All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

翌朝――玲が最初に目を覚ました。隣では雨音がまだ深い眠りの中にいたので、彼女はそっとベッドを抜け出し、ひとりで下のレストランへ向かった。朝食を済ませつつ、雨音の分を持ち帰ろうと思ったのだ。だが、思いがけずその朝、落ち着いたスカイレストランの席に腰を下ろしてうどんを注文した直後、騒がしい足音とともに見覚えのある影が目の前に現れた。「玲!何度も電話をかけたのに、なんで出ないのよ!」目の下に濃いクマをつくり、息を切らせた雪乃が立っていた。玲は眉をわずかに上げただけで、言葉を返さなかった。雪乃がこのロイヤルホテルの中まで入って来られること自体、少し不思議だったからだ。思い返せばこれまで、ホテルの支配人をしていた洋太が強気に対応していたため、雪乃は何度足を運んでも中に入れなかった。だが今は事情が違う。洋太は秀一のもとに戻り、さらに昨日は雪乃が高瀬家とともに記者会見に顔を出していた。新しい支配人が事情を知らずに立ち入りを許したとしても、不思議ではない。……と思っていたが、それは半分だけ正しかった。次の瞬間、件の新支配人が慌てて駆け寄ってきたのだ。「高瀬様、この方があなたのお母様だと名乗られまして……しかも藤原社長の義母だとおっしゃるものですから、私の判断でお連れしました。お間違いないでしょうか?」玲はしばし無言のままうどんを口に運んだ。そしてようやく顔を上げ、雪乃をじっと見つめる。その視線に耐えきれず、雪乃の顔はみるみる赤くなり、視線を逸らした。玲は微笑を浮かべ、支配人に「ありがとう」と礼を言って下がらせると、静かに言葉を投げた。「藤原社長の義母だなんて、よくもまあ恥ずかしげもなく名乗れたものね」「間違ったことは言ってないでしょう?昨日、あんたと藤原さんが正式に結婚を発表したじゃない」雪乃は唇を噛み、気まずそうに玲の隣に腰を下ろした。「それで……藤原さんと結婚したって、本当なのよね?」玲はスープをひと口すすり、静かに問い返す。「それを何度確認して、どうするつもり?」その冷ややかな言葉に、雪乃は一瞬、口を閉ざした。言いたいことは山ほどあるのに、どれも口にすれば不快な話ばかりだ。昨夜の出来事が脳裏をかすめる。綾が俊彦の怒りを買い、家のしきたりに従って「罰」を受けることになった。関わりたくはなかったが、高瀬家
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第102話

「そうね。もし私がもっと早く、秀一さんと結婚したことを伝えてたら――茂さんは、私を見下すのではなく、利用し始めていたんでしょうね」玲は淡々と雪乃の言葉を遮り、静かに箸を置いた。「残念だけど――『高瀬家との縁を切る』と明記された協議書は、もう手に入れてあるの。これから高瀬家が誰にすがろうと、私にはもう関係ないわ」その一言で、雪乃の表情がみるみる強張った。あの協議書が存在する今、これ以上玲を利用しようとすれば、高瀬家の体面が地に落ちる。雪乃の喉がひゅっと鳴り、顔色が青ざめていく。彼女はようやく気づいたのだ――玲がここまで計算して動いていたことに。「……あんた、結婚のことを隠して、茂さんに協議書まで書かせたのは、正々堂々と高瀬家を切り離すためだったのね?……玲、茂さんのこと、誤解してるんじゃないの?」感情を抑えきれず、雪乃の声が震える。「今日はね、茂さんとは関係なく、私自身の意思で来たの。あの人はあんたを利用するなんて考えてない!あんたが疑いすぎなのよ!」その「正義」を振りかざすような口ぶりに、玲は小さく息を吐いた。冷めかけたうどんを見下ろしながら、低く呟く。「疑いすぎ?お母さんこそ、茂さんのことを優しく見すぎよ。今日お母さんがここに来たのは、茂さんの指示じゃないのかもしれない――でも、明日は?明後日は?あの人はね、私が養女だった頃から、力のない私を搾り取れるだけ搾り取ってきた。そんな人が、藤原家の妻になった私を簡単に見逃すと思う?」