All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

「……もう一度言おう。藤原グループの象徴となる彫刻の制作を、Rさんに正式に依頼するつもりだ。この仕事は、Rさんの個展が終わったあとに始めてもらう。制作過程もフォトグラファーに密着させ、藤原グループ百周年の歴史資料として残す。さらに、完成後は最速で世界中の拠点へ反映させる。Rさんの作品を、藤原グループの顔として永続させるためだ。以上だ。何か異論は?」秀一は指先で軽く卓を叩き、淡々と告げた。その声が、静まり返った会議室に吸い込まれていく。株主たちは顔を見合わせ、思わず自分たちの耳を疑った。というのも、いまの説明には「玲」の「れ」の字すら出てこなかったからだ。――つまり秀一は、妻のご機嫌取りのために自分たちを振り回しているわけではない。その事実に、株主たちはひそかに胸をなで下ろした。代表株主が、ほっとしたように笑いながら口を開く。「いやぁ社長。前は、奥さんを喜ばせたいって理由で、彼女を場違いな個展にねじ込んだ上に話題作りまで手伝っていたじゃないですか。今回もまた、その延長でシンボルプロジェクトを奥さんに振るのかと思って……正直、身構えてたんですよ。どうやら我々の考えすぎだったようですね」「そうか。みなさんはそう思っていたんだな」秀一は軽く笑い、掴みどころのない表情を浮かべながら答える。「では今回は玲ではなく、Rさんに依頼する。これで異論はないな?」「もちろんですとも!そのほうが安心できます。それにRさんの噂は私たちも耳にしています。業界では伝説と呼ばれる方でしょう?」会議室の空気が、一気に明るくなった。Rの作風は温かみがあり、癒しがあって、企業イメージを高めるにはぴったりだ。株主たちは一斉に賛同の声を上げる。その様子を見て、秀一はふっと唇を緩めた。「Rさんがデビューした頃から、彼女の作品にはずっと注目してきた。個展の新作はまだ公開されていないが……Rさんなら俺の期待を裏切らない。どんな時でも、彼女は最高だからな」その言葉が落ちた瞬間――会議室は再び、しんと静まり返った。株主たちはまたしても顔を見合わせ、訝しげに首を傾げる。――一介の彫刻家を、仕事上の評価を超えて褒めすぎでは?それに、有名彫刻家Rといえば普通は男性を想像する。しかし秀一は迷わず「彼女」と言った。まさかRに特別な感情でも?横に控え
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第322話

秀一は、焦りも見せずに穏やかに答えた。「契約なら、みなさんに任せる。俺は一切口を挟まない。それでどうだろう?」「ははは、もちろん問題ありません!」株主たちは待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、満面の笑みに変わる。「ではすぐに関係者と連絡を取ってきます。うまくいけば、今日中に契約をまとめられるでしょう!」「ああ、頼んだ」秀一が軽く頷くと、会議室は珍しく和やかな空気に包まれた。藤原グループの会議としては、ほとんど奇跡みたいな「満場一致」だ。だが、洋太だけは、どうにも胸騒ぎがした。というのも、秀一が最後に見せた、あの唇の端のわずかな笑み――あれはどう見ても企みを隠しきれていない顔だった。例えるなら、まるで経験豊富な猟師が、鹿をうまく誘導して罠にかけ、そして無様にもがく彼らの様子を楽しんでいるようだった。すると洋太は、会議が終わり、周囲に誰もいなくなった途端、秀一へ声をかけた。「社長、あの……株主たちに契約を任せてしまって大丈夫ですか?もし良いチャンスがあれば、奥様に回せるよう、私が見てきましょうか?」「必要ない」即答。秀一は歩き出しながら、ふっと表情を引き締めた。「契約の件は、お前が心配するまでもない。それより、当面の課題が一つある。お前に任せたい」「えっ……?な、何ですか?」洋太は反射的に背筋を伸ばした。秀一がこんな深刻な顔をするのは本当に久しぶりだ。そして、秀一は目を伏せ、一度息を整えてから、低く静かに告げた。