All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

「社長、安東さん……!烏山さんが今朝、奥様に会いに行ったんです!」ボディーガードの慌てた声が病院の廊下に響き渡り、まるで雷のように空気を裂いた。洋太は一瞬、目の前が真っ暗になる。そして、横に立つ秀一の顔を見るのが怖くなった。なにしろ、今日は「絶対に佳苗は暴走しない」と自分が言い切っていたのだ。それなのに、このざまだ。洋太はボディーガードの胸ぐらをつかみかける勢いで問いただす。「どういうことですか?なんで烏山さんが奥様のところに?」「俺たちも本当にびっくりして……奥様が展示会の会場へ向かう道で、烏山さんがいきなり車椅子で飛び出してきたんです。二人のやりとりを見てたら、奥様と烏山さんがどうやら前から顔を合わせていたと気づきました」もうひとりのボディーガードも口ごもりながら続ける。「おそらく昨日、奥様が病院で……俺たちが外で待ってる間に、烏山さんと鉢合わせしたんだと思います」昨日、玲が病院で会っていたのは弘樹だけ――彼らはそう思い込み、まさか佳苗までいるとは思ってもみなかった。秀一は黙って二人の話を聞いていたが、もはや表情は凍りついていた。なんなら、ボディーガードたちが第一声を発した瞬間から、彼の周囲の空気が一気に冷え込み、握りしめたスマホは、今にも歪みそうなくらいきしんでいる。だが今は、ボディーガードを責める暇も、洋太を叱る暇も、まして自分を責める暇もない。秀一は三人を押しのけ、そのまま病院を出ようとした。だがその瞬間、廊下の先に影が立ちはだかった。厚く包帯を巻いた手を前に突き出し、秀一の行く手を塞ぐ男――弘樹だった。「烏山佳苗って、誰のことだ?」空気が一瞬で凍りつく。洋太は思わず叫びそうになった。……血の雨、ほんとうに降った。玲と佳苗が遭遇しただけでも最悪なのに、今度は秀一と弘樹が正面衝突。しかも弘樹の様子からして、近くに潜んでいて一部始終を聞いていたと考えるのが自然だ。いきなり「佳苗」の名前を出して核心を突いてきたあたり、たちが悪い。ただ、弘樹がここにいること自体は不自然ではなかった。昨日から広まっていた「弘樹が手を怪我した」という噂は、藤原グループ傘下のこの病院から流れたものだ。その後、綾が病院で騒ぎを起こし、「弘樹は私のために怪我したの!」と嘘までついた。かつて秀一は綾への罰として、藤原グループ
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第332話

友也は目をまん丸にして固まった。秀一の様子を見て、頭はまだついてきていないものの、とりあえず頷いておいた。ほかの誰かにこんな命令口調で言われたら、友也は間違いなく「ふざけるな」と相手を追い払うところだ。というのも――最近の友也と雨音の仲は、これまでよりさらに険悪な状態だったから。だが彼に命令しているのは秀一だったら、話が違う。だから何があったのか聞くこともせず、友也はすぐスマホを取り出し、部屋の隅で雨音に電話をかけ始めた。そして心の中で祈った――どうか、彼女に即座に切られませんように、と。その間、秀一はその場に立ったまま、両手を机に置いても、身体の震えは止められなかった。そこへ、洋太が弘樹の対処を済ませて遅れて駆けつけた。目の前の状況を見るなり、友也の方には手助けできないと判断し、秀一を落ち着かせる方に回る。「社長、こんな事態になったのは……全部が全部、社長の責任ってわけじゃありません。避けようのないこともあったので」もし佳苗が、五年の昏睡から目覚めたあと、あそこまで病的に歪んでいると事前にわかっていたなら――彼らは一日二十四時間監視し、犯人のように拘束してでも玲に近づかせなかっただろう。だが、秀一は赤く染まった目のまま、首を横に振る。「いや……違う。こうなるのは、最初から避けられたんだ」もし最初から、植物状態になっていたのが男性だなんて嘘を作らずに――率直に女性だと玲に話していたら、状況は、ここまで複雑にならなかった。秀一は第一歩を誤り、そのまま何歩も誤ってしまった。