All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

確かに――弘樹が言ったとおり、玲は過去の出来事を全部覚えている。けれど、それは「いい思い出」だけではなかった。「あなた……自分に都合のいい部分だけ覚えてるんじゃない?」玲は呆れたように眉を寄せ、一歩後ろへ下がり、距離を取った。「さっきあなたが挙げた三つの思い出、全部聞いた。じゃあ今度は――私の番ね。確かに、母さんが私に無関心だったから、毎年、誕生日を一緒に祝ってくれたのはあなた。ただ……いつも部屋に隠れてこっそりとやってた。茂さんが急に帰ってきた時なんて、私がろうそくを吹く前に、あなたはケーキを丸ごとゴミ箱に捨てたよね?見つかったら困るって。そして……私がつらくて高瀬家から逃げ出して、父さんのお墓に行った時――あなたは必ず迎えに来てくれた。でもね、あそこだけが、私にとってやっと呼吸できる場所だったの。あなたも知ってたはずなのに……どうして毎回急いで連れ戻そうとしたの?本当に私を心配してた?それとも……あなたの手の届かない所に置いておきたくなかっただけ?最後に、私をいじめてた使用人を、あなたが何度も辞めさせてくれたこと。あの時私は心から感謝した。本当に、救われたと思ってた」そこまで言い、玲はスマホを取り出し、二ヶ月前のある投稿を開いて見せた。そして、皮肉に口角を上げる。「――これ。あなたが綾のために流した、私を浮気女だと決めつけるデマ記事。十三年前、私をいじめたあの使用人を辞めさせたのは確かにあなただった。でも――十三年後、あなたはその人を見つけ、彼女と私に嘘を塗りたくってネット中に撒いた。下品な噂まで添えてね。結果、私は……何万人もの見知らぬ人に罵倒された。弘樹、あなた……私を大切にしていたって言えるの?秀一さんと同じ土俵に立てると、本気で思ってるの?」――思い出なんて、綺麗なものだけじゃない。恋という色眼鏡が外れた時、残っていたのはとっくに形を失ったものだった。玲は、もうこれ以上昔の話で弘樹を責めるつもりはなかった。それだけの価値すら、もう感じていなかったからだ。「私はもう秀一さんと結婚して……本物の幸せを手に入れたの」彼女は柔らかく微笑む。さっき、自分を庇うために一人で病室へ向かった秀一の背中を思い出しながら。玲は弘樹を見つめ、落ち着いた声で告げる。「綾が留置場で他の人と喧嘩して……子宮破裂
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第282話

「それより……さっき病室に行ったとき、お義父さんに何か言われませんでした?」玲は、俊彦が今回こそ娘である綾の肩を持ち、秀一を責めていないか不安だった。その言葉に、秀一は玲を抱く腕にほんのわずか力を込め、彼女の額に軽く口づけてから、後半の問いへ落ち着いた声で答えた。「大丈夫、何も言われてない。病室に行ったら、アート展のことをちょっと聞かれただけだ。そのあと綾が麻酔から覚めて、また暴れ出したから、俺はそのまま降りてきた」「そう……ならよかったです」玲はつま先で軽く背伸びし、秀一の首に腕を回して抱きついた。「綾が暴れても、弘樹がついてるし……さっき彼も綾の様子を見に戻ったから。そろそろ帰りましょう?」「ああ」秀一は穏やかに返事をし、玲を車へ乗せ、二人はそのまま病院を後にした。一方その頃、病室は完全な修羅場と化していた。手術から目を覚ました綾は、自分の子宮が摘出されたと知り、泣き叫びながら狂ったように暴れていた。これまでの彼女は奔放な生活を続け、何度も中絶を繰り返してきた。それは、「自分は大丈夫」、「体に影響なんてない」と思い込んでいたから。せめて、子供が産めなくなるほどにはならないと思っていた。だが、今までのツケが積もり積もって、今になって最悪の形で返ってきたのだ。さらに、意識が戻る直前、綾はベッド脇で俊彦と秀一が玲の話をしているのを聞いてしまった。秀一は玲を庇うばかりか、俊彦から「今後は奥さんを甘やかしすぎるな。