All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

雪乃の目には狂気じみた光が宿り、吐き出される言葉はますます過激になっていった。「私が高瀬家に尻尾を振った?じゃあ、あんたのあの三年は何なのよ。弘樹さんに尻尾を振ってたんじゃない?でも結局どうなった?片想いのまま相手にされず、冷たく捨てられただけじゃない!もっとも、弘樹さんがあんたじゃなくて綾さんを選んだのは当然でしょ?あんたみたいに卑屈で、何でも我慢して、見返りも求めない子を好きになる男なんて、この世にいないのよ。綾さんは少し短気でも、欲しいものは全部掴んできた子。あんたの十年以上の献身なんて、笑い話にしかならないわ!弘樹さんに捨てられたからって、急に高瀬家を否定し始めて……恩知らずにもほどがあるわよ。こういうところ、あんたと秀一さん、本当にそっくり。育ててもらって恩を返すどころか、結局どっちも噛みついてくるんだから!」雪乃は叫び散らし、胸の奥に押し込めていた本音までも吐き出してしまった。だが、その大声とは裏腹に、周囲の空気は凍りついたように静まり返った。玲はただ、じっと雪乃を見つめていた。雪乃の後半の罵倒には反応していない。彼女の心を刺したのは――最初のほうの言葉だった。もし、今のが聞き間違いでなければ……玲はゆっくりと顔を上げ、雪乃を真正面から見据えた。「母さん……私と弘樹が付き合ってたこと、最初から知ってたの?私が高瀬家にいた頃から、彼と交際してたってことまで?」その瞬間、雪乃の目が大きく見開かれた。自分が取り返しのつかないことを口走った、と悟ったのだ。そう――雪乃は知っていた。玲と弘樹が交際していたことも。綾が現れ、二人の関係が崩れていく過程も。だがその頃、彼女は何も知らないふりを続けていた。もう、隠し通すことはできない。雪乃は観念したように、玲の問いに答えるしかなかった。「……ええ、知ってたわよ。あんた、必死に隠していたつもりみたいだけど……あんなの、見ればわかるわよ。弘樹さんを見るあんたの目つきも態度も、全部。隠し方が下手すぎるのよ」「――じゃあ、どうして?」玲はきっぱりと遮った。「どうして、弘樹が私と付き合っているって知ってるのに、綾が家に来たとき、何も言わずに彼女を暖かく迎え入れたの?」普通の母親ならそんなことはしない。たとえ娘を愛してなくても、娘の恋人が浮気して、他の女を連れて
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#第362話

玲は、その言葉を聞いた瞬間、もう怒る気力さえ失っていた。雪乃の罵声で一瞬こみ上げた怒りも、今では跡形もなく消えている。胸の奥で、しばらく感じなかった冷たさが、ゆっくりと四肢へと広がっていく。玲は目を真っ赤に染めたまま、ふいに笑い声を漏らした。「母さん……あなたって本当に、毎回私の想像を軽々と越えてくるわね。自分の娘があんなクズ二人に騙されて傷つけられたのに、それでも私が期待外れだって?あなたが私を理不尽に傷つけるのは、もう慣れたけど……今ふと思ったの。もしかして、もっと昔から、私が知らないところで、私に何か酷いことをしてきたんじゃないの?」弘樹が好きだったことを知っているのに、雪乃は十三年間も黙っていた。なら、もっと恐ろしい事実を隠していても何の不思議もない。玲の言葉に、雪乃の瞳孔がぎゅっと縮んだ。そして次の瞬間、声を荒らげる。「玲!変なこと言わないで!あんたと弘樹の関係を知ってても黙ってたのは……若い子たちの恋愛に口出しても無駄だからだよ!それに、結局あんたは秀一さんと結婚したんじゃない。今は幸せでしょう?」「幸せ?」玲はゆっくりと息を吐き、はっきりと告げた。「ええ、そうね。秀一さんの妻になれたこと――それだけは、私のどうしようもない人生で、最高の幸運だったわ」そう言いながら、玲はポケットからスマホを取り出す。「だって、秀一さんと結婚していなかったら……今みたいに、あなたに仕返しする機会なんて、絶対に手に入らなかったもの。ねぇ、母さん。