そして根本的な原因は、一つしかない。彼の欲深さだった。玲からの愛を、もう少しでも多く欲しがった。なぜなら、この恋は最初から、ほかの誰とも違う形で始まったものだから。玲は過去十三年間、ずっと弘樹のそばにいて、十三年分の愛と想いをすべて弘樹に捧げていた。そんな長すぎる時間の中で、秀一は一度も玲からの愛を得たことがなかった。だからこそ、ある日ようやくその想いが自分に向いたとき、それは溺れる者が初めて吸い込んだ空気のようで、餓えた者がようやく得た一口の食べ物のようで。秀一は、本気で玲の想いを大切にしていた。誰よりも強く、誰よりも深く――そして、それを少しでも失うのが怖かった。だからこそ、玲が「秀一さんは他の女性とはきちんと距離を置いているとこ
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第333話

けれど、他人の苦しみを知らぬ者は、他人に善意を説くべきではない。誰も、秀一の十三年の片想いを経験したことがない。だから世間が「玲の方が藤原家に嫁いで得をした」と誤解しているこの結婚で、本当のところはずっと、秀一の方が自分を地に落として、玲から少しでも優しさをもらえるよう必死に祈っていたなど――誰も想像できないのだ。洋太は、その現実を思うと胸が痛んだ。深く息を吸って気持ちを押し戻し、秀一を別の角度から励ますしかなかった。「社長、今回烏山さんの件を奥様に隠していたのは、確かにあなたの落ち度です。でも、あなたと烏山さんの間には何もありません。社長は彼女に一切曖昧な態度を取ってこなかったし、ずっと、はっきり線を引いていました。だから仮に奥様は、社長の嘘を見抜いたとしても、その一点だけで社長を完全に見放すなんてこと、絶対にしません。もし今回奥様が怒っていたとしても……私がちゃんと証言します。奥様は、理不尽な人じゃないって信じています」秀一は返事をしなかった。だが、最後の一言にだけ、真っ赤な目がそっと上がった。その瞬間、友也がようやく戻ってきた。秀一が反射的に立ち上がる。「どうだ?雨音さんは電話に出たか?」「出た出た、ちゃんと出た!」友也は机の上の水を一気に飲むと、呼吸を整えながら続けた。「で、いいニュース。玲さんはまだ、佳苗さんと秀一の関係を知らない。ただし……悪いニュースがひとつ」間を置き、眉をひそめる。「今、その三人――全員、病院にいる」……一瞬、世界がかすむほど、重たい空気が落ちた。遠くで雨雲が集まり始めるような、そんな予兆。玲と雨音は今、病院のリハビリ室の前の廊下に立っている。二人とも黙り込み、ガラス越しに、リハビリ専門スタッフと一緒に訓練を続ける佳苗をただ見つめている。さっき人工湖のほとりで、佳苗が「妊娠の準備を始めたい」、「好きな人が卑怯な女に恩をかぶせられて奪われた」などと騒いでいたとき、玲は、内容をひとつも頭に入れていなかった。ただひとつだけ、はっきりと思ったことがある。――彼女、絶対にどこか壊れてる、と。正直に言えば、それはそう珍しい話でもない。普通の人でも長期入院すれば、精神が歪んだり、心が折れたりする。まして佳苗は、何年も植物状態で眠っていたのだ。むしろ精神が正常のままの方がおかしい。そ
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第334話

「ちょっと、雨音ちゃん、何をするつもりなの?」玲は、友人の妙に悪だくみめいた口調に眉をひそめ、声を落とした。「変なことしないでよ。ややこしいことになったら困るからね」「心配しないで。私だって、このくらいの分別はあるよ?」雨音は軽く眉を跳ね上げさせ、どこか楽しげに続ける。「別に変なことなんてしてない。ただね、さっきスタッフさんにちょっとした差し入れを渡してた。烏山さんは頑張り屋さんで、早く回復したがってるから、厳しく見てあげてくださいってお願いしただけ」優秀なリハビリ専門職は、訓練の仕方を熟知している。本来なら、数年眠っていた人間は、時間をかけて少しずつ負荷を上げていくのが常識だ。