そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜 のすべてのチャプター: チャプター 291 - チャプター 300

401 チャプター

第291話

玲の予想は、やはり的中していた。秀一が電話に出た瞬間、その表情の変化がはっきり見て取れた。電話の向こうからは、ざわつく声が聞こえ、どうやら朗報のようだ。けれど、その賑やかさの中に、微かに、弱々しい女の声が混じった気がした。玲が耳を澄ませようとした時には、すでに秀一が通話を切っていた。玲は慌てて顔を上げる。「秀一さん、どうでした?あの方……容体、よくなったんですか?」「……ああ」秀一は短く頷き、複雑な笑みを浮かべた。「……今日、目を覚ましたそうだ」以前、医師から回復の兆しがあるかもしれないと言われていた。それが一ヶ月後に、とうとう現実になったのだ。玲はぱっと顔を輝かせる。「本当に?よかったですね!秀一さんも、今すぐ会いに行ったほうがいいんじゃないですか?」「大丈夫……ご両親がついてるんだ」秀一はスマホをポケットに戻し、玲の腰を抱き寄せた。「それに、君が帰ってきたばかりだろ?まだ一緒にいたい」「ふふ、私たちは夫婦ですよ?これからいくらでも一緒にいられます。今はお友達のほうが大事ですし、行かなかったら、ご家族だって気にしますよ?」秀一が自分を第一に置いてくれることは、心の底から嬉しい。けれど、それで彼の大切な人間関係がこじれるのは、玲としても望まない。ところが秀一は、珍しく引かない。「……今日は君のそばにいたい。他の誰かのところへ行くつもりはない」言い終えるや否や、秀一は玲をひょいと抱き上げ、そのまま寝室へ運んだ。玲が反論する隙すら与えず、口づけで全部封じ込む。秀一の行動は強引に見えても、その心のどこかで友人が気がかりだと、玲は知っていた。だから夜になり、玲はわざと疲れたと言い、早めに眠ったフリをした。しばらくして、そっと額に落ちてきた優しいキス。布団が乱れないよう静かに立ち上がる気配。秀一は、やっぱり出て行った。――ほんと、素直じゃないね。玲は布団にもぐり、小さく笑った。帰ってきたら、一緒に眠ろう。そう思いながら待っていたはずなのに――いつの間にか、眠りのほうが勝ってしまった。翌朝。朝日が窓の隙間から差し込む中で目を覚ますと、隣には秀一の姿がなかった。その代わり、枕元には一枚のメモ。【仕事に行ってくる。朝食は用意してある。必ず食べること。今日からボディーガードを手配したが、仕事の邪魔
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第292話

「藤原さんは八歳のときに誘拐されて、そのうえお母さんも悪い女に追い詰められて飛び降り自殺……玲ちゃんだって前にベランダから落ちかけたり、綾のせいで車の事故に巻き込まれそうになったりしたじゃない。あれだけのことが立て続けに起きたら、藤原さんがどれだけ神経をすり減らしてるか想像つくよ。だから、本当はずっと前からボディーガードをつけたかったはず。でも玲ちゃんが嫌がるかもって思って、我慢してたんだと思う。まぁ、今はボディーガードがついてるとしても、距離を保ってもらってるし、普段の生活に影響はなさそうだから、ここは目をつぶってあげなよ。藤原さんが玲ちゃんを大事に思う気持ちの表れなんだから」玲をいつも大事に思っている秀一のことだ。玲の意思を押し切ってボディーガードをつけたのは、きっとそれよりいい方法を思いつかなかったのだろう。雨音の言葉を聞きながら、玲は昨晩ふと見えた秀一の沈んだ表情を思い出した。胸の奥にひそむ、説明しきれない痛みのようなもの。そして深夜、こっそり友人の見舞いへ向かった彼の姿――玲は、ある可能性に思い至る。「ねえ雨音ちゃん……秀一さんには、数年前に事故に遭って植物状態になった弟のような友達がいるの。もしかして、その人を守れなかったから、ずっと責任感じてるんじゃないかな?」そうでなければ、あの複雑な目の理由が説明つかない。雨音は、あながち間違いでもないと頷いた。「もしその事故が藤原さんのそばで起きたもので、しかも成人前で身の回りが危険だらけだった頃なら……自分のせいだって抱え込んでてもおかしくないよ。今でこそ社長なんて呼ばれて、誰も手出しできないけど、当時の藤原家の環境って、剣呑そのものだったもん。それに玲ちゃんも知ってるでしょ?ビジネスの世界なんて常に足の引っ張り合い。とくに藤原家は複雑だし、美穂さんと綾たちはハイエナみたいに藤原さんを狙ってた。周りの人間が巻き込まれるなんて日常茶飯事だったと思うよ」玲も深く頷く。秀一がどんな扱いを受けてきたか、彼女は間近で見てきた。玲と秀一の縁が結ばれたのも、秀一がいじめていたからだった。けれど、雨音はふと首を傾げた。「……でもおかしいね。藤原さんのまわりにそんな友達がいたっけ?友也は藤原さんの弟分で、昔からずっと彼のそばにいたじゃん。『俺は秀一の唯一の弟分だ!』って、誇らし
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第293話