今すぐ秀一さんに電話して、『今日も私があなたに虐められた』って伝えたら、どうなると思う?藤原家に擦り寄りたい茂さんの態度からして……あなたのこと、今以上に嫌いになると思わない?」――それはそうだ。茂は、藤原家に取り入りたくて仕方がない。そして玲の価値は、秀一との結婚によって、かつてないほど跳ね上がっていた。雪乃のせいで、茂が秀一に頭を下げる羽目になったことは、すでに何度もある。もし今日また、雪乃が問題を起こしたと知ったら――茂の性格からして、雪乃の顔を見るのも嫌になるだろう。雪乃にもその未来が理解できたのだろう。顔色がみるみる青ざめ、焦りに喉が震えた。「や、やめて!これは私たちの問題なんだから……そこまで大事にしなくてもいいでしょう?」「本当に?」玲の声は低く落ち着いていて
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第363話

藤原家に圧をかけられても、高瀬家が必ず敗れるとは限らない。だが茂は自己保身に徹する男だ。脅かされれば、真っ先に雪乃との関係を断ち切り、距離を置くに決まっている。雪乃は信じられないという顔で目を見開き、怒りに任せて玲に平手をくらわせたい衝動に駆られた。そして吐き捨てるように言いたかった――「秀一が本当に好きなのは別の女。あんたの言う通りに動くわけがない」と。しかし現実は違った。真っ赤になった玲の目を見据えた瞬間、雪乃は固まった。相手の決意と冷徹さを目の当たりにして、初めて心が震え、恐怖が忍び寄るのを感じたのだ。それでも雪乃は、玲が本当に秀一に告げ口することだけはなんとしても阻止したく、唇をぎゅっと結びなおして、最後に何か言い繕おうとした。だがそのとき、急ぎ足の靴音が響き渡る。次の瞬間、雪乃は押しのけられ、玲は雨音に包み込まれるように抱き寄せられた。「玲ちゃん、大丈夫?またいじめられたりしてない?」雨音は慌てて玲の肩に手を回し、全身を確認する。さらに友也に雪乃を引き離すよう指示を出した。もともと、雨音と友也は病室で玲が飲み物を買ってくるのを待っていた。だが十数分が過ぎても玲が戻らないため、雨音が探しに出たところ、友也も一緒についてきたのだ。二人は最初、弘樹に妨害されたのだろうと想像していた――しかし実際は、弘樹ではなく雪乃と鉢合わせしていたのだ。張り詰めていた玲の身体は、雨音に抱きしめられた瞬間、糸が切れたように力が抜けた。スマホを握る手もゆるみ、玲は雨音にそっと身を預ける。涙でぼやけた視界の中で、震える腕で彼女を抱き返した。「……雨音ちゃん。私、もうあの人の顔なんて見たくない。これから先、あの人は私の母親じゃない。もう『母さん』なんて呼びたくない……」雨音はすぐに頷き、玲の震えを感じ取りながら優しく抱きしめる。「いいの、玲ちゃん。呼びたくないなら呼ばなくていい。あなたが譲れば、あの人はつけ上がるだけ。そんな人に、気を遣う必要なんてないよ」雨音の口調は遠慮がなかった。雪乃と親しいわけでもないし、年長者として特別に敬う理由もない。だから雪乃のことになると、雨音の言葉は機関銃のように容赦なく相手を撃ち抜く。その言葉に、玲の胸の痛みが少しだけ和らいだ。潤んだ目で雨音を抱き直し、震える声で感謝をこぼす。「あ
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第364話

玲は愛する男と産んだ子ではなかったので、雪乃は彼女に対してずっと冷たかった。それでも、子供の頃の玲は、涙をこらえきれないときや怪我をしたとき、いつだって母親に抱きしめてもらおうと駆け寄っていた。けれど、雪乃が茂と結婚できる可能性が見え、玲の父、睦月正弘(むつき まさひろ)を死に追いやり、玲を連れて再婚した頃から、親子の関係は急速に変わっていった。雪乃は高瀬家のことを何より大切に思い、玲の存在をただの「荷物」としか思わなくなった。家政婦たちが陰で彼女の再婚を噂したときも、その苛立ちをすべて玲にぶつけ、冷たい言葉で責め、時には手を上げることさえあった。