All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

けれど――秀一が優しいからといって、甘えきるわけにはいかない。玲はふんわりと微笑み、静かに言った。「一緒に藤原家へ行きましょう。他の人のためじゃなく、お義母さんのために。……お義母さんに、お線香をあげたいんです。これからは、私が秀一さんをちゃんと守るって、伝えたいから」その言葉に、秀一の視線がぴたりと止まった。綺麗で、健気で、胸の奥まで甘い感覚で満たされるような、そんな笑顔。「君のことも……俺が守る。誰にも、君を傷つけさせない」「うん」玲は素直にうなずいた。これから参加する藤原家の集まりは大きな宴会のはずだ。さすがに、こんな場で誰かが無茶をするとは思えない。だから、秀一の言葉は――正直、少し大げさだと思っていた。……が。その考えは、やはり甘すぎたと思い知らされた。昼過ぎ。身支度を整え、秀一と並んで藤原家の本邸へ向かう。門をくぐった瞬間、ずらりと集まった藤原家の親族たちの中に綾と弘樹の姿があった。昨日、病院で泣き叫んで痛みに転げ回っていたあの綾が、だ。明らかに無理して退院してきたらしく、顔色は真っ青。弘樹の腕にすがりつき、少しでも動いたら傷がまた開きそうなほど弱々しい。けれど、玲と秀一が入ってきた瞬間――その目が、毒でも含んだみたいに鋭く光った。まるで、視線だけで殺そうとしているみたいに。だが秀一が冷ややかな目を向けると、綾の肩がビクリと揺れ、そして、恐れるように弘樹の胸元へ顔を埋めた。その横から、真っ赤に腫れた目元、濃い化粧で疲れを隠した美穂が、震える声で前に出た。「秀一さん、玲さん。綾がひどいことをして、本当に、ごめんなさい。お父さんも厳しく叱ってあげたから、もう半分、生きた心地もない状態なの。本人も反省しているし……どうか許してあげて。お願い……」「……」玲は、薄く眉を上げた。――なるほど。俊彦が綾に「必ず頭を下げさせろ」と命じたようだ。そのために、無理やり退院して、弘樹と並んでここに立っている。そして俊彦は、これを秀一に見せるつもりなのだ。綾が代償を払ったと、はっきり示すために。だが、綾がどれだけ弱々しく見えようと、秀一の表情は、一つも動かなかった。冷たく、淡々と、そして容赦なく言い放つ。「生きた心地がしない?あれだけのことをして、まだ生きてるだけ有り難く思え。……もしかして、
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第132話

美穂の話を聞いて、弘樹は初めて知った。昨夜、玲はすでに新居へ引っ越し、秀一との同棲を正式に始めていたのだと。だが、つい先日まで、玲はロイヤルホテルのスイートに泊まっていたはずだ。昨日だって「雨音と退院する」としか言わず、秀一と住むなんて一言も言っていない。――言わなかったのは、玲がわざと隠したのか?それとも、秀一が急に決めたことなのか?いや……まさか、昨日の自分の言動が秀一を刺激して、その結果に――?弘樹の全身が硬直した。血が沸き立って逆流するような感覚に襲われる。金縁の眼鏡の奥で光る淡い色の瞳は、今にも血の滴り落ちそうなほど赤く充血していた。だが綾は、そんな弘樹の異変に気づかない。いまの彼女は、玲だけを睨みつけていたのだ。かつて自分が見下していた女。その女が今、母親にまで頭を下げさせている。羞恥と怒りが混じった表情で、綾は歯噛みしながら吐き捨てる。「まったく、男を惑わせる女ってほんと厄介ね。男と住み始めた途端にきれいになって……見てるだけで気持ち悪いわよ」藤原家は仕来りが厳しい。特に、男をたぶらかすような品のない女を最も嫌う。そのため綾の言葉に、周囲の藤原一族の目線も、どこか冷ややかに玲へ向き始めていた。その瞬間、秀一の全身から冷気が滴るように広がる。無表情のまま、綾のほうへ一歩踏み出そうとした。だが玲が、そっと秀一の腕を掴む。そして微笑みすら浮かべながら、穏やかな声で綾に返す。「昔から言うよね、愛する人に大切にされれば、女性はどんどん綺麗になるって。