All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話

玲は痛みに耐えながら、無理に微笑みを作り、ぐっと腕を持ち上げて秀一の頬に触れた。「それに……秀一さんは、当時のことが今でもトラウマでしょ?もうこれ以上、あなたの傷を抉るようなこと……起こしたくないんです」秀一の痛みが、玲にはよくわかっている。だからこそ、秀一が自分を守ってくれるなら――自分も秀一を守りたい。ふたりの間に、ふっと静寂が落ちた。抱き上げたまま歩いていた秀一の足が、突然ぴたりと止まる。まるでその場で石になったかのように固まり、玲をじっと見つめる。玲が再び、苦しげに小さく声を漏らすまで。「しゅ、秀一さん……ちょっと……痛い、抱き方が……きつくなってる……」見た目は硬直しているだけだが、玲にはわかる。腰に回された腕も、肩を支える手も、じわじわと締めつけていた。「……悪い。わざとじゃないんだ」秀一は弾かれたように我に返り、慌てて力を緩めながら謝った。いつも冷静な男が、今はまるで叱られた子どもみたいだ。玲は薄く笑って、その様子を理解していた。「わかってますよ。さっきの私の言葉が嬉しくて……もっと抱きしめたくなっただけでしょ?」「……ああ。玲の言う通りだ。一秒ごとに、もっと……君が好きになっていく」秀一の目は赤く滲み、玲の唇にそっと触れては、名残惜しげに重ねる。そしてようやく、彼がずっと聞けずにいた質問を口にした。「玲……どうして電話に出なかった?何度も……何度もかけたんだ」「……え?そうですか……?うぅ……気づきませんでした」玲が答えようとすると、秀一の口づけが次を塞ぐ。何度も何度も、まともに言葉を繋がせてくれない。「……で、でも……私のスマホ……電池切れて……これも秀一さんのせいですけど」秀一の動きが、ぴたりと止まる。最近の秀一は、まるで欲張りの獣のように、玲を求めてやまなかった。朝も夜も、彼に翻弄され続け――そのせいで玲はスマホの充電すら忘れていた。今日佳苗に遭遇したとき、残った1%の電池で雨音に電話したきり、電源が落ちてしまった。そのあと秀一から鬼のように着信が来ていたことなど、知るはずもなく。その事情を聞いた秀一は、玲の唇の端をそっとなぞり、胸の奥にあった重い石をようやく下ろす。その指先もさらに優しくなっていく。そのとき、連絡を受けた医者が慌ただしく駆け込んできた。「玲
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第342話

「秀一さん、雨音ちゃんのほう……お医者さん、何か言ってました?」玲は車に乗せられても、頭のどこかではずっと雨音のことが引っかかっていた。雨音が連れて行かれてから、もう結構な時間が経っている。あのとき立ち上がることすらできなかった彼女の姿が脳裏に焼き付いて離れず、胸がずっとざわついていた。秀一は運転手に「出して」と指示をしながら、玲に落ち着いた声で説明した。「雨音さんの検査結果はさっき出た。手すりにぶつかったときに胃を痛めて、そのうえ最近は食事も不規則だったらしくて、軽い胃出血があるらしい。二日ほど点滴を打てば落ち着くらしいから、入院は必要だが、命に関わるようなことではない」二日で退院できるなら、予定されているアート展の準備にも支障は出ない。雨音も痛み止めで少し楽になったようで、すでに「しっかり治すから、玲は心配しないで」と秀一に伝言まで寄こしたらしい。その言葉に、玲もようやくふうっと息を吐き出したものの――「でも……雨音ちゃん、一人で入院はさすがにかわいそうですよ。やっぱり私、戻って付き添ったほうが……」「大丈夫だ。雨音さんは一人じゃない」秀一は玲の頭をそっと撫で、安心させるように笑った。「この二日間は、友也が付き添うことになった」つまり、雨音からの伝言を預かった人も、友也だったというわけだ。だがその名前を聞いた途端、玲は気まずそうに沈黙する。「友也さん……二人きりにさせて、本当に大丈夫ですか?雨音ちゃん、休めるのかな……?」「玲の心配はわかる。