「藤原さんが玲ちゃんに嘘をつくわけないじゃん。私がさっきそう言ったのは、ただ――次に友也をからかうネタを仕入れたかっただけだから!」雨音がきっぱりそう言った。秀一と友也、どちらを信じるかと言われたら、答えはもちろん秀一だ。これで、友也の「秀一にとって唯一の弟のような存在」という誇りは今日をもって完全に崩れ去ったわけだ。このネタだけで、一年は笑ってやれると、雨音はそう思った。想像だけで機嫌がよくなったのか、雨音は昨日の喧嘩のモヤモヤも忘れ、次は必ず勝つと意気込んだ。その様子に、玲は苦笑しつつ首を振る。ひとしきり騒いだあと、二人は展示会の最終調整について確認を終え、玲は保護のため同行しているボディーガードに付き添われ帰宅した。家に戻ると、昨晩と同じく秀一が先に帰っていた。彼は迷いなく玲を抱き寄せ、穏やかに問いかける。「展示会の最終確認は、無事終わったか?」「はい、バッチリでした。あとは二日後の開幕を待つだけ」玲は満足げに微笑み、ふと思い出したように続けた。「そうだ、昨日、植物状態だったお友達のところへ行ったんでしょう?調子はどうでした?今日、雨音ちゃんと話しててね、もし少しでも動けるなら、気分転換にアート展に来てもらえたらと思って」それは本心だった。雨音は「友也の最強設定を壊してくれた人」として、彼の存在に妙な感謝すら抱いている。だから、少しでもその人が元気になれるなら、と純粋に願ったのだ。それに、本当に来てくれたのなら、その機に友也を思いっきりからかうことができる。しかし秀一は、玲の言葉にそっと視線をそらした。顔がわずかにこわばる。「……友達は、五年も眠り続けていたから、身体機能もかなり落ちてる。今はベッドから起き上がるのも難しいし……気分も不安定だ。外出は避けよう」「でも……気分が沈んでいる時こそ、外に出て、気分転換したほうがいいんじゃないですか?」玲は自分が今回出展する彫刻を思い浮かべ、口元をほころばせた。「歩けないなら、車椅子に乗せてあげたらどうですか?」だが秀一は、玲の提案を断った。「……やっぱり、やめておこう」短く首を振り、決心がついたように言う。「玲、この展示会には俺だけが行くよ。ほかの人は……遠慮してもらおう」その声音は柔らかいが、揺るぎがなかった。今は何かを整理しきれていない―
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第294話