かつては母にべったりだった玲も、いつの間にか口数が減り、少しずつ距離を置くようになっていった。雪乃はそれを「成長しただけ」と都合よく解釈していたが──本当は違った。玲の「誰かに甘える」一面は、今もちゃんと残っている。ただ、それを向ける相手が、もう雪乃ではなくなっただけだ。その事実に気づいた雪乃は、取り繕うために言おうとしていた言葉を飲み込み、代わりに棘だらけの嘲りを口にした。「玲、あんたさ……身内と他人の区別もつかなくなったの?ただの友達の前で母親の悪口なんて言って……恥ずかしくないの?」「恥ずかしいのはどっちだよ!」玲が返すより早く、雨音が勢いよく噛みついた。ついさっきまで玲を必死に慰めていたせいで、雪乃の存在を半ば忘れていたほどだ。「どの口が玲ちゃんの『母親』なんて言えるわけ?玲ちゃんみたいに優しくて可愛い子に、あなたみたいな母親を持ってるなんて、本当にかわいそう!それにね、私はただの友達じゃないよ。玲ちゃんの姉で、家族で、一番の味方なの。あなたみたいに男に媚びて生きてるおばさんは、こっちの世界に口を挟まないでくれる?これ以上玲ちゃんに絡んで、意味不明な価値観押しつけて傷つけるなら──私、本気であんたをぶっ飛ばすよ」玲を守るのは秀一だけじゃない。雨音だって、同じ強さで玲を守る。……そしてその日──雨音が直接、高瀬グループに痛烈な一撃を加えたことで、雪乃の玲いびりはそのまま茂の耳に入ることになった。首都でトップ四と呼ばれる名家、遠藤家の令嬢。雨音は普段、実家の権力を振りかざすような真似は絶対にしないが、だからといって嫌いな相手を懲らしめられないわけではない。
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第365話

その夜、秀一は玲を寝かしつけるのに、いつもよりずっと長い時間を費やした。というのも、病院で雪乃とぶつかったあの場では、結果として玲の勝ちだったとはいえ──これまでにないほどの衝撃が、彼女の心を深くえぐってしまったからだ。雨音と友也に見送られ、素直に秀一の腕に抱かれて帰ってきたものの、玲の目元はずっと赤く、その涙を落とさないよう、必死に歯を食いしばっていた。秀一の胸に顔を寄せながら、玲は何度も、何度も同じ言葉を繰り返す。「秀一さん、私……雨音ちゃんとも話したんです。もう、あの人のことを『母さん』なんて呼ばない。名前に『さん』をつけるつもりもない。これから先、彼女を身内として扱う気もありません。今まで一度だって、彼女は私を愛してくれなかった。私には価値がないって決めつけて、見下して、傷つけて……ずっとそうでした。でも、もう黙っている気はないんです。これからは、私がどれだけ価値のある人間か、ちゃんと見せつけてやる。私だって輝いてるって。私を怒らせたらどうなるか、思い知らせてやるんです!」強く握りしめた拳は小刻みに震えていた。それは強がりと、自分を保つための必死の言い聞かせが入り混じった震えだった。秀一は返事をしなかった。ただ、氷のように冷え切った玲の背を抱きしめ、少しでも熱を分け与えるように腕に力を込める。その温かさに触れたことで、張りつめていた玲の神経がようやく緩んでいき──三十分後、ようやく彼の胸の上で息をゆっくり落とし、深い眠りに落ちていった。そっと玲を枕へ移し、毛布を直すと、秀一は音を立てないように部屋を出た。雨音が雪乃に制裁を下してくれたとはいえ、それは雨音がしてくれたことであって、秀一とは無関係。だから、自分の手でケリをつけなければ、筋が通らない。そう思って動こうとした、その瞬間──茂から電話が来たのだ。出ると、彼の声は妙に誠実で、そして探りを含んでいた。「秀一くん。今日の件はすべて聞いた。雪乃には、これから二度と玲に近づくなと命じてある。勝手に姿を見せるなんてもってのほかだ。だがな……私たちは男同士だろう?女の揉め事を理由に、私たちの関係まで悪くするのは賢明じゃないと思わないか?」要するに──自分と秀一の関係まで壊したくない、ということらしい。秀一は目を細めたが、表情には何の色も浮かばなかった。