だが――雨音にその常識は通用しない。数日で佳苗を健やかに、そして徹底的に仕上げる気満々だった。案の定、ほんの数分後には、リハビリ室から悲鳴まじりの声が響きだした。「や、やめて……!いたい、痛い痛い!」「うぅぅ……つかれたぁ……!」「先生、休ませて……もう無理……あああっ!!」佳苗は手すりにつかまったまま力が抜け、床に座り込んだ。汗と涙で化粧は完全に崩れ、見るも無残。さっき玲に向かって、傲慢な態度で圧をかけてきた姿は、一片も残っていなかった。玲はその様子をガラス越しに見て、こらえきれず吹き出し、そっと雨音に親指を立てた。「さすが雨音ちゃん、いいアイデアだったね」何せリハビリは佳苗のため。多少ハードでも、「回復のため」だ。それは虐待どころか、感謝されてもいいレベルくらい。雨音は「たいしたことないよ」と手を振りながら、反対に自信満々の笑みを浮かべた。「いやいや、こんなの序の口。玲ちゃんの周りにこういうタイプはいないけど、私のほうには山口さんがいるからね。すぐ病弱でかわいそうな顔をするから、気づいたの。こういう虚弱アピールで人を縛る女子には、正々堂々の手段でやり返すのが一番だって。あの人、わけわかんない理由で玲ちゃんにベッタリだし、リハビリにも付き合わせようとしてるでしょ?逃げれば逃げるほど追ってくるタイプだから、逆に、全力で付き合ってあげればいいんだよ。次に誘う気なんてなくなるくらいにね」玲はお腹を抱えそうなほど笑ってしまった。「確かにね。あの様子なら、二度目は絶対ないわ。……雨音ちゃん、そろそろ行こうか」「うん。烏山さん
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第335話

雨音は二人の話を聞くうちに、ついに堪忍袋の緒が切れた。「私たち、今日が初対面ですよね?あんな言い方、さすがに失礼じゃありません?言わせてもらいますけど、今日の騒ぎは全部、あなたたちの娘さんが勝手に暴れたせいですよ。車椅子なのに急に道路に飛び出して車を止めようとするなんて、危険すぎます。玲ちゃんがとっさに動かなかったら、あの子、確実に跳ねられてましたからね?文句言うなら、まず娘さんに言ってください。こっちに責任なんて一切ありません!」怒りがこみ上げ、雨音の声はさらに鋭くなる。「それに、助けてもらったのにお礼の一つもなしで、開口一番が文句?どういう神経してるんですか?」雨音は完全に怒り心頭だった。この一家、こころと綾を足しても太刀打ちできないほどクセが強い。玲も横で眉をひそめ、まったく同じことを感じていた。しかもこの中年夫婦、玲を見るなり「昔から知っている」ような妙な視線を向けてくる。その違和感が胸の奥に引っかかる。だが、いくら不快でも黙る玲ではない。秀一でさえ、彼女に強く出ることはない。赤の他人から理不尽に怒鳴られて、何も言わず下を向くような性格ではなかった。玲は雨音の隣に立ち、はっきり言い返す。「烏山さん。そんなに娘さんが心配なら、まずあなた方が責任を持って見てあげてください。他人に押しつけないで。私は佳苗さんとは何の関係もありません。今回は困っていたから助けただけで、次からはもう関わりません」「なっ……!関わらないだと?誰に向かってそんな口を利いている!」普段は温厚そうに見える健吾だが、怒鳴ると表情が一変した。「口だけは達者だな!うちの娘はずっと病院で大人しくしてたんだぞ?そっちが連れ回したんじゃないのか!あんな純粋な子を惑わせておいて、よくも――」「いやいや、惑わせるも何も、問題があるのはそっちの娘さんでしょうが!」雨音はついに堪えきれず、健吾に怒鳴り返した。「娘さんが勝手に暴走してるのに、全部他人のせい?本当に図々しい人たちですね。こんなの相手してたら、こっちが頭おかしくなるわ!玲ちゃん、行こ!」この夫婦と話が通じないのは、雨音の目から見ても明らかだった。これ以上話しても、まともな人間同士の会話にならない。だから彼女はさっさと玲の手を引き、立ち去ろうとした。拳を握る手が震え、これ以上いたら本気で殴