友也が雨音さんを怒らせるんじゃないかって思ってるんだろう?」秀一は核心をつきつつも、真剣に言い切った。「大丈夫、今雨音さんの世話をするのに、一番相応しい人間は友也だ、俺が保証する」最近まで誤解やトラブルばかりで、夫婦なのにまともに二人きりになる機会すらなかった。今回の短い入院は、もしかすると二人にとってようやく落ち着いて向き合える時間になるのかもしれない。玲はそこまで深く考えていなかったが、ふと――倒れた雨音を抱えた友也の、あの必死で赤くなった目を思い出す。いつも軽口ばかり叩いてふざけている水沢家の放蕩息子が、あんな顔をするなんて。「……うん、じゃあ大丈夫、かな」雨音は自分に助けを求めるそぶりもなかったので、一旦心を落ち着かせ、秀一の肩に頭を預け
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第343話

おかしいことに、佳苗はずっと「秀一が洋太を残したのは、まだ自分たちのことを気にかけているからだ」と思い込んでいた。だが本当の理由は――彼女たちを監視下におくにほかならない。とはいえ洋太も、警戒を緩めていない。「社長、健吾さんと由紀子さん夫婦は気が小さくて大人しいですが……佳苗さんは別です。あの人は偏屈で、危ないところがあります。二十四時間張り付いていても、奥様にまだ何か仕掛けてくるかもしれません」今日の一件で、秀一はすでに全てを見抜いていた。病院で起きたあの騒動は、最初から佳苗が仕組んだものだと。まず自分の体調を利用して玲を無理やり病院へ連れて行き、そのあと両親に玲を挑発させて手を出させる……目的は一つだけ――秀一の心の中で、玲より自分たちの方が大事なのかどうかを試すため。そして秀一は、佳苗が望んだ答えをきっぱり突きつけた。玲の方が大事だと。だから佳苗が自傷しようが、両親を巻き込もうが、すべて無意味だった。だが彼女に自業自得の痛みだけ味わわせる程度では、まだ足りない。秀一は低く、ひとことひとこと噛みしめるように言った。「この件は――このままじゃ終わらせない」洋太もうなずく。「私も同じ考えです。そこで、リハビリが一段落したら……佳苗さんを、もっと遠い病院に移したらどうかと思いまして」しかし秀一はゆっくり首を振った。「いや。実家のほうの病院に移してもらう」強く引き締まった表情。そして感情のかけらもない、氷のような視線が窓の外へ向けられる。「佳苗のリハビリが終わったら……お前が責任を持って三人まとめて実家へ送り返せ」「社長、それって……あの三人を首都から追い出すということですか?」洋太の声が上ずる。驚きもあるし、正直少しだけ胸がすく思いもあった。確かに、佳苗の故郷は昔に比べればだいぶ発展した。荒れた山は観光地になり、秀一の支援があれば困窮する生活にはならない。しかし――どんなに整った場所でも、首都や秀一の傍とは比べものにならない。「社長……佳苗さんはきっと納得しませんよ」だが秀一は微動だにしない。「納得なんていらない。嫌なら――縛ってでも連れて行け」洋太は息を呑んだ。「……でも社長、もし佳苗さんが『恩を仇で返された』なんて吹聴したら?彼女は今、精神的にも不安定です。昔の恩を持ち出して騒ぎ立てたら、
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第344話

迷い続ければ、いずれ大きな波に飲まれる――秀一はそのことをよくわかっていた。かつて佳苗たちは彼の命を救った。その借りを返すのは彼自身の責任であって、玲には一切関係がない。彼が玲を愛しているからといって、その責任を当然のように彼女に背負わせるわけにはいかない。彼女にまで苦しみを押しつけることなど、絶対にできない。その思いを、洋太もよく理解していた。だからこそ秀一を一瞥したあとは、余計な言葉を挟まず、すぐ次の準備へ取りかかった。……やがて夜の闇が薄れ、重かった雲が静かに散っていく。そして、静かな朝が訪れた。一晩ぐっすり眠った玲は、気分よく目を覚ました。けれど、予想外の光景が待っていた。