少なくとも騒ぎをネットに広げるような真似はさせるな」と釘を刺された際、即座に「無理だ」と言い切った。――玲はこれからもっと有名になって、もっと堂々と輝くようになる。そんな彼女の勢いを抑えることなんてできるわけがない、と。そのやり取りが耳に入った瞬間、綾は完全に壊れた。目を見開いたかと思うと、次の瞬間には悲鳴を上げ、泣きながら、机の上やベッド脇のものを手当たり次第に床へ投げつけはじめた。俊彦は耐えられず耳を押さえて部屋を出ていき、秀一も一瞥すらくれずに立ち去った。最後に残ったのは弘樹だけだった。弘樹の姿を見つけた途端、綾は彼にしがみつき、泣きながら訴える。「弘樹さん……みんな私をいじめて、私を陥れようとしてるのよ!こんなひどい目に遭ったのに、お父さんは秀一をひとことも責めないの!秀一が私をここまで
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第283話

綾は、病室で憎悪を燃やしながら、玲を潰すための計画をひとつひとつ頭の中で組み立てていた。そして、そばに立つ弘樹を見て、ひどく安堵していた――家族が全員裏切った今でも、自分の味方でいてくれるのは彼だけだ。そんな思いが綾の胸にはあった。綾の話に対し、弘樹は特に言葉を返すことはしなかった。ただ次の瞬間、綾の体調を理由に「ゆっくり休ませたほうがいい」と看護師を呼び、安定剤の注射を指示する。綾が薬の効果で再び眠りに落ちたのを確認すると、弘樹は無言で病室を出た。廊下には、すでに秘書が待っていた。弘樹の姿を見つけると、秘書はすぐに駆け寄り、小声で報告する。「社長、美穂さんのほうにも、先ほど看護師が安定剤を打ちました。このまましばらく、二人を病院に留めておきますか?」数日後には雨音のアート展が始まる。そして――玲の作品もそこで公開される予定だった。今でさえ、玲が作品をRのアート展に出した件で世間の反発は強い。そこへ綾が騒ぎを起こせば、玲が受けるダメージは計り知れない。秘書はそう懸念していたが、弘樹はすぐには答えなかった。夜の静けさがさらに深まり、しばしの沈黙のあと――彼はぽつりと秘書に質問した。「……なあ、俺は、ずっと……間違っていたのかな?」「間違っていた、とおっしゃいますと……?」秘書は慎重に探りながら聞き返す。弘樹は、逃げるように隠してきたあらゆる思いを、今夜はもう抑えきれないようだった。廊下の手すりに手をつき、弱々しく笑う。「玲のことだ。昔、彼女を守れると思って、俺なりに『正しい』選択をしたつもりだった……でも全部、違ってたんじゃないかって」弘樹は、玲を愛していた。十三年前、玲に一目惚れしたのは秀一だけではなかった。玲が雪乃の後ろに隠れるようにして高瀬家へ連れてこられた。小さくて、おとなしくて、守ってやりたくなるような姿を見た瞬間から――弘樹の心は決まっていた。彼女を守りたい、優しくしたい。だが、それを公にできなかった理由はたったひとつ。父であり高瀬家当主である茂の存在だった。茂が二人の関係を知れば、玲には想像もつかない危険が降りかかる。だからこそ弘樹は、玲を隠すために綾と「恋人ごっこ」をした。表では綾と親密なふりをして、まるで気持ちが移ったように演じ続けた。だが実際には、弘樹は綾を一度も好きになったこ
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第284話

秘書は何も言えなかった。だが、冷静な第三者として――どうしても認めざるを得なかった。玲の言うことは、ひとつも間違っていない。弘樹が「守るため」と称してやってきた数々の行動は、玲の尊厳を踏みにじり、人としての権利を奪い、他人から侮辱される環境へ追いやってきただけだった。もし、その途中で弘樹が「そうした理由がある」と一言でも本音を明かしていたら、二人の関係はまだ修復できたのかもしれない。だが弘樹は、ひたすら隠した。「今はまだ言えない」と先送りにし続け、結局、玲が耐えられなくなるまで黙っていた。そして今、玲には本当の幸せがある。今さら全てを打ち明けたところで、もう間に合わない。