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第336話

友也はすぐに雨音の異変に気づいた。彼女は手すりに寄りかかるようにうずくまり、どこを打ったのかもわからないほどの痛みに顔を歪めている。友也の体は一瞬で強張り、反射的に駆け寄ろうとした。しかしそれよりも早く、一つの影が動いた。ほとんど誰の目にも捉えられないほどの速さで、秀一が玲のもとへ駆け寄り、その体をしっかりと抱きしめたのだ。玲はその腕に触れた瞬間、張り詰めていた感情がようやくほどけていくのを感じた。さっきまでほうきですら武器にしようとしていた彼女の怒りと不安は、一気に胸の奥から溢れ出し、目元が熱くなる。玲は秀一の手をぎゅっと握りしめた。「秀一さん、やっと来てくれました!雨音ちゃんがあの人たちに押されて、怪我したかもしれません!早くお医者さんを呼んであげて!」今、玲が一番心配なのは雨音。そして、彼女が一番信頼しているのは秀一だ。秀一がいれば大丈夫、きっと守ってくれる――玲はそう信じていた。秀一は赤く潤んだ玲の瞳を見て、胸が鋭く痛んだ。頭に血が上るほどの怒りと、彼女を守れなかった悔しさが喉元までせり上がる。それでも、まずは玲の頭にそっと手を添え、落ち着いた声で言った。「心配しなくていい。雨音さんは友也がすぐに医者のところに連れていく。それより、君は?どこか痛いところはないか?」「わ、私は……」玲がまばたきをすると、友也が秀一に負けない速さで雨音を抱きかかえ、診察室へ向かっていくのが見えた。その姿を確認して、玲はようやく安心し、自分の体に意識を戻した。だがそんな時、甲高い泣き声が急に響き、玲の言葉を遮る。「うぅ……父さん、母さん、どうしたの?こんな歳なのに、誰かにいじめられちゃったの?」佳苗だ。いつの間にかリハビリ室から飛び出してきており、泣きながら秀一の顔を覗く。実は、さっき秀一が現れたときから、佳苗は車椅子を操作してリハビリ室の扉まで移動していた。だが、まさか秀一が一度も自分に目を向けなかったとは思わず、彼女は拳を握りしめ、ついに大声をあげたのだった。さらに惨めさを演出するかのように、わざと車椅子から転げ落ち、そのまま両親のもとへ這い寄る。「父さん、母さん……全部私が悪いの……!長いこと眠ってて、ふたりを守れなかったせいで……こんなにつらい思いを……!」「ちょっと、何言ってるんですか?」玲は怒
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第337話

指摘が図星だったのか、佳苗の瞳に一瞬だけ鋭い光が走った。だが次の瞬間には、さらに可哀想さを強調するように肩を震わせ、玲を指差して訴え始める。「あなた、何を言ってるのか、本当にさっぱりです。みんな見てたはずですよ?父さんはあなたに何もしてなかったのに、あなたがほうきで何度も殴ったでしょ?」涙声で続ける。「娘の私なら我慢してあげてもいいけど、父さんまで巻き込まれた以上、みなさんに公平に判断してもらわないと気がすみません!」声を震わせ泣きながら訴える佳苗。その視線は、涙の奥で密かに秀一の顔ばかり追っていた。玲はその言葉に怒りが込み上げ、胸が上下に激しく波打つ。佳苗の秀一を見る視線に気づかないまま、どこか既視感のようなものが胸を刺した。――このしつこい絡み方、あのときにそっくりだ。綾と初めて対峙した日。綾は大勢の前で、玲が盗みを働いたと濡れ衣を着せ、強引に罪を押し付けようとした。そして、弘樹も雪乃も茂も、皆そろって綾の味方をし、玲を追い詰め、逃げ場を奪った。そのときの光景が一瞬で脳裏によみがえり、玲は思わず秀一の方を見た。――彼は、どう対処するつもりなのだろう。玲の思考を察したかのように、秀一がそっと彼女のこわばった頬に触れる。抱き寄せていた腕を一度緩め、次の瞬間には先ほどよりも強く抱き締める。その仕草は、揺るぎない意思そのものだった。「俺は君を信じる。君が誰かに陥れられたというのなら、それが真実だ」佳苗がどれだけ転んで泣き叫び、両親にすがって大騒ぎしようとも、秀一は一度たりとも迷わなかった。