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第366話

秀一は電話を切ると、恵子に玲の様子をよく見ておくよう伝え、家を出た。予想通り、夜の月明かりの下、茂が車のそばに立っていた。腕には、かなり重そうな箱を抱えている。以前、雪乃が問題を起こしたとき、茂は何度もその尻拭いをしており、謝罪として箱いっぱいのアクセサリーを持ってきたものだ。だから秀一も、今回の「大切なもの」もどうせ同じ類だろうと、軽く顎を上げて見せた。だが、茂の目は妙に輝いていた。「秀一くん、来てくれてありがとう。今日は君に、君のお母さんが遺した物を見せたくてな」その一言で、空気がふっと止まったように感じられた。これまで落ち着いていた秀一の歩みが、ぴたりと止まる。まさか、茂の口からこんな言葉が出るとは思ってもいなかった。「……母が、遺した物?」茂は嬉しそうに強くうなずき、箱の蓋を開ける。中からいくつかを取り出しながら言った。「秀一くん、本当はもっと早く見せたかったんだ。君は八歳で誘拐されて、その後はお母さんの記憶も薄れているだろう。だから私は、どんなに細やかなものでも、ずっと大切にしまってきたんだ。ほら、これはお母さんが十八歳の誕生日に撮った写真だ。ケーキと一緒に写ってる。あの日、私を含め、みんながクリームでもお母さんの顔に塗ってやろうと思ってたが、あの日の彼女は、あまりにも綺麗で……結局誰もそれができなかったんだ。これが大学の卒業式。袴姿で、花束を持ってる。花は私が首都中を駆け回って集めたんだ。お母さん、特別なものが好きだったから、この珍しい品種のバラを手に入れるために、ひと月前から予約してさ……でも、彼女の嬉しそうな顔を見たら、苦労した記憶も全部吹き飛ばされた。これはキャンプの時の写真。こっちは彼女が初めて海外旅行に行った時の写真で……」箱いっぱいに詰まっていたのは、紀子――秀一の母の写真ばかりだった。小さなノートやメモもあり、おそらくそれらも彼女が昔使っていたものだろう。だが、秀一には疑問があった――なぜこれらが、今、茂の手元にある?母から、茂の名前など聞いた覚えはない。疑念を抱えたまま、秀一は茂の目前に立った。「茂さんと母は……昔からの知り合いだったんですか?」「まあ、そうとも言えるし、それだけではない」茂は、秀一が自分へ自ら歩み寄ってきたことに、どこか感慨深い表情を浮かべたが、その瞳にはか
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第367話

茂は、冷たい月明かりの下で、秀一に向き合いながら、紀子と自分の過去を語り始めた。「当時、紀子の実家、栗林家と高瀬家は政略結婚を考えていたんだ。両家の親同士が昔からの知り合いで、私と君のお母さんは幼い頃から一緒に育った。まさに幼なじみで、いずれは結婚するだろうと思われていた。このことを公表しなかったのは、睦月家が代々の名門で、紀子の両親がとても固い考えの人たちだったからだ。正式に結婚する前に広めてしまうと、もし二人の仲にひびが入った時、周りから余計な詮索や中傷が起こる。そういうのを嫌ったんだ。だからこそ、自分たちの関係は誰にも明かされず、ただ時が来たら結婚するという暗黙の約束だけが残された。私もね、その考えは少し神経質すぎると思ったさ。でも、君のお母さんを守るためなら、それに従うのが当然だと思った。だから、一度だって他人に紀子との関係を口にしたことはない。ただ、正式に彼女を迎える日を待っていた。けれど、まさかずっと懸念していたことが、現実になるとは思わなかった。藤原俊彦――君の父親が現れたんだ」藤原家の後継者である俊彦は、ある宴会で紀子に一目惚れした。それは、狂気にも似た執着の始まりだった。彼は、紀子を手に入れるためなら何でもした。強引にでも自分の元に置き、婚姻届に名前を書かせようとした。そうやって、茂と紀子の未来は、その瞬間に閉ざされた。茂は悔しさを噛みしめるように語る。「紀子が俊彦さんと結婚した時、私は本当に苦しかった。何十年も大事にしてきた人を、横から奪われたようなものだからな。