いつもならすでに出勤しているはずの秀一が、まだ隣で寝ていたのだ。玲が目を開けると、彼はゆっくり手を伸ばし、彼女の頬を撫でた。「……夢の中で何を見たんだ?眠ってる間ずっと笑ってたよ」昨夜、秀一は玲の寝顔を見つめたまま、一睡もしなかった。夜中に痛みで目を覚ますだろうと身構えていたのに、玲はずっと静かに眠っていて、ときおり幸せそうに微笑む姿が、むしろ彼を驚かせた。玲自身も、眠っている間の自分の機嫌の良さに驚いた。考えてみれば、理由は一つしかない。「昨日、怪我をしたけど……秀一さんが私を守ってくれたでしょう?それがすごく嬉しかったんです」玲は秀一の腕にそっと抱きつき、昨日言えなかった思いを口にした。「秀一さん……昨日、私と烏山さんの言い分が食い違っても、迷わず私を信じてくれて、本当にありがとう」それは、簡単にできることではない。昨日秀一が駆けつけた時、玲はほうきを振り上げ、佳苗たちは床に倒れ、怪我までしていた。状況だけ見れば、玲が加害者に見えたとしてもおかしくない。高瀬家にいた頃、玲は弱い立場であっても、弘樹に一度も信用してもらえなかった。けれど昨日の病院では、立場が逆転していても、秀一は迷いなく玲を信じきった。その瞬間、玲の心の奥に潜んでいた古い傷が、不思議と癒えていくのがわかった。玲は身を起こし、まだ秀一の頬にそっと口づけた。「秀一さん……あなたが私をどんどん好きになってくれるのがわかるほど、私もね、もっともっとあなたが好きになってるんです」「じゃあ……玲の好きは、どれくらいなんだ?」秀一はそう聞き、黒い瞳をわずかに揺
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第345話

「玲……全部、俺のせいだ……」なぜそんなふうに言うのか。理由を聞こうと口を開いた瞬間、玲の身体が先に反応してしまい、もう会話どころではなくなった。そのまま、甘くとろけるような波に引きずり込まれるように――意識がゆっくり沈んでいく。……丸々二時間が経ったころ、ようやく秀一が寝室から出てきた。恵子に「玲が起きたら、食事を準備してくれ」と短く指示し、そのまま車を出して病院へ向かう。その頃、病院はすでに騒然となっていた。本来なら雨音の病室にいるはずの友也が、なぜか佳苗の病室に乗り込んでいたからだ。もちろん、介抱のためではない――報復のためである。「よくもまあ、あんな真似ができたな!俺と雨音は三年付き合ってるけど、彼女に殴られたことはあっても、俺は一度だって手をあげたことなんてないんだぞ?なのにお前ら……よくも彼女を傷つけてくれたな!昨日、雨音は胃から出血してたんだぞ!一晩中点滴つけたまま、夜中には吐血までして……!いいか?お前らの茶番なんて誰にも通用しないんだよ!秀一が見抜いたように、俺だって全部わかってる!だから今日は、雨音が苦しんだ分――きっちり返してもらう!大したことじゃない、一人一発ずつ殴らせろ!昨日手を出したあのクソジジイは三発な!それでチャラにしてやる!」怒声が病室中に響きわたり、空気が一気に張りつめた。昨夜、雨音の傍でずっと看病していた友也は、積もり積もった怒りをもう抑えきれなかったのだろう。雨音がようやく眠ったのを確認してから、ひとりで仕返しに来たらしい。そして、すでに健吾は拳を一発食らっていた。昨日までの威圧感は跡形もなく、痛みに顔をゆがめ、必死に命乞いをしている。さらに秀一の名前まで持ち出して「許してくれ」と懇願する始末。だが友也は冷ややかに睨みつけ、聞く耳を持たない。振り上げられた拳に、由紀子と佳苗の悲鳴が上がった――そんな時だった。病室の扉が開き、秀一が入ってくる。深い黒の瞳が、鋭く友也を射抜いた。「もういい。やめろ、友也」「秀一!」他の誰かの言葉なら無視してもいい。だが――秀一の言うことだけは聞かざるを得なかった。友也は振り上げた拳をなんとか止めたものの、怒りを飲み込めず声を荒げる。「秀一……こいつら、自分たちが秀一を助けたことがあるってだけで調子に乗ってるんだ。お
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第346話