その言葉に、佳苗は固まったように動きを止め、玲も思わず瞬きをする。少しの間、彼の顔を見つめ――ようやく小さく「うん」と返した。そして、固く結ばれていた玲の唇がようやくゆるむ。佳苗とその両親への怒りも、頭を支配していた苛立ちも少し弱まった。とはいえ、この件を不問にするつもりはない。玲は痛む腕をなんとか持ち上げ、佳苗たちを指さす。「秀一さん、この三人……私たちのことを知ってるから、お金をゆすろうとしてる詐欺師じゃないかって疑ってるんです!昨日、この佳苗って人が私たちのファンだって嘘をついて病院で私に話しかけてきたんです。リハビリに付き合えってしつこく迫られて、無視したら車椅子で車の前まで突っ込んできて……彼女の両親
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第338話

佳苗は予想だにしなかった。自分がそこまで大騒ぎして、両親まで巻き込んで、必死に「被害者」を演じたというのに――秀一の中では、すべてが取るに足らない出来事だった。彼は一度たりとも、玲を疑わない。それどころか、目の前で堂々と「彼女を信じる」と宣言してみせた。その現実が、佳苗の頭を狂わせた。感情が爆ぜ、思わず「秀一さん!」と叫んでしまったのは、秀一との関係を皆に暴露してやろうという衝動からだった。たとえ秀一が「勝手なことをするな」と怒るのはわかっていても――もう、止められなかった。けれど、その叫びはやはり遅すぎた。声を張り上げた頃には、秀一はすでに玲を抱き上げ、遠くへ歩き去っていた。佳苗の泣き声も、喚き声も、もう二人には届かない。唯一、その声を聞いたのは洋太だけだった。だが彼は、佳苗を見る目を完全に変えていた。「烏山さん、そんなに大きな声が出せるなら、体調も問題なさそうですね。後で看護師さんを呼びますので、ご家族でそのまま床に座っててください」正直、洋太はこんな一家に関わりたくなかった。けれど、秀一から彼らを任された以上、甘い顔をするつもりもない。できる限り不便を味わわせる――それがせめてもの仕返しだった。そう言い残し、洋太はさっさと立ち去る。佳苗一家を助ける人間は誰ひとりいなく、健吾の手もますます腫れ上がった。さっきまで玲と雨音に向かって怒鳴り散らし、殴りかかっていた男が、秀一が現れた途端に借りてきた猫のように静かだったのだ。誰もいなくなってようやく、健吾は痛みに震えながら娘を恨めしげに見た。「佳苗……秀一くんはもう、完全に玲に惚れ込んでるな。私たちの昔の恩なんて、もう眼中にないんだ……」「そうよねぇ……」由紀子も暗い顔で、腫れた夫の手をそっと支える。「昔の秀一くんは、本当の親みたいに私たちを大事にしてくれた。自分もまだ余裕がなかったのに、私たちのために家を買って、仕事まで見つけてくれた……でも今日、お父さんが怪我をしたのに、彼は医者を呼ばなかったし、心配の一言もなかったのよ……」それはつまり――秀一にとって、佳苗一家が三人かかっても、玲ひとりの価値にもないということだ。しかも秀一なら、今回の騒動は、自分たちが仕掛けたと見抜いているに違いない。だから彼は本気で怒ったのだ。その事実に気づいた瞬間、由紀子は慌て
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第339話

けれど思いもしなかったことに、佳苗の望みどおり、玲が自分の両親を傷つけたというのに――それでも秀一は、迷わず玲を信じると言った。その瞬間、佳苗は悟ってしまった。――秀一の心から玲を消し去るには、もう「殺す」しかない、と。しかし、佳苗の言葉をそばで聞いていた健吾と由紀子は、すでに怯えきっていた。「佳苗ちゃん、もうやめなさい!さっきお父さんは玲をちょっと押しただけなのに、秀一くんはまるで私たちが仇か何かみたいに睨みつけたのよ?もしあのまま玲を本当に殺してしまっていたら……私たち三人、玲さんのために処刑されててもおかしくないわ!」年の功というべきか、佳苗の両親のほうがよほど冷静に状況を見ていた。さらに、彼らが驚いたのはもう一つ。