さらに――男だからこそ、秘書はもうひとつ理解してしまう。弘樹が玲との関係を隠したのは、茂から守りたい気持ちがあったとしても、もう一方で、その行動は――逃げだった。茂に逆らう覚悟が持てず、玲を犠牲にしても自分は安全な場所にいようとした。その選択をしたのは、ほかでもなく弘樹自身だった。けれどもし秀一なら、そんな選択は絶対にしない。藤原グループのトップである秀一が、玲のような女の子を妻に迎えることに、藤原家が祝福するはずがない。周囲だって、必ず反対したはずだ。それでも秀一は、玲を一度たりとも傷つけなかった。泣かせもしなかった。もちろん、秘書はこんなことを口にはできない。必死に言葉を選びながら、なんとか慰める。「社長……あまり思い詰めないでください。まだ、状況が変わる可能性も……ゼロではありません」弘樹の瞳に、かすかな光が戻る。「……そうだ。まだ何も終わってない。早々に諦める必要はない……!」手すりを握る指が強く締まり、声がわずかに震える。「秀一と玲は、まだ気持ちを確認したばかりだ。このままうまくいくとは限らない。だったら、俺にだって……まだチャンスはある!」玲が今、秀一を想っていようと――関係ない。玲は、かつて自分を想ってくれた。しかも十三年も。なら、秀一と自分は――同じスタートラインに立っただけだ。秘書は思わず目を瞬かせた。自分の何気ない慰めが、そんなふうに解釈されるとは思ってもいなかった。何か言い直さなければ、と口を開きかけたその時――廊下の反対側から足音が響いた。秘書は反射的にそちらを向く。そして、その人物の顔を見た瞬間
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第285話

弘樹の言い分は、確かに一理あった。高瀬家の主であり、彼の父でもある茂が、家のことや弘樹のことなど把握できてないはずがない。実のところ――玲が雪乃に連れられて高瀬家に来た時から、茂は弘樹の特別な視線に気づいていた。雪乃は「弘樹は性格が穏やかで誰にでも優しいから」と思っていたが、茂にはそれが「心を奪われた男の目」だとはっきりわかっていたのだ。「お父さん、何を言ってるんだか……」弘樹は指先に力を込めながら微笑み、先ほどの動揺をすっかり押し隠して眼鏡をかけ直す。「綾は一人で病室にいます。心配なので様子を見てきます」「必要ない。あの子は、君が打たせた薬でぐっすり眠ってるんじゃないか」茂は声を落とし、冷たく言い放つ。「それに、もう隠す必要もないだろう。君が綾を愛しているふりをしているだけだってことくらい、わかってる。本当に愛していたなら――わざわざ留置場の中へ人を送り込んで、綾を挑発させ、ケガを負わせ、子宮が破裂して二度と母になれない身体にするような真似、するはずがない」周りから見れば、綾がこうなったのは全部自業自得だろう。だがすべては――弘樹の計画だった。最初から、綾が無傷で留置場から出られる未来など、彼の中には存在しなかった。なのに綾は、弘樹を救いだと思い込み、苦しみの中で唯一自分に優しくしてくれる存在と信じていた――彼女を地獄へ落としたのは、他でもない弘樹自身だというのに。弘樹は目を伏せ、しばし沈黙したあと、低い声で問い返す。「お父さん……ずっと俺を監視していたんですか?」「そうだ。君のしたことは、私に隠し通せるようなものじゃない」茂は手すりを握り、こめかみの白髪を蛍光灯が冷たく照らす。「君が綾への愛情を装い、私の警戒を解いて玲から目を逸らさせようとしていたのも全部わかっている。だから私は、わざと乗ってやったんだ。君が綾のためと言いながら、何度も玲を傷つけ、失望させていく様をね……愛している相手に対して、君は本当に容赦ない」愛する者を裏切るという行為は――無間地獄へ突き落とすのと同じだ。千の刃で刻まれ、皮が剥がされ、骨まで砕かれるような苦痛を味わうことになる。茂なら、自分が心から愛する女にそんな仕打ちをしない。父の冷淡さに、弘樹はもう堪えきれなかった。「全部知ってたなら……俺が玲を好きだってわかってたなら、ど