秀一さんは、結婚してからも生活のすみずみまで気遣ってくれるの。だから、そばにいると自然と美意識も上がるのよ」それから、首をかしげて小さく笑う。「でも、綾さんは……高瀬さんとお付き合いしてから、日ごとに顔つきが変わってしまったみたい。前はもっと可愛らしかったのに。もしかして……高瀬さんに大事にされていないのかしら?」玲は無邪気を装いながら問いかける。だが、その言葉の半分は事実だった。綾は弘樹との交際を公表してからというもの、可愛い丸顔が、日に日に歪んだ険しい顔つきへと変わっていた。――その玲の一言で、勝ち誇っていた綾は一気に叩き落とされた。しかも「顔つきが変わった」とまで言われたのだ。綾の顔は瞬く間に歪み、今にも叫び出しそうになるが、そこで美穂が素早く
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第133話

急ぎで本人が対処しなければならない事ができたらしい。秀一はわずかに眉をひそめ、判断に迷っているようだった。それを見た玲は、すぐに声をかける。「秀一さん、仕事を優先してください。私はここで待っています」なにより公の用事は大切だ。まして藤原家の親戚たちが揃っている席で、秀一の行動を止めるような真似はできない。もし彼を引き留めるような素振りでも見せれば、綾の言っていた「男を惑わせる女」という汚名を自分で証明するようなものだ。そんなことになれば、ここにいる人間全員の冷たい視線と悪意で、彼女など簡単に押し潰される。そのとき、美穂が柔らかく笑いながら口を開く。「秀一さん、仕事だといつも決断が早いのに、今日はどうしたの?この藤原家で、玲さんがお腹を空かせるなんて絶対ないから心配いらないわ。安心して行っておいて」続いて俊彦も、茶を一口含んで低い声を落とす。「吉時を逃したらお前の母親に会うのが遅れる。仕事なら早く行け」秀一は黙ったまま。それでもこの空気の中、もう逆らえる状況ではない。彼は玲の頭にそっと手を置き、静かに言った。「食事が終わる頃には戻る」それだけ告げると、大股で会場を後にした。美穂は、その背中を見送りながら目を細める。その視線には、一瞬だけ深い色が浮かんだ。やがて、再び柔らかな笑みを浮かべ、玲の方へ向き直る。「玲さん、心配しなくても大丈夫よ。ここは藤原家、危険があるわけじゃないでしょ?それに、お線香をあげに行く前に、屋敷の中を案内してあげたいわ。知らずに入っちゃいけない場所もあるし、この家の禁忌は先に教えておかないと」「そうだな。あとでしっかり教えてやれ。失礼があってはいかん」俊彦が珍しく美穂の言葉を受け継いだ。その表情には、普段とは違う陰が差し、まるで何かを思い出しているかのようだった。玲は、初めて見る俊彦の表情に小さく首を傾げる――藤原家には、何か隠された事情があるのか?そう思った瞬間。「きゃっ!」近くで冷菜を運んでいた家の使用人が、突然手を滑らせた。皿が床に落ち、ソースが玲のドレスへと飛び散る。「す、すみません!……急に動かれたので、立ち上がるのかと……!」使用人は肩をすくめ、必死に頭を下げた。美穂はすぐに立ち上がり、顔をしかめる。「まったく、料理ひとつも運べないの?玲さん、ごめんなさい
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第134話

空気が一瞬にして凍りついた。この屋敷に来るのは初めてのはずなのに、玲は迷わず核心を突いた。使用人の瞳に走った恐怖――その一瞬の揺らぎが、すべてを物語っていた。つまり、このきれいで静かな部屋は美穂の部屋ではない。さきほどドレスにソースを飛ばしたのも、偶然なんかではなかった。玲は淡々と言葉を紡ぐ。「……ここが、俊彦さんが言う禁忌であり、藤原家で『入ってはいけない場所』なんですね?」ゆっくりとした声だが、一字一句が鋭く突き刺さる。その言葉を口にした瞬間、玲は危うく踏み込むところだった足を引き、静かに後ずさった。何が隠されているのかは知らない。ただ、ここが「禁忌」なら、軽々しく踏み込めば、それこそ美穂にとって絶好の口実になる。