玲の言葉には怒りも悲しみもなく、ただ事実だけが冷たく滲んでいた――彼女は知っているのだ。茂という男の本性を、誰よりも。だからこそ、あの協議書を書かせるしかなかったのだ。玲は雪乃に目を向け、淡く笑った。「でもね、お母さん。本当はあなたも気づいているはずよ。長年、あの人と暮らしてきたんだもの。彼がどれほど偽善的で、どれほど自己中心的か――見抜けないはずがない。それでもあなたは、あの人の優しい言葉に縛られていた。『家のため、みんなのためよく頑張ってくれた』って言われるたびに、自分が誰かの役に立っているって思い込んで、目をつぶってきたのよ。お母さんがどう生きようと、私には関係ない。でも――見えているのに見ないふりをするような生き方は、私にはできない」唇の端に、玲は薄く笑みを浮かべた。その笑み
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第103話

「今の私にとって、一番大切な人間は秀一さんだけ。秀一さんのために母親を敵に回すくらい、なんてことないわ。何なら、これからはもっと秀一さんに気に入られるよう、母親の利用価値をとことん搾り取ってから、世間に叩かせてあげるつもりよ」「……っ!」雪乃は息を詰まらせ、震える指で玲を指差した。「玲……あんたみたいな反抗的で傲慢な子を、藤原さんがいつまでも愛してくれるわけがないわよ!」玲は静かに微笑んだ。「そうですか。それなら、どうかお母さんは――ずっと茂さんに愛され続けてくださいね」その声音には皮肉が滲んでいた。「これからもずっと、あの人に『従順で賢い妻』として褒められながら、自分の心を押し殺して、周りが見えなくても幸せでいられることを祈ってるわ」そう言い終えると、玲はテイクアウトの袋を持ち上げ、席を立った。そして振り返ることもなく、静かな足取りでレストランをあとにする。雪乃はふらりと立ち上がり、思わずその背中を追おうとしたが――視界がぐらりと揺れ、次の瞬間、椅子に崩れ落ちた。怒りと屈辱と悲しみが一気に押し寄せ、完全に気を失ってしまったのだった。……そのころ、玲はすでに部屋に戻っていた。ちょうど雨音が目を覚まし、ベッドの上で大きく伸びをしていた。「玲ちゃん、どこ行ってたの?さっき起きたらいなくて、電話しようと思ってたんだよ」玲は軽く笑いながら手にした袋を掲げた。「下のレストランでうどんを食べてきたの。ついでに雨音ちゃんの分も買ってきたわ。雨音ちゃんの好み通り――ネギ抜きで頼んでおいた。つくねも手ごねのやつで、市販の冷凍じゃないから、食べて欲しいと思って追加したの」「やった、さすが玲ちゃん!わかってる!」雨音は嬉しそうに声を上げ、しかし玲の表情を見て、すぐに眉を寄せた。「……ねえ、玲ちゃん。なんか顔、疲れてない?レストランで何かあった?」玲は一瞬だけ迷うように唇を動かしたが、答えを飲み込む。そのとき、彼女のスマホが震えた。秀一からだ。出ると、秀一の低い声が響く。「玲、ホテルの新しい支配人が事情を知らずに、雪乃さんを通してしまった。そっちは大丈夫だったか?」思わず玲は笑ってしまう。「大丈夫ですよ。確かに母は来てましたけど、私を取って食ったりはしませんから」「それはわかってるが……言葉で傷つけられていないかが心配なん
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第104話

人は他人の刺のある言葉を心に留めるからこそ、心が裂かれ、血を流すような痛みを覚える。けれど、今回の玲は違った。雪乃の言葉を真剣に聞いていなかったから、傷つくこともなかった。ただ、実の母親とあれだけ激しく言い合いになったのだ。気にしていないつもりでも、さすがに疲れが残る。だからこそ、部屋に戻ったとき、雨音はすぐに玲の顔に疲れの色を見つけたのだ。けれど、それも大したことではない。玲は穏やかな声で電話の向こうの秀一に言った。「秀一さん、私たちの関係は何も変わりません。だから、心配しないでください」その言葉に、秀一は喉をひくりと鳴らした。今度は、彼のほうが言葉を失ってしまう。玲の声は、まるで春の夜風のようにやわらかく、胸の奥をくすぐる。