、栗林家も秀一を構う余裕がなかったのだ。紀子の死後、栗林家は急速に弱っていった。ただでさえ病弱だった秀一の祖父母は、孫の行方不明と娘の死が引き金となり、ほどなく相次いで他界。二人の遺産はすべて寄付された――娘と孫が、来世で幸せになれるようにと。だから秀一が戻ってきた時、守ってくれる人はもう誰もいなかった。それでも、彼は生き抜いた。血を吐くような努力で自分を鍛え、誰も手出しできないところまで上り詰めた。父親ですら、完全には抑えられないほどに。だが、世間から見て、優秀で意気揚々と出世していった秀一だが、玲には違って見えた。年を追うごとに、秀一の目に宿る孤独は深くなり、笑わなくなっていった。――十三年前、玲は見てしまった。ひどい目に遭い、傷だらけで立っていた少年の姿を。その印象が残っているせいか、距離は遠くても、玲はずっと彼が気になっていた。ある日、パーティーで偶然彼を見つけた。人気のない屋上で、ひとり空を見上げて立つ秀一。玲は気になって、物陰からこっそり見守った。その次も、またその次も……彼はなぜか、どんな集まりでも、必ず人のいない場所を見つけてひとりで立つ。もし危ないことでもしてしまったらと思うと、玲は毎回、距離を置いたところから静かに見守ってしまう。それは「見張り」なんかというより、「寄り添う」ことに近かった。風のように静かで、水のように澄んだ、清らかな関係。なのに今、それが変わってしまった。「玲、気に入ってくれた?」「これからは、もっと嬉しいと思える日を増やそう」ガウンをまとい、深く暗いまなざしで囁く秀一。その低い声は甘くて、耳の奥ま
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第130話

玲は驚く。まさか秀一も、自分と同じように朝からシャワーを浴びていたなんて。ただ、見ればすぐにわかった。玲と違って、彼は身支度を整える余裕もなかったらしく、喉元のあたりにはまだ水滴が残っている。乱れた髪と濡れた肌。なのに、その荒っぽさがかえって野性めいた色気を帯びてしまっている。――あの忘れかけた夢が、一瞬にして蘇った。「……秀一さん、お、おはようございます」顔を上げる勇気もなく、小さく頭を下げると、玲は慌ててリビングへと駆けていった。まるで大きな狼から逃げる小さなウサギのように。一方の秀一も、珍しく返事をしなかった。というのも、冷たいシャワーを一時間浴びても、体の熱で掠れてしまった声はまだ戻っていない。今口を開いたら、自分は普通じゃないことがバレてしまいそうだった。昨夜、自分なりのやり方で玲をからかってみたく、その言葉を口にした。だが予想に反し、玲は特に動揺を見せず、狼狽えたのは自分の方だった。そのあと、眠れなかった。火がついたみたいに全身が熱くて、荒れた呼吸も止まらない。あげ句、夢を見た。玲が自分を受け入れてくれて――自分は、彼女を抱き上げ、あの大きなベッドに倒れ込み、何度も何度も彼女を抱いた。けれど玲は、寂しい顔で「全然上手くない」と言った。秀一は額を押さえて深くため息をついた。ファーストキスであんな失態をしたせいで、トラウマができてしまったらしい。苦手を克服するには精進するしかない。人生で数千億のプロジェクトを淡々とこなしてきた男が、まさかこんな問題で頭を抱える日が来るとは。ふと前を歩く玲を見やる。淡い桜色のワンピース。歩くたびひらひらと揺れて、まるで四月の枝で咲く、一番綺麗な桜の花のようだ。秀一は思わず笑み、そして肩の力が抜けた。玲は今、こうして堂々と自分の隣にいる。もう、昔のように遠く離れた場所からこっそり覗く必要はないし、彼女に会うために、嫌いなパーティーに行かなくてもいい。そう思ったら、これからどんな難題にぶつかってもまったく怖くなくなった。気持ちを切り替え、玲のあとについてダイニングへ向かい、自然に席についた。玲も最初は気まずそうだったが、秀一の落ち着いた空気に気づき、少しずつ肩から力が抜けていく。やがて、いつものように言葉を交わし、笑い合える空気が戻った――その時。秀一
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