だから玲は、冷静に踵を返した。――この借りは、あとで返せばいい。そう胸の内で固く誓ったその時だった。ふと、少し離れた客室の扉が半分だけ開いていた。そこに、見覚えのある長い影。弘樹が、立っていた。彼はドアの影に身を潜め、まるで先ほどの一部始終をすべて見ていたかのように、玲を静かに見つめている。玲が驚いて目を開いた、その直後――細い腕が、弘樹の胸元に絡みついた。引き寄せられるように、彼はベッドへ倒れ込む。同じく部屋にいるのは、服を脱ぎかけた綾だった。弘樹は、綾の背中の傷に薬を塗り直したところだったのか、綾のむき出しの背には痛々しい傷跡が見える。だが、痛みに苛まれているはずの綾は、弘樹に絡みつこうとしている。痛みが昂じ、欲へと変わっているのだろう。綾は狂おしいほどに弘樹を抱きすくめ、首筋へ口づけようとする。玲は思わず息を呑んだ。だが突然、後ろから荒い掌が玲の腕をつかんだ。力任せに引きずられる。振り返る暇さえなく、先ほどの使用人が彼女を禁忌の部屋へと突き飛ばした。ドアが重い音を立てて閉まる――ガンッ。玲は抵抗することもできず、部屋に閉じ込められたのだった。……その頃、階下の宴会場では。家族での会食はほぼ終わり、まもなく吉時の二時半になる。俊彦は酒に手をつけず、ずっと茶だけを飲んでいた。しかし時間が迫るにつれ、彼は落ち着きを失っていく。手は僅かに震え、呼吸が荒い。「あなた、緊張しすぎよ」俊彦の心のうちを見抜いた美穂は、卓上に置いた指先で木目をなぞりながら、ゆっくりと笑った
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第135話

俊彦の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。さっきまで和やかだった食卓は、空気がピタリと止まる。藤原家の者たちは、紀子の部屋の重要さを誰より理解している。グラスを持っていた者は、驚きのあまり手を滑らせ、それを落とすくらいだった。そして次の瞬間、全員がほとんど反射的に走り出した。部屋にいた綾と弘樹も、物音に気づいて飛び出してくる。けれど誰よりも速かったのは――俊彦だった。いつも落ち着き、威厳を崩さない藤原家の当主が、今は足元もおぼつかない。だがその足は、紀子の部屋の前に立った途端ピタリと止まる。ドアの前に立ち尽くしたまま、俊彦の呼吸は荒く、喉仏が上下する。もし中が荒らされていたら――その想像だけで胸が潰れそうなのだ。美穂はそんな俊彦を見つめながら、焦りの声を上げる。「どうして玲さんが紀子の部屋に入ったの?そこは大事な場所なんでしょ?もし部屋が汚されたり、変な匂いがついたりしたらどうするの!」そして矛先は使用人の長岡(ながおか)へ。「長岡さん、どうして玲さんを止めなかったの?」長岡は慌てて首を振る。「私は止めていたんです!美穂様のご指示通り、玲様を美穂様の部屋へ案内しました。でも、玲様は紀子様の部屋を見た途端、すごく綺麗だからどうしても入りたいと言い出して……私の力じゃ、とても止められなくて……」「お母さん、長岡さんは悪くないわ」綾も声を荒げて続ける。「悪いのは玲よ。長岡さんは歳だってのに、あの強情な女を押し返せるわけがないでしょ?」弘樹は黙ったまま冷たい顔で長岡を見ているが、長岡は涙をため、肩を縮めて震えていた。年配で誠実な彼女の姿は、見ている者に同情を誘う。そして藤原家の親族たちは、すぐに口々に騒ぎだした。「なんて子なの!最初は大人しくて可愛らしいと思ってたのに!」「やっぱり出身の悪い子はダメね。いいものを見ると、すぐ手を出そうとするもの。ここは藤原家なのよ?こんな無礼、絶対許せないわ」「秀一くんは彼女と結婚すべきじゃなかった!俊彦さん、急いで離婚させたほうがいい!今回は紀子さんの部屋だが、次は藤原家そのものを壊しかねない!」親戚たちの怒号が飛び交う中、俊彦の胸は怒りで震える。だが彼が気にしているのは藤原家の体裁でも、誰の言葉でもなかった。――紀子の部屋がどうなっているか、それ