その一言一言が、彼の理性を焼き切るほどに甘く響いた。低く掠れた声が電話の向こうから漏れる。「玲……今すぐ、君に会いに行く」その勢いに、玲は一瞬きょとんとした。彼の言葉の真意を読み違えたのだ。――ああ、荷物を取りに来てくれるつもりなんだ。慌てて言い返す。「いえ、わざわざ来てくれなくても大丈夫ですよ。高瀬家の荷物は昨夜のうちにまとめて持ち出しましたし、今は雨音ちゃんも一緒にいます。引っ越しも手伝ってくれるって言ってるので、仕事を優先してください」「……」電話の向こうで、一瞬、空気が止まった。秀一は初めて、「仕事」という二文字が、こんなにも耳障りに感じた。「新居の場所は、まだ君も知らないだろう。俺が案内した方が早い。道に迷うのも防げるし」少し間を置いて、彼は穏やかに続けた。「それに、今日ちょうど水沢が出張から戻る。仕事は彼に任せる」それは方便ではなかった。友也が乗っている便は、ちょうど昼に首都へ到着する予定だった。玲の瞳がぱっと明るくなる。思いがけず、重要な情報を得たことに気づいたのだ。そして、電話を横で聞いていた雨音の表情をちらりと見たあと、玲はようやく頷いた。「……わかりました。それじゃお願いしてもいいですか?一緒に新居へ行きましょう」「もちろん」秀一の声が笑みを含む。「着いたら、部屋の間取りを案内しよう。もし希望の内装があれば、その場で指示を出してすぐ整えさせる」少し間を置いて、彼は付け加えた。「ただ……あの家は新婚用に設計してあったから、使用人たちが気を利かせて、その雰
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第105話

玲の言葉には、確かに一理あった。この気持ちを打ち明ければ、もしかしたら友也の態度が変わるかもしれない。たとえ何も変わらなかったとしても、それでもいい。中途半端に傷ついたままより、きっぱり終わらせたほうが、きっと前に進める。そう思い直した雨音は、玲の助言を胸に、夜になったらすべてを話そうと決めた。――だがその矢先、まったく予想もしなかった出来事が起きたのだった。勢いよくベッドから立ち上がった瞬間、雨音の足が滑った。バランスを崩して転び、頭をベッドサイドのテーブルにぶつけ――「っ……!」次の瞬間、鮮血がにじみ出た。「雨音ちゃん!」玲は青ざめて駆け寄り、急いで清潔なタオルを掴むと、出血箇所を押さえた。そのとき思い出したのは、秀一が紹介してくれた専属医師のことだった。だが電話をかけたが、あいにく相手は不在だった。専属医師だろうと人間だ。連絡すればすぐ現れるわけではない。仕方がないと嘆きつつ、玲は雨音の顔を見つめた。その顔は血の気が引いて真っ白で、タオルはすでに赤く染まりつつあった。玲は慌てて彼女を支え、車に乗せると病院へと急いだ。途中秀一へ連絡を入れ、事情を説明する。「今日は新居に行けそうにないから、こちらには来ないで」と伝えた。雨音の様子では、今日の夜も彼女に付き添う必要があるだろう。けれど――友也には必ず来てもらわなければならない。「秀一さん、もし会社に水沢さんが来たら、雨音ちゃんのことを伝えてください。こんなときこそ、夫である彼が傍にいるべきです」しかし、病院に着いて間もなく、最初に駆けつけてきたのは秀一だった。「水沢のスマホは電源が入っていなかった。たぶん、まだ飛行機の中だろう」そう言って秀一は短く息を整え、真剣な表情で続けた。「とにかく今は、雨音さんの処置を最優先しよう。彼が到着したら、すぐここに来るよう連絡を入れておく」その言葉どおり、彼は先に連絡を取っておいた病院の主任医師を呼び、玲たちをすぐに個室へ案内させた。診察の順番を待つ必要もなく、雨音はベッドに横たえられ、慣れた手つきの医師が手早く消毒と縫合を行う。そのあとCT検査を受け、幸い脳に異常はなかった。傷は深いが、命に関わるものではない。「しばらく安静にしていれば、後遺症の心配もないでしょう」医師の言葉を聞き、玲は胸を撫
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第106話