「秀一さん……やっぱり、私たちを見捨てたりしないよね?」友也に皮肉を投げつけた後、佳苗は涙を浮かべた目で秀一を見つめ、その細い体を彼の胸に預けるように一歩踏み出した。昨夜、洋太が病室に来て「秀一の指示で、全員実家に戻れ」と告げた。けれど佳苗は、そんな話を信じていなかった。これまで、首都でどれだけ長く居座っていても、秀一が彼らを追い返そうとしたことなど一度もない。五年もの昏睡から目覚めたばかりで、少しだけ騒ぎを起こしたくらいで――秀一が彼女を見放すはずがない。そして今、秀一がこちらを「庇うように」振る舞ったのを見て、佳苗は確信した。昨夜の話は洋太のついた嘘だったのだ、と。そう思い込んだ佳苗は、さらに腕を伸ばし、秀一に触れようとした――だが、その指先が触れる直前。ベッド脇にいた秀一はすっと一歩下がり、佳苗との距離を開けた。そして、氷の刃のような声が落ちた。「医者に確認した。初期リハビリは半月で終わるそうだ。だから半月後、俺が手配した者が、お前たち全員を実家に送り返す。それ以降のリハビリは、地元の経験豊富な病院に任せる。そして――これから何十年先まで、二度と首都へ来るな。首都に俺がいる限り、帰って来られると思うな」秀一は一語一語を刻みつけるように告げた。噂では「秀一は首都の中枢を握る男」と言われている。称賛に聞こえるが、決して大げさな話ではない。部屋の空気が一気に凍りついた。怒りで肩を震わせていた友也は、思わず吹き出しそうになりながらも堪える。佳苗はすっかり茫然とし、まるで天国から地獄へ突き落とされたかのような顔になった。「秀一さん……本気で、私たちを首都から追い出すつもりなの?いやよ、そんなの絶対いや!」佳苗は目を見開き、必死に叫ぶ。「離れたくないなら、どうして玲に手を出した?」秀一は眉一つ動かさず、さらに冷たい眼差しを向けた。「佳苗。玲に手を出してはいけないとわかっていながら、なおも彼女を傷つけた。恩義を盾にすれば、俺がどんなことでも許すと思ったのか?」佳苗の目から大粒の涙が落ちた。「そ、そんなつもりじゃない……!恩に甘える気なんてなかった。ただ、あなたが好きなの。愛しているの。だから……一度くらい、自分の気持ちを賭けてみたかっただけで……」彼女は涙をぼろぼろこぼしながら、必死に顔を上げる。「秀一
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第347話

秀一の同情を引く作戦が失敗に終わり、佳苗は完全に取り乱して叫び出した。「秀一さん!本当に私たちを追い出す気なの?そんなことしたら、裏でみんなに薄情者って指刺されるよ!今だってネットにはあなたを叩く声が溢れてるのに、これ以上自分の評判を悪化させたいの?」「どうでもいい」秀一は昨日、洋太に指示を出した時点で、起こり得るすべての批判を覚悟していた。だから全く動揺せず、視線すら淡々と逸らした。「玲のほうが、俺の名声より大切だ。俺の評判が地に落ちても構わない」そう言い残すと、秀一はもうこれ以上一秒も無駄にしたくないというように、病室をそのまま背にして出ていった。友也はさっきから肩を震わせて笑いをこらえていたが、秀一が出て行くのを待って、ついに我慢できずに佳苗たちに大げさな舌出しをしてみせ、それから満足そうに後を追った。佳苗はその様子を見て、身体を震わせた。怒りと絶望が胸いっぱいに膨れ上がり、耐えきれずそのまま仰向けに倒れ込む。顔色は紫に近いほど歪んでいた。健吾と由紀子は慌ててベッドに駆け寄り、佳苗の背中をさすった。「佳苗ちゃん、落ち着きなさい……今の身体でそんなに怒ったら倒れてしまうわ。もう……いいじゃないか、あんたが目覚めたら、いずれは地元に戻ろうと思っていたの。秀一くんがああ言うのなら、これも最後の情けだと思って……帰りましょう」「いや……いやよ……そんなの、絶対に嫌……聞きたくない、何も聞かない……!」佳苗は息を乱しながら泣き叫んだ。「玲なんて、一度しか秀一さんを助けてないのに……どうして、何年も秀一さんを支えてきた私たちが追い出されるの?