けど、あの頃の俊彦さんは紀子に尽くしているように見えた。だからせめて、彼女が幸せなら、と自分に言い聞かせたんだ。しかし、それは全部……嘘だった。俊彦さんは紀子を愛してなんかいなかった。あの家に閉じ込めて、自由さえ奪っていた。紀子を大事にしているどころか、君は八歳の時に誘拐され、紀子は不安と恐怖で病み続けた。それなのに俊彦さんは……彼女がうつで苦しんでいる最中に、桜木美穂の子を身ごもらせたんだ」こらえきれなくなった涙が、静かに頬を伝う。「秀一くん……もし、あの頃の紀子の状況を知っていたなら、私はどんな手を使ってでも彼女を俊彦さんから救い出した!絶対に、あの結末になる前に。だが、私は一歩遅かった。紀子は……私の一生の痛みだ。
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第368話

それは、まるで実の息子を見るような眼差しだった。もちろん、茂の本当の息子である弘樹でさえ、父親がこんな柔らかな表情を向けるところを見たことはないだろう。かつて玲はこの様子を目にして、心底驚いていた。茂が秀一にだけ妙に優しい理由は、秀一の立場や権勢が高瀬家に利益をもたらすからだ――そう思っていた。だが本当は、秀一が愛する女性の息子だったからこそ、茂の態度はあれほどまでに特別だったのだ。秀一の黒い瞳が深く沈み、しばらくして、母の遺品を見つめていた視線を茂へ移した。「……俺を支えると言いましたが、具体的に何がしたいですか?」茂は迷いなく答えてみせた。「簡単だ。君と紀子が、本来手にしていたはずのすべてを取り戻す」そう言って、茂は紀子の遺品を丁寧に箱へ戻し、車に積み込むと、再び秀一の前に歩み寄った。「秀一くん。いま君は藤原グループの社長で、地位も申し分ない。だが、俊彦さんはまだ生きていて、会社に関わることの最終決定権を握ったままだ。美穂とその子どもたちも、君の座を虎視眈々と狙ってくる」茂はきっぱりと言い切った。「私は、君に確実に藤原グループを継いでもらいたい。むしろ……もっと早く藤原家を取り戻してほしいんだ」昔、秀一は言ったことがある。俊彦が死ねば、美穂とその子どもたちを藤原家から追い出し、相応の罰を与えると。その未来を、ただ待つのではなく、もっと早く現実にするができる――茂と手を組めば。秀一はわずかに眉を上げ、黒い瞳に理解が宿り、ゆっくりと冷えていった。……ふと空を見上げると、月の光はさらに冷たくなり、闇は一層深く濃くなっていた。玲は、昨夜自分が眠ったあと何があったのか知らない。だが翌朝起きると、秀一がいつも通り朝食を用意してくれていて、本人はもう会社へ向かったのだった。玲はしっかり朝食を食べながら、昨日の病院の件を頭から消し去り、雪乃を見返すための準備に気持ちを切り替えていた。昨夜、秀一の胸の中で吐き出した強気な言葉――あれは全部本心だ。自分も雨音もすっかり体調が戻り、アート展も予定通り開催される。それは、三日後だ。玲はサッと身支度を済ませ、アート展で自分の正体を公開する際に着る「勝負服」を選ぶため、デパートへ向かった。ところが、入口に差し掛かった瞬間――六十代ほどの男性が、すぐ近くの階段で派手に
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第369話

空気が、一瞬で不自然なまでに静まり返った。老いた男は痩せこけ、突き出た頬骨に三角形の細い目。人懐っこさを装いながらも、どこか底意地の悪さがにじみ、まるで土の中を這い回るモグラのようだった。そして彼こそ、雪乃と手を組み、十三年前に玲の父を山から突き落とした、あの観光地スタッフ――山田武(やまだ たけし)だ。今日、デパート前の階段で転んだのも演技。すべては自然な形で玲に近づき、彼女を捉える機会を作るため。その目論見は、今のところ順調だった。玲は父譲りの優しさで、困っている人を見ればすぐに手を差し伸べてしまう。だが――玲の表情が、武には妙に引っ掛かった。帽子を上げた瞬間、彼女の顔色はさっと白くなり、伸ばしかけた手も途中で止まったのだ。