玲には、雨音が「誰かに優しくされること」で不快になる人ではないとわかっていた。ただ――雨音は、友也が来なかったのに秀一が駆けつけたことで、きっと少し胸を痛めている。そして、その予感は残念ながら的中していた。雨音はずっと笑顔を見せていたが、唇の端にかすかに滲む寂しさを、玲の目は見逃さなかった。だから玲は、あえて恋愛の話題を避けて、軽く声をかけた。「こんなに長いこと病院でバタバタしてたら、みんな喉が渇いたでしょ?秀一さん、雨音ちゃん、何が飲みたい?私、買ってくるね」その瞬間、明るい声が病室の外から飛び込んできた。「いやいや、それなら奥様が行く必要なんてありませんって!」軽快な足音とともに、洋太が両手いっぱいに袋を抱えて飛び込んできた。そして満面の笑みで、勢いよく声を張り上げた。しかもいつの間にか、玲への呼び方も変えている。「ここはこの私にお任せを!――奥様、道中で皆さんの飲み物は全部そろえておきました!」彼は袋を開けながら、どこか得意げに並べていく。「ミネラルウォーターにジュース、ミルクティー、コーヒー……それから女性に人気なルイボスティーまでございます!どれでもお好きにどうぞ!足りなければ、いつでもお申し付けください!」その勢いで、テーブルの上はあっという間に飲み物の山。見た目はまるで、ホテルの宴会に出るシャンパンタワーのようだった。玲は目を丸くして、その様子にぽかんとしたあと――雨音が「ぷっ」と吹き出す笑い声につられて、とうとう肩を震わせた。「安東さん、さすがに買いすぎませんか?これじゃ小さなカフェが開けそうですね」これこそ、大企業の社長に欠かせない「完璧すぎる秘書」というものなのだろう――玲は思わず感心した。だが、洋太がここまで必死に動くのは、言うまでもなく玲のためだ。この世界で、玲と秀一の関係を最初から見守り、時にはそっと後押ししてきた人物――洋太ほど、秀一が玲にどれほど慎重に、どれほど真剣に想いを注いでいるかを知る者はいない。だから、たとえ社内の一部上層が陰で玲を嘲り、「身分が釣り合わない」、「高瀬弘樹との関係も怪しい」などと噂していようと、洋太には関係なかった。玲は――秀一が三年かけて手に入れた、唯一無二の女性なのだから。洋太にとって、くだらない社交よりも、玲の機嫌を取るほうがよほど建設
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第107話

玲は落ち込んでいた雨音を楽しませたいと思いつつも、秀一を不快にさせたくはなかった。だから、雨音と洋太が楽しげにやり取りしている様子を横目に、そっと隣の秀一に目を向けた。ところが、見上げた瞬間、彼と目が合ってしまった。皆が洋太の軽妙なふるまいに目を奪われている間も、秀一はずっと彼女を見つめていたのだ。彫刻のように端正な顔は真剣そのもので、深い瞳の奥には静かな熱を湛えている。視線が交わった瞬間、なぜか玲の視線は自然と彼の唇へと落ちていく。陽光のもと、秀一の唇は薄く赤みを帯び、端正に閉じられている。口角は自然には上がらず、唇の輪郭は鋭く整い、そこに冷たさすら漂わせている。彫刻の視点から見れば、冷徹の極みとも言える形なのだろう。だが、その唇にキスしたとき、どうしようもない熱を感じられた。玲は思わず頬を赤らめ、無視し続けたその夜の記憶がよみがえり、唇がむずむずと痺れるような感覚に襲われ、軽く舌で触れてしまった。その動作に気づいた秀一は、喉元の奥で息を呑む。抑えていた熱が、身体の中で瞬時に広がっていった。「玲……どうかしたのか?」低く掠れた声で、極限まで我慢しながら尋ねる。玲ははっと我に返った。自分が無意識に秀一を見つめ、口元を舐めてしまったことに気づき、慌てて言い訳した。「い、いや……お腹が空いて、ちょっとお手洗いに……!」顔を赤くしながらも、とんちんかんな言い訳をしてしまい、さらに狼狽する。「そ、そうだ……雨音ちゃんが入院中の薬のこと、聞きに行かなきゃ……」口実を作ると、玲はそっと立ち上がろうとした。しかし、次の瞬間、秀一が彼女の手を押さえ、拳を軽く唇に寄せて咳払いしながら言った。