All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話

翌日退院を控えているので、もし玲が手伝いに来てくれれば、雨音が友也と二人きりで過ごす時間もぐっと減る。それは雨音にとって、正直ありがたいことだ。昨夜、二人の間に交流が少なかったものの、友也が自分のためにあれこれ世話を焼く姿を見せられ、雨音は――「離婚届を友也の顔面に叩きつけてやる」と固く決意していた自分の気持ちが、すこし揺らぎはじめているのを自覚していた。けれど玲はそんな雨音の胸の内など知らない。帰る前、彼女は少し迷うように足を止めた。「雨音ちゃん……烏山さんが私を狙ったのって、本当に、ただ自分が不幸な時に、私の幸せが目について腹が立ったってだけだと思う?」「もちろんだよ」雨音はきっぱりとうなずいた。「考えられる理由なんて、それくらいしかない。あとは――可能性はすごく低いけど、烏山さんが好きな人は藤原さんで、彼を横取りした相手が玲ちゃんっていう超絶こじれた構図……だから彼女がふたりにまとわりついてる、とかね。まぁ、そんなの可能性なんて限りなくゼロに近いと思うよ」だって――秀一は玲と出会う前、誰かを本気で愛したことなど一度もない。それに、あの完璧と言っていいほど誠実な人が、恋人が植物状態になった途端に他の女性へ乗り換えるなんて、どう考えてもあり得ない。しかも玲は昔から一直線な性格で、どちらかといえば「奪う側」ではなく「奪われる側」。他人の恋人を横取りするなんて、絶対にしないタイプだ。――そんな話、荒唐無稽すぎる。ようやく玲も、ふっと肩の力を抜いた。「そうだよね。秀一さん、親しくしている女性なんていないし、仲がいい相手はいつも男性ばかり。あんなドロドロした恋愛劇なんて起こるはずがないよね」玲は軽く笑い、それ以上悩むのをやめた。「烏山さんたちももう警察に連れて行かれたし、これから先もう関わることもないはず。私は秀一さんのことで頭を使わないと。あんな人たちのこと、考えるだけムダだよね」そう言って雨音に手を振り、そのまま玲は――秀一を安心させるための「作戦」に気持ちを切り替えるのだった。……そして、あっという間に夜になった。秀一が自ら車を運転して帰宅すると、リビングで玲がローテーブルにちょこんと座り、何かの書類に真剣な面持ちで向き合っていた。その小さな後ろ姿が、胸にじんわりと沁みるほど愛らしい。思わず秀一の表情も柔らかく
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第352話

「玲……もう、俺と別れたいのか?」秀一は一語一語を噛みしめるように吐き出した。最後の言葉に差しかかった瞬間、喉の奥から血の味さえ立ちのぼるほどだった。彼はずっと信じていた。厄介ごとさえ片づければ、あとは玲と共に、長く穏やかな時間を積み重ねられる――と。けれど結局、どれほど策をめぐらせても、好きな人の心はつなぎ留めておけない。あれほど奔走した自分が滑稽にすら思えて、胸の奥がすっかり空っぽになった。秀一は拳を強く握り、今にも壊れそうな自分を抑えるようにして背を向けた。このままでは、取り乱して玲を傷つけてしまう――そう思ったから。だが次の瞬間、玲の手が彼の腕をぎゅっとつかんだ。「秀一さん、ちゃんと見て!この契約書、前と全然違うんですよ!」玲は彼の顔に近づき、声を上げた。これは、彼女が雨音と話して思いついた、秀一に一番安心してもらえる方法だ。口先だけの約束なんて、不安を完全に消せない。文字に落とし込む契約こそ、彼を安心させられる。結婚した時、玲は「互いを縛らない契約」を作っていた。だが今回、彼女が作ったのは――ずっと一緒に生きるための契約だ。【第一条。私、高瀬玲は藤原秀一と夫婦になった以上、永遠に夫婦であり続けます。婚姻が続く限り、毎日必ず秀一を前日よりももっと愛すること。もし破った場合、二十億円を支払う。第二条。私、高瀬玲は藤原秀一を永遠に愛し続けます。