それにね、昨日、雪乃と綾に連絡したの。もう返事をくれた人もいる。あと半月……半月もあれば、絶対に巻き返せる……!」健吾と由紀子は顔を青くして目を見開いた。「佳苗ちゃん……本当にあの二人に連絡したの?で……返事をくれたのは、どっち……?」佳苗は答えなかった。けれど、昨日のメッセージの内容を思い返すうちに、荒れていた呼吸が嘘みたいに落ち着き、口元にゆっくりと歪んだ笑みが浮かび始めた。……一方その頃。病室を出た友也は、佳苗が狂気の縁で泣き喚いていた顔を思い出し、腹を抱えて笑い出した。「秀一、さすがだな!ああいう恩を盾に寄ってくる寄生虫には、やっぱり容赦しちゃいけないよな!」
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第348話

「秀一、任せろ。あの一家の動きは、俺がしっかり見張っておく」そう言った瞬間、友也の顔からさっきまでの軽い笑みがスッと消えた。彼はちらりと病室のほうへ視線を戻し、声を落とす。「もし烏山さんが綾や美穂さんに泣きつくなら……後でまとめて片付ければいい。もし雪乃さんが相手なら――遠慮なく一気に叩き潰せる。だって、玲さんのお父さんの件……秀一、もうほぼ全容を掴んでるんだろ?」友也は知っている。秀一が玲の父の転落死を調べ直し、すでに決定的な証拠をいくつも押さえていることを。だからこそ、もし雪乃が少しでも動けば、ただちに叩き切るつもりだった。玲が何年も一人で背負ってきた苦痛を、ようやく終わらせるために。秀一は否定しない。ただ深い黒い瞳を細め、わずかに顎を上げて告げる。「玲の父を死に追いやった連中は……誰一人逃がさない」「……だよな。秀一はやると決めたら容赦しないからな」友也も真剣にうなずいた。「じゃあ俺、もう行くわ。雨音……昨日の夜ほとんど眠れなかったみたいで、今たぶん機嫌最悪なんだよ。起きてたら、まず何か食べさせなきゃ」雨音は年上とはいえ、体調を崩すと年上の余裕なんてきれいさっぱり消えるタイプだ。だからこそ少しでも体にいいものを食べさせたくて、友也は足早に歩き出した。――ところが。数歩進んだところで、背後から静かな声が落ちた。「友也。さっき、お前は恩で縛られずに身内を守る俺の判断を褒めたな。もし同じことが、お前の身近で起きたら、お前はどうする?」含みのある声だった。問いを投げかけるだけ投げかけ、答えを待つそぶりも見せず、秀一はそのまま階段のほうへ消えていった。友也はその場に立ち尽くし、しばらくの間、微動だにしなかった。……一方その頃。玲が目を覚ましたときには、すでに昼前になっていた。秀一の姿は見えないが、出かける前に恵子へ細かい指示を残していったらしい。玲は、恵子が用意してくれた温かいボーンブロスを口に含み、胸や脇腹の痛みに耐えながら身支度を整え、病院へ向かった。理由はただひとつ――どうしても雨音の体が心配だったから。友也がそばにいるにしても、玲は自分の目で無事を確かめないと落ち着かなかった。幸い、雨音は顔色こそ悪いものの、意外と元気だった。玲の姿を見た途端、むしろ声に力が宿る。「玲ちゃん!昨日のこと、思い
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第349話

「だって、警察の前であの人たちを叩きのめすわけにもいかないでしょう?そんなことしたら、今度はあなたが捕まっちゃうよ」玲は優しく雨音をなだめる。雨音は「うっ……」と気まずそうに口を尖らせつつも、気になったことを口にした。「でもさ、玲ちゃん。なんであの三人が警察に連れていかれたって知ってるの?昨日、私が運ばれたあとで、警察が来たところ見たの?」「見てはいないけど……」玲は少し言葉を詰まらせたが、すぐに当たり前のように続けた。「でも、昨日は秀一さんが現場にいたんだもの。私たちを傷つけた相手を見逃すはずがないでしょう?あの人の性格からして、きっちり落とし前をつけてるはずよ」秀一のやり方は、決して甘さを許さない。雨音もそれをよくわかっているのか、大きくうなずいた。