「俺が聞いてくる、君はここで休んでくれ。もしお腹が空いたら……軽くつまめばいい」玲が部屋を出るより先に、秀一は自分が身を引くべきだと判断した。これ以上この場にいれば、空気をさらに乱してしまう――そう感じたのだ。短くそう告げると、彼はすぐに病室を後にした。背筋を伸ばしたまま歩き去る後ろ姿は、まもなく視界から消えていった。玲はしばらく椅子に腰を下ろし、深呼吸をして心を落ち着かせたあと、そっと廊下へ出た。冷たい風が頬を撫でる。火照った顔を冷ましながら、先ほどの出来事を必死に整理しようとする。――自分でも呆れるほど、最低だ。あんな
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第108話

「高瀬さん、綾は正気を失ってるんです、これ以上は我慢できません!」「そうそう、この間の件はどう考えても綾のほうが悪かった、私たちがわざわざ見舞いに来てあげたら、あの人ったら逆ギレして、私たちに手をあげたんですよ!」「ええ、今日こそ洗いざらい話します。綾は玲に嫉妬してるんですよ!あの子に敵わないから、私たちを使って彼女をいじめさせてたんです!でもね、もし綾が藤原家に生まれてなかったら、誰も彼女の命令なんか聞きません。高瀬さん、あなたみたいなまっすぐな人が、あんな性悪の女と付き合ってるなんて、見てられません……ほんとにかわいそうですよ!」「……」女たちのざわめく声――どこかで聞いたことのある声もまじっていた。玲は手すりにもたれ、自分の行動を反省していたが、ふと自分の名前が耳に入り、思わず顔を上げた。声のする方向へ歩いていくと、案の定だった。廊下の曲がり角の先に、以前綾の取り巻きとして見かけた女性の面々がいて、その向かいには弘樹が立っていた。彼はどんな表情をしているのか、玲のほうからは見えなかった。彼女たちは、玲がここにいるとは思ってもいなかったらしい。足音に気づいて振り返った瞬間、全員の顔が固まった。玲はそんな彼女たちを見て、ゆっくりと片眉を上げる。「ずいぶん大勢ですね。でもその格好は……どうされたんですか?」そう、彼女たちが背を向けていた時には気づかなかったが――普段いつも完璧なメイクと高級ブランドに包まれているお嬢様たちが、今は髪は乱れ、服もよれよれ。なかでも、弘樹に向かって綾の悪口を一番激しく言っていた赤髪の女性――以前、クルーズの上で綾に付き従い、玲を陥れようとした張本人――その首筋には、くっきりと爪で引っかかれたような赤い傷が残っていた。犯人は言うまでもない。彼女たちの愚痴を聞けば、一目瞭然だ。昨日、雨音がこっそり教えてくれた。綾は記者会見のあと、俊彦に命じられた黒服の護衛に連れ戻され、藤原家の「鞭の刑」でお仕置きされたらしい。そして今は治療のために病院に運ばれているのだ。たぶんこの取り巻きたちは、見舞いに来たところを逆上した綾に八つ当たりされたのだろう。痛みと恥を抱えた綾が暴れ出し、結果、彼女たちはこのざま――それで弘樹に泣きついている、というわけだ。けれども、弘樹に向かって綾の悪口だなんて、さ
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第109話

赤髪の女は、玲の言葉に顔色を何度も変えた。紅い髪に、青ざめた肌が混ざり合い、まるでひっくり返されたパレットのようだった。――その時。ドンッ!鈍い音とともに、遠くの廊下からよろめく影がひとつ。全員が驚いて振り返る。現れたのは綾だった。令嬢たちの会話が聞こえず、ただ玲の姿だけ捉えたようで、彼女は壁に手をつき、血走った目でこちらを睨みつけた。「玲!どうしてここに?まさか……こんな私を笑いに来たの?」その頬には、玲が打ちつけた掌の跡がまだくっきりと残っていた。けれど何より痛ましいのは、背中の傷だ。――あの日の記者会見。玲の仕掛けによって綾は初めて、藤原家が代々伝わる「お仕置き」を受けることになった。藤原家では、女性に対する罰は男性ほど重くないといえど、膝をつかされ、棘のある鞭で何度も打たれれば、皮膚は裂け、血は滲む。