「……玲と佳苗に会わせる場を整えてもらいたい。落ち着いた場所で、佳苗のことをすべて玲に話す。それから、自分の過ちをきちんと認めるんだ」――これは昨夜、ベッドで決めたことだった。会議中に契約の件へ口を出さなかったのも、この準備に時間を使いたかったからだ。玲が怒ることを恐れて嘘をつき続けるくらいなら、自分から先にすべてを打ち明けるべきだと。昨夜、玲は「あなたに一度だけチャンスをあげる」と言った。なら、そのチャンスに応えるには、誠実な告白しかない。洋太は唇を震わせた。――言ってることは正しい。正しいけど……これ、確実に血の雨が降るやつでは?……そのころ、外はすっかり暮れ、月光が窓辺に落ちていた。オフィスでは、雨音が玲と並んで契約書に目を通している。今日の午後、藤原グルー
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第323話

【高瀬さん、今日は会えて本当に嬉しかったです。明日から初めてのリハビリが始まりますが、もしお時間があれば、付き合ってもらえませんか?】佳苗から届いたメッセージは、やけに距離の近い文面だった。まるで玲とは旧知の仲で、明日は当然のように来てくれるはず――そんな空気すら漂っている。だが玲は眉を寄せた。佳苗とは友達でも何でもない。まして、リハビリに付き添う義理もない。「この人、誰?新しく知り合った子?」隣で雨音もメッセージを覗き込みながら首を傾げてくる。佳苗の事情を知らないから、余計に不思議そうだ。玲は、今日の病院での出来事――偶然佳苗と会い、なぜかその流れで連絡先まで交換することになった一連の経緯を雨音に話した。ひと通り聞き終えた雨音は、渋い表情をした。「……この人、怪しすぎる」たとえ植物状態から回復したばかりで、人付き合いが久しぶりだったとしても、急にこの距離感で話しかけてくるなんて普通じゃない。雨音は断言した。「玲ちゃん、明日絶対行っちゃダメ。変に同情したりするのもダメだからね!」「もちろん行かないわよ。いくら優しい人だとしても、こういう誘い、普通乗らないから」玲は軽く肩をすくめたが、唇を噛んだ。「ただ……どう断ればいいのかわからないね」途端、雨音は胸を叩いた。「そこは任せて!玲ちゃんは優しすぎて色々言えないだろうけど、私は違うから!」交渉ごととなれば、雨音の右に出る者はいない。そもそも雨音と友也は喧嘩ばかりしていて、その口のうまさは日々の「戦い」で磨かれたものだ。特に誰かを断るとなれば、もう雨音に任せるしかない。雨音は袖をくいっとまくり、玲のスマホを奪おうと手を伸ばした――その瞬間。軽いノック音とともに扉が開いた。ふたりの動きがぴたりと止まる。入ってきたのは海斗だった。車椅子に座り、膝の上にはテイクアウトの箱がいくつも重ねられている。少し血色の悪い顔に、柔らかい笑みが浮かんでいた。「今日も二人一緒だったんだね。ちょうどよかった。夕飯の時間だし、少し多めに買ってきたんだ。よかったら一緒にどう?」雨音は完全に固まった。玲も言葉が出ない――ついさっきまで「断るのなら任せて」と言っていたのは、ほかでもない雨音だったはずなのに。玲は咳ばらいし、そっと肘で雨音をつついた。押されるようにして、なん
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第324話

「大丈夫、無理なんてしてないよ。雨音は僕を気遣って、負担をかけたくないって思ってるんだよね」海斗は一瞬だけまつげを震わせ、それから耳にかかる髪をそっと指先で払った。いつもの穏やかな笑みを浮かべながら続ける。「最近僕は、むしろ君のほうが心配なんだ。もうすぐアート展が開幕するだろ?また寝る間も惜しんで作業してるんじゃないかって。友也は子どもじみたところがあるし、気配りってものを知らない。だから僕が代わりに、できることをしてあげたいって思ったなんだ」雨音は眉をひそめ、きっぱり言い返した。「……でも、女の子のそばには必ず男がついていなきゃいけない、なんて決まりはないよ」友也とは違い、海斗が優しいことはよくわかっている。