もし急に愛さなくなり、離婚を望むようなことがあれば、さらに二十億円を支払う】第三条、第四条……そのあと何ページにもわたり、すべてが秀一に安心を与えるための内容で埋め尽くされていた。秀一は、いつもの落ち着きが完全に吹き飛んでいた。目を見開いたまま、ただ長いあいだ契約書の紙面だけを凝視している。まるで彼の時間だけが止まってしまったようだった。やがてようやく、かすれた声が漏れる。「玲……この契約書……本当に、このまま書いてしまっていいのか?」「どうしてダメなんですか?」玲は小さく首を傾け、澄んだ瞳にまっすぐな思いを宿す。「秀一さん、今日ずっと考えてたんです。あなたが向けてくれる愛に、私の愛が追いついてないんじゃないかって。そのせいで、最近あなたの気持ちが不安定になってたんじゃないかと思って」――事実、この数日、玲は毎晩のように、秀一に限界まで抱きしめられてい
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第353話

「後悔なんてしませんよ。後悔するなら、こんなもの準備しません」玲はペンを取り、秀一の手に押し込んだ。そして彼の大きな手を包み込みながら、署名欄の上へと導き、一緒に名前を書いていく。「秀一さん。私が用意したってことはあなたに署名してほしいってことなんです。サインしたら契約はその瞬間から有効。そしたらもう、安心して一生私と一緒にいられるでしょ?」最後の一画を書き終わったタイミングで、玲がぱっと笑顔を向けた。「はい!書けました。どう?嬉しい?」紙には「高瀬玲」と「藤原秀一」の二つの名前。一つは柔らかく、一つは力強く――対照的なのに、不思議なほど調和していた。秀一は、その契約書に並んだ二人の名前を、どれほど見つめていたのかわからなかった。紙に記されたそれは、彼にとってこの世界でいちばん大切なものだ。気づけば、視界がじんわり熱く滲んでいた。「……嬉しい。嬉しすぎて……どうにかなりそうだ」そう呟くと、秀一は玲を強く抱き寄せ、顔を首筋へうずめる。震える声。ひやりと伝う涙の跡。それを感じた瞬間、玲の胸の奥がふわりと温かくなった。思えば――泣いてきたのは、いつも玲のほうだった。秀一が涙を見せるなんて、これが初めてかもしれない。「秀一さん、顔……見せて?」玲の胸に、小さないたずら心が芽生える。泣いている秀一がどんな顔をしているのか、ちょっと見てみたかった。だが、秀一はうつむいたまま、泣き顔を見せようとしない。次の瞬間――大きな手がふわりと玲の視界を覆った。そして、塩気を帯びた深いキスが一気に押し寄せ、薄い唇が甘く噛まれる。「玲……今夜は、存分に見せてあげる」その低い声が落ちた途端、玲が返事をするより早く、秀一は彼女を抱き上げ、闇の奥に沈む寝室へ連れていった。……玲は、安心させれば秀一の欲も落ち着くだろう――そう思っていた。が、それは完全に甘かった。秀一は、本当に底なしの体力を持つ男だった。雨音が心配していた通り、玲は全身が溶けてしまいそうなほど、くまなく愛し尽くされた。それでも秀一は、彼女の怪我を気づかい、触れるたび驚くほど優しかった。翌朝。ふわふわとした身体でなんとか起き上がった玲の枕元には、一枚のメモが置かれていた。【玲へ。新しい婚姻契約書は大切に保管しておく。君がくれた安心に、心から感謝している。今、
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第354話

弘樹の手の怪我が深刻で、藤原グループ傘下の病院に入院している――それは誰もが知る事実だ。玲もこれまで何度か雨音のお見舞いで病院を訪れていたが、幸いにも弘樹とは一度も鉢合わせなかった。だから最近は「運が味方してるのかも」と密かに胸を撫でおろしていたのだ。けれど、厄介ごとというのは、こちらがようやく安心した瞬間に限って顔を出すもの。今こうして、弘樹の側近であるあの秘書が息を切らして彼女の前に立っている。だが、彼は結局弘樹本人ではない。無視するのも気が引けるため、最低限の礼儀は保った。「今日は友達の退院手続きで来てるの。ごめんなさい、時間がないからそちらにはいけない」にこりと作った笑顔で続ける。