「違う。君がいないと、俺が眠れないんだ」秀一はそっと玲の細い首の後ろに手を添え、視線に滲む熱を隠そうともせず続ける。「玲……前に言ったこと、今日なら……いい?」この間、玲が酔って大胆になって、秀一に遠慮なく触れ回っていた夜。そのとき秀一は――次に玲が正気のときに容赦するつもりはない、と言っていた。今日、玲はお酒も飲んでいなければ、生理も終わって、すっきりとした状態。ということは……秀一は、あの約束を果たす気なのだろうか?その言葉を聞いた瞬間、玲の頬に広がっていた照れは一瞬で爆ぜ弾け、今度は頬どころか全身が真っ赤になりそうだった。「ちょ、ちょっと……この二日、やけに早く帰ってきてたのって、まさか……そのつもりで?」自分で言っておきながら、図星すぎて声が震える。秀一は隠しもせず、静かにうなずいた。「そうだ。でも、それだけじゃない。早く帰ってきたのは……早く君の顔が見たかったから」そして、ふっと息を吸い込む。「でも、無理はしないよ。玲がまだ心の準備できてないなら……また今度でもいい」十三年も待ち続けてきた。今さら少し先延ばしになったところで、秀一は構わない。そう言って、彼はそっと玲を離し、冷水シャワーでも浴びようと立ち上がろうとした――が。玲がそのネクタイをぐっと掴み、逆に秀一を強く引き寄せる。そのまま二人は寝室へ。扉が「バンッ」と勢いよく閉まった。「次は次はって……もう何回次こそって言ったと思ってるんですか?」勢いのまま秀一を壁に押しつけ、玲は勇気を振り絞って唇を重ねた。「秀一さん……私、酔った時にあなたが欲しいって言ったの、本気だから」普段の玲が恥ずかしがり屋だからといって、遠慮として扱われては困る。彼女の清楚な外見の奥に、誰よりも強い反骨心と情熱が潜んでいる。その甘い唇の感触に、秀一の動きが一瞬止まり――次の瞬間には、彼の深く黒い瞳が欲の色に染まり、抑え込んでいた野性がふっと滲み出す。――そのとき。プルルル。耳障りな着信音が突然鳴り響いた。玲は反射的に下を向き、画面を見た途端、思わず口に出しかけた言葉を飲み込む。またあの専属医師――いや、正確には秀一の友人からだ。目を覚ましてからというもの、どうやら秀一に会いたくて仕方ないらしい。この時間にまた呼び出すなんて、随分秀一に懐いていると、
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第295話

玲は思いもしなかった。いつも自分を壊れ物のように大切に扱い、丁寧に接してくれる秀一が――ひとたび枷が外れ、欲を覚えた途端、ここまで狂おしいほど激しくなるなんて。寝室には、家に越したばかりのときに置いていた赤いバラはもう影も形もないのに、あまりにも激しい交わりに、玲の視界に赤い色がちらついた。そんなのきっと幻だろうと、玲は自分に言い聞かせる。一方で秀一は、まるで疲れを知らない。その息も乱さぬ動きを見て、玲はふと思い出した。昔、美大にいた頃、彫刻科の先輩がよく言っていた――「彫刻の学生は常人離れした持久力が必要だ。ひとつの作品を完成させるには、休む暇なんてない」と。立場が逆転してしまっているが、玲にはその言葉の意味がよくわかった。玲は秀一の「作品」で、秀一は彼女のすべてを支配する「創り手」。以前、玲が必死に勉強した「知識」など、本番を前にすれば何の役にも立たない。ついに玲が涙を浮かべ、「もう無理」と声にもならない声で訴えたところで、ようやく秀一は汗まみれの彼女を抱き上げ、浴室でそっと洗い流してくれた。汚れたシーツを外し、柔らかい布団に二人で潜り込んだとき――玲はほっとした。これでやっと眠れる、と。だが。翌朝七時。玲は、身体の奥から突き上げるような痺れと熱で叩き起こされた。「……っ、ちょ、ちょっと……出勤の時間じゃないんですか?」顔を真っ赤にして布団から半分隠れながら、今はもう優しく声をかける余裕もない。「待って、な、何してるんですか……!」「……そんなの、決まってるだろ?」秀一はその熱い一言を玲の耳に落とし、耳たぶに軽くキスを落とす。かすれた声が、さらに追い打ちをかける。「出勤まで……あと一時間半ある、十分だ」「……」いや、十分どころじゃない。命が危ない。やがて――玲は完全に意識を手放した。次に目を覚ましたとき、もう夕方の五時だった。秀一は会社に行っていて、帰宅まではまだ一時間半ほどある。身体はきれいに清められていたが、少しでも動けば、骨のあちこちが「ギシッ」と軋む。まるで全身が崩れそうだった。「あの人……正気じゃないわ……!」玲は生まれて初めて、秀一に内緒で彼をこっそり悪く言った。ちょうどそのとき、枕元のスマホが突然鳴り響いた。あまりのタイミングに、玲は反射的に「秀一に聞かれた?」と青ざめる。
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第296話