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第286話

弘樹の瞳には、深い困惑がじわりと滲んでいた。それでも感情を押し殺し、ゆっくりとまぶたを上げ、一語一語を噛み締めるように問い返す。「……全部わかったうえで、お父さんはこれからどうするつもりなんですか?」「どうもしないさ」茂は細めた目の端に皺を刻み、穏やかな声で続けた。「弘樹。君のことを暴いたのは、君を罰するためなんかじゃない。ただ――もっと現実を知ってもらいたいだけだ。そして、これからも私の駒として動いてもらうためにね。最近、君が高瀬家で権力を握ろうとし、昼夜問わず働いていたのは知っている。理由は簡単だろう?秀一くんを見て、自分にも『父親に抗える力』が持てると思ったんだ」茂はゆっくりと歩み寄り、逃げ場を塞ぐように言い放つ。「だが弘樹、君には無理だ。私の息子に生まれた以上、私に逆らうことなどできない。私の指示に従い、私がやりたいことをともに成し遂げてくれた時――君を解放してやってもいい」その時が来るまで、逃れる道など一つもない。弘樹の顔色は血の気を失い、腕にはぞわりと鳥肌が立った。「……お父さんは、一体何をしようとしているんですか?」「すぐわかる」茂はふと目線を横へ向けた。まるで暗いガラスの向こう側に、誰かの姿を見ているかのように。「すぐに――色々と決着がつくだろう」不穏な響きだけが残り、弘樹のこめかみは血がのぼったように激しく脈打った。……ぼんやりとした月光が冷たく差し込み、夜は深く陰を落としていた。翌朝。秀一が仕事へ出ていくと、玲もアート展の仕上がりを確認するために雨音のもとへ向かった。ただ、以前は堂々と訪ねていたのに、ネット上での炎上まがいの騒ぎがあってからは、注目を避けるためにこっそり隠れるように出向くしかない。その姿を見て、雨音は可笑しくて仕方がなかった。特に綾にまつわる噂話に差し掛かると、綾が自分で撒いた火の粉に自分で焼かれたと知り、雨音はもう笑いが止まらなかった。「綾ってほんと、あの狂気じみた性格で、最後に傷つけたのが自分自身ってのがね!これが藤原家の内情じゃなかったらさ、私、絶対盛大に宣伝してあげたよ!」「その変な宣伝はしないで……」玲は呆れながら首を振る。「このアート展だけでも十分話題になるでしょう?」「いやいや、実はね、これだけじゃ足りないんだよ」雨音はぱちぱちと瞬く。「
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第287話

玲が言い終えるか終えないかのうちに、雨音の口元に浮かんでいた笑みが、すっと消えた。玲の言ったとおりだった。いつの間にか、友也が会場の外に現れていて、今まさに中へ入ってこようとしていたからだ。もっとも、雨音は彼が自分を探しに来たとは思っていない。だからこそ、友也の姿を確認するなり、玲の腕をそっと引いて一歩下がり、遠くから別の会場を指さした。「山口さんならBホールだよ。角を曲がればすぐだから、そっちに行ってあげて」こころは、友也にとって大事な初恋だ。ようやく彼女をアート展のチームにねじ込み、多少でも安心できる状況を整えたばかり。ここへ来たのだって、きっとこの二日間、こころが何か困っていないか確かめに来ただけだろう。しかし、雨音の言葉に友也の顔はみるみる曇り、足取りが止まらなかった。次の瞬間にはもう、雨音の目の前に立っていた。「こころじゃなくて、お前に会いに来た」さらに今回は、前みたいに雨音が警備員を呼んで追い出したり、勢い余って蹴り飛ばしたりするのを避けるために、友也はわざわざ秀一から大量のボディーガードを借りてきていた。会場の警備員は、全員まとめて「ちょっと待っててください」と確保済みだ。今日こそ、ちゃんと雨音と話す。友也はそう腹をくくって来たのだ。――もっとも、話したいと思ったのは今日に始まったことじゃない。実を言えば、ずっと前から雨音とちゃんと向き合いたかった。今日まで行動を起こさなかった理由は主に二つ。一つは、こころの件で自分が彼女に後ろめたいことがあり、どんな顔をして会えばいいのかわからなかったこと。