「それに……私と彼は、会わないほうがいいでしょう?」すると、秘書は予想していたのか、慌てて言葉を重ねた。「ですが玲さん、社長は本当に、どうしても伝えたいことがあるようで……長くは取りません。それに怪我もひどいんです、少しだけでいいので……」前の恋人という肩書きはさておき、十三年来の知り合いだ。病室に顔を出しても、おかしくはないだろう。それに、この秘書は――玲のために弘樹が自傷した、その瞬間を目撃している人物でもある。だからこそ、玲が病院に何度も来ているのに一度も弘樹の病室を訪れないことを、気の毒に思っているのだ。しかし、玲は冷ややかに鼻で笑った。「弘樹が怪我をした途端、十三年の知り合いだとか、元恋人だとか……急に持ち出すのね?昔、彼が綾のために私を陥れた時は?綾と浮気していた時は?その十三年のことを、一度でも思い出してくれた?」言葉は淡々としていたが、その一つひとつに鋭さが宿っていた。「それに、弘樹の怪我は私とは関係ないわ。私は彼を傷つけてもいないし、何かした覚えもない。なのに、彼が男だからって、『かわいそうだから見舞いに行け』って?それって、おかしくない?」玲の声は静かだが、その奥には揺るぎない線が引かれていた。確かに彼女は、弘樹の本心に迷ったこともある。けれど、どれほど複雑な想いがあっても――線引きははっきりしている。玲は、自分がどれだけ傷つけられても、相手が一度怪我しただけで情に流されるような、そんな都合のいい女ではない。秘書の言葉をこれ以上聞く気にもなれず、しかもエレベーターは一向に来ない。玲は諦めて非常階段へ
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第355話

陽の光はあれほど暖かいはずなのに、弘樹の上に落ちた途端、どこか翳りを帯びて見えた。淡い水色の入院着はぶかぶかで、包帯に厚く巻かれた腕が痛々しい。かつて玲の記憶にある、あの意気軒昂な姿とはあまりにかけ離れていた。さきほど秘書が口にした言葉の中で、一つだけ正しいことがあった。たとえ恋愛感情が残っていなくても、玲と弘樹は十三年の付き合いだ。だから、想像よりも落ちぶれた姿を目にしてしまえば、胸が少し締めつけられるのも無理はなかった。――もっとも、そんな感情を表に出すつもりはない。玲は表情を崩さず、距離を取ったまま弘樹を見据えた。「綾、ここのところずっと付き添ってくれなかったの?」綾は、弘樹が入院してからというもの、恋人自慢のように「弘樹が自分のために秀一と喧嘩して怪我した」と噂を流しまくっていた。ならば本来、愛のために負傷した弘樹に寄り添って看病するのが筋だ。しかし綾の名を口にした途端、弘樹のやつれた顔はさらに沈んだ色を帯びた。そして、ぎこちなく唇の端を引きつらせる。「玲……二人で話すときくらい、綾の名前を出さなくてもいいんだろ?」玲は少しだけ訝しむ。「昔から綾の話ばかりするのはあなたのほうでしょ?なにをしていても、その人の話を無理やりねじ込んでいたよね?」「……あの時は、事情があったんだ」弘樹は包帯の巻かれていない手を強く握りしめ、一歩、また一歩と玲へ近づく。「玲、そんなふうに突き放さないでほしい。せめて一度でいい、前みたいに……俺のことを気にかけてくれないか?」「無理。私は背を向けた瞬間から、一度だって振り返らないって決めたから」玲はきっぱりと言い切った。迷いも未練も、微塵もない。「それに、あなたってそんなに優柔不断な人でしたっけ?綾に心変わりして、私を切り捨てたときは、迷いなんてなかったでしょ?あれこそ、あなたの本性じゃないの?」――弘樹は、一見情に深い人間だが、実際は冷酷な男。だが秀一は、冷たそうに見えても、本当は愛する相手に深く愛情を注ぐ男だ。玲の言葉に、弘樹の足が止まった。それ以上、彼女に近づけない。玲が言う「彼女を切り捨てた」の意味を、彼は痛いほど理解しているからだ。かつて弘樹は、ネットで玲が自分と綾を引き裂こうとしたと貶め、藤原家では「入ってはいけない部屋に踏み込んだ」と嘘の証言までした。そして――玲が