玲は思いもしなかった。普段は滅多に電話なんてしてこない俊彦が、久々に連絡してきたかと思えば――いきなり難題を投げつけてきた。思わず心の中で「なかなかの策士だ」と言いたくなる。とはいえ、相手は義父だし、玲も前に病院で秀一に止められたせいで、綾や美穂とは顔を合わせていない。いつ爆発するかわからない「時限爆弾」の二人なのだから、直接様子を見ておきたい気持ちもある。なので玲は秀一に電話をかけ、夕食に藤原家本邸へ行く件を伝えようとした。だが、珍しく彼が出ない。たぶん会議中なのだろう。仕方なく、まだ痛む腰を押さえながら身支度を整え、階段を降りて恵子に声をかける。「秀一さんが帰ってきたら、すぐ本邸のほうへ行くよう伝えてくださいね。私は先に向かいます」そう言ってタクシーを呼んだ。なぜ今日は車を運転しないのか。理由は簡単、腰も足も言うことをきかず、運転どころではなかった。――だが、藤原家に着いた瞬間、玲は思わず固まった。俊彦だけでなく、茂、弘樹や雪乃の三人まで来ていたのだ。「綾が入院していた間、弘樹たちにはずいぶん助けてもらってね」俊彦が説明する。「どうせ将来は家族になるんだ。だから今夜はみんなで食卓を囲もうと思って声をかけたんだ。玲は座って休んでなさい。私はちょっとキッチンのほうを見てくる」そう言うと、俊彦は席を立った。綾と美穂は相応の罰を受け、車の事故の件は終息した。だが――彼女たちが玲を紀子の部屋に閉じ込め、死者への冒涜という罪をでっちあげたことは、まだ終わっていない。俊彦もそこだけは曖昧に済ますつもりはなかった。そのため今の藤原家には、使用人はまだ誰ひとりいない。今日の食事は、すべて美穂がキッチンで作っているのだ。手が回らず、雪乃と弘樹までキッチンに入り、あのまったく家事のしない綾までもが、床にしゃがんでじゃがいもの皮むきをしている。……もちろん玲は手伝う気はない。俊彦が「座って休んでいなさい」と言ったのだから、玲は素直にソファで休むことにした。だが座るとすぐに、茂がふと二階のある一点を見つめ、何か考え込んでいるのに気づく。玲がその視線を追うと、茂もこちらを見た。「玲。この家では禁忌とされている部屋があるって聞いたんだ。前の奥さん――紀子さんの部屋。あれって、二階のあの部屋なんだろ?」茂が尋ねてくる。どう
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第297話

「さすが秀一くんだな。お母さんの心の声を代弁したみたいだ。紀子さんにとって藤原家は……身体も心も縛りつける、大きな牢獄みたいな場所だったんだろうな」茂がぽつりとつぶやくように言った声は、すごく小さくて儚かった。玲はよく聞き取れず、思わず身を寄せる。けれど、その瞬間にはもう茂は我に返り、玲へ向けて穏やかな笑みすら浮かべていた。「玲、前に君のお母さんのことで……辛い思いをさせた件、何度考えても胸が痛くてね。今日やっと会えたし、これを受け取ってくれ。大した額じゃないが、数千万ほど入ってる。私からの気持ちだ。嫁入りの足しにでもしてほしい」そう言って差し出されたのは、一枚のカード。以前も高価なジュエリーなどを渡されているのに、今日はまたしてもこんなものを用意してきたらしい。玲の胸に、説明しづらいざわつきが広がった。「茂さん、この前の補償だけで十分すぎます。嫁入り道具ももちろん足りていますし、お金は遠慮させてもらいます。それより……ちょっと空気がこもってる気がして、外で秀一さんを待ってますね」言い終わると、今回は茂に口を挟ませる隙も与えず、玲はカードを押し返してさっさと部屋の外へ出た。時刻はすでに六時半。そろそろ秀一が到着する頃だ。茂を避け、玲は庭の石のベンチにそっと腰を下ろす。花を眺めたり、門の方向に視線を向けたりしながら、ただひたすら秀一を待った。その時だった。――抑えた足音が近づいてくる。「玲!」次の瞬間、声を上げたのは、さっきまでキッチンで手伝っていた弘樹だった。どうやらこっそり抜け出してきたらしい。低く押し殺した声。射抜くような視線。その奥に、不自然なほどの焦りがあった。「玲、さっきお父さんと何を話したんだ?お父さん……何か渡してきたんじゃないか?」「……なに、そんなことでわざわざ私を問い詰めに来たの?」玲はぽかんと目を瞬かせ、すぐに眉を寄せた。「綾と付き合い始めてから、性格だけじゃなく、心まで狭くなったの?」数千万は確かに大金ではあるが、昔の弘樹なら、そんな額を気にとめるような男ではなかった。けれど彼は玲の皮肉に耳を貸す様子もない。「玲、お父さんから何か受け取ったのかだけ答えてくれ!」「受け取ってないよ。茂さんは、母さんの件でまた補償したいって言ってたけど、私は断った。信じられないなら本人に
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第298話