だからこそ雨音は感謝している。けれど、その奥にある「女性は守られる側」という考え方だけは、どうしても受け入れられなかった。「海斗くんは、自分のことをちゃんと大事にできれば、それで十分だよ」海斗は何も返さなかった。ただ、車椅子の操作キーに添えられた指先が、はっきりと白くなる。……結局、長い付き合いの友人でもある海斗は、不機嫌なそぶりなど一切見せなかった。いつもの穏やかな笑みを崩さないまま、膝の上の箱を机にそっと置き、丁寧に雨音へ別れの言葉を告げると、運転手に車椅子を押してもらい、静かに帰っていった。海斗が去ると、オフィスには玲と雨音だけが残った。玲は、さっき見た海斗のかすかに強張った指先を思い出し、今度は包み隠さず本音を口にした。「ねえ雨音ちゃん、海斗さん……たぶん、あなたのこと好きだよね?雨音ちゃんも気づいてるでしょ?」「……うん。気づいてた」長い沈黙のあと、雨音は額を押さえ、ようやく声を絞り出した。――どれだけ鈍い彼女でも、最近の海斗のあからさまなアプローチを見れば、さすがに気づかないはずがない。「でも私、海斗くんのこと好きじゃないよ。十年以上の付き合いがあって、水沢家との縁談が昔からあったとしても……一度も海斗くんと結婚したいなんて思ったことなかったの。まして、友也と離婚するからって、そのお兄さんと一緒になるなんて……絶対に無理!」弟と離婚して、その兄と再婚?そんな気まずすぎる展開、海斗が良くても雨音はまっぴらだ。玲も想像してしまい、思わず言葉を失った。……自分だって元カレと別れた
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第325話

「いやいや!弘樹くんがやられたんじゃなくて……その手がダメになったの!」雨音は勢いで叫んだものの、次の瞬間には自分で慌てて言い直した。玲はあまりの大声にぽかんと目を瞬かせ、ようやく声を取り戻す。「雨音ちゃん……ちょっと落ち着いて?弘樹はたしかに手を怪我したけど、そこまでじゃ――」「本当なんだってば!ほら、首都の令嬢たちが入ってるグループの最新情報!これ、綾から流れてきた話らしいよ。今あの人、病院で泣き叫んで大騒ぎしてるって!」それが理由で、弘樹が怪我した件は隠しきれなくなり、噂が首都中に爆発的に広まったのだ。何せ「藤原綾は恐ろしい女」という認識は、首都どころか国内全体に浸透している。聞けば、綾は弘樹の手が重傷だと知った瞬間、病院まで突進し、まずは弘樹の側にいた男性秘書を血まみれになるほど爪で引っ掻き、「しっかり見てないから弘樹がこんな目に遭った」と責め立てたらしい。その後は病院の医師たちに絡み、彼らが無能で、真面目に弘樹を治療していないと八つ当たり。極めつけは、病院長まで呼び出して、病院の環境が悪い、人が多すぎたせいで弘樹の傷がひどくなったと言い、訴えるつもりでいると喚き散らしたという。弘樹の傷がひどくなったのは、病院内の混雑で誰かに揉まれ、鉄製の椅子の角に思いきり手をぶつけたせいらしい。そのとき、皮膚が裂け、肉がえぐれ、神経まで露出していたとか。雨音は身震いし、鳥肌を押さえながら言った。「ひぃ……聞くだけで手が痛くなる……!でも弘樹くんも自業自得だよね?前に雪乃さんが綾にバッグを買うために、玲ちゃんのお父さんの形見を売った時、あの人、綾の味方してたでしょ?玲ちゃんの手も血まみれになってたし、これはもう、弘樹くんが償ってるってことだよね!」「償う……」玲はふっと息をのみ、その言葉でふいに、弘樹がこのところ見せていた妙な行動の数々――特に、今日病院で向けてきたあの目を思い出してしまった。雨音はその変化をすぐ察し、じっと玲を覗き込む。「ちょっと玲ちゃん、どうかしたの?」「なんでもない。ただ……もう帰ろうかなって思って」玲は無理やり思考を切り替えた。弘樹が綾と交際中なのは事実、二人は愛し合っているし、今も綾が弘樹のために病院で大暴れしている。だから、玲が深く考える必要はどこにもない。「……秀一さんのところへ行かな