そして薬を替えるたび、包帯が皮膚に張りつき、剥がすたびに肉が裂ける。痛みで気が狂いそうになる――綾が今まさにその状態だった。彼女の取り巻きたちが綾の見舞いに来たとき、彼女は薬を替えている最中だった。痛みに錯乱した綾が暴れ、彼女たちは引っかかれ、髪をつかまれ、今の惨状になったというわけだ。そして今――玲の姿を目にした瞬間、ようやく落ち着いたはずの狂気が、再び蘇る。赤髪の女性がすかさず声を上げた。「そうよ、綾!あの女、わざわざ病院に来てまであんたの悪口言ってたのよ!」綾は全身が震え、涙で真っ赤になった目をさらに見開いて叫んだ。「なんですって?玲……殺してやる!」「いい加減にして」綾は背の怪我で思うように歩けず、その姿を見て玲は冷たく続けた。「今のあなたじゃ、私のところまで歩いて来るのに半年かかるんじゃない?」そして玲は、赤髪の女にじっと視線を向ける。「それにね、綾。私は一応『義姉』だから忠告しておく。友達はちゃんと選びなさい。でないと、裏切られるだけじゃなく、婚約者まで奪われることになるかもしれないよ」ほんの数分前、赤髪の彼女は綾の悪口を弘樹の前でまくしたてながら、その弘樹を見つめる目には、わずかに恋慕が滲んでいたのだ。玲がそう言うと、案の定、赤髪の女は顔を真っ赤にして俯いた。一方、綾にはそんな含みは届かない。怒りに任せて理性を失い、指を震わせながら玲を罵倒する。「ふざけないでよ!裏切り
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第110話

さっき、玲が秀一に「友也を病院に呼んでほしい」と頼んだとき、秀一は「彼のスマホの電源が入っていなかった」と言っていた。それは嘘ではないと玲は思った。けれど、本来なら連絡の取れないはずの友也が、なぜか今この病院にいる。しかも彼の隣には、見知らぬ女性が寄り添っていた。遠目から見て、女性は若く、小柄で華奢な身体を包む淡いピンクのセットアップが、そのあどけない可愛らしさを一層引き立てていた。少し痩せすぎているが、その雰囲気をたとえるなら、まるでふわふわのストロベリーケーキのように甘く無垢で――そして、その無垢さが、いつもどこか挑発的な友也の雰囲気と、妙に釣り合っているようにさえ見えた。だが、玲の瞳からすっと光が消える。笑みも、跡形もなく消え失せた。「……水沢さん。隣の方は?二人はどうしてここに?」友也の表情が一瞬で強張る。病室の外の騒ぎが、中で休んでいる彼女の邪魔になるのではないかと思って、ほんの少し様子を見に扉を開けただけだった。なのに、扉の向こうに玲が現れるなんて思ってもみなかったのだ。もし未来が見えたなら、たとえ外がどれほど騒がしくても、彼は決してこの扉を開けなかっただろう。だがもう遅い。後悔は、何の役にも立たない。「……高瀬さん。あなたが秀一と結婚したからって、俺のプライベートを逐一報告する義務はないですよね」視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに言い放つ。つまり――話す気はない、ということだった。玲の指が無意識に震えた。胸の奥から込み上げる怒りが、喉の奥で熱く滾る。それでも、彼女は必死に息を整え、感情を押し殺した。「……ええ、もちろん。話す気がないなら、今は何も聞きません。でも、どんな事情があろうとも、今すぐ、彼女を連れてここを出てください」この階には、雨音も入院している。医師からは「傷口が大きく出血も多かったので、興奮させないでください」とくぎを刺されているのだ。だから、こんな光景を、絶対に雨音に見せてはいけなかった。玲の厳しい声に、友也は眉をひそめる。反発の色が浮かびかけたそのとき、彼の視線が玲の背後に向かい、言葉が喉で止まった。玲の心臓が一瞬跳ねる。振り返ると、そこに雨音が立っていた。どうやら玲を探して出てきたらしい。けれど、まさかこんな場面を目にするとは思っていなかったのだろう。
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