玲は弘樹に突然引き上げられ、思わず息を呑んだ。もともと身体が弱っているところに強く引かれ、腰を押さえると、顔色がさっと青ざめる。「ちょ、ちょっと、痛いよ。何をするつもりなの?」「わ、悪い。ただ焦って……そんなつもりじゃ――」弘樹も一瞬で固まり、玲の反応が想像以上に深刻だったことに驚いたようだ。だが、彼女の不自然な仕草に気づいた途端、男として余計な方向にまで考えが及んだらしい。「……玲、もしかして体調が悪いのか?昨夜、何してたんだ?」「俺の妻が昨夜どう過ごしていようと、他人が口を挟む必要はないだろう?」低く鋭い男の声が、空気ごと切り裂いた。次の瞬間、玲の身体は温かく力強い腕にふわりと収まり、弘樹の手は乱暴に振り払われた。秀一が、ついに来たのだ。その姿を目にした弘樹は、表情を変え、金縁眼鏡の奥の瞳をさらに深く沈ませた。「俺と玲の話だ……お前には関係ないだろう」「関係があるかどうかは、君が決めることじゃない」秀一は一歩踏み出し、玲をしっかりと抱き寄せた。「聞きたいことがあるなら、俺が答えるよ」弘樹の拳が、ぎゅっと握り締められる。ちょうどそのとき、遠くから綾の大声が飛び込んできた。どうやら、手伝っていたはずの婚約者が消えたことに気づいて探し回っているらしい。その喧騒に弘樹も額に青筋を浮かべ、一瞬舌打ちしそうな気配すらあったが、結局は振り返って屋内へ戻っていった。残されたのは、玲と秀一の二人だけ。秀一は玲を覗き込んだ。その鋭かった視線はすっかり氷が溶けたように柔らぎ、ひどく優しい。「痛むか?どこか怪我は?」「大丈夫。強く引っ張られたわけじゃないから……」玲は小声で答え、つい秀一を睨みつけた。「そもそも、こんなことになったのは、全部秀一さんのせいですからね」玲が必死に我慢してなければ、歩く姿勢さえ歪むほど、全身の筋肉が痛かった。秀一は玲の腰を大きな掌でそっと揉みながら、思い当たることがあったのか、わずかに目を伏せた。「……悪かった。昨夜の君があまりに可愛すぎて、少し我を忘れた」「やめてっ!冗談を言って誤魔化すのは禁止!」玲の顔は瞬く間に真っ赤になった。聞きたいのはちゃんとした謝罪であって、「可愛い」とか、彼女をからかうような言葉じゃない!けれど、秀一の胸に寄りかかりながら受ける丁寧なマッサージは
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第299話