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第356話

弘樹の秘書はわかっていた。弘樹が「あの件」を玲に伝えれば、状況を一気に覆せるだろう。だからこそ、またしても弘樹が玲に言い負かされ、すっかり萎れているのを見て、慌てて声をかけた。そろそろ本題に入れ、と。案の定、その言葉に弘樹の動きがわずかに止まる。次の瞬間、さっきまでの憔悴しきった気配がゆっくりと変わり、彼は深い眼差しのまま、玲へと一歩近づいた。玲は眉を寄せる。今日、彼が自分を呼び止めたのは、本当に話したいことがあるらしい。そこは理解したが、なぜか胸の奥がひどくざわつく。理由はわからない。ただ、よくない予感だけがゆっくりと心の底から湧き上がってきて――反射的に、一歩後ずさっていた。その瞬間だった。待っても来なかったエレベーターが、唐突にピンと開いたのだ。中にいたのはまさかの友也だった。しかも息を切らせ、どう見ても急いで駆けつけてきた。まるで、弘樹に絡まれた玲を助けにきたかのように。友也は玲を見つけた瞬間、大股で近づいてくる。「玲さん!雨音から、今日退院の手伝いをしてくれるって聞いて、迎えに来たんだ。間に合ってよかった……で、なんで弘樹がここに?玲さんにこっそり会ってるなんて、綾が知ってるのか?」最後の一言だけ、妙に語気が強くなる。あからさまな牽制だった。この間、佳苗の件でもめたとき、秀一と陰で話していた内容が弘樹に聞かれた。だからこそ今日、弘樹が玲を引き止めていた理由も、友也には一瞬で察せられた。どうせ佳苗の件に尾ひれをつけて、玲に吹き込もうとしているのだ。佳苗のことは秀一自身が伝えるべきであって、弘樹が口を挟むべきものではない。だから弘樹の企みを阻止するために、友也は全速で駆けつけたのだ。弘樹はわずかに目を細め、友也の意図を読んだように口元を歪めた。だが、今の弘樹の立場はあまりに危うい。ここで綾が呼ばれでもしたら、面倒どころでは済まない。――だが、佳苗の件をはっきり口にはできなくても、「匂わせる」ことならできる。金縁の眼鏡を指先で押し上げ、息を荒らす友也へと静かに視線を向ける。「友也、そんなに焦ってどうした?俺はただ、玲と少し話をしただけだ……何をそこまで怯えている?俺が何かまずいことを口にすると思ったのか?それとも――君の親友が抱えている秘密を、俺が暴すのが怖いのか?」「何言ってるの?」友也が
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第357話

「それは無理だ、玲。俺はこの世界で誰よりも、お前を大切に思ってる」弘樹は低い声で言い切り、ついに玲の目の前まで歩み寄った。視線は鋭く、抑えていた感情がにじむ。「玲、最近ずっと病院に来てるだろ?だったら……水沢さんの病室だけじゃなく、ほかの場所も行ってみるといい。もしかしたら、いろいろ『気づく』ことがあるかもしれない」それは――秀一が、玲に知られたくない「誰か」を病院に匿っている、という暗示だ。だが。病院を自由に歩き回れなんて、まともな言い分じゃない。玲は怒りに息を吐き、皮肉げに笑った。「へえ……それはいいアドバイスね。実は、これからも病院に来るつもりだったのよ。前に来たときは、あなたが割り込んできて中断されたから、もう一度きちんと診てもらおうと思って」そして、さらりと続けた。「なんせ、私と秀一さん……妊活を始める予定だから。病院に通うことも増えるの。慣れておかないとね」空気が、一瞬で止まった。危機感を覚えた友也が口を挟もうとしたが、それも不要になった。弘樹の整った顔は、玲の言葉とともに完全に凍りついたのだ。しばらく沈黙が続き、ようやく、搾り出すような声が落ちる。「……玲。お前、自分が何を言ってるのかわかってるのか?」次の瞬間、彼は玲の手首を掴んだ。負傷していないほうの手は震えが止まらない。「妊活?お前と秀一が?そんなことできるはずがない!」妊娠の前提には、男女としての関係がある。玲も秀一も、ずっと慎重で、距離感に厳しいと思っていたはずだ――弘樹の常識に照らせば、あり得ない。