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第326話

そこで玲はスマホを握り直し、佳苗からのメッセージを「通知オフ」に設定した。これ以上相手にする気は微塵もない。ただ、ブロックや削除まではしなかった。佳苗は玲の正体を知っている。今はアート展で話題になったせいで、ネットには玲への悪意ある書き込みがあふれている。ここで「病気のファンを切り捨てた」なんて騒がれたら、火に油だ。だから距離を置く――それが今、最適な対処だ。そもそも佳苗は、今日たまたま会っただけの人。よほどのことがない限り、二度と会うこともないだろう。そう考えた玲は、エンジンをかけ、駐車場を離れた。……三十分後、ようやく家に到着した。今日は秀一がいつものように早く帰ってきていた。玄関に入った瞬間、玲はそのまま抱きとめられる。玲は自然と彼の胸に頬を寄せ、軽く息を整えながら言った。「遅くなってごめんなさい。雨音ちゃんのオフィスで、Rさんの契約書を確認してきたんです。秀一さん、Rさんの代わりにお礼を言わせて。ありがとう」「礼なんていらないさ。俺たちの間に、そんな言葉はいらない」秀一は玲の額にそっと口づけ、そこでふっと声を落とした。「……玲。今日、病院で何をしてきたのか、教えてくれる?」秀一のもとには、玲が病院へ行ったという報告だけが届いていた。玲のそばにボディーガードがついているが、病院の中まで入っていかなかったし、玲のプライベートを勝手に探ることもしていない。もちろん、秀一がそれを許すはずもない。だが、秀一はすぐに何もかもを知ることになった。特に今日、弘樹の「手の怪我」が大騒ぎになっている。世間はただの事故だと思っているが、秀一はそうは思わない。だからこそ、漆黒の瞳の奥が、ほんのわずかに重く沈む。抱きしめる腕にも、言葉にならない不安が滲んでしまう。本気で――玲を自分の身体に溶かし込んでしまいたいほどに。しかし玲はその不安に気づかず、問いかけにこたえて瞬きをした。「今日、病院に行ったのは……お医者さんに、いくつか相談したいことがあったから」「相談?」秀一は慎重に言葉を選ぶ。「玲……これは君を縛りたいわけじゃない。ただ心配なんだ。話したくなければ無理にとは――」「本当に、話さなくていいんですか?」玲が急に彼の言葉を遮り、ぱっと目を輝かせた。秀一の指先がわずかに止まり、瞳が揺れる。それでも彼
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第327話

玲は最初から、妊娠を望んでいることを秀一に隠すつもりはなかった。妊活をするなら――頑張るのは母親だけじゃない。父親だって、一緒に頑張るべきだから。けれど、この話題についてはまだ一度も秀一と話し合ったことがない。頬に熱が集まるのを感じながら、玲は秀一の手を両手で包み、そっと揺らした。「……急に子どもがほしいなんて言って、早すぎるって思ったりしませんか?秀一さんがまだ準備できてないなら、私は全然待てるから」返事はない。というより――玲が「赤ちゃん」と言った瞬間から、秀一は完全に固まっていた。深い黒の瞳に、一瞬だけ空白が広がる。玲は今……なんて言った?――赤ちゃんがほしい?つまり、自分との子どもを?心がいきなり海の真ん中に放り込まれたように、四方八方から温かい波が押し寄せてくる。やがて口を開いた秀一の声は、ひどく掠れていた。「……玲こそ、早すぎるって思わないか?今、俺の子を産むなんて……負担じゃないか?」玲は思わず吹き出した。彼女が「早すぎない?」と聞いたのに、秀一はまるっと質問を返している。玲の気持ちがすべてで、自分は二の次と言わんばかりだ。でも、玲はもう答えを決めている。病院へ行った時点で、覚悟も、希望も全部固まっていた。秀一の胸の中から顔を上げ、玲はまっすぐに言った。「赤ちゃんを産むのは絶対に大変でしょうけど、あなたとの赤ちゃんなら……私は全然辛いと思いません」玲は両手で秀一の頬を包み、つま先立ちになって額をそっと合わせた。「秀一さん。私はあなたを愛しています。