庭で、玲は秀一とふたりきりで少し過ごしてから、ようやく部屋へ戻って夕食の席についた。つい先ほどの弘樹の不可解な態度がまだ胸に残り、玲は「今夜の食事もきっと気が休まらない」と覚悟していた。ところが――まったく予想外の展開だった。藤原家に来てから、今日ほど穏やかに食事が進んだ夜は初めてかもしれない。秀一が隣にいる。それだけで弘樹は余計なひと言も挟めない。茂は終始、玲にさりげなく気を配り、雪乃もその視線を前に、威圧的な態度を取ることができず、おとなしく箸を進めるばかり。まして綾と美穂のふたり――一度、留置場に入れられた上に、隣に俊彦が無言で座っている。そんな状況で、彼女たちに余計な真似ができるはずもない。母娘そろって、必要以上の目線すら交わせないほど萎縮していた。だが、この静けさの中で、玲は逆にいくつもの違和感に気づく。たとえば、雪乃は一見おとなしいが、その目は絶えず落ち着かず、妙にきょろきょろしている。たとえば、綾は視線こそ伏せているけれど、口元が常に微かに吊り上がり、まるで何か企んでいるようだった。そして――一番掴みどころがないのは美穂だった。以前と変わらぬ、品があり穏やかな「奥様」を演じている。それが逆に不気味だった。なにせ、藤原家の女主人が、秀一の通報で留置場送りになり、丸一週間以上も拘束され、心身ともにぼろぼろになったうえに、唯一の娘は子供を産めない身体になっていた。名誉は失墜し、世間は騒ぎ――それでも表面上、微笑みを崩さないなんて、そんなのありえない。美穂ほどの策士が、このまま黙って引き下がるはずがない。そんな思いを胸の奥にしまい、玲は夕食を終えるとすぐに秀一の袖を引き、「帰ろう」と小声で告げた。これ以上長居すれば、必ず面倒に巻き込まれる――そう悟ったからだ。玲たちが席を立つのを見届けると、弘樹は珍しくその場にとどまり、強張っていた肩の力をようやく落とした。そしてもう少し藤原家に滞在したのち、まとわりつく綾を避けるようにして席を外し、そのままひとりで高瀬家へ戻った。時間はもう遅い。薄い半月の光が、静かな庭先に淡く降り注いでいる。弘樹は疲れ切った足取りで部屋へ入り、しかしベッドには向かわず、真っ先に隠し棚を開けた。中からそっと取り出したのは――ひびの痕が残る、修復された泥人形と、その隣に置くためのも
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第300話

さらには最後、「玲のためだ」と信じ込み、綾が自分の泥人形を砕くことまで許した。そして今。なんとかその人形を元の姿へ戻したというのに――玲はもう、自分のために何かをすることは、二度となかった。二つの人形を前に、弘樹の呼吸が荒くなり、淡い色の瞳に耐えきれない痛みが滲む。――その瞬間。不意に、室内へ奇妙な影が差し込んだ。外の月光がふいに遮られ、柔らかな光が暗い帳に変わる。弘樹はわずかに動きを止め、ゆっくりと振り返った。そこには、静かに立つ茂の姿があった。どうやら、弘樹の姿が見えず、茂も予定より早く家へ戻ったらしい。弘樹は表情を引き締め、人形を背に隠すようにして立ち上がる。青ざめた顔のまま、努めて平静に告げた。「……お父さん。今夜は俊彦さんと楽しそうに話していたから、まだしばらく向こうにいるのかと……」「たしかに、俊彦さんとはいい話ができたよ。でも一番よく話したのは――玲だ」茂はゆっくりと歩み寄り、口元に穏やかな笑みを見せる。「それにしても弘樹、君の警戒心は強すぎはしないか?私はただ、少し玲と話して、ちょっとした贈り物を渡そうとしただけで……君、すぐに追いかけたろう?もし玲が、私に狙われてるなんて勘違いしたら……大変なことになるだろう?」何せ今の玲は、秀一の妻だ。もし避けられるようになれば、面倒どころの話ではない。弘樹は指に力をこめ、泥人形を握りしめる。「……お父さん。玲には、何も言っていません。誤解させてもいません。今回は……俺の早とちりでした。もう二度としません」「そうか。君がそう言うのなら信じよう、たった一人の息子だからな」茂は素直にうなずいた。だが、次の瞬間その手が素早く伸び、弘樹の手から二つの泥人形を奪い取った。そしてそのまま床へ投げ捨てた。「でも弘樹。自分の過ちを認めたなら、それ相応な罰が必要だろう?二度と同じことをしないための、大事な戒めとしてな」穏やかに言いながら、茂はゆっくりと足を上げる。――ゴリッ。弘樹の目の前で、彼は修復された人形を容赦なく踏みしめた。砕けた破片が四方に散り、二つの人形は頭から折れ、もともと不格好な人形のほうは粉々になった。いくら破片を集めて修復しても、もう二度と、元の形には戻らないだろう。満足げに破片を見下ろすと、茂は弘樹の肩に手を置いた。「いいか、弘樹。
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