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第136話

「玲、部屋にいたんじゃないの?」綾が声を張り上げ、玲を問い詰めた。玲は、むしろ訳がわからないとでも言うように、少し眉をひそめた。「どうして私が部屋に?美穂さんに彼女の部屋で着替えるようにって言われて、私は二階に上がったけど、長岡さんは途中で私を置いて行ってしまって……どこへ行けばいいのかもわからなくて、勝手に歩き回るのも失礼でしょう?だから洗面所で、汚れを落とせるか試していたの」玲は淡々と説明した。「まだ水を溜めているところだったけど、外から悲鳴みたいな声がして……駆けつけたら、みんながここに集まってたの」そして、少し首をかしげる。「でも、おかしいね。誰も私が部屋に入ったところを見てないのに、長岡さんの言葉だけで、私が勝手に入ったって決めつけたの?」玲の視線が、美穂と綾をゆっくりと捉えた。「事情を知らない人が見たら――むしろ、私があなたたちに閉じ込められたって思いそうじゃないですか?」その言葉に、綾の顔色が一気に真っ青になった。背中の傷口がうずき、うっすらと血がにじむほど、焦りと恐怖が一気に押し寄せる。なぜなら――全部、図星だったから。この部屋が俊彦にとってどれほど特別か、綾は誰より知っている。秀一の部屋を自分の衣装部屋にしたり、藤原家で一番自由に振る舞ってきた彼女でさえ、紀子の部屋に踏み込んだことはなかった。この間、玲に一度ハメられた綾は、報復しようとずっと機会を伺っていた。そこで、綾と美穂のところにとあるアドバイスが寄せられる。玲は秀一と結婚したとはいえ、紀子の部屋に入り、そこの物を壊したりでもしたら、それだけで俊彦の怒りは暴走し、秀一にも庇えなくなる。だから今日の計画を実施するために、綾は傷だらけにもかかわらず実家に戻った。秀一を屋敷の外へ誘導し、長岡に玲へ冷菜のソースをかけさせ、着替えを口実に彼女を部屋へ連れていき、閉じ込める。完璧な計画。……そのはずだった。それなのに、俊彦を含め、みんながいるところに、玲は外から登場した。しかも冷静で、綾たちを追い詰めてくる。綾の額に冷や汗が浮かぶ。視線は本能的に、美穂へ――助けを求めるように。綾は取り繕うことができない。そのことを知っている美穂は素早く口を開いた。「誤解よ、玲さん。私たちがあなたを陥れたりするわけないでしょう?あなたが部屋に入
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第137話

人垣の中心で、弘樹はしばらく黙り込んだまま立っていたが、やがて薄い唇を開いた。「俊彦さん……玲は、ただ部屋が綺麗だから気になっただけだと思います。自分で出てきたんですし、どうか許してあげてください」――つまり、玲が綾と長岡の言った通り、藤原家の「入ってはいけない部屋」に侵入したのは事実だ、と。その瞬間、玲は弘樹の正面で目を閉じ、皮肉に笑った。胸の奥に冷たさだけが広がる。弘樹の返事を、予想していたからだ。「さすが高瀬さん、よくフォローしてくれたね」今日、弘樹は初めから綾や美穂と一緒になって、自分を陥れるつもりだった。だから先ほど、長岡に無理やり部屋へ押し込まれた時、彼は見てみぬふりをした。それどころか、裏で綾とイチャついていたのだ。今回の裏切りで、玲は弘樹の本性を見間違っていないと、再び確信した。弘樹は、玲の表情の変化をすべて見ていた。拳を痺れるほどに強く握り、指先は白くなる。だが、美穂は満足そうに微笑んだ。長岡、綾、そして弘樹までが「玲がその部屋へ入った」と証言した今、状況は完全に玲に不利だ。美穂は悲しげな声で玲を見つめる。「玲さん……あんた、やっぱり部屋に入ったのね?すぐ出たとは思うけど……ここが誰の部屋なのか、わかっていたの?ここはね、秀一さんのお母さん――紀子が暮らしていた部屋なのよ。紀子が亡くなってから二十年以上、この部屋に入れるのは俊彦さんだけ。他人が立ち入ったことで、紀子が最後に残した『気配』が消えてしまったらいけないって……だから、俊彦さんは藤原家の当主で、藤原グループの会長なのに、自分で掃除して、自分で修繕して、この部屋を守ってきたの。