しかし、ここまで来て計画を諦められるほど、武も甘くない。「お、お嬢さん。助けてくれてありがとうね。これも何かの縁だし……このまま俺を家まで送ってくれないかね?」言いながら、返事も待たず、玲の腕を掴もうと手を伸ばす。だがその指先が触れるより早く――影が二つ、武の前へすっと割って入り、玲との間を完全に遮った。全身黒づくめで、鋭い視線。見覚えのない顔だが、ただ者ではないことだけは一瞬でわかる。「何者だ?奥様に近づいて、何のつもりだ?」秀一が新しくつけたボディーガード──前の者より遥かに優秀な二人が、異変に気付いてすぐに駆けつけ、二度と怪しい人間を玲に近づけさせないという秀一の指示を徹底する。武は震え上がった。玲の周囲を念入りに観察し、問題ないと思い計画を実行したのだが、実際は秀一がボディーガードをずっと張り付かせていたのだ。――秀一は、今もなお、玲を宝物のように守っている。その事実に気付いた瞬間、武は額から汗を落とした。「な、何もしてないよ……!ただうっかり怪我をして、助けを求めただけで……」必死に笑顔を作る。「そうか。なら、俺たちが手伝おう」ボディーガードの一人が一歩前に出た。「どうすればいい?家まで送ればいいのか?」「い、いや……!あ、足はもう大丈夫そうなので……自分で帰れるよ」「遠慮は無用だ。助けると言ったら助ける」有無を言わせぬ口調のまま、ボディーガードは武の襟首をひょいと掴み、引きずるように連れ去っていった。もう一人は玲のそばに残り、予定どおりデパート
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第370話

そのとき、不意に温かい大きな手が、玲の手をそっと包んだ。玲はびくりと肩を揺らし、反射的に立ち上がった。振り向くと――いつの間にか、秀一が彼女のそばに立っていた。「体が冷えてるな。何かあったのか?」秀一は玲の様子を落ち着かせるように、柔らかく声をかける。少し前、ボディーガードから「玲の様子が少しおかしい」と連絡が入り、秀一は会議を中断して、ここへ駆けつけたのだ。そして到着後、すぐ店の中に入らず、ドア越しにしばらく玲の様子を見ていた。案の定、玲は隅のソファに座り込んだまま、表情を失っていた。美しい顔から血の気は抜け、まるで魂が別の場所に置き忘れられたように。ボディーガードからの報告を思い返しつつ、秀一は玲をそっと抱き寄せ、自分の膝の上へ座らせた。「玲、急に落ち込んだのは……さっきデパートの前で会った年寄りのせいか?」「うん……ずっと、その人のことを考えてたんです。確か名前は、山田武で……」玲は、秀一が自分の動きを把握していることをまったく不思議に思わない。むしろ、安心して寄りかかれる場所を見つけたかのように、素直に秀一の膝に座り込んだ。「秀一さん、変に聞こえるかもしれないんですけど……あの人、父さんが事故に遭った現場にいたはずです」当時、玲は七歳だった。大人からすれば、何も覚えていない年齢だと思われる。だが玲は、すべてを覚えている。父が転落したあの日は、まるで悪夢のように何度も何度も頭の中で繰り返された。そして武も――あの日、確かに現場にいた。人混みの中で一番騒いで、「賠償はどうするんだ」と大声でまくし立てていた男だ。「……でもどうして?なんで今になって、私の前に?」玲は秀一を見つめ、声を震わせた。「もちろん、ここはデパートだから、誰が来てもおかしくはない。だからあの人がいても、ただの偶然かもしれない……そう思おうとしてるのに、どうしても、胸の奥がざわざわして……秀一さん、わかります?この……すごく嫌な感じ」眉をぎゅっと寄せ、怯え、不安をこらえている玲。秀一はそっと玲の眉間を指先でほぐしたが、その黒い瞳の奥に静かな影が差した。――彼もまた、昨日、似た感覚を味わっていたのだから。だが、その事実を今は言えない。余計な不安を背負わせたくなかったのだ。秀一は彼女の頬にそっとキスを落とす。「玲、あ
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