あなたが私に暖かい家をくれた。だから、その家をもっと幸せにしたいって思ってるんです」「……そうか、わかった。全部、君の望むようにするよ」すでに目元が赤く滲んでいることにも気づかず、秀一は言った。「ありがとう、玲……俺はこれからの人生、君と子どもを、一生かけて守るから」彼は本気で、玲と子供と一緒に過ごす未来を望んでいた。次の瞬間、堪えきれない喜びが込み上げたのか、秀一は玲を引き寄せ、逆に唇を奪う。熱く、真剣で、今の気持ちを全部注ぎ込むように。弘樹が怪我したことも、病院の騒動も、もはや頭の片隅にすらない。玲は真っ赤になり、身体が震えるほどそのキスに飲み込まれながら、かろうじて抗議した。「し、秀一さん……まだお腹に赤ちゃんいないのに……言い
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第328話

玲は、そのまま睡魔に身を任せ、深い眠りへ落ちていった。だからこそ――彼女は気づかなかった。秀一が、まるで何かを噛みしめるようにじっと見つめ続けていたことに。……翌日。玲はいつものように、太陽が高く昇ってからようやく布団からのそりと起き上がった。けれどここ数日、毎晩くたくたになるまで疲れていたせいか、昨夜は変な夢まで見てしまった気がする。誰かに、ずっと哀れっぽい視線で見つめられているような……その妙な気配を思い出すたび、目覚めた今も胸の奥がざわついた。とはいえ、どれだけ眠くても、玲は覚えている――今夜、秀一が「友人に会わせたい」と言っていたことを。だから軽くメイクを整え、昼はいつも通りアート展の手伝いをして、終わったらそのまま秀一と夕食へ行くつもりだった。出かける前、玲はふとスマホを確認した。幸いなことに、昨日、しつこくまとわりついてきた佳苗は、夜に二、三通メッセージを送ってきたものの、玲がすべて放置したおかげで、今はすっかり静かになったようだ。玲は車を走らせながら、「あと数日で諦めてくれた頃に、そっとブロックしよう」と淡々と考えていた。その瞬間だった。歩道から、見覚えのある車椅子が突然、車道へ飛び出してきた。しかも、玲の車のわずか十メートル先で、ぴたりと停止する。──っ!タイヤが悲鳴を上げた。玲は慌ててブレーキを踏み込み、強烈な反動で身体が前へ押し出された。シートベルトが肩に食い込み、衝撃を辛うじて受け止める。心臓が暴れ、肩はきしむほど痛い。そこへ、車窓をコンコンと叩く音。顔を上げた玲の目に飛び込んできたのは――二度と会うはずがないと思っていた佳苗だった。彼女はにこりと甘く笑っていた。「玲さん、また会えましたね!ここでずっと待ってたんですよ」……今さっき車道に飛び出したのは、佳苗自身だった。しかも自分がしたことの危険性には微塵も気づいていないのか、むしろ「やっと計画が成功した」と言わんばかりに、嬉しそうに笑っていた。逆に玲の胸には、ぐつぐつと煮え立つような怒りが込み上げる。さすがに警察を呼ぼうかと怒りで手が震え、まずは深く呼吸を整えるために車を降り、近くの人工湖のほとりへ歩いた。その一方で、佳苗はそっと玲を観察していた。昨日は病院で偶然会ったせいで、ろくに化粧もできず
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第329話

「烏山さん、あなた……いったい何をしてるんですか?」人工湖のほとりでようやく呼吸を整えた玲は、気持ちを落ち着かせてから振り返った。しかし、数メートル先にいたはずの佳苗が、いつの間にか玲のすぐ背後まで車椅子を寄せてきていた。玲は眉を寄せ、見下ろすようにして声を低くする。もともと玲は従順なタイプではないうえ、最近は秀一の隣で過ごす時間が長いせいか、不機嫌なときに自然と滲む圧が、とにかく強い。雷が落ちる寸前の空気のような迫力に、佳苗は思わず肩を震わせた。その瞬間、動揺して車椅子のハンドルが手に当たり、鈍い痛みが走る。だが叫ぶこともできず、慌ててうつむいた。「高瀬さん、わ、私……別に変なつもりで来たわけじゃないんです。