もう一つは、前回、あの大勢の前でお尻を思い切り蹴られ、男としてのプライドが粉々に砕け散ったせいで、意地になって会いに行かずにいたこと。いろんな感情が絡まり合って、踏み出せずにいた。そんな彼の元へ数日前。秀一が、突然オフィスに乗り込んで来た。何が起きたかわからないうちに、友也は椅子から軽々と持ち上げられた。抵抗する暇もなく、秀一は冷たい声で言い放つ。「本当に雨音さんと別れたいなら、そのまま引きこもってろ。お前の兄貴はもう帰国した。友也、十何年も雨音さんをこっそり想ってきたんだろ?だったらその気持ちを、逃げずに本人に全部伝えろ。このまま海斗さんに雨音さんを奪われたら……お前、弘樹以下の、とんでもない大バカになるぞ
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第288話

あのとき、器を抱えたまま固まっていた友也の頬を、雨音はそっと指先でつついた。赤くなった彼の顔を見て、優しく笑いながら、「大丈夫。お兄さんには、私がうまく言っとくから」と、あっけらかんと言ってくれたのだ。けれど雨音は知らなかった。あの瞬間、友也の顔が熱くなった理由は、失敗の緊張なんかじゃなく――女の甘い香りのする指先が頬に触れたからだ、と。そしてその日、友也は知ってしまった。雨音が兄、海斗の「彼女」だということを。割れた器を丁寧に修復してくれた雨音の前で、兄はいつもなら絶対に気に入らないはずの破損を、眉一つ動かさず受け止めていた。むしろ、雨音のほほ笑みに目を細め、肩を抱き寄せ、頭を胸に押しつけるようにして甘やかしていた。雨音も嫌がる気配はなく、笑いながら兄の脇腹をつつき返し、二人でふざけ合っていた。その光景を見た瞬間、ずっと熱を帯びていた友也の頬は、みるみるうちに真っ白になった。それでも、ふたりの関係を取り違えている可能性を捨てきれず、後日、彼は遠回しに兄へ尋ねた。雨音は兄にとって、どういう存在なのかと。あの時の兄の答えは今でも鮮明だ。「雨音は僕の彼女だよ。友也、そのうち、雨音は君の義姉さんになるんだ」水沢家と雨音の実家、遠野家には元々婚約話があった。年も近く、互いに好意があった兄と雨音は、自然と結婚へ向かっていくはずだった。そして――友也の、初めて芽生えた恋心は、たった一瞬で冷め切った。好きになるのは自由だ。でも、兄と雨音が想い合っている以上、自分がその気持ちを抱え続けるのは、卑劣で恥ずべきこと。そう思い込んだ。……とはいえ、恋心なんてものは、意思では止められない。自分でも正しくないとわかっていながら、雨音が家に来るたび、友也はつい彼女を目で追った。彼女の周りにいる場所へ、理由をつけては近づいてしまった。そんな日々が続いたある日――兄の海斗が、やわらかい口調で切り出した。「友也。雨音、最近ちょっと困ってるみたいなんだ。君がまだ若い……自分の恋を、別のところに向けてみてもいいんじゃないかな?」その翌日、友也には彼女ができた。山口こころ――家庭が苦しく、持病の心臓病もあって、よくいじめられていた子。友也は彼女を守り、治療費も助けた。ただ、その条件が――彼女に「偽の恋人」になってもらうこと。自分に彼女がいれば
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第289話

「私に会いに?いきなり何の用?」雨音は、彼の考えなど何も知らず、ただ眉根を寄せた。無理もない。結婚して三年近くになるが、友也がわざわざ彼女に会いに来たときは、ろくなことがなかったのだ。その反応に、友也は苛立ったように髪をかき上げ、顔をわずかに歪めた。「用がなきゃ来ちゃいけないの?それに今日は、喧嘩しにきたわけじゃない!」「……本当に?」雨音はそう簡単には彼を信用しない。「じゃあ今、ここで言って」「……玲さんにちょっと席外してもらえない?」「だめ」雨音は即答した。「どうして玲が出て行く必要があるの?彼女は私の親友だし、聞いちゃいけないことなんてない」「……」友也は言い返せなかった。――三年の間、毎回口論になっていたのは、自分のせいだけじゃない。