そばにいた秘書も、ごくりと喉を鳴らしたが、今回は口をつぐんだ。普通の男なら、自分の愛する女性に触れたいと思うのは当然のことだから。弘樹が「ふたりの間に何もない」と信じてきたのは、事実より願望にすぎなかった。そして今、玲の言葉で、それが無残に剥がれ落ちた。玲はまっすぐ弘樹を見つめ、はっきりと言った。「そう、私と秀一さんは妊活中。それも――ずっと前からよ。あなたと初めて病院で会った日、私が産婦人科の番号札を取ってたの」つまり――玲と秀一は、もうとっくに「本当の夫婦」だった。そして玲は、秀一との子を望んでいる。それは永遠に一緒にいたいという、確固たる意思の証だ。弘樹は言葉を失った。押し寄せる痛みと現実が、呼吸すら奪っていく。だが
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第358話

弘樹が、玲と秀一の関係をかき乱そうとしたのは、これが初めてではない。けれど、そのどれもが失敗に終わり、最後には自分がみじめになるだけだった。――そこまでして、何の意味があるの?玲は心の底からそう思いながら告げ、もう言葉を重ねることもせず、弘樹の手を振り払って、友也とともに歩き出した。今回は、弘樹もあっさりと弾き飛ばされた。そばにいた秘書が慌てて支えなければ、そのまま倒れていたかもしれない。ちょうど玲がエレベーターに乗り込もうとしたとき、背後から震える声が飛んできた。「玲……俺がもっと頑張れば、まだ間に合うと思ってた。まだやり直せるって……お前は、俺がどっちも欲しいんだろうって言ったよな。でも、もし同じことを秀一がしたら?もし秀一も、いつか『どっちつかず』をしてるところをお前が見つけたら、お前はどうする?玲……その時も、今の俺みたいに、秀一を迷わず捨てていけるのか?」真っ赤に充血した弘樹の目は、玲に縋りつくようで、対照的に顔色は紙みたいに白い。やつれた頬も、痛々しいほどだ。玲は答えなかった。もう二度と、弘樹の挑発に乗らないと決めていたから。次の瞬間、エレベーターの扉が閉まり、二人の間に完全な境界が下ろされた。その途端、弘樹の視界が急に暗くなり、張りつめていた意識がぷつりと切れる。ぐらりと体が崩れ、秘書の必死の呼びかけと「医者を!」という声だけが虚しく響いた。だが、玲が振り返る気配は、最後までなかった。……そのあと、玲は終始おびえ気味の友也に付き添われ、無事に雨音の病室へたどり着いた。雨音は、下で何があったか知らない。今日、退院の付き添いとして玲を呼んだから、友也は来ないと思っていたのに、まさかの予想外。友也はちゃっかり居座り、雨音がどれだけ嫌味を言っても動じる気配すらない。結局、諦めた雨音の頬は、怒りでりんごみたいに赤く染まった。だが、横で見ていた玲には、どうもそれだけじゃないように思えた。この短い入院期間――たった二日ほどだったが、二人の関係性はずいぶん変わった。まずは友也。今までは短気で、少しでも雨音の言い方が気に障ると、大声を上げて出ていくようなタイプだったのに、今日は十回以上とげとげしい言葉を浴びても、ただ俯いて大人しくしているだけだった。その友也の変化に、雨音の方もまんざらでもな
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第359話

玲は、大体察しがついて、ふっと笑みを浮かべながら電話に出た。「もしもし、秀一さん?友也さんから聞いたんですよね。さっき病院で、弘樹に呼び止められたって。でも心配しなくて大丈夫です。もう完全に片づいてます。弘樹の挑発は全部不発でしたし……たぶん、あれだけ堪えてたから、しばらくは私の前に現れる元気もないと思います」エレベーターが閉まる直前、弘樹の顔色までは見えなかったが、あの秘書の悲鳴で、彼の体調がかなり悪化したのは間違いなかった。その言葉を聞いた秀一は、スマホを握る手にぎゅっと力を込めた。そして、しぼり出すように低く震えた声を落とす。「……玲。俺を信じてくれて、ありがとう」「当然でしょ。だって秀一さんは、いつだって私のことを信じてくれたじゃないですか」玲は柔らかく笑い、声を落として囁いた。