「そうだよね。藤原さんって、あなたのことをあんなに大事にしてるんだし。昨日だって、被害を受けたのは私だけじゃなくて玲ちゃんもなんだから、容赦するわけないよ。前に美穂さんや綾が相手だったときだって、家族だからって見逃さなかったんだもの。今回なんて、あの三人、精神的にも色々おかしかったし、絶対に逃れられないよね」そして雨音は、ふっと表情を曇らせた。「それにしてもね、昨日ベッドで眠れなくてさ。復讐のこと以外にも……あの烏山さんのことがやたら頭にこびりつくんだよ」眉間にしわを寄せながら続ける。「玲ちゃん、ああいうふうに長年昏睡してた人って、みんなあの人みたいにおかしくなっちゃうものなの?突然ファンのふりして現れて、詐欺まがいのことするなんて……あの子、もしかして昔すごく大きなショックを受けてたんじゃない?」昨日、玲が違和感を抱いたように、雨音も佳苗の言動の裏に何かがあると感じていた。玲はしばし考え込み、胸に引っかかった断片を思い出す。「……そういえばね。烏山さんが昨日現れたとき、車椅子に座りながら何かブツブツ言ってたの。あのときは精神が不安定なんだと思って真剣に聞かなかったんだけど……今になって思い返すと……長い間好きでいた人がいて、でも彼女が昏睡している間に、その人を別の女に奪われた――そんなことを言ってた気がする」ただ、その「好きな人」が誰なのかは、佳苗は言わなかった。しかし、その断片だけで雨音の想像力は全開になる。「……わかった。全部つながったわ」雨音
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第350話

雨音は決して玲に悪意を向けるようなタイプではない。恋愛面だけ比べれば、雨音の人生は玲とは天と地ほど差がある。それでも、雨音は生活そのものが安定していて、心も強く、だからこそ、玲を羨んだり、ましてや危害を与えたりする発想は一切ない。――だが、世の中の人間が皆そうとは限らない。雨音は全てを見抜いたように指を立てた。「玲ちゃん、あなたは今愛されて、しかも安心できる環境の中で生きてるの。だからね、そういうものがない人がどれだけ大変か、きっと実感できないと思うよ」「愛されて、安心できる環境……」玲はその言葉を反芻しながら、ふと動きを止める。次第に思い当たる節が浮かぶようで、小さくつぶやいた。「それがない人って……不安になりやすくて、考えすぎて、気持ちが揺れたり……無意識に自分を責めたり、つい自信をなくしたり……そういうふうになるのかな?」「そうそう、よく理解してるじゃない」雨音はニヤリと笑った。「誰を見てそう思ったの?綾?」綾と弘樹。あの二人は、玲が弘樹と別れてない頃に燃えるほど愛し合っていたはずなのに、玲が身を引いて結婚した途端、二人の関係は崩れ始めた。今や令嬢たちのチャットグループでは、二人のゴシップは読み切れないほど多いらしい。ただ――玲が最後に言った「自信をなくして自分を責める」という部分だけは、どう考えても綾には当てはまらなかった。綾は自分を責めるより、他人を責めるタイプ。自分の心を抉るより、他人を巻き込んで掻き乱す。それが綾という女だ。玲はすぐに雨音の疑問を解いた。「綾じゃなくて……秀一さんだよ」「……」雨音は一瞬、完全に固まった。そして笑いながら言う。「玲ちゃん……あなたたちは夫婦でしょう?なんで玲ちゃんは愛されて、安心しきっているのに、藤原さんのほうがそうじゃないの?」玲は真剣な顔つきになった。「私ね……思ったの。私はずっと秀一さんの愛に甘えてばかりで、彼みたいに相手の必要としているものを細かく見てなかったんじゃないかって。だから、彼の心の状態を変える方法を考えたいの。少なくとも、私からも『安心できる愛』をちゃんと感じられるようにしてあげたい」「それはいいことだよ」雨音は力強くうなずいた。「玲が本気で動いたら、藤原さんなんて一発で落とせる」ただ、念のためと言わんばかりに、雨音はそっと身を乗
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