でも……あんたが入ったせいで、その気配が消えちゃったら?もし紀子が驚いて、この家を離れてしまったら……どうするの?」そう言って、美穂は本当に霊が立ち去るのを見たかのように、驚きと怯えの目で俊彦を見上げた。その言葉は、俊彦の心臓に突き刺さる。彼は紀子を失ってからずっと、彼女の魂だけは、この家に留まっていると信じてきた。もし、それすら消えてしまったのなら……彼は何を拠り所に生きればいいのだろう。俊彦の目は赤く燃え、玲を睨みつける。「玲……正直に言ってくれ。この部屋に入ったのか?」「お義父さん……」玲は俊彦に「お義父さん」と呼んでも良いと言われ、彼からの
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第138話

少し手間はかかったが、玲はなんとかその部屋から脱出できたのだ。本当なら、閉じ込められていた事実を胸にしまい、誰にも言わずにやり過ごすつもりだった。けれど、俊彦に詰められたとき、心が揺れた。紀子――秀一の母のことを思うと言葉が詰まる。そんな人の想いが詰まった部屋の前で、嘘だけはつきたくなかった。しかし、まさにその瞬間。秀一が戻ってきたのだ。玲を守るという約束通り、秀一は彼女の味方につけた。彼の姿を目にした途端、玲の体は思考より先に動いていた。気づけば、秀一へ駆け寄っていく。「秀一さん!」嬉しさが滲む声でそう呼びかけたが、汚れたドレスのまま彼の潔癖を思い、すぐに距離をとる。だが、次の瞬間。秀一の大きな手が、玲の冷えた指先を迷いなく包み込み、強く抱き寄せた。その瞳は荒れ狂う嵐の前の空のように深く、暗く、激しい。「顔色が悪いな。誰に、何をされた?どうして連絡してくれなかった?」「し、下に……スマホを置いたままで。着替えに上がってきたから、持ってきてなくて……」玲は小さく震えながら説明した。スマホがなかったから、前病院にいたときのように、ここで起きたことを記録することもできず、美穂たちの言動を証明できるものも残せなかった。でも、それでも――彼が来てくれた。玲はふっと微笑み、目を細めて秀一を見上げる。「でも大丈夫です、私はなんともありません」その言葉に、今度は弘樹の顔色が暗く沈む。彼女のその笑顔は、かつて自分だけに向けられていたものだった。今はどうだ。その笑みは、迷いも恐れもなく秀一へ向けられている。本来なら、彼女の隣に立つのは自分だった。けど今、自分は他の女の隣に立ち、彼女に手を伸ばすことさえできない。一方、秀一は玲の笑みに気づいても、孤立無縁だった彼女が可哀想と思い、喜びより苦しさを覚えた。その頭を撫でようとしたが、沈黙していた周りの人間たちがその様子に耐えられず、ついに堰を切った。俊彦が一歩前へ踏み出す。顔は怒りに染まっているまま。「秀一、俺は玲に何もしていない。玲が勝手にお前の母親の部屋へ入ったから、真相を確認していただけだ」秀一の視線が動く。開け放たれた、母の部屋へ向けられた。玲は唇を噛み、真実を告げようと口を開きかけた。しかし、その前に秀一が俊彦に目を戻し、低い声で言い放った。「この
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第139話

玲を逃がすつもりなど、綾には毛ほどもなかった。秀一は、嘲るように唇を吊り上げた。「お前と高瀬が『見た』と?それは証拠になるとでも?この間の記者会見でもそうだったな。二人して好き放題に言い散らし、事実をねじ曲げた。そのことは今でも鮮明に覚えている。当時は玲がお前たちの恋路を邪魔したと騒ぎ立てて、よくもまああれだけ嘘を並べ立てたものだ。今だって同じだろ?どうせ玲に本性を暴かれた恨みで、仕返しがしたいだけじゃないのか?美穂さん、お前が娘とその婚約者に嘘のフォローをしてほしいなら――まずは、二人にそんな器があるかどうかを考えたほうがいい」他の誰を信じようと、綾と弘樹だけは信じられない。二人は平然と嘘をつくのだ、そんな人間の口から出る「証言」に、信頼などあり得なかった。