ただ、高瀬さんが一人でずっと立っていて、すごく怒ってるように見えたから……その……謝りたくて。許してほしくて。急に来ちゃったのは、失礼だってわかってます。でも……今日、初めてのリハビリで怖くて……高瀬さんは、私の憧れの人だから、つい頼っちゃって……ちょっと理性が飛んじゃっただけなんです。こんな気持ち、高瀬さんならわかってくれますよね……?」赤く腫れた指先をぎゅっと握りしめ、佳苗はしおらしく、小さな声で言う。ひどく弱った見た目と、哀れみを誘うような口調。たしかに多くの人なら同情してしまうだろう。だが玲は眉間を押さえたまま、冷たく問い返す。「……あなた、今日は一人で来たんですか?」「……はい」佳苗は素直にうなずき、続けた。「高瀬さんが今日、Rさんのアート展に行くって知ってたので……この道は会場へ行くとき絶対通る道でしょう?だから、ここに来たら会えると思って、ずっと待ってたんです」玲は息を呑んだ。胸の奥に溜まっていた息が、さらに重くなる。扇ぐように手を胸元に当て、どうにか呼吸を整える。「……つまり。あなたの両親は、今日あなたがリハビリをサボって、私に会いに来てることを知らないわけですね?もし道で車椅子のバッテリーが切れたり、事故に遭ったらどうするつもりだったんですか?私が責任を問われることになりますよね」「いえいえ、事故なんて、そんなこと起きませんよ」佳苗は一瞬、目の奥の思惑を隠し、すぐににこりと笑った。「でも、高瀬さんがそんなに気になるなら……こうしましょう。私を病院まで送ってくれて、つい
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第330話

佳苗は玲を見つめ、へこんだ下腹部にそっと手を添えた。「お医者さんが言ってたんです。私の体は、長い眠りで消耗が激しくなってるだけで、ゆっくり整えていけば……高瀬さんみたいに、愛する彼のために妊娠の準備をして、可愛い赤ちゃんを産めるようになるって。そう、私にも愛する人がいるんです。あなたと同じようにね。彼はかっこよくて、強くて、幼い頃からずっと一緒にいてくれました。彼がいちばん苦しかった時に、私は命がけで彼を助けたんです。だから、彼の恩人でもあるんですよ。そのあと、私は事故に遭って植物状態になってしまいました。でも、彼は何年も私のそばにいてくれました。私は暗闇の中に眠っていたけど……心のどこかでずっと彼を想っていた。どうにかして目覚めたいって必死にもがいていた……だけど今、ようやく目が覚めたのに、現実は残酷でした。私が眠っている間に――ある女がね。卑劣で、恥知らずで、恩を理由に彼を縛りつけ……私から彼を奪ったんですよ!」佳苗の目は怒りで真っ赤に染まり、次の瞬間、車椅子を操って勢いよく玲に近づいてきた。「高瀬さん。もしあなたがこんな仕打ちをされたら……その女を、どうやって懲らしめます?」「……」玲は何も言えなかった。佳苗の声には憎しみがにじみ、赤く燃えるような瞳と迫りくる圧に、思わず一歩身を引いてしまう。その拍子にバランスを崩し、踵が人工湖のふちにかかった。「危ない!」その頃、ロイヤルホテルのスイートでは、秀一が洋太と並んで立っていた。中ではスタッフたちが慌ただしく動き回り、部屋をできる限り居心地のいい空間に整えていく。だが――秀一の表情は終始険しく、全身から冷ややかな空気が漏れ出していた。その圧に当てられ、スタッフたちは震え上がるばかり。そのせいで、赤ワインを運んでいたスタッフが手を滑らせかけ、高級ワインの瓶が床に落ちそうになる。洋太が滑り込むように膝をつき、ギリギリでボトルを抱え込むと、スタッフをすぐに下がらせた。ワインを丁寧に元の場所へ戻してから、彼は秀一へ向き直る。「社長、少し落ち着きましょう。烏山さんにはすでに連絡済みです。リハビリが終わったら、今夜、ご両親と一緒に来てもらって、奥様ときちんと話し合ってもらう段取りになっています。烏山さんも、今回は絶対に勝手な行動はしないと約束してくれました」昨日、
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