雨音が倒れた瞬間、友也が見せたあの激しい反応だ。噂では、友也と雨音は「犬猿の仲の夫婦」として有名なはず。なのに雨音が痛みに顔をゆがめた瞬間、友也の目に宿ったのは――今にも自分たちを噛み殺しそうなほどの殺気だった。だが佳苗は、自分の思い込みにすっかり飲まれていて、恐怖などかけらも感じていなかった。「父さんも母さんも、どうしてそんなに腰が引けてるの?私たちは、秀一さんの命の恩人なのよ。当時のことさえバレなければ、秀一さんはその恩を忘れるはずがないし、必ず私たちを守ってくれる。今日だってそうでしょ?私たちを罰することもなく、最後には安東さんをつけて気遣ってくれたじゃない!」たしかに、秀一の冷たさは佳苗の胸を深くえぐった。悲しくて、泣き崩れそうにもなった。けれど――それでも自分は負けていない。佳苗は本気でそう信じていた。佳苗の言葉に、健吾と由紀子は唇を震わせ、言葉を失う。「佳苗ちゃん……あなた、これから何をするつもりなの?今回のことで、私たちはもう限界なのよ。これ以上は……もう無理よ」佳苗は落ち着いた声で言い返す。「わかってる。父さんも母さんも歳だし、私の計画について来るのは難しいでしょうね」佳苗は深く息を吸い込み、痩せ細った指先で涙を拭った。「だからこれからは、もっと頼れる協力者を探すの。玲の母、雪乃――あの人は昔から玲に冷たいし、玲が秀一さんと結婚した後もずっと仲が悪いまま。だから、彼女はきっと私の力になってくれる。それから綾のこともある。昔の出来事で、綾はいまだに『玲が自分と弘樹
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第340話

「違う、俺はただ君を守りたくて……」秀一は玲の問い詰める声を聞き、深く息を吸った。それでも力任せにすることはできず、そっと玲の腕に触れるだけに留める。「気づいてないのか?もう腕を上げるのさえつらい状態なんだぞ」本当なら、秀一も玲と一緒に烏山家のことを片づけてから帰るつもりだった。だが、玲が佳苗を糾弾しようと腕をあげた瞬間、その動きが明らかにぎこちなく、痛みに耐えているのが一目でわかった。それを見た途端、秀一の中で他のすべての優先順位が吹き飛んだ。今すぐ医者に連れて行く――それだけになった。玲は雨音の容体と佳苗の暴挙ばかりに気を取られ、自分の異変に意識が向いていなかった。だが秀一に腕を触れられた瞬間、これまでアドレナリンでかき消されていた痛みが、一気に押し寄せてくる。「っ……!痛っ、なんで……」玲の顔は見る見るうちに血の気を失い、声まで震え始める。「玲、どこが一番痛いか、はっきりわかるか?」秀一は険しい表情で、できるだけ優しく玲に触れた。玲の頬は蒼白から紅潮へと揺れ、ようやくかすれた声がこぼれた。「たぶん……胸。胸が痛くて……息ができない……」部位だけ聞けばどこか気恥ずかしい響きにもなるが、今の玲にはそんな余裕はない。さっき腕がうまく動かなかったのも、胸の痛みが神経を引っ張っていたせいだった。「たぶん最初、烏山さんが車椅子で飛び出してきた時……急ブレーキした衝撃で、シートベルトが胸に当たって……それから病院で、彼女のお父さんが無理やり私を押して、手すりにぶつかったから……さらに痛めたと思います」秀一は玲の説明を聞き終え、顔が真っ青になった。「それなら……肋骨が折れてる可能性が高い」その声は震えていた。まるで痛むのが玲ではなく、自分であるかのように。「玲……そんな状態なのに、どうして雨音さんのことばかり気にしてたんだ?いい?君の怪我のほうが、雨音さんよりずっと危ないかもしれないんだぞ!」玲と付き合うようになってから、彼女がここまで大きな怪我をしたのは初めてだ。その現実が、秀一にはひどくこたえた。誰かに傷つけられた玲を見るのはもう耐えられない。その上、玲が痛みに耐えながら他人の心配ばかりしていることにも、彼の胸を締め付ける。そして何より――今回の原因の一端は自分にある。その事実が、彼に肋骨が折られたよ
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