秀一の視線が美穂を射抜く。冷たい光が宿り、その鋭さは刃となって真実を切り裂いた。美穂は、もはや笑顔すら保てない。自分が完全に踏み間違えたと悟ったからだ。この前の記者会見で、十数年かけて築いてきた「良き後妻」の仮面は、玲に粉々に砕かれた。綾は家のお仕置きにより血まみれになり、その瞬間、美穂の中で恨みは膨れ上がった。だからこそ、焦った。玲を潰してやりたい、報いを受けさせたい。そうすれば、自分の面子も、藤原家の女主人としての座も、守り抜けると信じた。何せ、紀子を潰し、彼女を踏み台にして俊彦の妻になって以来、美穂がここまで辱められたのは初めてだった。だから思った。玲を叩き落とすなら、彼女が藤原家の一員となり、まだ誰も味方がいない今しかないと。ここで彼女の勢いを殺しておかなければ、いずれ自分が打ちのめされ、そしていつか――藤原家の女主人の座すら奪われかねない。まさにその時、港市から戻ってきた姪、ひなが提案した。玲を徹底的に破り、秀一との仲まで壊す方法がある、と。それが、紀子が生前過ごしていた部屋を利用して、玲を陥れる計画だった。それに、紀子の部屋に対して、美穂は長年鬱屈とした思いを抱いていた。ためらう理由などなく、すぐにひなの進言を採用し、秀一を遠ざけ、計画を進めた。玲が紀子の部屋にいる「現場」を押さえられなくても、自分が巧妙に誘導すれば、玲に罪を押しつけることくらいできると信じ切っていた。――だが、秀一は戻ってきた。あり得ない速さで。彼女があれほど周到に用
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第140話

秀一の視線が、静かに、しかし圧倒的な存在感を帯びて、場の全員を射抜く。重々しい声が周りへと叩きつけられる。「もう一度言う。玲が『俺の母の部屋に強引に侵入した』と言われたこと、俺は一言たりとも信じない。玲は俺の妻だ。俺と同じ立場に立ち、心を一つにする存在。彼女の優しさも、礼儀正しさも、俺は誰より知っている。生前の母に会ったことはなくとも、玲は必ず敬意と真心を抱いている。そんな玲が、断りもなく母の部屋に入ったりはしない。むしろ――この家には、家族円満の邪魔だと言い、母の部屋を疎み、それを壊して藤原家を完全に掌握したいと思う者がいる。そいつらが誰なのか、母の部屋が消えて、一番得をするのは誰なのか……救いようのないバカではない限り、わかっているはずだ」そう言って、秀一は視線を俊彦に向け、薄く笑った。「愚かな女と寝続けてると、バカがうつるかもしれないな」空気が凍りついた。その場にいた藤原家の親族たちは次々に目を伏せる。考えれば分かることだった。玲は秀一の妻。紀子の部屋が守られ、藤原家で大切に扱われるほど、秀一にとっては得であり、玲がわざわざ部屋に侵入する理由などない。では――この部屋の存在を消してしまいたいのはどっちだろう?紀子が亡くなったあと、藤原家を支配しようとしていた連中。すなわち、美穂と綾たちなのだ。そしてよりにもよって、最初に声を荒らげて玲を責め立てたのも、まさにその二人だった。つじつまは、あまりにもわかりやすい。それこそ、救いようのないバカじゃなければ、わかるほどだった。秀一に名指しで「バカがうつる」と言われた俊彦は、怒りの熱がようやく引き、顔色を蒼白から真っ青へと変えた。秀一を睨みつけたあと、その凍てつくような眼差しを――美穂へ向ける。美穂は膝が抜け、倒れそうになる。綾は震え、背中は汗で濡れ、弘樹の腕を掴んで必死に揺すった。だが、弘樹は動かず、ただ玲を見ていた。特に、秀一の「玲とは心を一つにする存在」という言葉を聞いた瞬間、胸に痛みが走った。彼は急に口を開き、冷たく告げる。「藤原さん。あなたは本当に、玲と心を一つにしていると信じているんですか?」「……私に罪を着せる計画が失敗したから、今度は挑発なの?」わずかな間を置いて、玲は弘樹の企みを暴いた。まさか、綾を守るためにここまで攻めてくるとは思
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