「秀一さん、前にも言いましたよね。私にとって、無条件で味方になってくれる最初の人は、あなたなんです」たとえ強引な父親を前にしても、秀一は一度も玲のために引いたことがない。その一点だけでも、弘樹は永遠に勝てない。それにもう一つ、玲が弘樹の言葉を一切信用しなかった理由があった――綾の存在だ。「秀一さん、もうすぐアート展ですけど……綾、悪質なメディアを何社も使って私を叩こうとしてますよね?あれ、多分弘樹と連携してるんじゃないかと思って。片方は正面攻撃、もう片方は世論で攻撃。挟み撃ちでメンタル折ろうとしてる、みたいな」「心配いらない。どんな手を使われても、アート展当日は俺がそばにいる」秀一は深く息を吐き、まっすぐな声音で続けた。「そして、アート展が終わったら……玲。ずっと言えずにいたことを、ちゃんと話したい」「わかりました」玲は素直に頷いた。秀一が「アート展のあと」と言うなら、その時に聞けばいい。わざわざ駄々をこねて先に聞こうとはしなかった。玲の返事に、秀一の険しい表情がようやく少し緩む。机の上に置かれた玲の写真を見つめながら、穏やかな声で言った。「玲。最近は大事な時期だから……もう一度、君の周りに二人、ボディーガードをつけ直す。今回は前よりずっと信頼できる人間にした」前回のボディーガードは腕は立っても頭が回らなさすぎて、佳苗に近づく隙を与えてしまった。その二人はもう外され、機転の利く新しい人材が手配されている。一度経験したことだし
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第360話

雪乃は玲を指さし、怒りのまま罵倒し続けた。このところ雪乃は、玲を仕留めようと決めて以来、精神状態は張りつめた糸のようだった。保身のために娘を切り捨てる。その覚悟はできていても、秀一の鉄壁の守りのせいで、どれだけチャンスを待っても決定的な隙を見つけることができなかった。ところが数日前、突然「烏山佳苗」と名乗る女性から連絡が来たのだ。自分の素性と目的を明かし、雪乃に「協力して欲しい」と頼んだ。その存在に驚きつつも、雪乃は初めて知った――完璧に見えた秀一にも、玲以外ひそかに想っている女性がいると。呆れはしたが、雪乃はすぐに佳苗との協力を受け入れた。雪乃一人では、玲に近づくのが困難だ。だが佳苗は秀一の身近な人間、しかも二人の目的が一致している。雪乃にとってこれ以上ない味方だ。そのため今日、雪乃がこっそり佳苗と会うために病院へ来ていた。リハビリ室のトイレで、ついに佳苗と接触し、実行のための細かな段取りをすべて決めたのだ。実行日は――アート展の開幕の日。玲はRの人気に便乗するため、当日は絶対に会場へ来る。そこにはRのファンが大勢いて、皆が玲を激しく嫌っている。そして、佳苗は巧みに秀一を玲のそばから遠ざけるという。孤立無援になった玲はまさに俎板の鯉で、逃げ場などどこにもない。そして玲さえ死んでくれれば、雪乃が観光地のスタッフと手を組み、玲の父を殺すよう仕向けた罪も、永遠に闇の底へ沈む。残すは計画を実行するのみ。雪乃はそんな上機嫌で、別棟に入院している弘樹の様子でも見に行こうと思った矢先。玲が、廊下で弘樹へ話していた言葉を耳にしてしまった。以前の雪乃だったら、秀一を恐れて堪えていたかもしれない。だが今は違う。秀一には、深く想い続けてきた幼馴染がいると知ったのだ。つまり――玲なんて、秀一にとっては大した価値がない。そう思えた瞬間、雪乃の中で恐怖は霧散し、怒りだけが残った。……玲は、久しぶりに見た雪乃の姿に驚いていた。だがすぐに思い当たる。弘樹が入院している以上、雪乃が病院に来るのは当然だ。むしろ、実の娘以上に可愛がってきた茂の息子なのだから、世話してあげるくらい何もおかしくない。そしてこの激しい罵倒――きっと弘樹のことで気が立っているのだ、と玲は冷静に判断した。ゆっくりと息を整え、手に持ったビニール袋を握り直
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