雨音の態度じゃ、誰だってキレると、友也は思った。玲もその空気を察したのか、気まずそうに身を引こうとした。だが雨音は一歩も引くつもりはない。玲の腕をぎゅっとつかみ、冷ややかに言い放つ。「友也、言いたいことがあるなら今ここで言って。言わないならすぐ帰って!」「……わかったよ。お前がそう言ったんだからな」友也は顔を真っ赤にし、深呼吸一つ。そしてとうとう腹をくくった。「雨音。実は……その……ずっと前から、お前のこと――」その瞬間だった。「雨音、友也。二人ともここにいたのか」落ち着いた声が突然響き、友也の言葉がきれいに途切れる。空気が、ぴたりと止まった。振り返ると――車椅子を自ら操作しながら、海斗がゆっくりと近づいてきていた。さっきまでの緊張感など知らぬ顔で、穏やかな笑みを浮かべ、二人を見つめる。「雨音。前回の夜の集まり、時間が遅くてろくに話せなかっただろう?今日は天気もいいし、早い時間だから……君と玲さん、それから友也も一緒に、食事でもどうかなと思ってね。そうだ友也。こころさんも、この展示会で手伝ってると聞いたよ。彼女も呼んで、一緒に行ったらどうかな?」全員に気を配る、完璧な兄の振る舞い。……だが、「こころ」という名前を聞いた瞬間、雨音の胸の奥に、あの忌まわしい記憶がぶわっとよみがえった。雨音は乾いた笑いを漏らし、友也を刺すような視線でにらみつけた。「そうだね、山口さんにも手伝ってもらってるよ。ほんと助かってる。彼女が来なかったら、私は人手不足で困っ
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第290話

今まで、友也と雨音の言い合いはただの軽い口げんかで済むはずだった。けれど今はもう、互いの言葉の端々に火花が散っている。海斗はその様子に気づき、気まずそうに眉間を寄せ、車椅子を操作して友也の肩に手を置いた。「友也……僕が悪かった。こころさんがいるって聞いて、つい軽く話題にしただけなんだ。こんな空気になるなんて思わなくて……そういえば、さっき来たとき、君は何か言いかけていただろう?よかったら続き、聞かせてくれない?」友也は奥歯を噛み締めたまま、低く吐き捨てる。「……もういい。話す気はなくなった」雨音のそばにいるのは玲だけなら、なんとか勇気を振り絞れたかもしれない。だが今は、雨音の隣に海斗までいる。昔、雨音と距離を置くよう言われたのは、他でもない海斗からだった。彼がいる場で、自分の想いをまた口にできるほど、友也は強くない。悔しさと苛立ちを抱えたまま踵を返すと、友也は大股で歩き出す。だが、数歩進んだところで何かを思い出したように立ち止まり、勢いよく戻ってきた。そして、海斗に向けて怒鳴る。「兄さん!雨音はもう俺の妻なんだ!いつまでも前みたいな距離感で接するのはおかしいだろ!いい加減に気を使えよ!兄さんだってまだ若いんだから、さっさと誰かと結婚したらどうなんだ!」雨音には強く当たれない。けれど、過去に飲み込んだ悔しさだけは、こうして海斗にぶつけずにはいられなかった。海斗は一瞬、言葉を失ったように沈黙した。……結局、この日の顔合わせは最悪の形で終わった。雨音も海斗の誘いを断り、玲は彼女が落ち着くまで寄り添ってからようやく帰宅した。家では、秀一がすでに帰っていた。玲は小走りに秀一の胸へ飛び込み、今日あった出来事を一通り話し終えると、ふと首を傾げた。「でも……結局、友也さんの言おうとしたことって何だったんでしょうね?秀一さんはわかりますか?」「……さあな」しばらく沈黙したあと、秀一はゆっくり首を振った。玲に隠し事がしたいわけじゃない。ただ、友也の想いは、他の誰でもなく本人が口にすべきもの。秀一が先回りして語るべきではなかった。だが――海斗に遮られたあの空気を思い返すと、秀一の目はふっと細くなり、瞳に暗い色が差した。彼は玲の頭をそっと引き寄せ、唇を触れさせながら低く囁く。「玲。最近のネットの空気、どう考えても物
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